言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

海猫は東雲色(しののめいろ)に舞う

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全12,000文字程度の短編小説です。

会社に不満を持ちつつも、どうしようか悩み、それでも前に進むしかない若者へ捧げる物語です。

 

お時間があるときに、是非。

 

********


 夏の終わりが近付く霞んだ空の中に、真っ白な海猫が弧を描きながら現れた。手を伸ばせば届きそうなほどに近い。海猫の体はまるでシルクのドレスを纏っているように艶(つや)やかで、先が尖ったくちばしは陽の光を帯びて黄金色の宝石のように輝いていた。海猫はしばらく潮風を引き連れて真っ直ぐ飛んでいた。猫に似た鳴き声を一つ上げると、その翼を大きく広げて羽ばたかせ、風の切る音を残して、ぐんぐんと離れていった。
 離れていく海猫を追って目線を低くしたら、見たこともない景色が南春香(みなみはるか)の目に飛び込んできた。眼下に広がる紺碧(こんぺき)の海。その上を滑るように飛んでいく海猫の先に、雄鹿(おじか)の角に似た鋭い岩壁が突き出していた。岩壁は白いヴェールのようなさざ波に揺られながら、海の中心にそびえ立っている。まるで絵画の世界みたいに幻想的で、春香の胸を震わせる。
「あれが、世南(よみなみ)町の名物、ヤドカリ岩だべ」
 野太い声が聞こえたと思ったら、突然の横揺れでバランスを崩し、春香は我に返った。
 そうだ。わたしは小さい漁船に乗っていたんだ。
「なんじゃあ、あんた。ヤドカリを知らんのかぁ。近頃の若いもんは」
 返事のない春香に、船を運転する船夫が訛りの強い声を張り上げる。
「知ってますよ」春香は船縁に手をかけ、体勢を立て直す。「こう見えて、海の町出身なんです」
 無知な若者と思われたことに少しムッとする。日焼けのしていない鼻筋に長い髪の毛がかかる。春香は細い指で耳に払いのけ、海の町にそぐわない薄桃色のワンピースの裾を直す。都会で流行っている水玉模様のリュックを背負い直し、息を整え、春香は再び、空と海の間にそびえ立った細長い岩を見つめる。
 ヤドカリ岩。
 春香は喉の奥で、その言葉を繰り返した。
 でも、これじゃない。
 この壮大な景色を見ても、春香の心は硬い殻の中に深く閉じこもったままだった。胸の鼓動は震えていたが、それもすぐに収まった。春香はヤドカリの足がかりかりと引っかかるような、もどかしい気持ちになった。
 船はヤドカリ岩がそびえ立つ浅瀬近くまで辿り着いた。横揺れが幾分か収まった。
 春香はヤドカリ岩を見上げる。近くまで来ると、かなり高さがあった。頭の後ろと肩が触れるほど首を曲げていると、後ろにひっくり返りそうになった。慌てて、船縁を掴んで身体を支える。それでも岩の先端が見えなかった。
「どうして、ヤドカリ岩って呼ばれるんですか?」操舵室で肩ひじを窓から突き出して一服している船夫に、春香は声を掛けた。「こんなに細長いのに。ヤドカリと言うよりは、ローソクのようですよ」
