僕は写真を撮ることが日常だった。でも、拓哉の何気ない一言で、その日常が曇り始める。
そんな中、高校の修学旅行が迫っていた。行先は東京。いつもと違う日常に、挨拶すらしたことがないクラスメート・月浦水奈という存在が紛れ込むことで、僕らの非日常が回り出していく。
水奈に対して初めて感じる高揚感と切なさを、僕は打ち消すことが出来ないでいた。
だけど、僕にとっての水奈は非日常であって、いつもそばにいるわけではない。修学旅行も、一時の思い出に過ぎない。僕には僕の日常があって、彼女には彼女の日常がある。
日常を切り取ること。日常を駆け抜けること。置き去りになった時間と追い求める時間が交わるとき、僕らは何かを残していることに気が付く。
「私たちは悲しいことや不幸なことを遠ざけて、目の前にある幸せを求めて生きている。走った後の道には戻りたくない。あの時、撮った写真の瞬間には、二度と戻れない。この手からすり抜けていくような幸せなんて、永遠に手に入らないとわかっているくせに、つまらない日常ですら嫌っている。」
スカイ・ノット・ツリー
東京モノレールの天王洲(てんのうず)アイル駅を出てふ頭へ歩いていくと、潮風が真正面から吹き抜けてきた。カモメらしき白い鳥が太陽の日差しを縫うようにして、空を追い越していく。足元ではちゃぷちゃぷと、波の跳ねる音がした。
東京って、海の街だったんだ。そのことに僕は初めて気付き、大きく息を吸い込んだ。
「あー、海の匂いがするー」
隣では月浦水奈(つきうらみな)が両腕を伸ばし、うーんと背伸びをしている。東京湾を駆け抜けてくる風に、肩まで伸びた栗色の髪が棚引いている。小さな耳が髪の隙間からチラリと覗いている。
水奈はクラスメートだ。でも、教室では話をしたことはおろか、「おはよう」の挨拶すらしたことがない。と言うか、高校生になって、女の子と二人きりになることですら、僕には初めてのことだった。
首にぶら下げた小型のミラーレスカメラを、顔の前へ持ち上げる。片目を閉じ、ファインダーを覗き込む。空を縫うようにしてそびえ立つ、大きな吊り橋が目に飛び込んできた。
これがレインボーブリッジ。
レンズを通して見る世界の片隅に、空を突き刺す直線のようなスカイツリーが見えた。この構図は、都会っぽい。胸が躍った。
やっぱり、一眼レフ持ってくれば良かったな。踊る胸に、少しばかりの後悔が混ざる。でも、中古の型落ちとはいえ、最近、父に無理言って買ってもらったばかりのカメラを、窮屈なボストンバッグへ入れて持ち運ぶ。それを想像すると、やっぱりミラーレスでも仕方ないかと思う。
「あれが、レインボーブリッジ?」水奈が不満そうな声を上げる。「レインボーって名前がついてるくせに、虹のような色はしていないんだね。暗くて、無機質って感じ」
水奈は波打ち際にしゃがみ込み、唇を尖らせている。まるで約束を破られてすねる子供のようだった。その言葉には小さなトゲがあるみたいで、胸がチクリと痛んだ。
僕はカメラをおろし、水奈を横目で見下ろした。まつ毛は長く、目はぱっちり、鼻立ちも良い。何度見ても、クラスの中では結構可愛くて、綺麗な女の子だと思う。おまけに同級生の男子からは、人気が高いともっぱらの噂だ。
そんな高校生活のヒロインみたいな彼女と、どうして今、二人きりになっているのか。本当なら、この状況は喜ばしいことなのに、困惑していた。
「公平(こうへい)の写真って、なんか暗いよな。おまけに、無機質って言うの? 味がない」
数日前、拓哉(たくや)の口から飛び出た一言には、僕の肺に埃を被せるようなざわつきがこびりついていた。
「え、そ、そう?」
思わず、むせてしまうほどだった。その時、僕と拓哉は、夏休みに撮った写真を一枚ずつ見返していた。休みの間、街の歴史ある鉄橋や市役所の建物、道の駅などを写真に収めていた。
発端は拓哉が突然、カメラに興味を持ち出したこと。理由を尋ねると、彼女との写真を綺麗に撮ってほしいから。
だけど、評価はどうやら、赤点。
どのへんが暗いのか、いまいちわからなかった。どれだって、天気の良い日に撮っているし、一応、絞りとかシャッタースピードとか、そういう専門的なことは気にしている。
