言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

理系コンストラクション【第1号 モーメントゼロ④】

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1.モーメントゼロ④

 

 

「ねぇ、何見てるの?」

 ちょうど小さな画面の中に、琴葉先輩の写真が表示された時だった。瑞希がハンカチを片手に席へ戻って来た。

「この人、知ってる?」

 俺はスマホの画面を見せた。白い大きなスクリーンの前で、パソコンを操作しながら、何かを発表している姿だった。それを見た瑞希の表情が曇る。

「……知らないけど。誰? 工学部の人? 学部が違ったら、全然、交流ないからわからないよ」

「この人、今日から始まった構造力学っていう講義でさ、ティーチングアシスタントで来てたんだ。友達とか先輩にどんな人か聞いてみたら、すごい人なんだってわかって、びっくりした。工学部を今年、首席で卒業したんだって。確かに、話をした感じ、すごく頭が良さそうな人だったな」

「ふーん」

 さっき得た情報を、自慢するかのように早口でまくし立てる。瑞希はあまり興味を持っていないようだった。席につき、ハンカチを掌の中で折り畳んだり、広げたり、弄んでいる。その目元が少しだけ鋭くなり、表情が硬くなっていた。

「……綺麗だね、その人。頭もいいんだ。健くん、好きそう」

「まぁ、見た目は綺麗なんだけど。性格に難ありって言うか。さっきも演習の時にさ、わからないとこ教えてもらいたかっただけなのに、冷たくあしらわれてさ。参るよ」

 俺はその時のことを思い出しながら、弾んだ声で話をするが、「ふーん」と瑞希が不服そうに口を尖らせていた。

「そうやって、こっそり人のこと調べて、その人のいないところでなんかさ、いろいろ言うなんて、よくないと思う」

 悪いことをした子供を諭す先生のような口調だった。さっきまで明るく、楽しく、釣り合いが取れていた瑞希との空気が、少しだけ歪(いびつ)になった感じがした。俺はスマホを握り締めたまま、喉の奥にチクリと、小さな魚の骨が突き刺さったような痛みを感じた。

「……なんだよ。悪口言ってるわけじゃないんだから、別にいいだろ。どうしたの」

「健くんが、女の人の話をするって、初めてだから」

「そうだっけ?」

 頭の中で記憶をまさぐる。孝太とかの前では、よく好みのタイプの女性とか、好きな芸能人やアイドルの話とか、そういう話題を出す。確かに瑞希の前では、会ってない間に何をしてたとか、何があったかとか、お互いの近況報告しか、してないような気がした。

 瑞希はハンカチを綺麗に折り畳み、鞄の中へしまっている。代わりにスマホを取り出して、時間を確認していた。四時二十三分という数字が見えた。

「別に、いいよ。私もあんまり、健くんに会いたいって言わないからさ。週一で会える綺麗で、頭のいい先輩の方が、健くん、本当はいいんでしょ?」

 瑞希は視線を落としたまま、尖った声を突き刺してくる。喉元に絡みついた不満を、すべて吐き出してくるような感じだった。

「なんだよ、そうは言ってないだろ。なんだか不思議な人に会ったっていう、報告だよ。それに、俺は瑞希に、いつも会いたいと思ってるよ。毎日でも、講義の合間でも、一緒にご飯とか食べたいし」

 その俺の言葉に瑞希が反応し、顔を上げる。

「それなら、ちゃんと言ってよ」

 視線と声が冷たく交わり、俺と瑞希の間の空気が暗く沈んだ気がした。しばしの沈黙。

 今まで会いたかった気持ちと、言いたくても言い出せなかった気持ちが、胸の中で複雑に混ざり合い、胃の中へ一気に流れ込んでくる。なんだか瑞希に気を遣っていた俺が、バカみたいだと思った。

「そんなのわかるじゃん……」気づいたら勝手に声が出ていた。「瑞希には、俺から猛烈アタックしたんだから。いつも会いたいことくらい。瑞希は、本とかたくさん読んでいろんな物語を想像しているのに、俺の気持ちは想像できないのかよ」