「ほれ、あそこ見てみ」船夫がタバコの先端を岩の麓に向ける。「小さな細い岩がたくさん並んでて、ヤドカリの足みたいだべ?」
 春香は船縁から身を乗り出し、目を凝らした。波が打ち付ける場所に、短くて、鋭い、細い岩が幾つも積み重なり並んでいる。確かにそれっぽいが、こうして船に乗って近くまで来ないと、永遠にわからない。
「この岩って、国の文化遺産に登録されているんですよね?」春香が振り返って尋ねる。「このヤドカリ岩を見るために、たくさんの観光客が町に来るって。ネットで見ました」
「昔はなぁ、そりゃいっぱいおったさ。海水浴とか、キャンプとかする人間がな。この町はニシン漁でも栄えていたんだが、今はめっきりだ。おまけに最近は、国道に新しいトンネルができちまって。見れんのは、ほんの一部分だけなんだわ。今となっちゃあ、幻の岩って呼ばれてるべ」
「すみません。無理を言ってしまって」
「そりゃいいけども。しかしまぁ、あんたは、なんでこんなところに来たがったんだ?」
「これです」
 春香は背中のリュックを下ろし、中から一枚の絵葉書を取り出した。
「これと同じ写真を実際に撮ってみたくて。この構図はどこから撮影できるんですか?」
 絵葉書を見せると、船夫は豪快に笑った。
「こりゃああんた、ヤドカリ岩の写真じゃないべ」
「え? でも」
 この写真に写っているものは確かにこのヤドカリ岩だ。見間違えようがない。
「今もぽつぽつとおるんだが、やっぱりあんたもそうだったか。その絵葉書をあてにして、ヤドカリ岩を見にくる人がよ」
「どういうことですか?」
「ほれ。その葉書の端っこ」
 春香は船夫が指を差した箇所に視線を移した。絵葉書の片隅に、色鉛筆のようなもので『平成二十二年度 小南高等学校 如月(きさらぎ)たもき』と、小さな文字で書いてあった。
「それ、写真じゃないべ。ヤドカリ岩をモチーフにした絵なんだわ」
「そんなまさか!」
 思わず声を上げた。そんなはずはない。絵と写真を見間違えるわけがない。
 春香は瞼(まぶた)を見開き、瞳がくっつくような距離まで絵葉書を近付けた。海の中で揺れるさざ波。風を切るように羽ばたく海猫。空に浮かぶいわし雲。温もりまで伝わってくるような朝焼けの太陽。その日差しを受けて輝く、ぬめりとした岩肌のヤドカリ岩。春香にはどこからどう見ても、写真にしか見えなかった。こんな精巧な絵を描ける人がこの世にいる事実に驚愕する。
「だから、こんな構図は、どこにも存在しないんだわ」
「でも、これが絵だとしても。こんな精巧な絵を描くには、モデルか何かあるはずですよね? この岩を見た場所が、どこかにあるってことですよね?」
「そればっかりは、描いた本人に聞いてみないと、わからんべ」
 船夫は薄くなった頭をぼりぼりと掻きながら、吸い終わった煙草の火を消し、携帯灰皿にしまい込んだ。
 描いた本人。如月たもきか。今から十年前、高校の時に描かれた絵だとしたら、春香と同世代か、それよりも少し上くらいだ。
「この高校生は、この町の出身なんですか?」
「んだ」船夫は頷いた。「今はこの町の水族館で、飼育員として働いているはずだべ」