もしかしたら、自分の街だからかもしれない。十七年も住んだ街に新鮮味など、最早あるはずもない。動物園くらいしか有名ではないこの街を出て、都会に移り住みたい。いつしか、そんな展望が心に影を生み、カメラのファインダーにも現れていたのかもしれない。
修学旅行の行き先が東京だと先生から聞いた時は、思わず机の下でガッツポーズを取った。新しいものを撮れば、何かが変わると思った。
「さてはこっそり、写真を撮ろうしているでしょう。私も混ぜてよ」
机の上に大学ノートを広げ、スマホで東京の地図を見ながら撮影スポットを模索していた。すると、からかうような声が後ろから聞こえてきたのだ。驚いて振り向くと、ニヤニヤしながら顔をした水奈が立っていた。
彼女は僕と拓哉の会話をこっそり聞いていたらしい。いわく、この計画のことは黙っててあげる。だから、私も一緒に駆け落ちさせろ。
駆け落ちの意味が違う。と思いながらも、突然、クラスでとびきり可愛い女子から、そんな提案をされたら、内気な男子は頷いてしまうしかない。加えて、有無を言わさない強引さが水奈にはあった。気がついたら僕は、モノレールの中で彼女と視線で合図をし、一緒にこっそりと天王洲アイル駅のホームへ飛び出したというわけだ。
ポンポンと、とぼけた音がしてきたので、僕は東京湾の真ん中へ視線を向けた。屋形船がちょうど目の前を横切っていく。後ろ波が水面に映る空の景色を濁らせ、風とともにゆっくりと広がっていく。
ポケットでスマホが震えた。きっと、拓哉だ。さっき、『お前、どこにいる?』とメッセージが来ていた。僕は『16時に浅草で合流する』とだけ返信して、放置していた。
「また、拓哉君?」
「うん。僕がいないことに、たぶん、怒ってる」
「まぁ、当たり前だよね。私のスマホにもさっき、佳乃(よしの)からライン来てた。私は返信すらしてないんだけど。きっと大騒ぎかも。二人がいなーいって」
水奈はくすぐったそうに笑い声を上げている。まるで他人事のようだ。
「でも、グループ違うし、お互い、話もしたことないし、一緒にいることは、気づいてないかも」
「それは、あるかも」
なんだか、すごく悪いことをしている気がした。先生に報告される前に戻ろうかな。カメラをケースへしまおうと鞄に手を突っ込むんでいると、目の前に水奈の顔があった。
「うわっ」
あまりにも近くだったので、思わず後退った。彼女はそんなことを気にする様子もなく、「ねぇ」と首を傾げる。
「ここからスカイツリーまで、どのくらいなんだろう」
鞄に手を突っ込んだまま、高層ビルの隙間から見える線のようなものを目線で示す。彼女は「他に何があるのさ」とため息をついている。
「あそこまで歩けないかな」
「はぁ?」声が上ずってしまい、拍子にカメラを落としそうになった。「いや、さすがに無理でしょ。結構、距離がありそうだよ」
「公平君、男のくせに、体力ないんだねぇ」彼女はバカにするように笑う。「これくらい余裕だよ。陸上では、一日に二十キロ走るなんて、日常茶飯事だよ」
水奈は陸上部だった。そう言えば、地区大会の選手に選ばれるくらいの実力を持っていたはずだ。夏休み前、壮行会で選手宣誓を述べていたことを思い出した。
走ることは大嫌いだ。でも、「男のくせに」なんて。その言葉が、うっかり飲み込んでしまった魚の小骨のように、胸の隙間で引っかかる。
「……なんで、歩きたいのさ」
「歩くのが好きだから」
「スカイツリーまで行く理由は?」
「そらまちの、カフェへ行きたい」
「……。それだけ?」
「それだけ。公平君は修学旅行の目的を達成したじゃん。レインボーブリッジ、写真に撮ったでしょう?」
確かに、水奈がいたから勢いでここへ来れた気持ちも、少なからずあった。何も言い返せずにいると、彼女は既に波止場をすたすたと歩き始めている。肩越しに振り返りながら、
「どうせ、浅草まで行くんでしょ? いいじゃない。見知らぬ土地の冒険、って感じで」
桃色の唇がにっと悪戯っぽく曲がる。季節外れの桜が咲くような笑顔だった。
*****
カラっとした秋晴れの空が、僕らを包み込んでいる。背比べをするように立ち並ぶ高層ビルたち。その隙間をすり抜けるように歩いていく。足がアスファルトの歩道を踏みしめるほど、波と風の音が小さくなっていた。代わりに自動車が道路を蹴り上げていく音、どこかで空き缶が踏みつぶされる音、トラックが灰色の埃を巻き上げるような呼吸音に囲まれるようになった。砂混じりの空気に、少しだけ喉が痛くなる。
