言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

指先に、雪だるま

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全12,000文字程度の短編小説です。

時間があれば、ご覧ください。

 

 

********

 

 

 指先で、アメダスと検索する。

 掌に収まったスマホが、気象庁のページを表示した。私の住む街をタップすると、つい一時間前までの気温や降水量、風速、積雪量などの情報が目に飛び込んでくる。

 三月一日正午の気温はマイナス八度、積雪深は八十二センチメートル。

 この雪がとける頃、私は大学生になる。

 足元の暖房から突き上げてくる熱気が、はき慣れた厚底ブーツの中に溜まり込んでいる。私は窓ガラスに頭を押し付け、二人掛けの席を占領していた。線路の切れ目をまたぐ時の振動が、リズムを刻むように、私の脳みそをかき混ぜる。同時に、毛羽だったスカートの生地が私のお尻をこすり、ひどく座り心地が悪かった。通路側の席には、使い込まれたスクールバッグが無造作に投げ出され、昔好きだったアニメキャラクターのキーホルダーが寝そべっていた。

 窓ガラスはひんやりと冷たくて、ひどく結露していた。髪がはりつき濡れていたけど、私は気にせず同じ体勢のまま、窓の外へ視線を向けた。

 電車は先頭車両が舞い上げた雪煙を纏い、私を運んでいる。窓の外を流れる景色は、時間が止まったように凍てついた銀世界の連続。たまたま誰かが撮った雪景色を、スナップ写真のように並べているだけに見えた。時折、黄色と黒の線を描いた踏切が、雪の中に足を突っ込んで立っている。サッカー選手のユニフォームに似ているような気がした。私の瞳にも銀世界が流れては、踏切の色が映り消えてゆくのだろう。自分の瞳を覗き込めないから、わからないけど。

 冬は、大嫌いだ。身を切るような風と寒さも、舞い上がった雪煙が身体に纏わりつくのも、嫌いだった。何よりも、私の体温が下がることは許せない。

 だから毎日、ぬるま湯のような空間の中で、私は外の気温と積雪量を確認する。儀式のようなものだ。冬を越えるための。

 人間は誰しも、ぬるま湯の中に片足を突っ込んで生きている。人間、というのは少し語弊があるかもしれない。私が勝手に決めつけた妄想の押し付けだ。自分に関して言えば、私は両手両足を突っ込んでいるかもしれないのだから。

 不意に誰かから背中を押された気がして、私は前のめりになった。濡れた髪の毛が滑る。タオルで拭いたように、車窓の水滴が消える。私は振り返り、つい後ろを睨みつける。後ろの席には腕組をしたまま眠りこけるサラリーマンの中年男性が座っていた。

 私は頬にくっついた髪の毛を払いのけながら、ゆっくりと前を向く。窓の外は、いつの間にか動画ではなく静止画になっていた。電車が急停止したのだった。

「お客様にお知らせいたします。お客様にお知らせします」録音ではない、生の男の声が車内に響き渡る。「現在、この列車は先行列車遅延のため、停車しております。お客さまにはご迷惑をおかけいたしますが、今しばらくお待ちください」

 今日は、大雪が降った。朝のニュースによると、数年に一度の大雪らしい。今はもう止んでいるけど、電車のダイヤは大きく乱れていた。この大雪のおかげで、今まで少なかった積雪が、ようやく平年並みになった。朝、天気予報のお姉さんがテレビの中で興奮気味に喋っていた。

 ニュースを見なくても、私は知っている。積雪量は昨日まで過去最低をずっとキープしていたことも、大みそかは史上初、積雪ゼロの記録を残したことも。

 それが今日の朝、たったの数時間で平年値をぶち破った。一日に降った雪の量は、過去最大だった。

 積雪量が増えると、外の世界が重たく引き締まる。電車の屋根がいつか重みに耐えられなくなって崩れてしまい、私は凍ってしまうのではないかと考えてしまう。

 電車の中を見渡すと、自分と似た制服の高校生が結構乗っていた。デッキで固まっておしゃべりをしている女子グループ。イヤホンを耳に突っ込みながらスマホをいじっている男子。私と同じように、窓の外をただ眺めている生徒もいた。幸い、電車はまだ無事のようだ。