 一週間前、春香は会社を辞めた。
 理由は単純だった。自分のことしか考えない最低の上司に、嫌気が差したからだった。若者は三年で会社を辞めるとはよく言ったものだ。確かにそれくらいの時間があれば、大体、付き合う人の底と言うものは知れる。
「おい、南ぃ」
 突然、人を見下したような低い声がして、春香はパソコン画面から視線を上げた。直属の上司である課長が自席に座りながら頬杖をつき、手招きをしていた。春香は胸の奥で舌打ちしながら立ち上がり、課長の元へ足を運んだ。
「この前、依頼した一ヶ月後の社内プレゼン資料。進捗は、どうだ?」
 またか……。
 春香は心の中で毒づいた。そんな資料より、一週間後に納期が迫った作業の追い込みの方が、優先順位は高いはずだった。
「お前はやたらと細かいところにこだわって、時間をかけすぎだからな。早め早めに、おれが調整しないと。資料作りは、丁寧にやればいいってもんじゃない。女って奴は、見栄えばかり気にするからな」
 課長の言葉に、春香は乾燥してひび割れた唇を噛んだ。
「いいか。今日中に資料の叩きを、おれのとこに持ってこい。次のプレゼンは、うちの部の予算を持ってくるための、大事な、大事な会議なんだからな。おれの評価に関わる」
 課長は、『おれの評価』の部分の語気をやけに強めた。春香は奥歯を噛み締め、「……わかりました」と応じ、自席に戻る。
「この時期に、ついてないね……」隣の席に座る同期の奈津美(なつみ)が、手の平を唇に添えながら小声で囁く。「あぁいう保身だけを気にする上司なんて、頭ガチガチの奴、多いからさ。あんな年になったら、性格、変わるわけないよ。適当にあしらうしかない」
 他人は簡単に変わらない。だったら自分が変わればいい。
 そんなことが書かれた自己啓発本を、春香はこの三年、読みあさった。仕事を円滑に進める方法。性格の悪い上司との付き合い方。コミュケーションの技術力。そんなタイトルの本が、本屋には溢れてこぼれるほどに積み上がっていた。読めば読むほど、春香の目には綺麗ごとばかりの言葉が映るようになり、うんざりした。いつしか、どの本を読んでも頭の中に全く吸い込まれなくなり、春香の部屋は買ったことすら思い出せない本が積み上がっていくばかりだった。
「おーい。おれが作業を依頼してから、まだ二時間前しか経ってないぞぉー」
 プレゼン資料を最優先に叩き上げ、一行の簡素なメッセージと共にメールで送るとすぐ、課長がからかうように声を上げていた。無視して一旦止めた作業を再開していると、印刷した資料をひらひらと弄びながら、課長が春香の席へやってきた。
「片手間で、大事な会議の資料を作るんじゃない。ちゃんと、丁寧にやれ。赤字でチェックしといたぞ。今日中に修正してくれ」
 受け取った資料は、課長の汚い字で真っ赤に染まっていた。中には、なんて書いているのか、わからないくらい潰れた文字もあった。まるで課長の悪意そのものが埋め込まれているように思え、春香は課長を見上げた。
「おい、なんだその目は? 若い奴は、上司の言葉に黙って従っておけばいいんだよ。そうやっていつの時代も成長していくんだ。仕事もまだロクに出来ないくせに、文句と残業代だけは一人前なんだからな」
 春香は拳を握り締める。伸ばした爪が手の平に食い込む。喉の奥が乾ききっていて、舌に苦みを感じた。もう我慢の限界だった。
「流石に、言いすぎじゃないですか?」
 横に座る奈津美が、小声でフォローしつつ、立ち上がろうと腰を浮かしかけた。
「……自分が変わる方が簡単なら、あんたがこの本を読んで変わればいい!」
 ついに春香は、積み重なった三年分のうっ憤を爆発させた。鞄の中から読みかけの自己啓発本を引っ張り出し、課長の目の前に叩きつけた。
