言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

あの海を越えても。

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あの海を越えても。

 

 神社で買った小さなお守りは、ひどく重かった。震える手で握り締めようとしたが、指に力が入らない。まるで磁石のような力に包まれているみたいだった。それとも、私の指が握り締めることを拒否しているのだろうか。

 

 五百円玉のお釣りを受け取り、踵(きびす)を返す。「ありがとうございましたー」という華奢(きゃしゃ)な巫女(みこ)の声が背中にぶつかる。その声に押されるように、速足で境内を駆けていく。桜が満開だ。靴のかかとが砂利を蹴り上げ、地面に散らばった花びらが舞い上がる。でも、その美しさに見とれている暇なんて、私にはない。

 

 もう息が切れてきた。うまく呼吸ができない。そもそも走るなんて、いつぶりだろう。胸を片手で押さえながら、腕時計を見る。

 

 

 もうすぐ、あなたは海の向こうへ旅立つ。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 子供の頃から、誰かと話すことが苦手で、臆病だった。指で触れた瞬間、とけて消えてしまうくらいの弱さ。まるで細い糸のような氷に囲まれた心。海に打ち寄せてくる穏やかな波ですら、逃げるような子供だった。

 

 会社の面接は、か細い声を絞り出しながら、なんとか通った。繊細で小さな心の私には似合わない、有名な大きな企業だった。私はそこで、ひっそりと事務の仕事をしていた。

 

 あなたに初めて出会ったのは、同期との親睦会。将来のなりたい自分とか、自分がやりたい仕事とか、キラキラした夢が桜の花びらのように舞い踊っていた。私は甘ったるくてジュースのようなカクテルで胸を潤しながら、黙ってみんなの言葉に耳を傾けていた。

 

 

「誰かと喋るのって、胸やけみたいなほろ酔いに、翻弄されるみたいだよな」

 

 

 突然、耳を貫いたあなたの低い声は、キラキラした言葉たちをまき散らす春一番のようだった。私もカクテルを片手に、頭から思考と記憶が吹き飛び、身体が固まっていた。

 

 何を話したのか、よく憶えていない。ただ、「今度、一緒に映画へ行こう」と約束した。

 

 初めて映画に行った日のことは、今でも忘れられない。デートなんて、それまで一度もしたこともなかった。精一杯のオシャレをして、顔をうつむかせたまま、あなたとの待ち合わせ場所へ向かった。

 

 あなたはよく笑い、よく喋る人だった。髪形をいつも気にする人で、よく左手の指先で眉毛にかかった髪の毛を払っていた。その仕草を見ることが、私は好きになった。背がとても高く、あなたの左肩に寄り添うと、よく私の耳に肩がぶつかって、少しだけ痛みを伴った。

 

 その時見た映画は、私が好きなアニメの新作。後ろで偶然、同期が同じ映画を見ていたらしい。気になって映画に集中できなかったと、あなたは恥ずかしそうに苦笑いしていた。一緒にお昼ご飯を食べていると、「海が見たい」とあなたは言った。

 

 海を眺めるあなたの横顔は、なんだか臆病で、繊細で、愛おしく感じた。海の中へ裸足で踏み出すように「付き合ってほしい」と告白した。この日を逃すと、あなたに二度と会えないと思った。気持ちが溢れて、止まらなかった。

 

「……こんな俺で、本当にいいの?」あなたは戸惑いながら左手で髪の毛を払い、微笑んでいた。その優しい声は、今でも忘れられない。

 

 初夏の風に潤う公園で、お互いの手作りお弁当を食べたこと。暑苦しい人混みの中で見上げた、清々しい夜空に弾ける花火たち。澄み渡った空に映えた色とりどりの紅葉。あなたはドライな性格で、二人で会うことは少なかったけど、二人で過ごす日々は、笑顔が途切れなかった。

 

 でも、ふとした瞬間、何かに吸い込まれていく気持ちがあった。はっきりとはわからない。遠慮、という言葉を使えば、しっくりくるかもしれない。

 

 なんでだろう。私はいつも、あなたの左肩に寄り添うしか出来なかった。

 

 

「付き合うって言葉が、もしかしたら、早すぎたのかもしれない」いつの日だったか、歯切れの悪い言葉を、あなたは呟いたことがあった。「たまに、会うことが義務のように感じる」

 

 

 違うと否定したかった。その言葉が、一線を越えようとする私の指先を鈍らせたことは、確かだった。

 

 クリスマスが近くなった冬のある日。一泊の旅行をしようとあなたが提案した。住んでいる街から少し離れた、秘境のような温泉宿。初めて、一夜を共に過ごす。そのことを想像して、私は心が浮き立つとともに、胸やけのような息苦しさに駆られた。

 

「これ、ちょっと早いクリスマスプレゼント」

 

 宿の部屋で赤ワインを飲んでいた時、私はサンタクロースの絵が描かれた包み紙を差し出した。あなたは丁寧に包み紙を開いた。

 

「絵本?」

 

「うん。手作り」

 

「そうなんだ。ありがとう」あなたは柔らかな表情を浮かべて、一言だけそう呟いた。

 

 夜は眠れなかった。いつもと違う枕に頬を埋めたまま横を向くと、あなたのいるベッドが、暗闇の中に見えた。

 

「起きてる?」私が囁くように尋ねると、「起きてるよ」と布ずれの音と一緒に、あなたの声が聞こえた。

 

 沈黙の呼吸がいつまでも、じりじりと胸を焦がした。時計の針が何も進まない時を刻んでいた。気づけば、うっすらと明るくなった窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえてきた。

 

 

「一線を引くって言うの? 友達から、恋人に昇格するのはいいんだけど。逆に、どうしていいか、わからなくなった。俺はそんなのに縛られたくなかった」

 

 

 別れる間際、あなたは言った。

 

 じゃあ、どうしたら良かったのだろう。好きな気持ちを伝えなければ良かったの? それが正しかったの?