 言っちゃいけないことだった。それに気づいたのは、瑞希が唇を噛み、涙が溜まり始めた瞳で俺の方を睨み返した時だった。瑞希の気持ちがみるみるうちにしぼんでいくのが、目に見えるようにわかった。空気が抜けた風船のように。

「……わかんないよ」小さく、擦れた声だった。「言わないと、わからないよ。私は、そんなにたくさんのことをきちんと理解できるほど、器用じゃないもん。もう、いい」

 瑞希は財布から千円札を取り出し、机の上に置いた。鞄をぶら下げ、席を立つ。

「怒るなよ」

「怒ってない。健くん、私の気持ちなんて、やっぱり全然わかってない」

 瑞希は俯いたまま、俺の横を通り過ぎ、足音を響かせながら店を出て行った。周りに座る学生たちは、俺たちの会話に耳を傾けていたのか、視線を迷わせつつ、戸惑うように会話を再開していた。

 まだ付き合って一か月しか経っていない上に、あまり二人で会ってもいないのに、喧嘩してしまった。その事実が俺の頭を支配して、居座っていた。何も考えられない。

 ――モーメントがゼロになる点はどこか答えよ。

 不意に構造力学の問題文が、脳のてっぺんから、心臓の中へ流れ込んでくる。鼓動は不安定で不規則だった。呼吸がうまくできなくて、息苦しかった。

 身体の中に流れる血液が、全然釣り合っていないぞ、バランスが取れていないぞと文句を言いながら暴れているようだった。

 あんな問題、俺には解けない。もし、さっき簡単に解くことが出来たんだったら、瑞希と喧嘩など、していなかった。

 

 

 気がついたら、ひと気のない静かな廊下を歩いていた。工学部の研究棟。構造力学の研究室へつま先が向かっていた。修士一年と書かれたパネルが貼ってある扉は、さ迷う誰かを招き入れるようにひっそりと開いていた。

「佐野健(さのたける)」

 抑揚のない声が耳へ滑り込んでくる。視線を向けると、部屋の奥で、琴葉先輩が背筋をピンと伸ばし、美しい姿勢で椅子に腰かけていた。俺のことをフルネームで呼んでくれた。どうやら、さっきの演習で、本当に俺の名前が脳へ刻み込まれたらしい。

 独特の雰囲気が漂う部屋だった。無味乾燥とした香りと調和した佇まい、という言葉が出てきた。

 壁一面に敷き詰められた本棚。構造力学や物理学、数学など、分厚いハードカバーの本が詰まっている。座屈とか、地震とか、専門用語が書かれたタイトルの本もいくつかあった。あとは、綺麗に年度分けされたファイルが規則正しく並んでいる。新しいものから順番に令和元年度、平成三十年度、二十九年度……と並んでいた。論文集と書いてある。

 俺は森に集まる昆虫のように、その空間へゆっくりと足を踏み入れた。琴葉先輩の座る机へ近づく。

 先輩が座る机には、デスクトップのパソコンが二台とノートパソコンが一台、置かれていた。ノートパソコンは閉じられている。パソコンモニターは二つ並んでいた。

 先輩の手の届く範囲には、しおりの挟まった新書サイズの本。『構造設計の詩法』というタイトルだ。聞いたこともない本だ。すぐ傍にマグカップが置いてあったが、中身は空だった。机の端っこには、誰かからもらったのだろうか、菓子折りの箱が封を開けられないまま置かれている。それ以外は、何もなく、机の上は整然としていた。

 パソコンモニターの横に、小さな木枠の写真立てが置かれていた。こちらからは何の写真が飾られているのか見えなかった。

「モーメント。わかった?」

 先輩が尋ねてきた。さっきの演習と同じく、淡々とした声だった。

「……わかりません。全然」

「なぜ」

「そもそも釣り合うって、なんですか」俺は呻くように言った。「そこには力が働いているのに、力の総和がゼロだなんて。もしも俺の両手を誰かと誰かが思いきり引っ張って、どんどん力が大きくなっていったら、俺の身体はちぎれますよ。全然釣り合ってないじゃないですか。俺にはそのすれ違う力になんて、耐えられません」