 その怒号と音に、奈津美が中腰のまま動きを止める。課長が、周りの職員全員が目を丸くして、一斉に春香へ視線を向ける。叩きつけた拍子に、本の表面は折れ曲がっていた。
 沈黙が落ちる。パソコンだけが、沈黙を焦がすような駆動音を響かせている。
 ひな壇の席で、部長が眉間に皺を寄せて、困ったように立ち上がるのが見えた。春香はそれを横目に、鞄を乱暴に掴み取り、無言で会社を飛び出した。一週間後に納期が迫った作業も、一ヶ月後のプレゼン資料の修正も、何もかも放り捨てて。
「部長が、早く戻って来いって」スマホから聞こえる一週間ぶりの奈津美の声は、落ち着いていた。「課長のやったことは完全なパワハラだって、部長も言ってる。課長も今回は、さすがに反省してるっぽいよ。あたしから見ても、常日頃の春香への発言はパワハラだし、セクハラだったと思う。なんなら、今までの言質も周りから取るよ。違う会社のあたしの友達も言ってる。パワハラなんて、我慢したら負けだって」
「名前も知らない関係ない人に、わたしのたまった怒りなんて、わかるはずないじゃない」
「春香は頑固すぎるのよ」奈津美が大きくため息をつくのが、電話越しでも聞こえた。「……退職届け、まだ出してないんでしょう?」
 春香は電話を切り、ぼんやりと青い空を仰いだ。磯の香りを含んだ生温い風に顔をしかめつつ、空の彼方に点々と浮かぶいわし雲を見つめた。
 奈津美の言ったとおり、春香はまだ退職届けを提出していなかった。だから、正確にはただの無断欠勤だ。
 今日、納期の仕事があったはずだった。奈津美の話によると、その作業は部長と奈津美が休み返上で分担して、なんとか完成にこぎつけたと言っていた。
 奈津美からは、課長の赤字チェックが入ったプレゼン資料がメールで送られてきていた。春香の机に置きっぱなしだったものを、スキャンしてくれたのだろう。
 春香は近くのコンビニに入り、それをコピー機で印刷した。殴り書きされた赤字の横に、小さいけど読みやすい綺麗な青字が添えられていた。奈津美の字だった。課長の汚い字を解読して、わざわざ付け足してくれたのだ。
 春香はコンビニの前にあった真新しいベンチに座った。さっき漁船に乗った漁港が見渡せた。春香を案内してくれた船夫の姿はもう無かった。
 早く戻ってこい。
 部長も奈津美も、春香に気を遣ってくれている。自分の子供じみた感情的な行動で、二人にはとても迷惑をかけていると言うのに。春香は熱くなった目頭を人差し指で押さえた。確かに、今ならまだ戻れるかもしれない。
 春香はリュックから書きかけの退職届を取り出した。プレゼン資料とそれを交互に見比べ、大きなため息をついた。
 これは会社に戻って済むとか、簡単な話じゃない。わたしの三年間の積み重ねが、謝れば認められるとか、単純な話でもないんだ。
 春香は二枚の紙をくしゃくしゃに丸めて、リュックの中へ乱暴にしまい込んだ。代わりに、ヤドカリ岩が書かれた絵葉書を取り出し、手に握りしめる。
 この絵葉書を偶然、街のカフェで見つけた時、春香は衝動的にこの景色を絶対に見たいと思った。カフェの店員に尋ねると、ヤドカリ岩という言葉が返ってきた。すぐさまネットで検索し、最低限の荷物をリュックに詰め込み、駅から高速バスに飛び乗った。そうして、この世南町へやってきた。
 絵葉書の景色を見れば、自分がどうしたいのか、答えが見つかるような気がした。この見慣れた現実の世界にも、素晴らしい世界があると、そう信じたかった。それこそ、どこかの自己啓発本に書いていそうな、簡単で単純な発想で。
 我ながら、頑固すぎると春香は思っていた。だからこそ、一度辞めると決めた以上、自分で答えを探さなければならない。
 でも、本当は――。
 春香は絵葉書を握りしめたまま立ち上がり、その足を引きずるようにして、歩き始めた。