狭い歩道の向こうに、スカイツリーの先っぽが見えた。さっきから全然、距離が変わっていないような気がした。
歩くのは嫌いじゃない。でも、僕には僕のやるべきことがあったはずなのに。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。盛大にため息をつきながら、前を歩く水奈へ恨めしい気持ちをぶつける。それに気付いたのか、彼女は振り返り、後ろ向きに歩き始めた。
「公平君は、写真を撮りたいと思ったキッカケって、なんなの?」
「覚えてない」
「何を撮るのが好きなの?」
「橋とか」
「橋マニアってこと?」
「違うよ」僕は語気を少し荒げる。「大学。建設系に進むんだ。将来は、橋の設計がしたい」
「あー。要するに、写真を撮ることで、己を鼓舞する的な?」
「うーん……」
それは、よくわからない。果たして僕が写真を撮ることに意味はあるのか。「そうだよ」って胸を張り、写真を撮ることが好きだって、そう言えばいい。だけどその気持ちが、今は空気が漏れた風船のようにしぼんでしまっている。
「そういうの、大事だよね」
水奈は勝手に自己完結をして、再び前を向いた。少しだけ歩くのが速くなったので、慌てて後を追う。横に並ぶと、彼女はきりっと唇を結びながら、姿勢を真っ直ぐにして前を向き、黙々と歩いている。
陸上をやってる水奈は、己を鼓舞することがあるのかな。いまいち想像できない。少しだけ気になったので、そのことを聞こうと言葉を選んでいると、
「刹那的に生きることって、意味があると思う?」
彼女の方が唐突に質問をしてきた。
「え。なにそれ。どういう意味?」
「今の私たちみたいな感じ。ふらっとみんなから離れて、自分勝手な行動を取るみたいな」
「生きることの意味とか、考えたことないけど。って言うか、今日の行動に関しては、僕、修学旅行の前から計画してたことだし。刹那的じゃないし」
僕は「これだよ、これ」とカメラを水奈へ押し付けるようにかざしてみる。
「私たちが生まれる前の話なんだけど。オリンピックで金メダルをとった陸上の選手がいてね。その人、大会の前には、走るコースをとりあえず、歩いてみるんだって」
この子は僕の話を聞いてるのか。少しだけ心にモヤモヤを抱えたまま、水奈の話に耳を傾ける。
「私ってさ。やりたいと思ったことは、真っ先にやりたい派なんだ。明日がどうなるかなんて、わかんないし」
「さっきから、何が言いたいのか、よくわからないんだけど……」
「初めて、喧嘩したっぽい」
水奈が忘れてしまったことを思い出すように、小さな声で呟く。
「誰と? 同じクラスの友達? もしかして、彼氏?」
ううん、と水奈が首を振る。「違う高校。中学校の頃からの親友」
「どうして喧嘩したの?」
「その子はギターが趣味でね。有名な人の曲をカバーしたりしてて、歌がうまいんだ。声もハスキーボイスって言うの? 綺麗だし。最近、自分でも歌を作り始めているんだけどね。それがお世辞にもならないくらい、全然いい曲じゃなくて……」言葉を切り、水奈はまだ遠くにあるスカイツリーを見上げた。「つい、言っちゃったんだ。カバー歌ってる方が似合ってるよって」
ピリッとした空気が漂う。息を吸い込むと、舌の上にもそれが滑り込んできて、喉の奥がヒリヒリと熱くなる。
なるほど。僕と一緒に行動しようと思った水奈の気持ちと、その親友の気持ちが混ざり合って、なんだか複雑な気持ちになる。
「僕、写真を撮ること、好きだけど……」そっとカメラを撫でる。「例えば、有名な写真家がこうやって写真撮ればいいって教えてくれたとしても、それ、真似したくないな」
「なんで?」
「自分がやったことに後悔したくないんだ。やりたいと思ったことは、試行錯誤しながら、自分でやりたい派なんだよ」別に水奈へ宣戦布告するわけではないけど、僕も派という言葉を使ってみる。「だから、満足する写真を撮るまでは、自分なりのやり方を見つけたい」
「あー! 大変。あの飛行機がもしかしたら、私たち目がけて落ちてくるかもしれない! ほら」