 俺の並べた言葉に琴葉先輩は、まつ毛を何度も瞬いていた。まつ毛は長くて、丁寧に手入れされているので、瞳がより大きく見える。宇宙のように真っ黒で綺麗すぎる、と思った。この世界の色をすべて、吸い込んでいるように思えた。

 机の引き出しを開ける音が聞こえた。何かを取り出して、おもむろに立ち上がり、俺の方へ近づいてくる。

「見て」

 琴葉先輩の左手には、どこにでもあるような割り箸が握られていた。その箸を自分の右手の人差し指へ静かに置く。左手を離すと箸はゆっくりと左右に揺れ、危うく落ちそうになりながらも、指の上でうまくバランスしている。

「回転しない。モーメントの総和はゼロ。釣り合っている。ヤジロベー。力のつり合いの理想形」

 割り箸のゆらゆらとした動きに合わせて、琴葉先輩が言葉を転がす。ヤジロベーなら、俺も知っている。子供の頃に買ってもらった不思議な顔をしたヤジロベーが、今にも故郷の玄関に飾られている。

 先輩は何が言いたいのか。俺にはよくわからなかった。

「今度は」指に置いた箸を掴み、俺の方へ差し出した。「私が箸を掴む。はしを持って」

「はし?」

「箸の端。指で握って」

 ダジャレかよ。突っ込みたくなったが、琴葉先輩は真剣な表情だった。俺は箸の端っこを指で握る。割り箸の両端を握り合う男女。他人から見ると、不思議な光景だ。

「力。下の方へ向けて」

 指先に力を込める。先輩の指先から箸が離れ、くるりと回転して、俺の親指の付け根に当たった。

「モーメントは、距離と力加減。それだけの関係」

「距離と力加減?」

 そう、と琴葉先輩が頷く。俺の指に挟まった箸をもう一度指で掴む。今度は端っこではなく、少し真ん中に寄っていた。

「私が、箸をもつ距離を、あなたの指へ近づける。回転させるには、あなたはさっきより、大きな力を込める必要がある」

 俺は指に力を込める。確かに今度はなかなか動かなかった。

「あなたの力が大きくなると、どこかで、また釣り合う」

 箸が少しだけ揺れ始める。

「更に大きくすると、また回転する」

 先輩の指から箸が離れる。また、親指の付け根にあたる。先輩が再び箸を掴む。

「あなたの力は、どんどん大きくなっていく。再び釣り合うためには、どうすればいいと思う?」

 また少し、琴葉先輩の指が、箸を握る俺の指へ近づいた。力を込めても、箸はなかなか動かなくなった。俺は更に力を込める。

「……距離を、更に、近づければいい」

 先輩の指と俺の指が触れそうになるくらい近づいた時、彼女は「ね?」と首を少しだけ傾げて、黒い瞳を俺の方へ向けた。その指の距離と仕草に、なんだか胸がどきどきした。

「ここが、私とあなたの、モーメントの総和が、ゼロとなる距離」

 箸は固くて大きな岩のように、ピクリとも動かない。完全に釣り合っている。むしろ、俺の指先の力が押し負けているような気がした。

「さっきの発想。面白い」

 琴葉先輩が指の力を緩め、俺の指から箸を取り上げた。再び自分の指にゆっくりと乗せ、ヤジロベーのように揺らしている。

「釣り合っているように見えても、この箸がもし、重い鉄の塊だったら。私の指は、折れてしまうかもしれない。釣り合っているようで、全然釣り合ってない。モーメントゼロって、意味がわからない。なるほど。作用する力だけではなくて、力を受ける材料の耐久力も、必要だった。あの問題は、そこを書き忘れていた。さっきは、あなた、それを聞こうとしていた。嘘つきなんて言って、ごめんね」

