言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

深淵に届け。

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 こんにちは。

 自分探しが大好きな理系人間の真辺陽太です。

 

 この一か月、時間が許される中、純文学や過去の受賞作品の小説を読み、自分が書いた物語に足りないものをつらつらと書き出していました。

 

 その数が、実に多いこと多いこと。まだまだ未熟な私です。

 ですが、ようやく「文学」とは何か。その見えない糸のような深淵が、この手に少しだけ掴めてきたような気がします。本当に、爪の先にかすってるだけ。それは果たして掴めているのか。

 

 

 

 

 集英社さんのコバルト文庫・短編小説新人賞について。

 

 

 2020年の6月から応募を始めて、今のところ、二作品連続で「もう一歩」となりました。2勝1敗。

 最低限、「小説」として自分の作品が読まれていることに対しては、手ごたえを感じ、少しだけ自信がついているところであります。

 ……が。受賞までは「もう一歩」ではなく、まだまだ数万歩ほどの距離があると感じております。

 

 現在、3作品を既に応募している状況ですが、そのいずれも「もう一歩」には入ったとしても、おそらく、受賞作品には選ばれないでしょう。自分の力量の足りなさと、これまでの受賞作品と選評を読んでみて、痛感しています。

 

 カクヨムさんに作品を公開していますが、「最低限、これくらいは書かないと賞を取るなんて絶対に無理だぞ」という自分への戒めと研鑽の意味合いで、アップしている次第です。

 

「……いいか! 早朝3時に無理やり頭と身体を叩き起こして、煩悩を取り払うお寺の鐘を聞きながら執筆していた自分を思い出せ! あの辛い日々を思い出せ! それくらい書かなきゃ、お前は『もう一歩』すら取れない人間なんだぞ!」

 

 こうやって、己を鼓舞するわけです。

 

 

 

 あなたは何のために小説を書くのか。

 

 

 でもね。やっぱり、人間だもの。

 いろいろと葛藤する場面も、あるわけですよ。

 

 

「あなたは何のための小説を書いているの?」

 

 たまに聞こえる心の叫び。

 

 さて、どうしてでしょう。

 私の心の中の「アマサワセイジ」が自問自答してきます

 ↑このネタがわからない人は想像不要です。嫌な奴、嫌な奴、嫌な奴! とだけ思ってくれればそれで良し。

 

 

「会社で働くのが嫌なんでしょ?」

 

 ――はい。

 

「だったら、会社辞めればいいじゃん?」

 

 ――いや、自分にそんな勇気は……。

 

「だったら、書けよ」

 

 ――はい。

 

 

 今の職場が嫌で嫌で仕方がない。

 いつか物書きとして自分は食べているようになるんだ。

 現実からただただ逃げたいだけであれば、ひたすらに書き続けるしかありません。でも、現実は逃げません。再び、荒波に飛び込んでいくしかないのです。

 

 しかしだからこそ、小説を書きたい理由とは何か。それを明確にする必要があるのです。

 

 書籍化したい。

 文章書く仕事で食べていきたい。

 シナリオライターになりたい。

 印税で隠居したい。

 エトセトラエトセトラ。

 

 いや待て待て。そんな中途半端な理由だったでしょうか。

 それで終わりなの?

 だから、小説を書くのは何のため?

 

 好きなことしてお金を稼ぐ。そりゃあ、聞こえもいいでしょうね。

 

 だけどいつから自分は、中途半端になったのでしょうか。

 好きなものを書いていた自分はどこへ行ってしまったのだろう。

 人を感動させたいと思っていた自分はどこへ行ってしまったのだろう。

 

 いつの間にか、賞を獲りたいと言う気持ちだけで、打算的な文章を列挙していませんかね?