水奈が突然、空の上を指差しながら叫ぶ。見上げると同時に、飛行機のエンジン音が空から落ちてきた。結構近い。飛行機は僕らが歩いてきた道の方へ徐々に高度を下げていった。
「と、とにかくさ」僕は耳に残る飛行機の余韻を振り払うように語気を強める。「その親友は、自分の曲を作って、自分の足跡をつけようとしたんじゃないの?」
「足跡、ねぇ」
足元からコツコツと何かのぶつかる音が聞こえた。どうやら水奈が靴の踵を引きずりながら歩いているようだ。
「走るの、好きなんでしょ? それこそ、己を鼓舞してるんじゃないの?」
「別に、そんなんじゃない。走ることに集中したいし、何も考えたくないだけ。公平君だって、写真撮る時は意識を集中させてるじゃん。だから結局、今の現実を見ないフリして、逃げてるだけなんじゃないの?」
水奈の言葉はさっきから、心臓に突き刺さってくる。僕は何も考えていないわけじゃない。確かに、写真を撮っていたら、いつの間にか時間が過ぎていることがある。だから、全力で生きているかどうか聞かれると、よくわからなくなる。言葉に詰まる。
「とりあえず、目標があれば、それでいいんだよ。人生は、そういう積み重ねでしょう?」
なんだか負けたような気分になったので、適当にそれっぽいことを言ってみる。果たして本当にそうなのだろうかと、言ってみてから疑問が湧き出てくる。
「そうかもね。そういうことにしておく」
水奈は口を尖らせながら言葉を切る。その声には納得の気持ちなんて、含まれていないんだろうなと思った。
*****
秋葉原まで着いたところで、僕は人混みに紛れて置いてあったベンチへ座り込んだ。
身体を沈み込ませ、空を眺めると、ビルの隙間からスカイツリーが見えた。一本の線にしか感じられなかったそれは、鉄骨の一本一本を確認できるところまで近づいていた。潮の香りはもうとっくにしなかった。
「疲れた……」
膝を撫でながら、疲労を吐き出す。たくさんの人が目の前を通り過ぎていく。頭の上から、電車の跨線橋を走る音が振動と一緒に崩れ落ちてきた。
「はい。私のおごり」
後ろから水奈の声がしたので、振り返った。彼女の手の平には、たこ焼きの箱が乗っかっていた。お腹がぐうと鳴る。そういえば、お昼ごはんを食べていないことに気が付いた。水奈は涼しい顔をしている。長距離選手って言うのは、本当に疲れないんだな。
「ありがと」
僕はつまようじを突き刺し、口の中へたこ焼きを放り込んだ。そのとたん、予期せぬ甘味が口いっぱいに広がった。
「あまっ。なにこれ!」
「ふふふ。あははは。騙されたぁ!」
水奈はベンチの端っこに飛び乗り、お腹を抱えて笑っている。脚をバタバタさせ、肩を大きく震わせている。目尻には涙がたまっていた。
唇の端っこから飛び出た何かを手の甲で拭う。黄色いクリーム。カスタードか。
「駅の近くに売ってたの。見た目、たこ焼き。中身はシュークリーム。まんまと騙されたね。買った甲斐があったー」
今日は水奈の刹那主義なるものを、嫌と言うほど味わった気がする。彼女は普通の生活なんて求めていないんだ。いつも全力で、違う味を求めている。
水奈もたこ焼き風シュークリームを指で掴んで、舌の上へ放り込む。「うん、確かに甘い」と口をもごもご動かしている。
「私ね。歩きながら考えてたの」シュークリームを飲み込んだ後、水奈はぽつりぽつりと、雨が降り始めたように言葉を落とす。「こうやって、東京の街を、しっかりと目に焼き付けて、味わいたかったんだよね」
「どういうこと?」
「いろいろありすぎるの。女子ってさ」ぷいとすました表情をしながら、水奈が言う。「ここは逆に、ゆったりしてる。このがやがやした感じが、頭の中、静かにさせるの」
なんとなく、共感する。確かに、修学旅行へ来る前の僕も同じだった。毎日が落ち着きすぎていて、逆になんだか目まぐるしかった。住み慣れた街では、新しい写真なんて撮れない。その諦めを無理やりに押し込めながらも、はやる気持ちでシャッターを切り、過去のアルバムへしまい込んでいた。
共感してみると、水奈が走っているときに見る世界は、一体どんな景色なんだろうと、想像したくなった。彼女は彼女なりの悩みがあるし、それをどこかへ押し込めるよう場所を探していたのかもしれない。
