言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

理系コンストラクション【第2号 非破壊レーザーに死角なし⑤】

f:id:hinata_manabe:20200715070329j:plain

 

 

 

5.彼女の世界に死角なし

 

   

 液晶画面に表示された波形は、赤や黄、青の色彩がくっきりと映えていて、うっとりするほどに綺麗だった。

 

 キリリリ、と河原の方から不思議な鳴き声が聞こえた。なんて鳥だろう。頭にそんな考えがよぎったけど、私は新しいレーダー探査機に目を奪われていた。

 

 前まで研究室で持っていた古い機械はモノクロだったから、ついに新しい時代へ、足を一歩踏み入れたようだ。

 

「すご。科学の進歩って、素晴らしい。ICT革命だよ」私は思わず、感嘆の声を上げた。「ほら、男ども。見てみな」

 

 短チャープ式レーダー探査機は、反射してくるレーザーの周波数の違いによって,土の材料や空洞があるかどうかを判断する。

 

「深いところ、途中で、波形が違ってますね。なんですか、これ? こんな下に空洞があるってことですか?」

 

「泥炭(でいたん)だよ」

 

「デイタン?」

 

 私は背負ったリュックの中から、コピーしてきた岩川旧堤防の図面を取り出した。元の図面は相当古い時代のもので、手書きでいろいろと文字が描かれていた。まるで古文書のようだった。

 

「ほら、ぴったりだ」

 

 図面に描かれた土質構成と、探査機に描かれた波形の深さが、ぴったり一致した。

堤防内の構造が、手に取るようにわかる。検出能力が遥かに向上している。

 

「へぇ、すごい」

 

 と、いつの間にか隣に肩を寄せていた音絵が呟く。

 

 北海道の堤防は、泥炭と言う柔らかない土の上に堤防を作ることが多い。泥炭とは寒い地方特有の土で、冬に枯れた草木が腐らないまま、一万年以上堆積した土の慣れの果てだ。水分が多く、沈みやすい。当然、その上に堤防を作ると、土の重みで沈んでいく。このため、堤防は常に新しい土を盛っては沈み、また盛ってを繰り返しながら今の形を維持する。

 

「ん?」

 

 時代の流れによって、堤防は様々な土が混ざり合い、非常に複雑な構造となる。だからこそ、違和感を見つけるのは難しい。けれど私はなんとなく、探査機が示す波形に違和感を覚えた。

 

「どうしたの?」

 

 音絵が顔を近づける。

 

「いや。気のせいかなぁ。ちょっとだけ、波形が……」線が微かに乱れたようなところを指差す。「うーん。なんかよくわからないな。なんだろう、これ」

 

「あ」

 

 音絵が何かに気付いたように、声を上げた。その小さな顎に指を添えて、何やら考え込んでいる。耳元の黒髪が風にからかわれるように舞い、頬をくすぐっている。

 

「……これ、水みち」

 

「え?」

 

「空洞じゃない? これ」

 

 このアルゴリズムは、他の地層のコンター図と違う。とかなんとか、ぶつぶつと言いながら、音絵は周囲を見渡す。

 

「根の場合は、双曲線反応の他に、強い乱れが生まれる。深くまで反応。対して、空洞は白色で、局所的」

 

 彼女は軽やかな小鹿のように身を翻し、オオイタドリが繁茂している堤防の斜面を下っていく。

 

「あ、ちょっと」

 

 あとを追うようにして、堤防の肩まで駆け寄る。音絵は既に斜面の麓でしゃがみ込み、オオイタドリの根本をごそごそとかけ分けている。

 

「……あった」音絵の動きが止まる。「パイピングのあと」

 

「パイピング? って、もしかして……」

 

 高橋が怪訝そうな顔をしている。

 

「噴砂のあと。砂に水が流れた痕跡のことだね。要は、水みちだ」

 

「水みちがあると、堤防、やばいんですか?」

 

「さっき。車の中でも話したでしょう? 浸透破壊だよ」

 

 高橋の質問に答えながら、私も堤防の斜面を下り、音絵の元へ近づく。少しだけ泥にまみれた彼女の指の先を見ると、なるほど、確かにクレーターのような穴がぽっかりと空いていた。