 私はもう一度、窓ガラスに頭を傾ける。少しだけにじみ出た結露はなんとなく許容して、身に纏ってしまえば、外の冷たさが緩和されるような気がした。こうやって、私はぬるま湯の温度を調整するのだ。

 握り締めたスマホが震える。ラインがメッセージありと告げていた。私は画面をタップし、ラインを開く。

『今日はどうしたー? これからクラスみんなで打ち上げするんだって。早く来い!』

 メッセージの下には、『これからもずっと友達☆』と盛られた友人の写真が添付されていた。後ろには雪山が映っていた。そこには、指先で描いたのか、『卒業おめでとう』という文字があった。

 今日は卒業式だった。私は、それをすっぽかした。

 

 

 電車を降りると、多くの生徒が私を追い越して、駅から子供のように飛び出していく。彼ら彼女らは降り積もった雪にそれぞれの想いをぶつけていた。久々の雪に歓喜するもの。手袋を外して雪の冷たさを実感しているもの。雪を丸めてお互いに投げ合うもの。雪の世界に見る日常の光景だ。

 私はそんな人間たちを横目に、駅の中の古びたベンチに座る。ニットの帽子を耳まで引っ張り、靴下の裏にはホッカイロを備える。ダッフルコートの襟を掻き合わせ、カシミアのマフラーを口元が隠れるように巻き、ブーツの紐をきつく締め直す。最後に薄手の毛糸の手袋をはめ、その上に革の手袋もはめた。

 今日の私の体温は三十六度九分。他人と比べたら少し高い。これが私の平熱だ。熱を下げないように気を遣う必要がある。私は心の中で完璧と呟き、立ち上がった。

 駅を出ると、すぐ右手に公園がある。ここを突っ切るのがちょっとした近道だ。誰にも汚されていない新雪が織り重なっていた。足跡一つない。まだ誰も通っていないことを恨めしく思う。

 私はおどおどと足を一歩踏みしめた。知らない家に上がり込む子猫のように。降ったばかりの雪は綿あめのように繊細で柔らかかった。私はもう片方の足を踏み入れる。両足が私のひざ下あたりまで埋まった。私は前を向き、ブルドーザーのように雪をかき分けながら、進む。足の重みで雪は引き締まり、ぎゅっと音を響かせる。引き締まった雪は、私のブーツの汚れを磨いていく。

 空はしんと澄み渡り、空気はどこまでも乾いていた。世界が止まっているようだった。時折、脇に佇む木の枝から雪が崩れ、細かな粒となって宙を舞う。白鳥の羽根がひらひらと舞っているようだ。

 木々の隙間から、青い屋根の家が見えてきた。目を凝らすと、やっぱりいる。家の前で雪かきをしている人影を見つけ、私は安堵する。

 彼の手には身長と同じくらいの赤いスコップが握られている。数十センチも積もった雪を、慣れた手つきでかき分けている。こんもりとした雪山が傍にあった。かき分けた雪を雪山に載せては、崩れそうなところをスコップでパンパンと叩き、固めている。

 私が近づいてくることに、彼は気が付いたようだ。スコップを持ち上げたまま、尖った眉を上げた。

「卒業式はどうしたんだよ」

「こっちのセリフ」

 白い息を吐き出しながら、私はコートのポケットに手を突っ込む。彼は学ランに着替えていた。学校へ行く気はないくせに。

「手袋くらいしたら?」

「あ?  別にいいんだよ。動いてたら、暑いし」

 彼は学校へ来るときにコートも羽織らない。この寒さから自分を守る鎧を、何一つ身に付けていない。なんて無防備なんだと、彼の大きな背中を蹴り飛ばしたくなる。

 足の指先が、じんと温まっている。ホッカイロが最高温度に達したのだろう。目を落とすと、私の足元だけ、雪がとけて少なくなっているような気がした。

 彼は私に構うことなく、雪かきを再開する。手持ち無沙汰。私は手伝うふりをして、傍の雪山からこぼれた塊を両手でかき集める。雪かきの邪魔にならない場所で雪を固めていく。気温が低いので、雪はなかなか形にならない。私は手袋の中で指先に力を込める。格闘の末、ようやく、私の腰くらいの高さの不格好な雪だるまが完成する。

