とんぼが飛んでいるのを見たときに思ったこと。
「昆虫って何考えてんだろう?」
柔らかい風が吹いて、空高く舞い上がって、「人間って、どうして空を飛ばないんだろう」とか彼らは思っているんだろうか。
あの目で。
あの体で。
くもの巣にそのとんぼが引っかかったとして、それを見て、「なんて可哀想なとんぼ……」と思って、人間がとんぼを助けてあげる。
助かったとんぼは、再び青空の中へと飛び立ってゆく。
ぱっと見、「とんぼが助かって良かったねー」ってなる。
だけども、とんぼのことばかり見て、くものことについては考えない。
くもだって、食料がないと生きていけない。
実際、とんぼは何も考えてない。
くもも何も考えてない。
「助けてくれ」とか、「あー、食料がなくなったー」とか、そういうのは人間の思い込み。
人間のエゴは、そういう「自分」っていう括りを持ってしまったがために、自然のバランスをあれこれ変えてしまう。それなのに、自然を守ろうって言う。自分があるから、他人とか何かを可哀想だと思ってしまう。
「人間みな平等」っていう割には、他人の不幸を見て、心の底では自分は幸せと思ってる。
本当に悲しいと思っていても、実際、悲しいと思った時点で、他人と自分を比べている。
同じだったら、同情なんてしている時間なんてない。
きっと、何も守ってなんかいない。
唯一守ってるのは、自分の感情。
何でもないような日々が続く時、それはきっとまるで、自分を取り巻く日常が自分のことを笑っているようで、そんな風に日々を過ごしている自分もそんな自分のことを笑っている気がする。
どうでもいい涙が実は大切だったりするように、本当に大切な人のために流す涙が、実は全然悲しくなかったりする。
泣くことはカッコ悪いことだと、他人に思われる。
だから、大切な人のために生きてく自分が、実は最高にカッコ悪いんだ。
でも、カッコ悪くてもそれもいいかと思う。
それでいい。
カッコ悪い涙が大好きでいい。
たとえ世界が自分のことを笑っても、
自分はこの世界のことを決して笑ったりはしない。
大切な人がいるこの世界に、自分がいることが一番幸せなんだ。
誰かのことを笑うより、誰かのことを想って泣くことの方が、ずっと素晴らしい。
だから、誰かのために、泣きながら日々を過ごしてゆく。
でも、そんな人生を送るためには、どうしたらのいいのか。
***
自分の目線が変われば、高さが変わる。
……それは当たり前。
〝この世界が嘘だらけならこの世界は全部本当になる〟
【引用・言葉の森/藍坊主(あおぼうず)】
当たり前の中に、不自然なるものが存在したとして、その影を見つけ出すのは至難の技です。
新しい日々が舞い込んで、何気ない毎日の上に積み重なると、人は今まで記憶していた〝目線〟をまた新たに書き換えるようになります。
真っ直ぐ見ているつもりでも、それは自分の丈に沿った枠であり、微妙に屈折し、事実はわからないところで曲がっているのだと思います。
自分が認識している色や音、匂い、味、それらは本当に1つのものとして決まった事柄なのかどうかなんて、他人と他人を並べたところで到底理解し得ない事実です。
自分が〝赤〟と認識した色でも、他人にとっては自分で感じる〝青〟なのかもしれない。
それと同じで、他人が見る目線と自分が見る目線の違いなんて、結局はほとんど意味がなく、考える必要性すらないような気がしてなりません。
お互いの間に生まれるズレは、いつも大きなものとして深く刻まれているはずなのだから、今まで生きてきた時間の中で少しずつ、少しずつ自分で強引に修正してきた目線が、今の自分が見ている世界なんです。
つまりは、全てが強引に修正された嘘の世界の上に、自分は立っているわけです。
何が嘘で、何が本当か。
書き換えられてきた目線を否定すると同時に、人は何かを、誰かを疑って、自分を保とうとします。
迷うことが正しくて、決めることが間違いだと、目線の下に自分が決めたルールを敷いて、矛盾の上に体を乗せることを選んでしまいます。
それが間違いだと理解しているつもりでも、限りなく狭められた答えを選ぶことで自分を安心させ、より多くの幻を見始めていくわけであります。
本当だと思えば、それは総て。
疑う余地すらない感情の中で、自分は一体、何に対して疑いを持つのでしょうか。
信じることを投げ捨てた人たちは一体、何にすがって答えの紐を選んでいくのでしょうか。
***
「自分たちがどんな過去を背負い、どんな悩み、希望を持っていたとしても………、できることといったら、行動”する”か”しない”を選ぶことくらいなんだ。千差万別の悩みに対して出来ることはたったの2通りなんだぜ。あたま抱えて当然なんだ」
