言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

理系コンストラクション【第2号 非破壊レーザーに死角なし③】

 

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3.朝涼の羽衣

 

  

「お・と・えー!」

 

 構造力学研究室、修士一年とパネルが貼られた扉は、いつも通り開かれていた。私は勢いよく足を踏み入れ、部屋の奥にいる音絵へ声をかけた。

 

「なに?」

 

 雀が木の枝に隠れながらさえずるような、そんな声だった。誰にも見つかってほしくない感じ。私の声との温度差が激しい。相変わらず、顔は無表情で、不愛想だ。愛嬌が全く感じられない。

 

 珍しくノートパソコンが開かれていた。ちょうど論文執筆の休憩中だったのか、部屋の奥にある窓を開け放ち、外の様子を眺めていたようだ。緑が浅い五月の爽やかな風が、音絵の髪を柔らかに揺らしている。今日は薄いグレーのスラックスに、半袖のブラウスを着ていた。その姿を見て、どこかに出かけて、帰ってきたばかりなのだろうかと思い直す。

 

 香ばしい匂いも風と共に運ばれてきた。ジンギスカンの匂いだ。学生の賑やかな声が微かに聞こえる。桜が満開になったというニュースをふと思い出した。私もゆっくりと花見でしながら、お肉を頬張りたいなと、そんな想いに駆られた。

 

 風の流れに沿って視線をさ迷わせていると、音絵の机に、小さな花瓶が置いてあることに気付いた。この前来た時には、なかったはずだ。と言っても、ここに来たのはゴールデンウィーク前だけど。

 

 花瓶にはハートに似た桃色の花が、釣り糸のような茎に咲き乱れていた。桜と同じく春先に咲き始めるタイツリソウだ。大学四年生まで花屋でバイトしていたから、私は花の名前には詳しい。お店でもあまりで出回っていない、珍しい花だった。

 

「この花、どうしたの?」

 

「もらった」

 

「誰から?」

 

「一ノ瀬さん」

 

「え、そうなの?」

 

「うん」

 

 音絵は話しかけづらいオーラを全身から醸し出しているけど、会話のキャッチボールができないわけではない。ちゃんとした質問をすれば、きちんと答えてくれるし、嘘もつかない。よく言えば素直すぎるのだが、淡々としているので、心の内はどう思っているのか、全くわからない時がある。

 

 ただし、それは付き合いが浅い人間に限る。

 

 私のように、大学へ入学した時から音絵と一緒にいる人間にとっては、彼女が何に興味あって、何に興味なくて、どういう感情を胸の中にひそめているのか、その時の話し方の微妙な違いで汲み取れるようになった。双子の兄弟が見分けられるような鋭い観察眼を養っていないと、なかなか難しいのだけど。

 

 ちなみに一ノ瀬さんとは、同じ大学院工学研究科の都市計画研究室にいる一ノ瀬亮(いちのせりょう)という同級生だ。背が高くて、そこそこ顔はいい。

 

 可愛らしい花を見ながら、私は「へぇ」と微笑んだ。彼が音絵に気があることを知っている。まぁ、あからさまな態度なので、同級生はみんな知っているだろう。当の音絵は全然相手にしていない。と、思う。きちんと花瓶を飾っているあたり、邪険には扱っていないのだろうけど。

 

 でも、恋愛の心得だけは、自分のことも他人のことも、私は二十歳を越えてもよくわからないままだ。最近、失恋したし。まぁ、その話は置いといて。

 

「そういえば、音絵のせいで、私のラケットが壊れたんですけど」

 

「なぜ」

 

「聞いたわよ、後輩から」私は腕組みをしながら、音絵を睨み付ける。「構造力学の演習で、学生に冷たい対応したんだって? そのことを、私は今、怒ってるのよ。ちゃんと笑顔の練習、続けてる? これからの音絵は、誰からも可愛いと憧れるような人になってもらわないと。また独りぼっちになっちゃうよ。私だって、就職したら、音絵とあんまり会えなくなっちゃうんだからさ。コミュニケーションの練習だよ、練習。修士の二年間なんて、あっという間なんだから」

 