 額に汗がにじんでいた。私は帽子を脱ぎ、コートの袖で拭った。

「どうせなら、可愛くしてやれば?」

 彼がスコップの先で雪だるまの顔の部分をつつく。

「いいの。どうせ、とけてなくなるし」

 私はブーツのつま先で、固めた雪を削って、なんとなく球体にしていく。たまに力の加減を誤って、雪の塊がごっそりと崩れる。

 形になっても、結局、残らないもの。私にとって、それは意味のないものだ。今日降り積もった雪が永遠に残るものならば、私はこの雪だるまに美しい化粧をして、可愛くしてやるのだろう。でも、そんな義理はない。ただの暇つぶし。

 うん、悪くない。頭と胴体の境界が曖昧だし、胴体は球体と言うより寸胴鍋みたいだけど。出来上がった雪だるまを、スマホのカメラに収めようか迷って、やめた。

「大学、東京だっけ?」

 私は手袋についた雪を振り落とす。

「あぁ。運よくセンター試験で良い点取れてよ。第一志望の国立、楽勝だったわ」

「ふぅん」

 私は市内の私立大学だ。受験勉強より、奨学金を申請するための面接が面倒だと思うくらいの偏差値。大学なんて、学歴引換券のような場所だ。別にどこでもいいし。

 私はごしごしと指先をこすり合わせる。これから訪れる現実が消えてほしいと、祈るように。手袋が引っ掛かって、少しずれた。

「大学、行きたくないな」

 ずれた手袋をはめ直しながら、なんとなく言ってみた。

「なんで?」

「毎日、服を決めるのが、めんどくさいから」

「お前、休日はいつも同じ服着てるじゃん」

「うっさいよ」

 第一ボタンを外した彼の首元から、赤い色がちらりと見えた。彼は学ランの下にワイシャツを着ない。今日も、どこかのネットショップで取り寄せた、安くてセンスのいい厚手のセーターを着こなしている。

「茶でも飲んでくか?」

 彼は私を家に招いた。彼の両親は朝が早い。この時間はもう家にいない。居ようが居まいが、私は顔なじみなので、特に問題がないけど。

 玄関でコートを脱ぎ、コート掛けにぶら下げる。二重の手袋は、靴箱の上に置いた。ブーツを脱ぐと、靴下の裏に貼り付けたホッカイロが気になったが、そのままにしておいた。

 廊下を進み、リビングに入る。彼の家のリビングは、日当たりが良くて、気持ちがいい。出来れば、すぐ傍に置いてあるカウチソファで猫のように寝そべって、眠りたくなる。

 見慣れたダイニングテーブルの上に、白いポットが置いてある。その中には、温かいほうじ茶が常備されていることを、私は知っている。定期的に、ネットショップで彼がお茶っ葉を取り寄せている。普通のほうじ茶と甘みが全然違うらしい。この家でしかほうじ茶を飲まない私には、味の違いがわからないけど。

 彼はこぽこぽと音を立てながらお茶を湯呑に入れ、私に手渡した。湯呑は私の指先にちょうどいい温度だった。透き通ったこげ茶色が揺れている。香ばしい湯気が鼻孔をくすぐる。いつものほうじ茶だ。

 ふぅふぅと湯呑に息を吹きかけていると、彼は二階に上がっていった。一口だけほうじ茶を飲み、湯呑を置く。甘い味を喉の奥にしまい込みながら、私は彼のあとを追う。

 彼の部屋に入ると、私は唖然とした。いつもと違っていた。いや、違うのではない。物がないのだ。

「俺、明日には引っ越すわ」

 部屋の中央には唯一、折り畳み式の小さなテーブルがあった。彼はその前にあぐらをかく。テーブルの上にはパソコンがあった。パソコンの電源コードがこの部屋と世界をつなげるようにのびていた。