 世南水族館とありきたりなゴシック調で書かれたアルミ製の看板は、茶色い錆が点々とこびりついていて、一部が剥がれかかっていた。ここには人が入っていませんよ、と証明する印鑑のようだった。
 実際、夏が過ぎてピークが去ったのか、駐車場は閑散としていた。それでも夏休み中は、たくさんの子供連れの家族がここを訪れ、列を作っていたのだろう。列を仕切るポールがくねくねと折れ曲がって放置されていた。色が薄くなり擦れていて、ところどころ折れ曲がったものもあった。
 何もかもが古臭かった。歴史が長い水族館であることを肌で感じた。
 長く使い古して、壊れかけたものが、春香は好きだ。誰かのものだけど、誰にも真似できないものだから。自分だけの居場所も同じだ。誰もが時間をかけて大事に作り上げ、時々、傷を負っては、その壊れかけの世界に逃げ込むのだ。
 春香は入場券を買い、古びた建物の中へ足を踏み入れた。息を吸い込むと、磯臭さと湿気を含んだ空気で春香の肺が満たされた。懐かしい感覚だった。水族館に来たのは何年ぶりだろう。
 乾いた足音を響かせ、薄暗い通路を進んで行くと、南の島の魚たちがまず、春香を迎え入れた。熱帯魚たちは体の割りに大きな目玉を春香に向けては、気だるそうに、狭くて青白い水槽の中を泳いでいた。真っ白な砂の上には、色とりどりのイソギンチャクが蜃気楼のように揺らめいていた。
 次に世南町の近海に住む魚たち。シャコ。ヒラメ。タラ。カスべ。カレイ。そして、世南町の名物だった、ニシン。どれもが巨大な水槽の中で、誰に構うわけでもなく、悠然と泳ぎまわっていた。
 通路を抜けると視界が明るく開け、ふれあいの浜という場所にたどり着いた。
 海の浅瀬に住む生き物を触ることができた。子供たちを対象に開放された水槽だった。ヤドカリや小さなカニ、ツブや名前も知らない小さな貝たちが窮屈そうに押し込まれていた。その合間を縫うように、ヒトデが岩の上に寝そべっていた。小さな子供の宝箱をひっくり返したような光景に、春香は昔、海の浅瀬でよく遊んでいたことを思い出す。水槽の前にしゃがみ込み、細かく、一つ一つ観察する。
 でこぼこした岩の隙間から、細い足を交互に動かしながら、大きな赤い貝殻を背負ったヤドカリが姿を見せた。たぶん、この水槽で一番大きいヤドカリだと春香は思った。
 海水に手を入れると、ひんやりとした。
 近くにいた数多のヤドカリが、驚いたように手足を引っ込め、その場に固まる。春香はその中心にいる大きなヤドカリをつまみ上げ、手の平に乗せる。
 立派な赤い巻貝を背負っているヤドカリだった。体の割に大きなハサミで、貝殻の入り口に蓋をしていた。
 ヤドカリは、成長するたびに新しい貝殻を求め、引っ越しをする。ハサミを当てて貝殻の大きさを測っていると聞いたことがある。自分が持てる世界の大きさをきちんと把握し、取り替えているのだ。
「あんたは、いいよね。自由にすぐ、自分の世界を取り換えることができてさ」
 馬鹿だな、と思いつつも、春香は殻に閉じ籠ったヤドカリに話しかける。
「わたしは、迷ってる。自分の世界を、簡単に変えることなんて、できないから」
 恐らく、この世界の人間は成長ではなく、順応を求められているのだ。春香はなんとなくそう思った。
 今まで築き上げた自分の世界から、別の世界へ引っ越しすることは難しい。だからこそ、社会の波に揉まれて、世界が壊れかけたとしても、なんとか修理して、持ちこたえなくてはならない。古い自分の殻を捨てた瞬間、今まで積み上げられた自分の価値観は脆く崩れ去り、他人との境界線すら、無に返るように出来ている。
 部長と課長に頭を下げて、奈津美の言うように現実の世界へ戻るか、それとも、退職届を叩きつけて未知の世界へ飛び込んでいくか。
 春香は決めかねていた。殻から出ようか迷っている、このヤドカリのように。
 春香の手の平の上が安全な場所だと認識したらしい。ヤドカリはもぞもぞとハサミを動かし、小さな頭を殻から出した。ごま粒のような目玉が左右に揺れ、尖った手足が前へ後ろへ絡まりそうになりながら、春香の手の平を引っかけた。春香はくすぐったくなり、ヤドカリを海水の中へそっと戻した。
 その時だった。
 突然、どん、と、目の前で乱暴に青いバケツが置かれた。