「してないし、そのことは、私と関係ない。独りぼっちでも、いい」

 

 言うと思った。

 

 はい、話はお終いという感じで、音絵は窓をぴしゃりと閉める。胸を潤す初夏の風が、行く場を無くして部屋の中に漂い、やがてどこかに消えていった。

 

 大学四年間で少しずつ人との関わり方が変わってきたと思ったのに、なんだかまた、暗い感じに戻りつつあった。それとも、一ノ瀬と何かあったのだろうか。心なしか落ち着かない後ろ姿を眺めたまま、なんとなく思う。まぁいい。

 

「ちょっとさ、私の頼み、聞いてほしんだけどなぁ」

 

 私はパソコンが置いてある机へ近づきながら、声をかける。

 

「もうすぐ、学会の論文提出、あるんだけど……」

 

 音絵が無表情のまま、椅子に深く腰かける。その瞳は、既にパソコンへ向けられていた。

 

 論文があるのは知ってる。私も同じだ。ジンギスカンを頬張りたい気持ちをなんとか堪えて、今、追い込みをしているのだ。

 

 マウスをクリックする音が聞こえる。音絵の得意技だ。誰も私に話しかけるなモード。次に、規則的にタイピングをする音が聞こえてきた。音絵の無機質さを更に助長させるような音。こうなったら、普通の学生では手に負えない。

 

 が、音絵の興味をこちらに向けるためにどうすればいいのかも、私は知っている。

 

「新作の高性能レーザー探査機」私は鞄の中から、隠し持っていたパンフレットを取り出し、音絵に見せつけるように広げた。「昔から企業と共同研究しているやつ。今年の研究費で、教授が試作版を買ってくれたんだ。もうすぐ、うちの研究室に届けられる。来週、豊曲川(とよくまがわ)の堤防点検、うちに新しく入ってきた学部生連れて試しに行くんだけど。どれほどの精度があるか、興味がない?」

 

 音絵が視線をこちらへ向けた。その瞳は少しだけ、新しいおもちゃを買ってもらえる子供のように輝いていた。

 

 私が音絵へ放つスライスサーブは、これまでに外れたことがない。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 背伸びしながら息を吸い込むと、朝涼(あさすず)の残り香が頬を撫でていった。

 

 午前八時。太陽の日差しが円環を伴って降り注ぐ。よく晴れた朝だった。足元には桜の花びらが、遅くやってきた春の終わりを知らせるように散らばっていた。北海道までたどり着くのはいつも遅いくせに、忙しない足跡だなと思った。

 

 工学部前の駐車場へ停められたミニバンから、グレー色の作業着に身を包んだ男の人が降りてきて、こちらへやってくる。東畑(ひがしはた)助教(じょきょう)だ。

 

「おはようございます」

 

「おはよー」

 

 車のキーをくるくると弄びながら、彼はぺこりと頭を下げ、私の挨拶に応える。切り揃えられた短髪に、男の人にしては、珍しい小顔。笑顔が可愛らしいと学生たちには評判で、私も結構、話しやすくて良い人だと感じている。今日の作業の引率と車の運転をお願いしていた。

 

「非破壊レーザーの探査機は?」

 

「今、学部生たちが運んできます」

 

 そう答えながら振り向くと、ちょうど研究室の男子学生二人が前かがみになりながら、玄関を出てきた。その腕は大きなスチール製の箱が載せられた台車を押していた。

 

 私は胸の奥でにやりと微笑む。

 

 新型の短チャープ式レーダー探査。

 

簡単に言うと、道路の上からレーザーを照射して、その電磁波が何か異物を検知すると反射し、土の中の様子を可視化してくれるシステムだ。私たちの大学と、とある測量会社で共同開発している。

 

「それ、たっかいからね。壊すなよー」

 

 自動ドアの溝を慎重に飛び越えながら、ガタガタと台車を鳴らす学生たちへ声をかける。

 

「葵(あおい)先輩には、言われたくないっす」

 

 後輩の一人が笑い返した。

 

「うっさいよ」

 

「よし、僕も手伝うよ」

 