「これ、最近、はまってるんだよな」彼はユーチューブで音楽を流し始めた。「キーボードの女の子が、可愛いんだわ」

 聞き覚えのある前奏のあと、女の子の声が聴こえてきた。原曲ではない。カバーのようだ。私は部屋の入口に突っ立ったまま、その声に耳を傾ける。

「この歌ってさ、古いんでしょう?」

「俺たちが生まれるより、ずっとずっと前だな」

「自分の限界を知るために僕は生きているわけじゃない、だっけ? そんな歌詞あったよね」

「そうなの? 俺、歌詞とかいちいち気にしてねーわ」

「自分の限界って、どうやったらわかるんだろう」

「なんだよ、突然」

 漫画とかアニメではよく、限界を越えろとかセリフがある。私には違和感があった。限界を越えたらそれは限界ではない。

 私も彼も、バスケット部だった。男女ともに地区予選敗退の弱小校だったけど。

 練習は、それなりにしていた。勝ちたいと思う熱意も、それなりにあったと思う。試合に負けた瞬間、感極まって、人並みに涙も流した。

 曲が進み、二番になった。Aメロの最初で、私が言った歌詞を別の女の子が紡いでいる。

「これか」

 彼の心へ特に響いたわけでもなさそうだ。淡々と聴いている。

「私たちの関係も、限界を超えてみる?」

 私はウサギのように飛び跳ねながら、彼の横に座った。ふわりとスカートが揺れる。彼は私のことを、まるでペットを見るような目で一瞥したけど、すぐにまたパソコンの画面に視線を戻した。

 私と彼は別に付き合っていない。部活をやっていた頃は、朝練をよく二人でしていた。さっき通った公園の広場で。バスケットゴールはなかったから、ドリブルとか、パスとか、それだけだった。シュートしたボールは、いつも空を舞うだけだった。当然、ゴールに入ったことは一度もない。

 今思えば、それが私たちの関係を、暗に示していたのかもしれない。何か目指すものも、一線を越えることもない。

 三年生になって部活を引退すると、彼は学校を休みがちになった。元々地頭が良いので、授業に来なくても試験は何食わぬ顔でパスしていた。単位が取れるギリギリのラインでうまく学校を休んでいた。 彼としていた朝練も、気付けば無くなっていた。

 ボールの感覚が徐々に薄れていった頃、私は指先の温度が、すとんと低くなった気がした。お風呂の温度設定が、いつの間にか弱に切り替わったみたいに。体温は相変わらず三十六度九分のままだったけど、私の指先だけ、熱が失われてしまった。

「ねぇ」

 私は彼に近づき、肩にあごを載せてみる。上目遣いで彼を見つめた。私の吐息が彼の耳にかかるほど、彼の横顔がすぐそこにあった。ニキビ一つない、綺麗な肌だった。

「……なんだよ」

 彼はパソコンの画面を見つめたままだ。彼の瞳はユーチューブの動画を映していた。音楽に合わせて、たくさんの色がきらきらと流れていく。

「私と会えるの、今日で最後だよ。愛おしくならない?」

「別に」

「私の唇に、キスしたくならない?」

「してほしいのか?」

 私は考え、指先で自分の唇に触れてみた。リップクリームを塗っていないそれは、ひび割れていて、冷たかった。指先の熱が奪われていく。

「したい気持ちはあるけど、唇は、嫌だと言ってるみたい」

「まぁ、俺も今日、歯、磨いてないしな」

「なにそれ。キモ」

 私は彼から素早く離れながら、肩に思い切りパンチをした。彼はいってぇと呟きながら、白い歯を見せて笑っていた。

 わかっているんだ。私たちの間には、目指すものとか、越えるものとか、無いことを。

 私は、彼がなぜ東京の大学に行くのか、理由を知らなかった。彼は夢を語らないし、過去も語らない。

 私だって、夢を語るほど子供じみていないし、過去を語れるほど人生を歩んでいない。私たちはその中間で生きている。

 今週の天気予報はずっと雪だるまマークが並んでいたけど、大体が外れ。だから、明日の天気予報はまた、外れるかもしれない。でも、過去を積み重ねるアメダスは嘘をつかないし、失われない。