 

「この波形じゃ、僕でも見落とすよ」東畑助教の呻くような声が聞こえてきた。「噂には聞いていたけど、琴葉さん。やっぱり、すごいんだね」

 

「先に気づいたのは、葵です」音絵が凛とした声で呟く。「……ちょっと、掘ってみる」

 

「え? 勝手に? 大学の持ち物とは言え、仮にも堤防だよ」と私が声を上げると、

 

「許可は、取ってある」

 

 音絵がにこりと笑い、背中のリュックからクリアファイルに挟まった一枚の紙を取り出した。

 

 仁先生のサインだ。

 

 探査の結果、堤防に異物が認められた場合、研究の一環として、堤防の一部を掘削することを許可する。

 

「用意周到、ってわけか」

 

 素直に感心する。この子はいつも、常に先を見て物事を考えている。

 

「すぐに、成果。出せるでしょう?」

 

 悪戯っぽい微笑みが、彼女の口元からこぼれ落ちる。その笑顔は私が放つサーブよりも破壊的だった。

 

 これだよ、これ。こういう素をもっと、通常運転で出しやがれ。すぐに彼氏もできるぞ、このかたい女!

 

 という心の叫びを胸に押し込めながら、私は堤防の上に突っ立っている高橋と溝内を見上げる。

 

「男ども。ここ掘れ、ワンワン」

 

 二人は目を丸くして不満な声を上げている。やがて車から取り出したスコップを片手に、渋々と堤防の下まで降りてきた。

 

「ちなみに、本物の堤防を決壊させて、建物や電車を浸水させたりしたら、あんたたち、死刑だからね」

 

「ええ? こ、これは大丈夫っすよね?」

 

 溝内がスコップの先を地面に押し込みながら、不安そうな表情で私を見るのがおかしくて、つい笑ってしまった。釣られて、音絵も声も出さずに笑っていた。

 

 スコップでパイピングのあとを掘り進めていくと、図面には無い砂の層が混じっていた。音絵の予想した通りだった。

 

 砂は水を通しやすい。水が流れてくると、水と一緒になって砂も流れていく。水の通り道が堤防の弱部となり、決壊の引き金となる。

 

「越水なき破堤って言ってね。昔、小貝川(こかいがわ)っていう本州の川で、そういうことが起きた。土の中は簡単に見ることができない」砂の層をカメラにおさめながら、私は説明した。「だからこそ、こういう技術を活用して、堤防の弱いところを見つけなきゃいけないんだよ。勉強になっただろ?」

 

 汗を流しながらスコップに力を込める二人は、「はいぃぃ、そうですね」と適当な返事をしている。

 

 本当のところ、今の言葉は、自分自身に言い聞かせた言葉だ。

 

 堤防は、よくわからない。今だって、音絵の分析力と行動力が無ければ、この水みちに気づかなかったかもしれない。

 

 彼女の世界には、死角がない。

 

 音絵は出てきた砂を指でつまみ上げて、手の平に載せている。長いまつ毛の下で、ちいさな瞳が彷徨う。どんな砂なのか、熱心に観察をしているようだ。

 

 私も音絵の真似をして、指でつまんでみる。少し湿っていて、指先に泥のようなものがこびりついた。

 

「万全を期す。なんて言葉は、難しい」音絵が掌の砂を払いながら、ゆっくりと立ち上がる。「だから、羽衣は、最後の砦」

 

 豊曲川は急な川だ。霞堤――羽衣の役割は堤防が決壊しても、被害を拡大させないという重要な役割を担っている。だけど、最近の河川では周辺の土地利用が多くなったことによって、堤防をひとつなぎにしてほしいという要望が強まった。このため、羽衣を閉じることが多くなった。ここもそうだ。

 

「世の中には、絶対、なんて、存在しない。だからこそ、知りたいから、近づく。そこに複雑なものがあったとしても、私は知るまで、諦めない」

 

 音絵の言葉に私は頷いた。私だって常に、一歩先を考えたいと思っている。

 