水奈は首を曲げ、目と鼻の先にあるスカイツリーを見上げている。その瞳は透明で、宝石のように輝いている。桜色の唇はうっすらと開き、小さな吐息を溢している。滑らかな栗色の髪が、音も立てず風に揺れる。
いい表情。
気付いたら、僕はカメラのファインダーを覗き込み、シャッターを切っていた。理由はわからない。彼女が見つめる視線の先を、切り取っておかなければならないと衝動的に感じた。
不思議だった。僕や水奈が見る景色に違いがあることは誰にもわからない。そのことが当たり前すぎるから、気付きもしない。ただ、水奈の見る世界を知りたい。そんな気持ちが僕にあったなんて。
「何。私に見とれたの?」
水奈がくすぐったそうに微笑みながら、シュークリームをもう一つ、口の中へ放り込む。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
ん、とシュークリームを頬張りながら、水奈が手を差し出してくる。僕は恥ずかしいなと思いつつも、カメラのディスプレイを彼女に向けた。
「……へぇ。私って、こんないい表情するんだね」
「カメラの腕が良いって言ってくれない?」
「被写体が良いんでしょう」
「自分で言うセリフ……?」
僕は呆れながらも、なんとなく身体の底に心地良さを覚えた。胸が温かくなると言うのだろうか。こんな気持ちは初めてだった。たぶん、疲れた身体に糖分を摂取したせいだと言い聞かせる。
「……私ね。思ったんだけど」水奈はゆっくりとスカイツリーへ視線を上げながら、僕にカメラを返す。「非日常は、日常に勝てないんだよ」
「どういうこと?」
「今は修学旅行に来てるけどさ。これって、日常があるから、いいなって思えるわけじゃない?」
うん、と僕は頷く。
「なんとなく解放感があって、なんでもできる気がするよね。でも、やっぱりそれは勘違いで、いつも考えてることと、同じことしか考えない気がする。どこまで歩いても、いつもとおんなじ。おんなじだから、やっぱりいつもの日常が大切なんだなって、なんとなくわかった」
「あぁ、そっか」無意識に声が出ていた。「だから、僕は写真を撮るのかも」
頬がチクチクする。水奈の強い視線を感じた。
「その日常の中で、僕らが歩いてきた足跡を思い出すって言うかさ」
僕は指先で頭を掻く。身体がむずむずしてきて、今の気持ちが、うまく言葉にできない。
「さっき言ってた、刹那的な生き方。その意味をあれこれ考えるより、慣れないことにどんどん挑戦した方がいいんだよ。このシュークリームだって、甘いってわかってたら、もう驚かないし。今日だって、こうしてたくさん歩いてきて、足はガクガクするけど、最後まで歩こうって思ってる。特別なことってさ、どっかに置き忘れるなんてことは、きっとないんだよ」
ようやく自分の言葉がなんとか飛び出している気がする。たまに違う写真を撮ってみてわかった。僕らに日常と非日常が交互にやってきても、そこに新しく線は引かない。特別を味わって、いつも通りの自分が進んでいくだけだ。
「えっと、だからさ。喧嘩した親友と、仲直りできるよ。たぶん」
「……うん」水奈がまつ毛を伏せ、微笑む。「私、いっつもがむしゃらに走ってるだけだったなぁ。でも、その先にはやっぱり、ちっぽけな日常が待ってる。大事なのは、その場所から何を見上げるかってことだね。そうやって、私たちの特別が、いつもの日常に変わってく。日常を飛び越える、って感じでさ。あ、私、今、いいこと言ってない?」
水奈が自慢気な横顔を見せるから、思わず噴き出した。彼女もぷっと笑い声をこぼす。
「電車にでも、乗ろっか」
「え? いいの?」
「東京って、地面が固くてダメだ」彼女は踵をアスファルトへトントンと押し付ける。「それにホラ、満員電車って言うのも、経験してみたいし」
突然の提案に、僕はホッとした。同時に、胸やけしたときのような息苦しさが、お腹に張り付いて離れなかった。たぶん、糖分を摂取したせいだ。再び言い聞かせる。
駅で浅草までの切符を買い、ホームへ向かった。ビジネスマンや大学生やら、たくさんの人たちで溢れ返っていた。平日だと言うに、東京の駅はこんなにも混むのか。