 私が語れるのは、この冬がいつもと違う非日常だってこと。

 ユーチューブの音楽が終わる。私は立ち上がった。

「じゃあ、行くね」

「え? どこに?」

「学校に決まってんじゃん」

「今から?」

「まだ、涙を流していない」

 卒業式は泣くことが儀式だ。今まで話さなかった人とも話をして、別れを惜しむ儀式だ。だから、今からでも十分に間に合う。

 ちょっとしたB級映画を見に行く感じ。友達と笑顔や泣き顔を写真に切り取って並べて、みんなにさよならを言う。それが私にとっての、いや、みんなの卒業式。

 玄関でコートを羽織り、ブーツを履く。外に出ると、私は振り返った。彼は玄関でだらりと突っ立ったまま、私を見送っている。

「ねぇ。学ランの第一ボタン、くれない?」

「お前、そんなセンチメンタルな奴だったっけ。しかも、フツー、第二ボタンだろ」

「いいから」

 小ばかにするような薄ら笑いを浮かべながら、彼は一番上のボタンをむしり取った。私にぽんと投げ渡す。掌にのせてみると、意外に大きい。表面がゴツゴツしているけど、傷のないそれは金ぴかだった。

 私はその金ぴかを、さっき作った雪だるまのちょうど首下あたりにくっつける。雪に指先が触れないように気を付けながら。

「……可愛くなったと思わない?」

「センスねぇな」

 言われてみれば確かに、センスはない。これじゃあ、ただの太った猫型ロボットのようだ。お腹のとこに、ポケットを付けたくなる。

「東京はもうすぐ、桜が咲くんでしょう?」

「一足先に、未来に行ってるわ。タイムマシンも出てきそうだし」

「あっそ。じゃあ、またね」

「おう」

 彼は手を上げた。私は手も振らず背を向けて、来た道を足早に歩いていく。

 公園にはさっきつけた私の足跡が点々と続いていた。そこに足を踏み入れた時、手袋を彼の家に忘れたことに気が付いた。私は自分にうんざりして大きくため息をついた。指先は既に冷たかった。凍てついた冷気に晒されて痛みを感じるほどだった。

 私は鞄から新しいホッカイロを二個取り出し、袋を乱暴に破る。両手で握り、ポケットに突っ込んだ。

 こうやって私はまた、誰かへの想いの代わりに、見せかけの鎧だけをポケットへしまいこみ、自分をごまかす。ごまかした自分は連鎖して、他人をも巻き込んでいくんだと、勝手に考えていた。だけど、それは結局、私のポケットで止まるのだ。だから、彼は私の靴下の裏に仕込んだホッカイロに気づかないし、私も彼の家のポットに入っているほうじ茶の甘味が違うことに気づかないのだ。

 もう彼と会うことはないのだろう。特に根拠はないけれど、勝手にそう感じていた。

 どうしてみんな、冷たい世界に身を投じるのだろう。私には耐えがたかった。

 私は冬の寒さに身を切る気も、雪の中に足を突っ込む気もない。ましてや、柔らかな雪に素手で触れるつもりも、毛頭ない。だから、スマホで積雪量を確認する。雪が早くなくなりますようにと、祈っている。

 冷たい雪や風に触れて自分の体温を下げるくせに、誰もぬるま湯の温度を上げようとしない。誰も限界なんて超える気が無いのだ。

 ホッカイロを握り締めていれば、私の体温は下がることはない。でも、それ以上の温度にもならない。一度下がった熱は、ぬるま湯では元に戻らない。指先を熱くするボタンは、私のポケットに入っていないのだ。