【引用・ファイナルファンタジー9/ジタン・トライバル】
というセリフが、自分の記憶の中に残ってます。
某有名ゲームの一言ですが、なかなかいいセリフ。
あれこれ悩んで考えて、また考えて、でも結局行きつく先は皆同じ。
自分に出来ることをするか、しないか。
そりゃあ、自分に出来ないことは誰だってしないでしょうが、悩むのは当然であって、別に悩んでることを自己嫌悪することはないということです。悩みがない人なんて稀だとは思いますけど。
以前、読んだ本でこんなことが書かれていました。
「子供に対して、『自分が今出来ることをしなさい』って言うのは親として失格だ」
こう言ってしまうと、自分が今出来ることしかしちゃいけないんだっていう縛りが生まれて、自分で考えて何かしよう、調べて本当にしなくちゃいけないことを考える、そんな行動力や思考力は身につかないらしいです。
そこは、「自分で考えて行動しなさい」というのが適当らしいです。子供相手には難しい言葉ですが、今思ってみればなんとなく納得です。
つまりは、自分が出来ることをする、しないにしろ、たくさんの悩みや不安、希望、それらを抱えながら、の延長線上のものを暗中模索しながら探し出すことが一番重要なんですね。まぁこれが一般的な考え方ではないのだろうけど。あくまで自分が考えることです。
実際、「自分が出来ることをしなさい」っていう言葉は的を射ているし、そもそも、自分が出来ることしか出来ないじゃん。
要は行動を移す時は、他人に流されず、自分で考えようってことですね。自分だけで考えて行動するのもなかなか難しいと思いますが。
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何が頑張れることなのか、何が頑張れないことなのか、大人になると、最初から判断ができるようになり、頑張ることを、初めからしなくなるようなことも多々あるような気がする。
駄目だ駄目だと思っていても、結局は自分の判断の甘さが、自分を甘やかすようになり、真面目さとかやる気とか、自分で出来る事を自分自身で少しずつ知らず知らずのうちに削っているように思う。
「ただなんとなく日々を過ごす」ことや、「ただ呆然と生活をしてゆく」ことの意味が大きくなり、自分らしく生きてゆくことすらも忘れてしまうような感覚
甘さに溺れている事を一番よくわかっているのは、やっぱり自分なんだな……。
辛いコトとか、嫌なコトとか、はっきり言ってしまうと、自分で判断したものさしの上に存在しているモノなんだと思う。
今の気持ちが伸びていないから、客観的に見てどうでもいいことも、自分の中で見たら大きな問題であったりもする。
今の気持ちが曲がっているから、他人の気持ちや気分がまっすぐ見えなくなり、自分の気持ちと相手の気持ちがすれ違ったりしてしまう。
かと言って、長ければ長いほど素晴らしいのかと言われると、逆にそういうわけでもなくて、非常に難しい。
必要なのは、大切なのは、ものさしの目盛りを一定に保つこと。
一定の距離の中に、自分の"今〟に合った幅を決めておくこと。
日々過ごしてゆく中で、時間が流れてゆく中で、気持ちとか見方が変わってゆく事が多いかもしれないけど、自分の一定の間隔を決めておけば、足りないもの、欲張ってしまうものの目盛りが自分の中でなんとなくわかってくるのかと思う。
自分に甘えて過ごしていくことは確かに楽かもしれないけど、本当に辛い現実に出会ってしまったら、自分に出来ることがなくなってしまう事もあるかも知れない。
そうなる前に、なんとなくでいいから、今の生活、行動を、少しずつ一定に保っていって、なんとなく自分が描いた理想に近付いて行ったらいいのではないかな、そんな風に最近思ってきた。
自分がそう出来たらいいな、ああ出来たらいいな。
他人を見て、ああなれたらいいな、ああなりたいな。
思うことと羨むことは、似てるようで全然違うのかも知れない。
羨んでいるうちは、自分の理想がまだ生きている証拠なのだから、羨むことを自分の理想に変えながら、出来ることを少しずつやっていけばいいのかも知れない。
ちょっとずつ進んで行く事で、見えるゴールがある。
その方向にきっと、今の自分の目指す、居心地の良い場所があると思う。
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誰かと一緒にいた時間が長く、同じ時間を重ねたとしても、一度離れた想いが元通りになることはありません。
同じ絵を描こうともがいても、同じ色を作ろうとしても、この世に、全く同じ存在が2つとしてないように、気持ちがお互いに重なることがあっても、同じものになることは、ほぼないと思います。