これならやっぱり、ゆっくり歩いて行った方が良かったかも。そう思いながら水奈の方を振り向くと、彼女の身体が急いで歩いていた男性とぶつかり、よろめいた。
「危ない」
僕は水奈の手首をとっさに掴んで、抱き寄せるように引っ張った。
「あ、ありがと」
ふわりと舞い上がった髪の毛から、いい匂いがした。少しだけ、どきどきした。女の子を抱き寄せたのは、初めてだったから。
絵に描いたような満員電車が慌ただしくホームへ滑り込んできた。ドアが開き、僕と水奈の身体をかき分けながら、たくさんの人たちが降りてくる。それでも中はぎゅうぎゅうで、ようやく僕一人が乗り込めるような隙間があるだけだった。
「先に行ってて。あとから行くから。さっき言ったカフェで集合」
水奈の声が、扉の閉まる音と一緒に聞こえた。僕は彼女の顔を見つめながら、大きく頷いた。
*****
そらまちカフェは、スカイツリーのふもとにあった。水奈が言っていた店の前に立ち、中を覗き込む。
小綺麗な棚の上に、カップやソーサー、フォークやスプーンなどが並べられていた。入口に小さな看板があって、『本日のおススメ』と手書きでメニュー表が描かれていた。
「公平!」
不意に背中を叩かれて、僕は肩が飛び上がった。振り返ると、拓哉が立っていた。
「なんでここに?」
「こっちのセリフだ」拓哉が肩をすくめる。「お前、写真好きだし。東京来たら、スカイツリー絶対撮るだろうなって、待ってた」
目をそらしながら言い訳を考えていると、ちょうど向かい側の扉から、水奈の姿が見えた。彼女の唇が「あ」という形になる。
顔が熱くなった。今は拓哉がいる。水奈に話しかけられたら、なんだか気まずい。できれば、声をかけてほしくない。なんて考えていたら、彼女の後ろに黒髪や茶色の髪の女子が見えた。
あ、と思ったときには、水奈はきりっと唇を結びながら、僕に気付かなかった様子で素通りしていく。
「このカフェ、スマホで調べたんだけどさ、おいしいらしいよ」
「そうなんだー。まぁ東京だし、味も違うんだろうなぁ」
すぐ横から、いつもの教室で聞くような女子の会話が聞こえてきて、僕はようやく思い出した。
僕と水奈は、挨拶すらしたこともないクラスメート。修学旅行で、仲の良い友達とグループを作って、東京へ来ているのだ。僕は彼女へ会いに来たわけではないし、彼女もまた、僕へ会いに来たわけでもない。僕の日常は、彼女の日常に干渉しない。
今日の出来事がまるで日常だったと勘違いするのは、気のせいだ。この感覚は、いつしか忘れていく。虹のようにつかみどころが無くて、無機質で、それこそ錯覚のように。
「今の月浦たちか。相変わらず、リア充だよな、あいつら。……公平、どうしたんだ? ぼーっとしてよ。そろそろホテルへ向かわないと、集合時間、間に合わないぞ」
「……うん」
僕と拓哉はカフェを離れ、スカイツリーの撮影スポットがある通りへ出た。
「公平、写真、撮ってくれよ」
はしゃぐ拓哉に促され、僕はカメラを構え、ファインダーを覗き込む。スカイツリーは近すぎて、てっぺんが見えなかった。シャッターを切ると、身体がよろけた。
「なかなかいい写真、撮れたんじゃね?」拓哉がカメラのディスプレイを覗き込む。「なんか、ザ・東京って感じだな。これだろ? 公平の撮りたかった都会の写真って」
違う。スカイツリーじゃない。僕が本当に撮りたかったのは――。
拓哉は背を向け、スマホを操作している。ホテルまでの道を検索しているのだろう。僕は今撮った写真を確認するふりをして、水奈の写真をこっそりと眺める。
――私って、こんないい顔するんだね。
あの瞬間、水奈の見ていた世界が、僕の手の平に収まっていた。
これこそ、自分の納得がいく写真だ。過去最高。少しだけ、目頭が熱くなる。感極まるとは、こういう感じか。
空を見上げる。
近すぎるっていうのは、こんなにも高くて、遠い。背伸びしても、何も変わらない。レインボーブリッジの前から見たスカイツリーの方が、この手に届きそうな気がした。
いや。僕らの空に、スカイツリーはなくてもいい。
この修学旅行が終わったら、教室で「月浦さん、おはよう」と声を掛けよう。その後に、二人で笑いながら、過去になった修学旅行を語ればいい。それがきっと、僕らの日常になるはずだから。
日常は、非日常に勝てるから。