 テニスだって、相手のラケットの向き、呼吸、足の角度、ボールの打ち方。その情報を分析して、先を読む。土木工学も、経験工学だ。今までに自分が得た経験や目の前にある情報を最大限に活用して、先を読む。

 

 そうやって、知りたいと思うことを経験に変えていく。わからないことをわかろうとすることは、人間の本質であり、誰にでも与えられる権利だと思う。

 

 

「平成二十五年。河川法が改正されて、維持と修繕が義務化。河川管理施設又は許可工作物の管理者は、河川管理施設又は許可工作物を良好な状態に保つよう維持し、修繕し、もって公共の安全が保持されるように努めなければならない」

 

 

 音絵が突然、流暢な言葉で何かを語り出した。

 

 なんとなく覚えている。おそらく河川法の一文だ。すらすらと暗唱できる人を初めて見たけれど、音絵なら河川法の全てを暗記していても不思議ではない。

 

 高橋と溝内が土を掘る手を止め、口を開けながらポカンとしている。何言ってるの、この人。という心の叫びが私の耳には聞こえた。

 

「……要するに」私は苦笑いを噛み締めながら、音絵をフォローする。「草刈り。重要だってこと」

 

「なるほど……」

 

 学生二人は私と同じ苦い表情をしながら、声を揃えて頷いた。

 

 音絵へ放つ私のスライスサーブは外れたことがないけれど、音絵が放ってくるそれは、何者も返すことができないような気がした。

 

 

 

 

 レーダー探査機を高橋と溝内に手伝ってもらい、車へ積み込んでいると、

 

「ありがとう。付き合ってくれて」

 

 照れ臭そうな顔をした音絵からお礼を言われた。

 

「音絵は、わからないことがあると、時間をすぐ忘れるからねー。私の研究なのに」私も少し照れ臭かったので、わざと大きな声を出して応える。「でも、まぁ、新機種の精度が素晴らしいことが証明されたよ。本物の堤防に今度、使ってみて、結果を考察してみる。今年の論文は、いいものが書けそう」

 

「結果、見せてね」耳にかかった髪の毛を払いながら、音絵がにこりと微笑む。「葵の研究は、インフラ整備に、必須なもの。これからも、期待」

 

「よく言うよ」

 

 白々しい言葉のような気がして、思わず鼻で笑ってしまった。だいぶ陽が陰ってきた。今何時だろう。ポケットに掌を当てると、そこで違和感に気が付いた。

 

「……あれ?」

 

 ポケットに入れておいたはずのスマホがなかった。草刈りや堤防の探査に夢中で、どこかに落としたのか。

 

 音絵の掌にはスマホが握られていた。私がスマホを無くしたことにすぐ気が付いてくれて、着信音を鳴らしてくれているようだ。

 

「ごめん。音が出ない設定にしてて……。震えているとは思うんだけど、川の音も大きいし、全然聞こえないや」

 

 そっか、と音絵が小さく呟き、作業着の胸ポケットへスマホをしまう。

 

「すみません、東畑助教。先に帰っててくれますか? 日が暮れてしまうので」

 

「手伝いたいと思ったけど、すまないね。夜は教授と一緒に、企業と会食なんだ」

 

「すみません、俺たちもバイトっす」

 

 皆、それぞれ申し訳なさそうに声を絞り出し、車へ乗り込んでいく。私は念のため持ってきていた自転車を車の中から取り出した。堤防の調査をするときは、自転車の方が楽な時がある。ここから帰るために使うとは思わなかったけど。

 

「音絵も、先に帰ってていいよ」

 

 彼女は無言のまま首を小さく振る。草むらの中へ足を踏み入れながら、「東畑助教、行ってください」と声を張った。東畑助教は申し訳なさそうな顔を浮かべながら、開けていた窓を閉め、車を発進させた。高橋と溝内が後部座席で頭を下げていた。

 

 車の姿が見えなくなってしまうと、急に空気が冷たくなった気がした。ぶるりと肩を震わせ、深呼吸をする。胃の中がひやりとした。音絵と目が合った。乾いた風が空き缶を蹴飛ばすように地面を舞い、彼女の髪がふわりと舞う。眼差しは真っ直ぐだ。音絵は一瞬、微笑み、「探そうか」と呟く。