 春香は目の前のヤドカリに夢中だったので、肩を大きく揺らして飛び上がった。
 顔を上げると、海の色を染めたような鍔(つば)付きの帽子を深々とかぶり、薄汚れた作業着を身に付けた青年が、ふてくされたような表情で立っていた。手には、使い込まれたモップが肩へ担ぐようにして握られていた。鋭い切れ目で、鼻がやや高いが、バランスよく整っている。都会で歩いていたなら、イケメンとすれ違った女子が騒ぐだろうか。そんな顔立ちの良い青年だったが、突き出した唇がそれを台無しにしている。
 水族館にひと気が全くなかったので、この青年もここで飼われている動物の一種なのかも。そんな考えが春香の頭によぎったが、すぐにヤドカリ岩だ、と思い直した。彼があの写真、いや、あの絵を描いた青年に間違いないと感じたからだ。
「お前、ヤドカリと友達になりたいのか?」
 青年もまた、春香のことをまるで珍しい海の生物が出てきたぞと思っているかのように見下ろしていた。鼻の穴が膨らんでいる。よく見たら、鼻の下に剃り損ねたヒゲが、岩にこびりついた海藻のように点々としていた。
「今、お前が手に取ってた大きいやつは、ホンヤドカリ。日本で最も生息する一般的なヤドカリだ。オホーツク海の方では、食用にもされてる。この水槽には他にユビナガホンヤドカリってのもいる。ホンヤドカリよりはちょっと小せぇが――」
「あの、これ……」
 突然、青年がヤドカリの説明を始めたので、春香はそれを遮るように絵葉書を見せた。
「またか」
 絵葉書を見た途端、青年は海水を飲みこんでしまったような苦い顔をして、呻いた。
「どうせ、この景色を実際に見たいとか、そんなミーハーな考えだろ? 悪いが、教える気はねーぞ」
 青年はモップを持ったまま腕組をしてそっぽを向いた。船夫も言っていたが、春香のような観光客は、とても多いのだろう。何回、いや、何十回と同じことを聞かれてうんざりしている様子だった。
 春香は立ち上がり、青年の瞳を覗き込むように見つめた。よく見ると、青年の瞳は少し色が薄く、まるで海のように透き通っていた。
「なんで、この絵を描いたの?」
「なんでって。別に描こうとして描いたわけじゃない」
 青年はぶすっとした表情のまま目を逸らし、面倒くさそうに話している。まるで春香が悪いことをした若手社員を叱っているみたいだ。
「こんな写真と見間違えるような絵、適当に描いて、描けるわけないじゃない」
 春香は負けじと詰め寄った。
「しつけぇ女だな。なんでこんな絵にこだわるんだよ」
「だって、感動したんだもん」
 春香は拗ねた子供が言い訳をするように呟く。
 こんなに素晴らしい作品があるのだろうか。初めてこの絵葉書を見た高揚感は、言葉では表せないものだった。息を飲むほどの美しい景色というものは、本屋に溢れた自己啓発本なんかよりも、よっぽど人の心を動かす。
「なんかこう。わたし、芸術とかそういうのはよくわかんないんだけど、全体の構図って言うの? 光の差し方とか、微妙な色の加減とか。目を惹くものがあったの。ヤドカリ岩自体は、今日、実際に目の前まで見に行って、ようやく名前の由来がわかるような、何の変哲も無い岩だったけど」
「あの岩の近くまで行ったのか。どうやって」
青年が訝しげに尋ねる。
「漁船に乗せてもらった。でも、違ったの。何かが違った」
 春香は濡れたまつ毛を瞬きながら、続ける。
「よくわかんないけど、この景色とは違った。心のもやもやが晴れなかったの。だから、お願い。これと同じ景色が見れる場所、教えてよ。これと同じ景色を見るまでは、わたし、帰らないから。絶対に、この目で見てみたいって、そう思ってるから」
 ほとんど泣きそうな春香に圧倒されたのか、青年は観念したように頭を振り、手に持っていたモップを水槽に立てかけた。作業着の胸ポケットから使い古された革手帳を取り出し、ぱらぱらと開いた。
「お前、今日、この町に泊まるのか?」
 春香は首を縦に振った。
「明日の早朝。まだ太陽が昇る前だ。町の西にある一之瀬(いちのせ)港に来い。鎖焔丸(さえんまる)と書かれた船が、おれの船だ」
 それだけ言うと、足元のバケツを持ちあげて、ぷいと後ろを向き、そのまま水族館の奥に消えていった。