 

 

 今、心の中の自分に、

「あなたは真剣に文学と向かい合ってるの?」

 と問われて、

「はい」

 と自信持って頷くことが果たしてできるのか。

 

 

 これなんですよ。自分が最近、痛感していること。

 

 次の小説は「本気で賞を獲りに行くぞ」という気持ちを、どこか中途半端に、読みかけの新聞を部屋の中で投げっぱなしにしているような、そんな自分が片隅にいるわけです。

 

 そもそも好きなことこそ、きちんと向き合わなくてはいけないんじゃないの。

「自分の書きたい文章はこれだ!」って言い訳しておいて、夢を追いかける綺麗なままの自分を、ただただそこに羅列してるだけになっているんじゃないの。

 

 かと言って、読みかけの新聞を読み込んで、綺麗に畳んで、そのまま物語にするだけじゃ、ダメなんです。

 

 小説のネタとテーマなんて、そこらへんに余るほど転がっている。

 そのテーマをどこまで煮詰めていくのか。その煮詰める過程に、どんなドラマがあって、悩みがあって、葛藤があるのか。汚れるものは何か。汚すものは何か。

 

 そんな風に全身が泥にまみれて、しっかりと前を向いた先に見える微かな光が、自分の伝えたいもの――書きたいものなんじゃないの。

 

「綺麗ごとを盾にして、文章を雑に振りかざしているんじゃない!」

 

 と言う感じで、主人公の行く末を想像すると身体に戦慄が走り、瞳に涙がにじんでくるような、そんな自分の気持ちに相反するような物語を無意識に避けていないでしょうか。

 

 だからこそ。

 だからこそですよ。

 

「こんな話、絶対書きたくない……」と考えた重いテーマこそ、それに深く真剣に向き合い、繊細かつ緻密に書かないといけない。

 

 そんな作品こそが芸術であり、そんな人が作家なんじゃないでしょうか。

 

 なんて、偉そうに結論づけてみましたが、作家でもない阿呆な自分の意見です。

 自分勝手で適当なこと言ってすみませんでした(平謝り)。

 

 

 魅力のある小説ってなんだろう。

 

 

 魅力のある小説って、言葉では表現することのできない作者の想いが言葉の隅々に詰まっているのだけど、それを決して限られた言葉で伝えるのではなく、限られた日常に切り取られた普遍性が文字を通して誰かの感情を一つひとつ抜き取ってぐらつかせる不安定な構成で成り立っていると、そんな気がしてなりません。

 

 実に不安定。

 ぐらついた土台の上に織り重なったジェンガのようで、さらにブロックを引っこ抜いてぐらつかせる。私の心だって、不安定です。

 

 普遍性と言うのは、「テーマを与えて語る」のではなく、作者も読者もそのどちらもが、「テーマを紐解いていく」ものと私は解釈しています。だからこそ、不安定で、曖昧なものにならざるを得ないのかもしれません。

 

「純文学とは何か」って、しばしば論争になりますしね。明確な答えは、そこにないのです。

 

 物語を通じて浮かび上がってくるものは、一体、何なのか。

 それが作者も読者も共通して、ぼんやりと描かれてくるものこそが、普遍性たらしめるものなのかなと、そんなふうに考えています。

 

 数学で言うと、「逆・裏・対偶」みたいな感じで、異なる読者のすべてが、共通して持つ悩みや葛藤、ひいては成長を自身に当てはめていくような形なのではと、なんとなくですが、模索しています。

 

 ですので、自分が何を伝えたいのかは、あまり物語の中で多くを語りすぎず、読者の感性に委ねて、自ら思考させるものなのかなぁ。考えれば考えるほど、深淵は霧が洞窟の中へ吸い込まれていくように遠ざかっていき、消えていくのです。

 

 エンタメ性を持った爽快感も大事なのですが、作者も含めた読者に「記憶と感情と五感のすべてに寄り添うような気付き」を与えるような物語――これが魅力のある小説なのでしょうか。これは私が目指す小説の、一つの理想です。

 

 

 私の決意表明。

 

 

 今、公募用に執筆している長編が、2つあります。

 一つは、10年近く温めている純文学風の長編小説です。今はこちらの完成を目指しつつ、近々の公募に挑もうと思っております。

 もう片方については、あまり執筆が進んでいない状況ですが、こちらはこちらで更にテーマを掘り下げつつ、磨き上げています。

 

 あとは、短編小説も継続して執筆します。

 

 これは私の、決意表明。

 今年は更に「もう一歩」、いい功績が残せますように。