 

 私はその短い言葉に、心が酷く重くなった。物を無くすことは、壊してしまうより、厄介だ。見つからなければ、そこには何も残らない。不確実なものは、昔から大嫌いだ。いっそのこと、諦めてしまえば楽になると言うのに。友情も愛情も、同じようなもの。だから、音絵の優しさがどうしても、私の感情をきつく絞めつけてしまう。

 

 しばらく、二人で無言のまま、道路脇のイタドリをかき分け、堤防の上を歩き回った。陽の陰がどんどんと長くなり、さすがに暗くなってきた。

 

「音絵、もういいよ。私のミスだから。下の方は私が探す」

 

 堤防の上はあらかた探し回ったので、音絵は再び、堤防の下へ降りようとしていた。この辺りは電灯もないので、足元が危ないと思った。これ以上、彼女を巻き込むわけにはいかない。

 

「葵は」音絵はおもむろに振り返り、私の目を真っ直ぐに見つめてくる。「大切なものって、ある?」

 

「なにさ。突然」

 

 唐突な質問だった。私は言葉に詰まり、動揺したことをごまかすために、音絵の真っ直ぐな瞳から目を逸らした。

 

「あるの?」

 

 目を逸らした視線の先に、音絵の頭がウサギのように飛び出してくる。

 

「そりゃあ、あるけど……」例えば、今まさに目の前にいる友達とか。音絵をチラリと見つめながら、ぽつりと呟く。

 

 じゃあ、と音絵がその足を堤防の斜面へ踏み出し、再び草むらの中を掻き分けていく。草の擦れる音が、灰色の空へ響き渡る。

 

「他に、大切なものあるからって、自分を傷つけていいってことには、ならないでしょう」

 

「え?」

 

 音絵の言っていることの意味が、私にはわからなかった。口を開いたまま突っ立っていると、

 

「だから、私も、探すのっ」

 

 少しだけ、怒ったような声が耳の奥へぶつかってきた。「自分だけが犠牲になればいいとは思わないで」そんなことをぴしゃりと言われたような気がする。

 

 音絵の背中を見て、軽く息を吸う。舌の奥に、草と泥の混ざった匂いが駆け上がってきて、私の胸は苦い空気で満たされた。

 

 

「土木ってさあ、泥臭くて、なんか、つまんなくない?」

 

 初めて、音絵へ話しかけた時の言葉が、頭の中で泡が湧き出るように弾けた。

 

 大学一年生の初夏。構造力学の演習を解いている最中だった。たまたま講義で隣の席になり、毎日のように課題が出され、うんざりし始めた時期。大学で勉強する内容が、高校の時に想像していたものと、随分とかけ離れていた。

 

「授業は単調だし、わからないことがあっても、どんどん進んで行くし、自己責任だし。あんたもそう思わない?」

 

 同級生とは言え、今まで話をしたことも無かった。それなのに、突然こんな質問を投げかける私もどうなのだろう。そんな気持ちがあったけれど、つい音絵に話しかけてみたくなった。いや、話しかけるタイミングを、今か今かと待ちわびていた。だからこそ、何を発していいのかわからず、そんな言葉しか出てこなかったのかもしれない。

 

 彼女はその時、長いまつ毛をぱちぱちとさせ、きょとんとしていた。やっぱり見た目通り、お嬢様っぽいし、私のような頭の悪そうな人の話は、意味がわからないと思っているのだろうか。

 

 そんなふうに考えていると、音絵は眉を寄せて真面目な顔になり、少し怒った口調で、

 

 

「つまらないことでも、やり続けていたら、見えるものがあります。見えなかったら、それは、後悔にしかなりません。自己責任とは、見えないものを見ようとしない他人が、勝手に作った逃げ道です。私はこの言葉が大嫌いです」

 

 

 と言葉を並べ立て、席を立ち上がっていた。私は口を開いたまま、唖然としてしまった。

 

 演習中だったから、講義室は静まり返っていた。突如、凛とした声が響き渡り、教授と学生の視線が音絵に集まった。

 

 今考えてみると、『かたい女』のきっかけを作ったのは、他の誰でもない。私だった。

 