 東畑助教が車のキーをポケットへ突っ込み、台車の側面へ回り、手を貸した。三人はそのまま玄関前のスロープを慎重に降りていき、車の停めてある駐車場へ向かう。

 

 車のトランクへ積み込む様子を眺めながら、私は今日の予定をチェックする。昨日、スケジュール表をパソコンで作り、印刷していた。

 

「今日は、天気、いいね」

 

 いつの間にか隣にやってきた音絵が、胸を膨らませて深呼吸をしていた。彼女は構造力学研究室と袖に印字された、薄いグレーの作業着で身を包んでいる。桃色に染まった道を歩くには全くもって似つかわしくない姿だった。でも、私にとっては、春の日差しの中、やけに映えて見える。

 

 荷物の積み込みが終わったので、私たちも車へ乗り込む。行き先は、豊曲(とよくま)川の中流にある岩川(いわかわ)旧堤防と呼ばれる堤防の実験場だ。元々は明治時代、霞堤(かすみてい)と呼ばれる目的で作られた場所だった。その後の昭和時代、豊曲川は大規模に堤防が整備されたため、今はもう使われなくなり、過去の遺産となっていた。それを、私たちの大学が買い取り、堤防の実験施設として利用し、管理している。

 

 豊曲川(とよくまかわ)の堤防には、大きな道路が走っている。それに並行して、河川敷にはサイクリングロードが整備されていた。東畑助教(ひがしはたじょきょう)が運転するミニバンは私たちを乗せ、川の流れに逆走して、中流へと向かっていた。

 

 車の窓には、北海道の初夏を彩る花弁(はなびら)たちが流れていく。桜が散った後に蕾(つぼみ)を開くのは、まだ朝露に濡れるのも慣れていない、柔らかな紫色を宿したツツジライラックだ。

 

 時折、河川敷に植えられた木々の間からは、ジンギスカン鍋を囲む若者のグループが見えた。後部座席に座る学部生が、その景色を見ながら「肉食いてぇ」とか「ビール飲みてぇ」などと、羨望(せんぼう)の声を漏らしていた。初花というものは綺麗に映るもので、新しい季節の産声にもう少し浸っていたいなと思っていたけれど、そんな気分を吹き飛ばすような声だった。

 

「さて、ここで問題です」私は感傷の念を振り払うように人差し指を立てながら、助手席から声をかけた。「堤防が決壊する三つの原因は、なんでしょうか?」

 

「葵(あおい)さん、なに突然、真面目な話してんすか」

 

 彼らの名前はそれぞれ高橋と溝内と言って、そのうちの伊達眼鏡をかけた高橋が、不満そうな声を上げる。突然、車の中で授業が始まるとは思ってもみなかったのだろう。

 

「この研究室ではね、この質問に答えられないと、破門なんだよ。東畑助教が厳しいんだから。ねぇ、先生」

 

「僕、そんなこと言ったっけ?」

 

 彼は頭をポリポリと片手で掻きながら、車のブレーキをゆっくりと踏み込む。少しばかりの慣性力を身体に感じながら、車が赤信号で止まる。

 

「えっと、越水、浸透。あと一個、なんだっけ?」

と茶髪の溝内が指を折っている。

 

「あれだ。この前、土質力学の講義でやったじゃん? ダルシ―の法則と一緒に出てきてただろ」

 

「お、そうだ。思い出した。浸透だ」

 

「ちぇっ。なんだよ、正解だよ」

 

「なんで残念そうなんですか、葵先輩」

 

 いとも容易く二人が答えを言い当ててしまった。つまんないな。そう思いながら、腕を頭の後ろで組み、助手席のシートに深く座り込む。

 

「次は難しいぞー。解けない問題出すからなー」

 

「えー、葵先輩は俺たちを破門させたいんですかー」

 

「若いやつは、ちゃんとした知識を持たないとダメなんだよ」

 

 私が笑い声を飛ばしながら、次の問題をどうするか思案していると、

 

「葵」

 不意に鋭い声が聴こえた。一番後ろの席を独り占めして、文庫本を片手に黙っていた音絵だった。

 

「なによ」

 

 私は肩越しに視線を送る。音絵の瞳が真っ直ぐ、私の方へ向けられていた。

 