 朝って何時なのよ。
 春香はあくびを噛み締め、重い瞼をなんとかこじ開けながら、オレンジ色の街灯がぽつぽつと光る一ノ瀬港に到着した。波止場(はとば)には錆びついて古くなった漁船が並んでいた。青年の鎖焔丸はその中で一回り小さかったが、割と新しく、波と光を受けて、たき火のように揺らめいていた。青年の姿はまだなかった。
 春香はぶるりと身体を震わせた。空気が冷たかった。今日はノースリーブのワンピースだったので、露出した腕を風が容赦なく切り裂いていく。夏なのに、凍えてしまいそうだ。夜明け前の港って、こんなに冷え込むのか。
 ぶつぶつと呪いのように独り言を呟きながら、震える肩を抱き、春香は待った。
 東の空がうっすらと明るくなりかけた頃、青年が軽い足取りで港へやってくるのが見えた。
「やる気満々だな」
 青年は春香の姿を確認すると、小馬鹿にするように笑った。
「あんたねぇ。集合時間くらい、明確にしなさいよ。女は待つのが大嫌いなのよ」
「そんなん知るか」
 青年はぶすっとした表情で、船を縛り付けていた丸太のように太い縄を、慣れた手つきでほどいていく。
 青年が先に船へ乗り込み、「乗りな」と短く言った。
 春香はそれにならい、船に飛び乗った。足をつけた瞬間、船底が大きく揺れ、海水が波止場に打ち付けた。水の撥(は)ねる音がした。青年が船のエンジンをかける。汽笛がぽんぽん、と、壊れかけのボイラーのような頼りない音を出す。そして、船は動き出し、ぐんぐんと港の中を進んでいく。
「あんた、この船、運転できるんでしょうね?」
「当たり前だろ。おれはガキの頃から親父に仕込まれてたんだ」
 そう言ってる割には、昨日案内してくれた船夫と比べて、相当運転が荒い。防波堤を抜けると、波が激しくなり、更に揺れが酷くなった。春香は早くも気分が悪くなり、船縁に寄りかかって、うずくまった。これでも羽織ってろ、と青年が毛布を投げて寄越した。生魚の臭いが染み込んでいたが、背に腹は変えられない。春香は毛布の中で丸まった。
 やがて、ヤドカリ岩が見えてきたところで、船がゆっくりとスピードを落とす。春香は喉まで込み上げてきた不快感を押し込むように立ち上がった。
 船が小刻みに左右へ揺れる。青年が船の位置を調整しているようだった。顔は真剣だった。船の先端がヤドカリ岩へ真っ直ぐ向けられると、青年が船のエンジンを切った。音と揺れが消えた。不思議と風も止まった。
 夜明け前の海は、静寂の底に落とされていた。二人が乗る船は、自分たちだけの海で漂っているようだった。
 ヤドカリ岩は海とも空ともわからないところに、真っ黒な炭のように佇んでいた。海は深くて濃く、手ですくえば、ドロドロとまとわりつきそうな色をしていた。背後には、ずっと遠くに街の灯りが見えた。時折、灯台の光がろうそくのように灯る。
「ちょっと。この景色、全然違うじゃないの」
 静寂の中、春香は声を張り上げた。
 やはり、あの絵葉書とは似ても似つかない海だった。ヤドカリ岩との距離感と、全体の構図がまるで違う。春香が見た絵は少し遠くからヤドカリ岩を描いたもので、海と空と、そして海猫の姿が見事に調和していた。しかも、絵の太陽はやや低い位置にある。朝は朝でも、もう少し時が経った時間帯のように思えた。
「あのな。だからそれは、おれが想像で描いたヤドカリ岩だ」
「はぁ? あんた、わたしをだましたの?」
「ったく。ホント、うるっせぇ女だな。見ろ」青年が顎をしゃくった。「……時間だ」
 その瞬間、世界が切り取られた。
 海の果てから、太陽が世界を覗いていることがわかった。ちょうど、ヤドカリ岩の向こう側から顔を出しているらしい。船は真東に向いていたのだ。
 幾重にも織り重なった陽の光が層を成し、ヤドカリ岩を切り取るように、春香たちのいる場所に陰影を落としながら真っ直ぐ伸びている。光と影の境界線には手で掴めそうなほど、焔(ほむら)色の粒が無数に燃え上がり、鎖のように連なっていた。その先に広がる海は、炎を宿したように燦然(さんぜん)と黄金色に輝き、海猫の群れが今まさに羽ばたいていくようにも見えた。