「え、いや、そういうわけでは……」

 俺は戸惑った。演習の時よりも、先輩は饒舌(じょうぜつ)になっている気がした。もしかすると、物理学とか構造力学とか、学問を語るときには、省エネモードから通常モードへ切り替わるスイッチが入るのかもしれない。相変わらず、声に抑揚がなくて、淡々としていて、感情が込められている感じはしないけど。

「疑問を持つこと。学生には、とても重要」

 先輩はもう、俺の声が耳に入っていない様子だった。うんうんと頷き、机の引き出しから今度は木製の小さなコマを取り出した。表面に赤と黄色の色が塗られていた。

 今度は何を始めるつもりだ、と俺が面食らっていると、先輩がコマを机の上に置いた。

「次は、これ」先輩がコマを勢いよく回す。「見てて」

 木のコマが机の上でくるくると回っている。コマの軸と机の摩擦する音が規則正しいリズムを刻み、ゆっくりと低くなっていき、やがてコマは傾きながら動きを止めた。部屋の中が静まり返る。

「これが、どうしたって言うんですか?」

「摩擦抵抗。空気抵抗。知っているでしょう?」

「はい。……えっと、なんとなく」

「この世界に、摩擦抵抗も、空気抵抗も無ければ、このコマは永遠に回り続ける。もしも。このコマが自分だったら。どう感じる? 永遠に、ただ回り続けるだけの時間」

 先輩は淡々と同じ動作を繰り返し、コマを回し続ける。回っては、止まり、止まってはまた、くるくる、くるくるとコマが回る。俺は永遠に回り続ける世界を、頭の中で想像した。

「そんな世界、楽しい?」

 先輩の声が、想像した世界の中に響いてくる。なんだか、眩暈(めまい)と吐き気がしてきた。胸が苦しくなり、舌の上に痺れるような痛みを感じた。

「人間ってね」先輩がコマを目線と同じ高さまで指先でつまみ上げながら、ゆっくりと呟く。「他人とすれ違い、摩擦を感じなければならない。そうやって、都度、立ち止まっては、自分の重さを、しっかりと感じ取る。そうすれば、力加減を調節できる。回転する速度とか、釣り合いのバランスとか。この世に、命を授けられた人間はすべからく、常に、自分の存在を、問い続けなければならない」

 やけに哲学的なことを言う。先輩の意図する言葉の意味が、よくわからなかった。自分の存在を問い続けるという言葉は、どこかで聞いた気がする。人間は考える葦(あし)とか、そういうのだ。

「構造こそは土木工学の母国語であり、土木工学というものは構造を通じて思考し自己を表現する絵師である。これ、私の好きな言葉」

 その言葉は聞いたことがないものだった。琴葉先輩の声に初めて、感情が込められていた気がした。瞬きをして、俺は尋ねる。

「それは、誰かの有名な言葉ですか?」

「仁(じん)先生の言葉。建築家、オーギュスト・ペレの、オマージュ」

 オマージュか。自己を表現する絵師。元の言葉はわからないけど、さっきの哲学的な言葉よりは、なんとなく言ってることがわかるような気がする。

 土木工学――社会インフラの基本は、土台だ。すべての構造物は、土台の上で成り立っている。土台が太くなることで、俺たちは安心して生活を送ることができて、大きな力をつけることができる。

 自己を表現するとは、何か。人には誰だって、得意分野がある。俺は数学。瑞希は文学。大学でその得意分野を使って、更に力をつけたいと願ったから、俺たちは今、この場所にいる。頭の中で知っていることや、実際に起こったこと、経験したことを誰かに話して、聞いて、会話のバランスを保っている。