 

「葵の声。頭に入ると、脳細胞、死滅する気がする」

 

 

「どーゆー意味よっ!」

 

 学生たちがどっと笑い声を上げた。「琴葉先輩、最高っす」そんな溝内の声が聞こえた。

 

 私はため息をつきながら、前を向く。視界の端に大きな床止め工が見えた。水の流れで川の底が削れるのを防ぐ役割を持つ。流れ落ちる水の流れは穏やかだった。

 

「羽衣、久しぶり」

 

 音絵の呟く声が耳にせせらぎのように流れ込んできた。彼女は霞堤のことを、羽衣と呼ぶ。

 

 霞堤。別名、羽衣堤。

 

 古い治水工学の本にしか載っていないような名称を、真顔で発するあたり、あの子の脳内はどんなネットワークが構築されているんだろうなと、たまに恨めしく思う。が、もう慣れた。

 

 雨が多く、地形が急峻な日本では、治水が非常に重要である。その役割の最前線で活躍する構造物が、河川の堤防だ。一口に堤防と言っても、いろんな役割を担うものがあるけど、霞堤はその一端を補助するようなものだ。

 

 音絵が霞堤のことを羽衣と呼ぶ理由は、前に聞いたことがある。

 

 

「だって、川から零れた水を、受け止めるから。まるで、天から手を差し伸べる、天女様みたい」

 

 

 と音絵が呟き、空を仰ぐ横顔を見た時は、なんだか美しい童話に憧れる子供のように思えた。工学のウンチク以外にも、そんな少女チックな浮世草子(うきよぞうし)を語れるとは!

 

 その時の私は音絵の横でお腹を抱えて笑っていた。笑いながらも、確かに間違ってはいないよなと、妙に納得したのを覚えている。霞堤の役割は、洪水の時に溢れた水を受け止め、洪水の被害を小さくする構造物だからだ。

 

 私の大学院での専門は、『河川堤防点検の新技術に関する提案』という題目だ。要するに、堤防の維持管理――危険なところや弱いところをどうやって簡易に見つけるのか、そういう技術を研究している。

 

 土木工学は、音絵の得意とする構造力学を基本として、水理学土質力学の三本柱で成り立っている。そこからいろいろな学問へ派生していくのだけど、そのうちの水理学に興味を持った私は、四年生になってから、河川構造物研究室を希望した。近藤勇実(こんどういさみ)というどこかの新選組みたいな名前の教授が率いている。構造力学研究室の小菅仁(こすがじん)教授とは、昔から仲が良いらしい。

 

 この研究室では、隣で運転する東畑助教を始めとして、堤防に関する技術を研究していた。最近は、地球温暖化による気候変動の影響で、日本全国、数多の災害が多発しているから、希望する学生も多かった。

 

 平成二十八年八月。北海道でも未曽有(みぞう)の災害が襲った。三個の台風が三週間という短い期間で上陸するという、史上初めての現象が起きた。

 

 その頃、私と音絵はまだ、大学に入りたての一年生だった。授業で水理学の基礎を学んでいたばかりだったから、その現象の凄まじさがありありと感じられた。

 

 確かに雨が異様に多い夏だった。夏休み中にたまたま、音絵と二人でお昼ご飯を食べようと待ち合わせしていたけれど、その時も傘を片手に握り締めていたと思う。大学の食堂で富良野(ふらの)の堤防が決壊したと叫んでいるニュースを見ながら、私はぶるりと肩を震わせていたのを覚えている。

 

「平成二十七年」そんなときでさえ、音絵だけは冷静だった。「鬼怒川(きぬがわ)、決壊。その頃から、日本の水防、意識が高まっている」

 

「水防の意識?」

 

 テレビの中では、泥混じりの濁流に囲まれた家の屋根から、大きなヘリコプターで救助される老人の映像が流れていた。

 

「うん」音絵はテレビを見つめながら、続ける。「ハード対策、から、ソフト対策。住民の意識、転換」

 

 やけに詳しいな、と私はそのとき眉をひそめていた。ハード対策とか、ソフト対策とか、言葉はなんとなく知っていたけど、その違いを明確に説明できるほどの知識はまだなかった。