 

 息を短く吐き出す。掌を握り締める。スマホを探しているうちにこびりついた指先の泥が、ぱらぱらと足元へ落ちていった。思い出が零れ落ちていくように。そうだ。思い出した。私は音絵に、ずっと聞きたかったことがあったんだ。

 

 湯が沸騰したように熱くなった目頭から、何かが溢れそうになった。留めようとして瞼をきつく閉じると、涙が苦い思い出と混ざり合い、瞳の奥がじんと痛んだ。

 

 その時、何かが視界の隅で、ぼんやりと光り輝いたような気がした。瞬きで瞳を潤しながら、光の元へ足を近づける。

 

「……あった」

 

 私は少しだけ泥にまみれたスマホを拾い上げる。画面の左端がチカチカしていた。指でタップすると、「着信あり」の文字と共に音絵の名前が表示された。

 

 音絵はほっとした様子で、肩を落としていた。気が付くと、辺りは今にも墨色の帳が靴の底まで落ちてきそうだった。

 

「音絵ってさ、いつも、髪型とか、服装とか、きちんとしてるよね。どうして?」

 

 堤防の斜面に足を伸ばし、腰を下ろしながら、私は尋ねた。音絵は私の隣に座っていた。持ってきたリュックの中から、カーディガンを取り出し、作業着の代わりに羽織っていた。フカフカで暖かそうだ。髪の毛は後ろで軽くゴムでしばり、短いポニーテールにしていた。うなじのあたりから、花のような香りが漂っている。彼女とはよく調査で外に出ることがあるけど、埃っぽくなると言うのに、身なりをきちんと整えてくる。

 

「お祖母ちゃん」ペットボトルのお茶を口に含みながら、ぽつりと呟く。「身なり、整えない人間は、世界から消え去ってしまう。女の綺麗は、注目され続けろ。って、うるさい」

 

 なるほど。どこの家でも年長者の意見は揺るぎない怖さを秘めている。だけど、私がもし音絵のお祖母ちゃんの孫だったら、そのお祖母ちゃんはきっと卒倒するだろう。

 

「実家では、打掛、着てる」

 

「打掛?!」

 

 突如飛び出た叫び声に音絵は困惑し、顔を伏せる。頬は少しだけ赤くなっていた。照れている音絵を見るのは、久しぶりだ。打掛姿の音絵を是非とも見てみたい。そして、その彼女を抱きしめたい。やっぱりこの子は私にとって、空から降ってくる天女のような存在だ。

 

「音絵ー、好きだぁー。早く男でも作って、もっと可愛くなれー」

 

 私は音絵の肩を抱き、軽く揺らした。彼女は月の先っぽに纏わりついた雲のように、ゆらゆらと揺らめいている。

 

「……、それは、嫌」

 

 空を見上げると、星がぽつりぽつりと輝き始めていた。

 

「ねぇ」

 

 私は空を仰ぎながら、音絵に声をかける。彼女にずっと聞いてみたかったこと。不意に聞いてみたくなった。今なら音絵の応える言葉の意味が、きちんと理解できる。そう思ったから。

 

「音絵の大切なものって、なに?」

 

 音絵は瞬きをしながら、私の瞳をのぞき込んでいる。彼女の瞳は海のように深くて、今にも私は思考が吸い込まれてしまいそうだった。テニスの試合でも、深くえぐるようなサーブをぶつけてくる人物はなかなか見たことがない。

 

「私は」音絵は大きく息を吸い、そして吐き出した。「この、命」

 

「命? 自分の命ってこと?」

 

「ちょっと、違う」

 

 音絵はくすぐったそうに笑う。胸に手を当て、自分の心臓が動いていることを確かめるように、深呼吸をする。

 

「いろいろな人の、考えとか、夢とか、悩みとか。そういうものを、私が感じ取って、私という形にしたもの。それを、この世界へ、繋げていきたい。形にしていきたい」

 

「なんだか、難しいな。技術の伝承、みたいな感じ? なんか、もやもやしすぎて、すぐに壊れてしまいそう」

 

「壊れないよ。だって、もう、ここにあるから」

 