 俺は大学で、本当は何を学びたいのだろうか。ふとそんなことが頭に浮かんだ。

 高校二年生の頃、親に連れて行ってもらった四国の香川県で、瀬戸内海を結ぶ瀬戸大橋を見た。その壮大さに感動し、自分で橋を設計したいという夢を思い描いた。だから、この社会インフラ工学科へやってきた。でも、橋の設計の仕方については、まだ何も知らない。どんな会社へ行ったら、そんな仕事ができるのかも、わからない。今、なんとなく考えてみたら、構造力学の知識がとても重要な感じがしてきた。まさにモーメントと釣り合いだ。孝太も言っていた。構造力学の基本中の基本であると。

「……構造力学って」言葉が夢を思い出したように、口から溢れてきた。「俺も、得意になれますか?」

「疑問点。今みたいに、明確に。そしたら、教えてあげる」

 琴葉先輩が頷く。その瞳から、優しさに包まれたような心地良さを少しだけ感じた。

「理系は」先輩はコマと割り箸を机の引き出しにしまい、椅子に座った。「数字ばっかり、並べてる。でも、なにかを伝えるためには、言葉も、重要」

 また、単語で言葉を区切る元の口調に戻りつつあった。

「作用する力が、絶妙に釣り合っている土木構造物、知ってる?」

 突然の質問に、俺は首を振る。

「力の釣り合いを把握して、バランスよく、効率的に設計した構造物が、アーチ構造。この街には、北海道に二つしかない、アーチダムの一つがある。今度、行ってみたら? 秋には、紅葉が綺麗。例えば、彼女と一緒に。今教えた、構造力学のウンチクと割り箸でも、一緒に携えて」

 琴葉先輩は悪戯っぽい微笑みを浮かべながら頬杖をついていた。その瞳はきらりと光を帯びていて、唇はからかうように吊り上がっていた。もう片方の手には、カフェ、プランドルの持ち帰り用カップが、俺に見せびらかすよう、いつの間にか握られていた。さっきまで嗅いでいた有機栽培コーヒーの香りが鼻をくすぐった。

 俺は、かあっと頬が熱くなったのを感じた。

 この人、確信犯だ!

 たまたまさっき、コーヒーを買いに来ていたのだ。俺と瑞希の言い争いは、たぶんだけど、全部見られていた。俺の抱えている悩みと琴葉先輩に対する心の叫びが、すべて見透かされていたような気がして、なんだかとても悔しくなり、恥ずかしくなった。

「……女の子って、ウンチク嫌いですよね。時に、文系女子は」

「私は、好きよ」耳元の髪をかき上げながら、カップに唇をつけ、コーヒーを一口飲む。「……人間が、生きているうちに知り得る情報なんて、限られているから。私は世界をもっと、知りたいと考えている」

「それはきっと、琴葉先輩が、かたい女だからです」

 俺は悔しさと恥ずかしさのお返しに、周りが思っている琴葉先輩の異名を発した。先輩は、じっと、丸い瞳で見つめ返してくる。ダメだ。この人にこれ以上見つめられると、心の奥が治りかけのかさぶたのように痒(かゆ)くなって、頭の芯がヤジロベーのように揺さぶられる。

「……そうかもね」

 冷たいような、諦めのような、そんな表情で微笑み、まつ毛を伏せた。かき上げた髪の毛が、ふわりとまた元の位置へ戻る。

 この人は、世界を憎んでいるんじゃない。自分が見える世界を、まずは否定して、拒絶するのだ。その後、誰かに問いかけてる。自分が存在しなければならない位置を。どこに自分が力点を置いているのか。そんな感じがした。よくわからないけど。

 でも、理解したことが一つだけあった。琴葉先輩の指の力は、とてもかたくて、強くて、重いということだ。

「演習は?」

 コーヒーを飲みながら、尋ねてくる。その瞳はもう、目の前のパソコンへ向けられていた。

「先輩と話しているうちに、理解できました。明日、提出します」

「了解。待ってる」

「ありがとうございました。失礼します」

 俺は頭を下げ、さっき通ってきた廊下を引き返した。心なしか、足取りは軽かった。重苦しい気持ちを、どこかへ落としてしまったように。

 歩きながら、まだ箸の食い込んだ跡が残る指先を見つめ、人差し指と親指をこする。

モーメントゼロ。力と力が釣り合う絶妙な距離、か。

 琴葉先輩は、不思議な人だ。そして、近づきがたい人だ。でも、俺はこれからも、あの人に構造力学を教わりたいと思った。

 一か月前。瑞希と付き合い始めた日の光景が、頭の中に浮かんだ。

 気温がまだ氷点下で、星が綺麗に見える夜だった。文学部のそばで開かれていたキャンドルアート。有志で参加者を募って、バケツで凍らせた氷の中に、ろうそくを灯して並べるイベントだった。