 結局、私も同じか。他人と違うんじゃなくて、他人と同じ道具を使って、無駄に抗っているだけ。

 私のぬるま湯は、私だけのもので、他人のぬるま湯も、他人だけのものだ。それらを、同じ世界の中で共有して生きていくしかない。

 

 

 三月になってから雪が降ったのは、卒業式の一日だけだった。日々を重ねるごとに積雪量はぐんぐん減っていき、三月の中旬くらいには、平年の半分以下になった。

 私は入学の手続きをするため、大学へ向かった。手続きは書類を出しただけで、すぐに終わった。

 大学の事務局を出ると、学生食堂の建物が見えた。

 お腹が空いていたと言うわけではない。まだ十一時を過ぎた時間だったけど、なんとなく足を運んでみた。四月から否が応でも通う場所だ。とりあえず見てみようよと、私の瞳が脳に催促して、脳が足に命令したのかもしれない。

 食堂はガラガラだった。大学生は春休みが長いと聞いたことを思い出した。

 カツカレーか迷った末、私はサバの塩焼きと白米、みそ汁だけをトレーに載せて、支払いを済ませた。サバの塩焼きが三百円もしたことに驚いた。

 レジの先に給茶機があった。緑茶とほうじ茶。私はほうじ茶のボタンを押す。壊れかけのポットのような音を立てながら、こげ茶色の液体がコップに注がれた。

 私は外の景色がよく見えて、日当たりのいい窓際に座った。一番端っこ。隣も空いていたので、そこに薄手のコートとおろしたてのトートバッグを置く。

 とけかけの雪を見ながら、私はサバの骨を箸で綺麗に取り、白くて脂がのった身を口に運ぶ。旨味が舌の上にじわっと広がる。すぐさま白米をその上にのせ、咀嚼する。

 屋根からしずくが垂れている。今日は朝から気温が高い。雪どけが急速に進んでいる気がした。今の積雪量を確認しようとスマホを取り出す。

「隣、いい?」

 不意に声をかけられた。スマホを片手に私は顔を上げる。

 前髪をこざっぱりと切り揃えた小顔の女性だった。化粧はしていない。いかにも寝起きって感じの顔だ。トレーを両手で持ち、私を見下ろしていた。

 たぶん、大学の先輩だろう。私より二、三個上くらい。

「新入生?」

 私は椅子に置いた荷物をよけながら、頷いた。

「この時期、多いんだよね。その席に座る子。聞くと、ほぼ新入生」

 先輩は持っていたトレーを静かに置いて、私の隣に腰かけた。トレーの上にはカレーライスが載っていた。私がさっき迷っていたものの、メイン抜きだ。カツがメインなのか、カレーがメインなのかどうかは、人それぞれだけど。

「その席、あたしの特等席」

 ああ、と私は思った。

「……すみません」

 とりあえず謝っておく。今更、この席を移動する気なんて、サラサラなかった。

「いいよ。きょうは譲ってあげる。まだ大学、始まってないし」

 きょうは。と言うことは、大学が始まってからは、ここに座るなってことか。私はみそ汁を片手に持ち、飲み干した。時間があまり経っていないのに、既に冷たかった。舌の上に味噌のぬめり感が貼りついているような気がした。