 

「これ」音絵がスマホの画面を私に向ける。「国土交通省のページ」

 

 いろいろな新着情報がずらりと並んだサイトだった。トピックスや新着情報などというタイトルの下に、見慣れない言葉が並んだタイトルの記事が画面の中に埋め尽くされていた。

 

「……もしかして、音絵、これ、全部チェックしているの?」

 

「うん」

 

 ホームページの一番上には、『水防災意識社会 再構築ビジョン』というタイトルの記事がアップされていた。

 

「日本、まだまだ、治水計画、発展途上……」スマホを握り締めたまま、音絵が目を細める。

 

「そう、なんだ」

 

 まだ大学に入ったばかりだと言うのに、音絵は、社会インフラの何たるかを知っているような表情だった。

 

 私は再び、テレビに視線を向けていた。映像は広大な畑の中に、大量の泥水が流れ込んでいく様子に切り替わっていた。三つの台風が襲来したのは、八月の終わり頃だった。まもなく収穫を迎えるはずだった野菜たちは、一体、どうなってしまうのだろうかと、私はぼんやりと考えていた。

 

 堤防の決壊は、そこに住む人々の生活に大きな影響を与える。社会インフラは、街と人を守るべきもの。ダムも、堤防も、水害から人間や財産を守っている。高校の頃に付き合っていた彼氏も、よく言っていたことだった。その言葉と災害の恐ろしさを思い出しながら、私は土木工学を少しずつ学んでいった。

 

 今思えば、あの出来事は、北海道の人たちの意識を変えただけでなく、私が大学で何を学ぶべきなのか、そういう姿勢が芽生えた瞬間だったのかもしれない。

 

 非破壊レーザーの研究に興味を持ったきっかけも、音絵の一言だった。

 

「葵。堤防の研究、どう?」ある日の授業終わり、音絵が一枚の論文を片手に、私へ声をかけてきた。「新技術、非破壊レーザー、というのがある」

 

「非破壊レーザー?」

 

 それまで、テニスでも、学校生活の中でも、破壊的なレーザーしか打ってこなかった私は、音絵の言葉にときめきを感じた。受け取った論文を読むと、その新技術は堤防を全く壊すことなく、内部の弱い部分を覗き込めるというものだった。

 

 まさに、これだ!

 

 私は目を輝かせた。

 

 それを境に、水理学という大きな学問の括りから、堤防の維持管理について、私は興味を移した。いや、興味の深化と言えばいいのか。同時に、河川工学の技術者として何ができるのか。私はなんとなく自分の将来を描いて、どういう仕事をしたいのか、それを深く考えるようになった。

 

「音絵は、水理学系の研究室には、行かないの?」

 

 どうせなら音絵と一緒に同じ研究をしたいな。私はこっそりと、胸の内にそんな考えを秘めていた。けれども、音絵は苦笑いを噛み締めながら、首を横に小さく振った。曰(いわ)く、「水理学、ちょっと、苦手」とのこと。

 

 その後、音絵が大学の教務課で印刷した成績表をこっそりと覗き見たことがあった。優の評価がずらりと並んだのを見て、私は頭の芯が痺れてクラクラしたことを覚えている。涼しい顔をして、大学の最高評価を根こそぎ掴み取る彼女の頭の良さは、他に頭が良い学生と比較しても、次元がまるで違っていた。私なんかはとても、比肩(ひけん)するに値しない。

 

 だから、たまに考えてしまう。馬鹿らしいと笑われるに決まっているけれど、琴葉音絵という人物こそが、地球外からやってきた天女(てんにょ)のような存在なのかもしれないと。

 

 車のルームミラーから、こっそりと後部座席を伺う。彼女はまた、黙々と文庫本を読みふけっている。ここからでは、どんな本を読んでいるのかはわからない。

 

 私は今まで、彼女の頭の中で構築された世界を最大限に享受しているけれど、逆に、私という存在が彼女へ何かを分け与えているかと聞かれると、わからなくなってしまう瞬間がある。

 

 そして、そのことを考えてしまう自分が、なんだか、悲しいと感じている。

 

 

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