 

 私は、あなたと離れたくなかった。ただそれだけ。すれ違っていたわけではない。私とあなたの距離が、いつも等間隔だっただけ。あの夜を境に、等間隔だった私とあなたの間に、何かが見えるようになった。

 

 キスどころか、手をつなぐことすらしないまま、私たちの関係は終わりを告げた。涙は、出なかった。

 

 それから一年が経った。私に元気でハキハキと喋る後輩が出来て、ようやく事務の仕事に慣れてきた頃だった。

 

 

『仕事辞めて、海外へ行くことになった』

 

 

 あなたからのメールは、三度も見直した。海外って、どういうこと。何の想像も沸かなかった。

 

 言葉すら、出てこなかった。返信も打てず、ただ茫然としていると、『映画、見に行かない?』とあなたは提案してきた。

 

 最後に二人で見た映画は、高校生の男女が変えようのない運命に抗いながらも、やがては結ばれる話だった。私とあなたの関係とは、まるで逆。いや、逆でもない。私たちには既に、変えようのない結末が既にあったのだから。

 

 映画の最中、ポップコーンを摘まむフリをして、何度もあなたの横顔を見上げた。あなたに気づかれないように。あなたの髪は、短く綺麗に切り揃えられていた。

 

 もし抗えない運命が先に訪れていたら、私はそれを乗り越えることができた? わからない。私たちは、お互いの距離が別(わか)たれてしまってから、抗えない運命を突きつけられた。いや、そう思っているのは、たぶん、私だけ。

 

 

 あなたはきっと、最初から決めていた。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 空港に着いた。買ったばかりのお守りを握り締めたまま、彼の姿を探す。

 

 スマホを手に持った彼は、私の姿に気づいて手を振っていた。荷物は右肩に掛けた小さなカバンだけ。まるですぐ隣の町へ、ちょっとした打ち合わせへ行くみたい。

 

 胸に手のひらを添えて呼吸を整え、彼のそばへ駆け寄る。

 

「ごめん。遅くなって」

 

「まだ時間はある」

 

 うん、と声を出さずに私は頷く。

 

「最後に……」彼は恥ずかしそうに頭をかく。「手でもつなぐ?」

 

 突然の提案に少し戸惑う。一度も握ることができなかった彼の手が、すぐ目の前にある。「うん」と声を絞り出し、お守りが握られていない方の手を差し出す。彼は一瞬、「え」という顔をしながらも、右手を差し出す。私はその手を握りしめ、彼の右肩に寄り添う。

 

 握り締めた手は、春の日差しのように温かかった。息を軽く吸って、身体に木漏れ日のような空気を取り込んでみる。心臓の鼓動が、だんだんと落ち着いていく。

 

 相変わらず、背が高い。肩にかかったカバン越しに、彼の顔を見上げる。手は繋いでいたけど、少し距離がある。心が、少しだけ痛む。

 

 もう、遅いよ。喉の奥でようやく呑み込んだ言葉は、肺の熱でとけて、滴となって腹の底へ落ちていく。

 

 たくさんの飛行機が窓から見える。この中のひとつが、彼を海の彼方へ連れていく。

 

「日本から出たら、おにぎりが食べたくなるんだろうなぁ。向こうにあるかな」

 

「公園で一緒に食べたことがあったよね。私、うまく三角に握れなくて、ほとんど四角いおにぎりだったけど」

 

「俺の方が上手だったよな」

 

「そうだね」

 

 手をつないだまま、私たちは過ぎ去った想い出に笑い合う。不思議だよね。別れた後に、話が止まらないのって。甘い想い出を吐き出す度に、こんなにも胸がドキドキするのって。

 

 時計の針が動き、私たちの時間を止める。

 

「これ」

 

 私はつないでいた手を放し、握り締めていたお守りを渡す。

 

「身体に気をつけて。元気でね」

 

「ありがとう。これは、すごく嬉しいよ」

 

 彼があの時と同じ声で微笑む。

 

「じゃあ」と言って、彼はお守りを握り締めた手を上げる。

 

「じゃあ」と言って、私は手を小さく振り返す。

 

 

 ◇

 

 

 飛行機が離陸していく。一筋の雲を残して、飛行機が厚い雲の彼方へ吸い込まれていく。駅を駆け抜ける春の風はまだ冷たく、頬を切り裂いていく。涙は、流れない。

 

 きっと私は、臆病な自分を胸にしまい込んだまま、あなたと過ごせば良かったのかもしれない。だけどあの日、あなたが臆病な私を見つけ出してくれたことは、変わることのない事実。

 

 もし私が、あなたと一緒にあの海を越えても、あの頃に戻れないことには、変わりない。それでも私は、あの夜、あなたに抱きしめて欲しかったと後悔している。この後悔だけは吐き出さずに、左手に残った温もりと一緒に、胸の奥へしまっておく。

 

 あなたも、きっと、その気持ちをどこかに大事にしまっているよね。

 

 

 そういうことに、しておく。