 ほうじ茶を口に含む。ぬるいのか冷たいのか、よくわからなかった。ぬめり感は舌の上から洗い流されたけど、今度は渋い苦みがいつまでも舌に残った。

 特に会話もないまま、私たちは同じタイミングで食事を終えた。譲ってもらった席をさっさと立つのも嫌味と感じたから、私は先輩の食べるスピードに合わせていた。

 食器を片付けるとき、どうしたらいいのか迷っている私に、「箸はそこ。食器類は一度、ここでゆすいでから、中に投げ入れるのよ」と教えてくれた。

 食堂を出ると、さっきよりも日差しが強く、眩しかった。

「大学、楽しいですか?」

 私は目を細めながら先輩に尋ねてみた。特に答えを求めているわけではなかった。食器の片づけ方を教えてもらったお礼のつもり。

「そうね」

 先輩は少し考えている。私には考えているふりをしているように見えた。

「……ぬるま湯。そんな感じかな」

 先輩は私に視線を向けた。目が合い、先輩の瞳がよく見えた。瞳の中には、何も映っていなかった。この瞳を私は知っている。

 人生を語るとき、「つまらないものだよ」と決めつける大人の瞳に、似ていた。

「雪、ずいぶんとけたね」先輩はザラメ状の雪を手にとった。「今年は根雪がなくなるの、早そう」

 私はスマホで積雪量をチェックした。朝よりも十センチも減っていた。この分だと、積雪ゼロの日も、これまでの記録を更新することになるだろう。

 先輩は雪を振り払い、足元に落とした。雪は崩れてとけ、アスファルトを濃い色に染めていく。

「四月から、よろしくね」

 じゃあ、と手を振りながら、先輩は去っていった。

 私はコートのポケットに手を突っ込み、先輩が落とした雪をブーツで踏んでみる。ざらざらと、アスファルトと氷の擦れる音がした。

 依然として、私はぬるま湯に両足を突っ込んで生きている。大学が始まっても、おそらく変わることなく毎日を過ごすのだろう。仲間は溢れている。探すつもりはなくても、隣にいつの間にかやってくる。

 大学へ行っておけば、大人の言うつまらない人生と引き換えることができる。大学に行けば安泰した人生が送れると自分に言い聞かせる。みんなと同じ明日。みんなと同じ人生。

 夢を語ることと人生を語ることは、全く違う。けど、年を重ねるほど、人は過去を語りたがる。

 あなたも同じでしょう?

 先輩の目はそう言っていた。

 みんな、ぬるま湯にずっとつかることができると、勘違いしているんじゃないか。

 いつもより根雪が早いという非日常がやってきても、明日から違う非日常が突然、降り注いできて、ちょうどよく元に戻るかもしれない。そうやってみんな、いつもの日常に戻ったと思って、安堵する。

 でも、すとんと熱が落ちる瞬間がある。なんの前触れもなく。

 先輩は、そのぬるま湯を頭から被った。だから、瞳に映る世界が急速に冷えてしまったのだ。

 ばかみたい。

 ブーツの下の雪は、とけてなくなっていた。アスファルトの上には、私の足跡だけが残った。

 ほうじ茶の苦みも、まだ舌に残っていた。この苦みも四月になれば、日常に切り替わるのだろうか。彼の甘いほうじ茶が飲みたいと、私は思った。

 

 

 積雪ゼロになったのは四月になってからだった。ちょうど、大学の入学式の日だった。

 天気予報は当たっていたけど、予想気温が大外れ。雪どけはなかなか進まず、今日までずれ込んだ。

 私は家の窓を開け、雪が無くなった道路を見下ろした。アスファルトはひび割れ、泥にまみれた空き缶やペットボトルが歩道に散らかっていた。日陰にはところどころ小汚い雪がまだ残っていた。

 風が流れ、カーテンがふわりと揺れる。部屋の中に生温い空気が入り込んできた。埃も巻き上げているのか、頬を撫でる風はざらざらした。私は顔をしかめ、窓を閉めた。

『大学、初日くらいはちゃんと行けよ』

 東京の彼からメッセージが来ていた。

 午後のオリエンテーションくらいは出るよ。午前中の入学式はボイコットするけど。私は心の中で返事をした。メッセージは打たなかった。

 久々の化粧をする。まつ毛をビューラーで整え、唇に薄いピンク色の口紅を滑らせる。肩まで伸びた髪の毛の先にワックスを塗り付け、空気感を盛る。この日のために新調したスーツに初めて袖を通す。シワが寄っていないスーツは、とても窮屈だった。

 最後に埃よけのマスクをつけ、家を出た。高校へ行くときと変わらない道を歩き、駅へ向かう。改札に定期券を通し、駅のホームに立つ。電車がやってくる。ドアが開き、足を踏み入れる。電車は空いていた。まだ早い時間だったから。電車を降り、雪のない公園を抜け、青い屋根の家へ向かう。