 音絵が今にも壊れそうなぎこちない笑顔を見せながら、自分の胸を撫でている。

 

富良野」手元の作業着を丁寧に折り畳みながら、彼女が語る。「ボランティア、行ったの」

 

 音絵の話によると、平成二十八年の北海道災害で被害を受けた富良野市は、多くのボランティアを募集していたらしい。被災した場所の跡片付け。泥出しや清掃。物資の提供。そんなことを手伝う人がたくさんいた。それとは別のボランティアに参加した。

 

 南富(なんぷ)ミート商会。その場所の復興に関わったとのこと。災害で事務所と加工場が一メートル以上浸水。新しい事業を紹介するために、音絵はプロジェクト計画の考案に意見を添えてきた。名付けて、エゾシカ肉復興プロジェクト(そのまんまじゃんとツッコみを入れた)。エゾシカのソーセージ、ベーコン、生ハムなどの商品をこの街のお土産店へ紹介した。廃棄処分していた鹿の革も、鞄や財布へ有効に活用している。

 

 今では、無事に復興し、この街の駅にも南富商会の鹿肉が置かれ、焼き肉屋でも仕入れがされてるほどになった。集客できれば、街の復興へ大いに貢献できる。

 

「技術は、財産。壊れても、壊れても、人は強い。だから、私も、この命をつなぐの」

 

「……すごいね。音絵は」

 

 音絵の話を聞いて、私は素直に感嘆の声を上げる。

 

「何が?」

 

「いや、なんでもない。なんか、うまく言えないから」

 

「私は、見えない堤防を、研究してる葵が、最高にカッコいい」

 

「そんなこと、ないよ」

 

 私は指先で頬をかく。音絵に褒められると、現実味がありすぎて、逆にもどかしい幻想のようだった。音絵は自分の大切なものをしっかりと見極めている。意見がブレることもないし、芯が折れることもない。だからこそ、彼女の言葉は強くて、重みがある。

 

「それにしても、ボランティアとか、偉いね。私にも声を掛けてくれたら、一緒に行ったのにさ」

 

「……鹿肉。食べたかったから」

 

「ん?」

 

「本当は、鹿肉、食べたかったから。それで、ボランティア、行ったの」

 

「はぁ? なにそれ」私は吹き出した。「もしかして、ボランティアの募集要項に、書いてあったの? 鹿肉プレゼントって」

 

 うん、と音絵は頷きながら、その顔を腕の中に埋める。「美味しかった」

 

「もう!」

 

 私の乾いた笑い声が空に響く。軽やかに、それこそ鹿が野山を駆け回るように。

 

 人間が動く理由なんて、単純なもの。自分だってそう。音絵だって、そうなんだ。私は音絵のことを、決して壊してはならないと思っていた。そう思ったから、私は音絵と友達になりたかった。本音を言うと、私の存在意義を確かめるために。でも、違う。この子は壊れることはない。私は、音絵から十分にたくさんの壊れない宝物をもらった。だから、それでいいのかもしれない。私は私の大切なものと、音絵からもらったものを、これからも守り続けていけばそれでいい。

 

「日本で二番目に大きい川、知ってる?」

 

「この街にも流れる、石狩川でしょう? 小学校の地理でも習うんじゃん」

 

「私、実は、小学校の頃、不真面目」

 

「え、そうなの?」

 

 意外だった。そう言えば、私は音絵が大学に入る前の話を聞いたことがなかった。

石狩川と豊曲川の合流点にね」音絵が続ける。「百年以上、現存している、護岸がある。名前は――」

 

「ヨーカンブロック。でしょ?」

 

 音絵の言葉と私の声がぴったりと重なる。音絵の視線が肯定を示すように、私の瞳をしっかりと捉える。私の知識が、ようやく音絵に近づいた。そんな気がした。

 

 堤防というものは、中身はなんだかよくわからない。技術の進歩で、人は歩みを止めず、すべてを知るようになることができるだろう。だけど、人の心は近づけば近づくほど複雑で、よくわからない。音絵の気を惹くようなスライスサーブは打てるけど、マッチポイントまでは届かないと思っていた。でも、届く必要はない。私たちは同じ大学の、同じインフラを学ぶ仲間だ。違う技術を駆使して、音絵とダブルスで、これからも自然の驚異に負けない技術者になればいい。