出来ることならば、元通りになることを期待してみたい。
一度バラバラになった想いを、組み立てて、元に戻したいと願いたい。
けれども、期待は全てで、現実は1つだけです。
同じ方向を見ながら共に歩いてくことは、大変ではあるけれども、当たり前のことで、大切なことです。
その終着駅にあるものを、お互いに感じることが最大の目的であるならば、二人で共に歩む道は、二人分の道幅で、決して一人で進む道ではないのです。
道端に花開くたんぽぽが、何気ない顔をして佇んでいる様子、草原に風と共に流れる波のようなゆらめき、これらは、体の一部分ではなく、体全体で感じる想いや気持ちであって、偽物ではないです。
ただただ相手を素直に想う気持ち。
それはその瞬間にだけ生まれるものであり、すぐに消えるものでもないけれど、連続的に考えると、常に変化する色彩の濃い豊かな感情であると思います。
二人で歩むと決めた道幅を歩くには、そんな感情を常に持ちながら歩いてくことが、 きっと一番大切なことなんでしょうね。
思い出すことと、想い出すことって、不思議だなと感じます。
胸が温かくなる気持ちや、切なくなる気持ち、嬉しい気持ち、寂しい気持ち、これらは全て、一人では絶対に感じ得ない特別なものであります。
〝心〟というものは自分の中にはなくて、自分と相手の間に生まれるものであって、相手を想うから心が生まれる。誰かを感じるから心が生まれる。
「心はどこにある?
心は体の中には無い。
何かを考えるとき、誰かを想うとき、そこに心が生まれるんだ。
もし、世界に自分一人しか居なかったら、心なんてのは何処にもないんじゃないかな」
人は独りでは生きていけないんだな。誰かにすがらなきゃ、駄目なんだな。儚くて脆いものだけど、それを必死に守っているんだな。
そもそも一人だったら、考える〝感情〟なんてものが生まれないものなのです。
誰かを想えることは、ただそれだけで幸せなこと。
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人の運命って、(そもそも運命って言葉をあんまり信じちゃいないんですけど……)ホント、些細なコトで微妙に変化していると思います。
あの時こうしてなかったら、この人には出会ってなかったんだろうなぁ、と思うことが多々あります。
自分の場合、大学を1年間休学したお陰で、本来なら出会うハズのない人とたくさん出会えたのです。
大切な人、大切な時間、大切な物、失う何かがあっても、それと同じだけの価値ある何かを手にすることが出来ます。
それだけで幸福で、手放すことの出来ない重いものを持っていると言えます。
よく、「あの時こうしていれば、こうなっていたのになぁ」って思うことがあります。
よくよく考えてみれば、それは果たしてそうかなと首を傾げてしまうのです。
だって、今ある1つの時間が、全く別の時間に変化してしまうなんて、あり得るハズがないし、その時感じた何か、その時思った何か、その時起こったこと、結局、自分の人生はたった1つの道しか示さないのだと思います。
そういうことを考えると、後悔なんていう言葉は意味を持たないのだな、ってよく思うのです。
だから、自分が選んで決めた事は、何があろうと悔やんではいけないと、後悔なんてしたところで現実は1つだけ、
それよりも、今のこの瞬間を、自分が出来る限りでつむいでゆく、
いつもそう思いながら生きてゆくこと。
『窓のないこの部屋にひだまりができるのはいつでしょう?』
【引用・キセキ/RYTHEM】
そんな奇跡を待ってるだけではなく、起こせばいい。
人と人との出会いは、片方が割れている不完全な存在。
たくさんの人との出会いは、ただそれだけで奇跡なんです。
私は大学を休学する前、今まで生きてきた中で最大の挫折を経験しました。
大学を辞めようと本気で思ったし、大切な時間も、友達も恋人も、自分の人生も全てが嫌になりました。
手にすることは凄く難しいのに、手放すことはあっけないほど簡単です。
全てを失うことは、今までの自分を全て否定することと等しいのです。
話せばすごく長くなるので、多くは語りませんが、つまり言いたいことは、全てを失ってから気付くのでは遅いのです。
荷物が重すぎるなら、一度下ろせばいい。
走るのが辛いなら、歩けばいい、立ち止まればいい。
ただそれだけで、前に進める自分の道が、広く見渡すことが出来ました。
過去を切り捨てて前を歩いてゆくと、またいつか同じ壁にぶち当たります。
そうではなくて、過去を持ち続けることに意味があるのだから、今の自分があるのは、過去の自分のお陰なんだから、気付くのが遅くても、何もかも捨てずに、ゆっくりと少しずつ歩いてゆけばいいのだと思います。