 赤や黄色、青やオレンジなど、色とりどりの光がぼんやりと灯る中、俺は瑞希に告白した。

 朱色のマフラーに顔をうずめ、紺色のダッフルコートの身を包んだ彼女は、白い息を長く吐き出しながら、その息の行く先を追いかけるように、高く澄んだ空を見上げていた。

「……私ね、この大学に入るの、結構、背伸びしちゃったの。ほら、私、見た目も小さいでしょう?」

 瑞希は自分の頭を掻きながら、苦笑していた。手袋のサイズがやけに大きく見えたので、なんだか子供っぽい仕草だった。

「背の小ささは、関係なくない?」

 俺はなんとか笑顔を繕っていた。緊張は頂点に達していて、外の寒さで身体が震えているのか、なんだかよくわからない状態だった。

「偏差値もギリギリで、頭もそんなに良くないし。なんとか合格できたけど、高校の頃は勉強ばかりしてたの。恋愛経験だって、そんなにないし。すぐ忘れものもするし。二つのことを同時にやろうとしたら、焦っちゃうし。感情的だし。そんなだから、全然可愛くないし。性格も、実は悪いんだ。……こんな私で、いいの?」

 だって、その全部が好きだから。俺は力強く、頷いた。

「……ありがとう」瑞希が頬を赤く染め、ろうそくのように燃え上がる笑顔を灯らせた。「私、頑張るね。健くんといると、なんだか、頑張ろうって気持ちになれるから」

 その時は、瑞希が何を頑張ろうとしているのか、俺は深く考えていなかった。ただ、告白したことにオーケーをもらえたことが嬉しくて、気持ちが高ぶっていて、何も考えられなかったから。

 瑞希が俺のことを好きな理由。喧嘩をしてしまってから、ようやく気が付いた。

 俺は立ち止まり、スマホを取り出した。熱の残る指先で画面を操作し、ラインを開く。

『今日の夜、会いたい。話があるんだ。バイト、終わるまで待ってる』

 瑞希に、きちんと謝ろう。俺がきちんと過ちを認めて、成長すること。瑞希だけをこれからもどんどん好きになること。そうやって、俺の気持ちがこれからも大きくなって、彼女との距離が、縮まっていけばいい。

 琴葉先輩が教えてくれた構造物を思い出す。絶妙に釣り合った構造のアーチダム。秋には紅葉が綺麗。

 まだ桜も咲いていないけど、瑞希に聞いてみよう。俺たちの未来はまだ、果てしなく、遠い場所にあるのだから。

 そして、いい具合にバランスが取れる位置を、近づけていくんだ。二人同時に。

 

 

 

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 あとがきのようなもの。

 

 まだ初々しい大学生カップルの恋模様を、物理学のモーメントに例えて紡いでみました。

 このお話のテーマは『対比』。

 心の釣り合いが取れていたはずなのに、一歩引いてみたら、バランスを崩す。誰かに少しでも目を向けてしまったら、心が揺れ動く。

 だけど、そんな摩擦やすれ違い、喧嘩があるから、お互いに好きだと気づく。

 簡単に言うと、そんな感じ。

 

 第一話、お終いです。

 今回の話は、自分が覚えていた物理学に色を添えて、比較的早く、話を組み立てました。

 次回は「非破壊レーザーに死角なし」というお話で、新技術を駆使した堤防点検にスポットを当てます。

 ちゃんと調べながら物語を書くので、更新はしばらく待ってね。

 

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