 見上げたヤドカリ岩は、陽が昇る前より真っ黒に染まっていた。そのヤドカリ岩と東雲(しののめ)色を宿した空との間には、神々しい光のシルエットがくっきりと描かれていた。まるでヤドカリ岩が、光り輝く海猫の羽を広げているようだった。
 朝陽を帯びて輝く海とヤドカリ岩で切り取られた墨色の海。そこはまるで、二つの世界が存在しているようで、春香たちはそれらのちょうど境界線ギリギリに立っていた。
「おれが描きたかったのは、ヤドカリ岩じゃなくて、この瞬間の太陽の陰影。お前、最高についてるぜ。今日が一番、この光の塩梅(あんばい)がちょうどいい日なんだ」
 青年は目を細めながらヤドカリ岩を見上げる。
「すごい景色なんてもんはなぁ、頭ん中でいくらでも作れるんだ。ホントに難しいのは、見えるけど、みんなが気付かないような、ちっぽけなもん。ちっぽけだけど、欠かせないもん。そのちっぽけなもんが、世界をより輝かせるんだ。想像した世界なんて、現実の世界へただ引っ張ってくるだけなら、つまんねぇもんなんだぜ」
 春香は目の前に広がる現実の景色に圧倒され、口を開いたまま、しばらく呼吸を忘れていた。いつの間にか毛布も足元に落ちていたが、寒さは感じなかった。喉を鳴らし、ようやく言葉を絞り出す。声は擦れていた。
「……世界って、こんな簡単に、変わるんだね」
「はぁ?」
 春香は陽の光に向かってゆっくりと手を伸ばした。光の境界線は、すぐそこにあった。春香の手を遮るものは何もなかった。世界の向こう側で溶けてなくなりそうに輝く手の平と、海に反射した太陽の煌めきに、春香は眩しくなってまつ毛を伏せた。
 心臓が脈打つ。誰かに引っ張り上げられるような感覚だった。
 ただただじっと自分の殻に閉じ籠って、愚痴とか悪口とかを並べているわたしにも、壊れかけてぽっかり空いた穴から、手を差し伸べてくれる人は必ずいるんだ。
 ――本当はただ、逃げ場所を探していただけ。
 春香はゆっくりと瞼を開き、もう一度、今この瞬間、目の前で確かに広がる景色を、その瞳にしっかりと焼き付ける。
「やっぱりヤドカリと同じだ。わたしたち人間の人生って……」
 春香は鼻水をすすりながら、か細い声で呟く。
「意味わかんねぇ」
 青年は鼻で笑う。
 春香はしゃがみ込んでリュックの中をまさぐった。くしゃくしゃに丸まった退職届けとプレゼン資料を取り出す。くしゃくしゃになりすぎて、どっちがどっちなのか、全然わからなかった。
 気が付くと、船が潮の流れで移動したのか、春香の目と鼻の先に、現実の世界との境界線が伸びていた。あるいは、この線の向こう側が、幻想の世界なのかもしれない。いや、そんなことはもう、どっちでも良かった。
 立ち上がった春香は、息をゆっくりと吸い込む。腕を大きく振りかぶり、くしゃくしゃになった紙の片方を、勢いよく海の真ん中へ投げ捨てる。丸めた紙は昨日見た海猫のように弧を描き、宙を舞った。それは世界の境界線を越えた瞬間、燃えるような輝きを纏いながら、水面に落ちていった。
 迷いなんて、無駄だ。この世界の境界線も、もうすぐ消える。選んだ答えが間違っていたなら、その時は新しいヤドカリの殻をもう一回探せばいい。同じ殻でもいいから。わたしが背負ってきた世界は、すぐそこで輝いているのだから。
 春香は手に残ったもう片方の紙を、丁寧に、ゆっくりと広げた。朝陽が春香の手元を照らす。そこには、春香のまだ見ぬ明日が輝いていた。
 ヤドカリ岩の麓で羽を休めていた海猫が、世界の始まる合図を告げるかのように、一声鳴いた。

 


―おわり―

 

 

********

 ヤドカリ岩のモチーフとしたのは、以下の雑誌にも載っている「鍋釣岩」です。

 北海道南西部の日本海上に浮かぶ離島・奥尻島にあります。

 

 この雑誌、いろんな日本の絶景が写真で楽しめます。

 今年は想像の中で旅行をしましょう。

 

 

  コロナ終息後は、是非とも北海道へ。

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