 彼はもういない。それはわかっている。一か月も前に、東京へ行ってしまった。卒業式の日に作った雪だるまも、跡形もなかった。当たり前だ。

 玄関に近づく。そのまま通り過ぎようと思ったけど、アスファルトの上に何か落ちていることに気が付いた。

「あ」

 私は思わず、声が出た。雪だるまにつけた学ランのボタン。私はしゃがみ込んで、それをつまみ上げる。

 相変わらず私の掌の上でコロンと転がった。金ぴかには、埃や泥がこびりついていた。私は汚れがないスーツの袖で、ごしごしと汚れをぬぐった。

 金ぴかはまた、あの時のように指先でキラリと光った。私は少しだけ目を細める。スマホを取り出して、写真に収める。

 ――どうせなら可愛くしてやれば?

 いつかの彼の言葉が頭の中にこだまする。

 卒業式のあの日、手袋を外して、雪だるまの顔を可愛く化粧していたら。そんなことを思う。あの日は違った一日になっていたのだろうか。積雪量がゼロになる日は、今日じゃなかったのだろうか。

 私は彼に愛おしいと共感して欲しかった。それはただの理由に過ぎない。

 本当は、指先の熱を上げたかった。

 後悔という言葉が頭によぎる。いや、これは後悔ではない。もしかしたらという過去を語っているだけ。ただ、それだけ。

 くしゃみが出そうになり、顔を腕で覆った。マスクをしていたことを思い出した。くしゃみは出なかった。私はマスクを外し、彼の家を離れた。

 歩きながら、入学祝いで父に買ってもらった腕時計を見る。まだ九時を過ぎていなかった。入学式には、まだ間に合いそうだった。私は駅へ急ぐ。

 駅に着くと、電車はちょうどやってきた。開いた扉の向こうは、まだ汚れのないスーツを身に纏った若者で混雑していた。

 私は彼らに背を向け、扉のそばに立つ。ずっと握りしめたままの金ぴかをポケットに突っ込む代わりに、スマホを取り出す。アメダスと検索しようとして、やめた。

 私は代わりに、彼がユーチューブで見ていたチャンネルを開いた。動画一覧が表示され、いろんな歌をカバーしているんだなと初めて知った。私の好きな人気アーティストのカバー曲もあった。イヤホンを耳に突っ込む。最初のAメロは、彼が好きだと言っていた女の子が歌っていた。サビにさしかかったところで、なんとなく扉越しに空を見上げた。低いところに、薄い灰色の雲が渦を巻いて流れている。

 いつか経験した私の記憶の中に、ぬるま湯の温度を上げるボタンは確かにあった。私はそれを見逃しているわけでは、決してない。いつかまた押すことができると、なんとなくポケットに入れて詰め込んで、後回しにしていた。外の冷たい空気に触れて、指先の熱が下がるのを、怖がっていたんだ。

 私は過去を一つずつ、ポケットにしまい込むことしかできない。少しだけ先の未来はあの雲のように流れてくるけど、ぬるま湯の外で順番を待っている。自分の人生は、自分のその指先で一つずつ掴み取ることしか、私にはまだできない。

『桜は散った? こっちはまだ咲きもしない』

 メッセージと共に、さっきの写真を彼へ送った。私は指先で唇に触れてみた。口紅を付けていたそれは、滑らかで、熱を帯びていた。

 掌をかざしてみる。指先には、薄いピンク色が桜の花びらのように貼り付いていた。

 

 ―おわり―

 

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彼がユーチューブで聴いていた曲は、ぷらそにかがカバーするHello,Again~昔からある場所~ / MY LITTLE LOVER

『自分の限界がどこまでかを知るために 僕は生きてるわけじゃない』

www.youtube.com

 

 

私が最後にユーチューブで聴いていた曲は、同じくぷらそにかがカバーする空の青さを知る人よ / あいみょん

『青く滲んだ思い出 隠せないのは もう一度同じ日々を求めているから』

www.youtube.com

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