 

「今度、見に行かない?」

 

 音絵が上目遣いで尋ねてくる。

 

「うん。行こう」

 

 私は頷きながら、だけど、やっぱり考える。彼女は自分のことをあまり話さないし、感情を表に出すことはない。少なくとも、この大学に入ってからは。

 

 昔は、どんな子だったのかな。例えば、高校とか。私は大学に入る前の音絵を知らない。そもそも、音絵は過去のことを話したがらない。まぁ、それも私も同じか。聞かれたくないこともあるよね。

 

 そんなことを考えながら、私は勢いよく立ち上がる。そばに置いてあった自転車のスタンドを蹴り上げ、後ろ方を顎で示す。

 

「音絵。乗って」

 

 自転車のサドルにまたがりながら、空を見上げる。街灯がない豊曲川の空には、いつもはなかなかお目にかかれない数多の星が、ぼんやりと輝き始めていた。

 

「お腹空いたぁ。肉、食べよう、肉。私も元気出したい。お腹も空いたしさ。ティーチングアシスタントのバイト代、出たでしょ?」

 

「うん」

 

 後ろにちょこんと腰を下ろした音絵が、凛とした声で返事をする。私は片足を堤防の馬踏みにつけながら、スマホで近くの焼き肉屋を検索する。

 

 夜の帳に染まった豊曲川は、せせらぎの音色をゆっくりと奏でながら、私と音絵と夜の街を優しく包み込むように流れている。音絵はその音色に耳を傾けながら、じっと夜空を見上げている。

 

「春の三角形。アークトゥルス。スピカ。葵、知ってる? この二つ、春の夫婦星とも呼ぶ」

 

「へぇ」

 

 音絵の言葉に、私は再び空を仰ぐ。南の空にひと際強く輝く大きな星が、二つ見えた。少しだけオレンジ色を宿した星と、青白い光を真っ直ぐに放つ星。

 

「私と、葵みたい」

 

「何言ってんの。しかも、私、男じゃないし!」

 

 音絵が私の後ろで、綿毛のように「ふふっ」と微笑む。こういう時は、彼女が口に出す言葉の意図をうまく掴むことができない。

 

 

――音絵の心を覗くレーザーがあればいいのにな。

 

 

 私は地面を蹴り上げ、重いペダルを踏み込む。今年初めて使った自転車から、軋む音が聞こえた。二人乗りはやめとけと言わんばかりに。だけど、一度動いた自転車は素直だった。私と音絵を乗せ、豊曲川の堤防を下っていく。

 

 心を覗かなくても、わかることは確かにある。今日はそれが証明された日。私はようやく見つけ出した感情を隠すことなく、明日の私につないでいきたい。

 

 

 

【参考資料】

 

 

 平成27年9月、関東・東北豪雨災害では、鬼怒川において堤防が決壊し、広範囲に被害が生じました。この災害を機に、多数の逃げ遅れによる孤立者が発生したため、「施設の能力には限界があり、施設では防ぎきれない大洪水は必ず発生するもの」という意識への転換が図られました。

 これがこの話の中に出てきた、「水防災意識社会の再構築」です。

 翌年、この意識の転換期とも言える時期に、北海道でも激甚的災害が発生します。この災害は、観測史上初めて三つの台風が北海道に上陸し、連続する豪雨によって、水が引かないうちに洪水が繰り返し発生して、各地で甚大な被害が発生しました。

 北海道のジャガイモ畑が被災したことで、日本のポテトチップスが品薄になったことは記憶に残っていると思います。

 いずれの災害でも言えることは、水害のリスクを国民全員が把握して、水害を「我がこと」として捉え、自ら対処する意識を構築する必要があります。

 

 

 水防災意識社会 再構築ビジョン

www.mlit.go.jp

 

 平成28年8月北海道大雨激甚災害を踏まえた今後の水防災対策のあり方 
www.hkd.mlit.go.jp

 

↓次のお話へ。

  www.hinata-ma.com

 

 

 ↓前のお話へ。

www.hinata-ma.com