言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

理系コンストラクション【第1号 モーメントゼロ③】

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3.彼女との距離②

 

 先輩Aの証言(琴葉音絵(ことはおとえ)の同級生)

構造力学研究室の修士一年。今年の三月、社会インフラ工学科を首席で卒業し、大学院へ進学。研究室では、鋼材の座屈(ざくつ)や地震が起こった時の振動特性に関する解析を研究。」

 

 友人Bの証言(先輩が琴葉音絵と同じ研究室四年生)

構造力学研究室の小菅仁(こすがじん)教授――研究室の間では仁先生と呼ばれ親しまれている――指導の下、既に土木学会へ論文をいくつか出している、期待の大学院生。このまま博士課程まで進むのではと、もっぱらの噂。」

 

 友人Cの証言(飲み会の席で、修士二年生の間で広まる噂をたまたま聞いた)

「見た目は清楚、頭脳はかため。そのことから「かたい女」の異名を持ち、彼氏は恐らくいないと思われるが、サークル活動もしておらず、私生活が謎めいており、詳細は不明。ただし、その見た目と性格から、工学部の中では、先輩、後輩問わず、結構な有名人。なお、酒には強く、宴会の席で口説こうとした男どもを、日本酒の徳利の底へ沈めること数知れず。酒狩りの肩書を持ち、恐れられている(ただし、飲み会の席で聞いたので、多少、盛られているかも)。」

 

 応用数学演習の講義中、友人や先輩のネットワークを最大限活用して知り得た情報が、これだった。よくもまぁ、九十分でここまであの人のことを知ることができたものだ。ネット社会とは、恐ろしい。

 

 って言うか、首席かよ。その事実にまず、驚愕する。やってる研究も、難しい単語ばかり並んでいて、意味が不明だった。座屈って一体なんだ。振動特性とは? 俺とは次元が違う人のように思えた。おまけに、かたい特性とか、なんとか狩りとか、初期アビリティも完備。どこの異世界からやって来たんですか、あなたは!

 

 持ってるスキルも『座屈振動特性!』みたいな必殺技があるのかな。なにやら、カッコいい。こんなことを考える俺の方が根暗なサブカル男子っぽいなと苦笑していると、前の席に座る学生から一枚の紙が配られてきた。

 

 この講義も噂通り、演習問題があるのだ。問題文を読んでみると、こっちは構造力学と違って、簡単そうだった。高校数学の微分積分の基礎。数学だけは無駄に得意だったから、さっさと解答を並べ、真っ先に講義室を飛び出した。隣に座っていた孝太は「まじかよ……」という顔をしてこちらを見ていた。

 

 琴葉先輩のことを考えながら、工学部の建物を出た。同時に、スマホが震えた。瑞希(みずき)からさっきの返信が来たのだ。

 

『今、いつものカフェにいるよ』

 

 もしかして、家に帰らないで待っててくれたのかな。なんて期待してみる。

 

『じゃあ、今から行く』とすぐさま返信を送る。

 

 瑞希と会える。そのことを考えるだけで、俺の心は浮き立った。でも、彼女は今日、午後六時から八時まで家庭教師のバイトがあるらしい。だから、会えるのはほんの数時間だけだ。大学構内にあるカフェで一緒にお茶をしようという話になった。

 

 メッセージのやりとりを終え、カバンを背負い直す。流れる雲にうっすらと包まれた太陽は西の方へ傾いていた。頬を撫でる日差しは暖かいが、時折吹き付ける風は冷たかった。長袖シャツの襟(えり)をかきわけ、まだ肌寒い大学のキャンパスを俺は急ぎ足で駆け抜ける。

 

 雪がとけたばかりの道路沿いは、蕾(つぼみ)のままの桜の枝が風に揺れ、寒さに震えているようだった。北海道の春は、まだまだ先だ。

 

 工学部から歩いて数分の場所、文学部の建物の近くにカフェがある。Cafe&Room(カフェアンドルーム)、プランドル。森の奥にひっそりと佇んでいるログハウスのような外観をしたカフェだ。幹の太い白樺の木が地面から突き出ている。丹頂鶴のイラストが掲げられた扉を開けると、コーヒー豆の香ばしい匂いと焼きたてのパンのふんわりとした匂いが鼻をくすぐった。瑞希は隅っこの席で、文庫本を読んでいた。

 

 俺の姿に気が付くと、彼女は柔らかな微笑みを浮かべ、本を閉じた。

 

「何読んでたの?」と尋ねてみる。

 

「『私の百人一首』っていう本」瑞希が呟きながら、文庫本の表紙を見せてくれた。「二年生になって、さっそく日本文学演習っていう講義で課題が出てさ。短歌の心とは何ぞや。それをまとめなさいって」

 

「ふぇー」俺は変な声を出しながら、彼女の前に座る。「文学部って、そんな課題あるんだ。大変だね」

 

「一年生の頃は、基礎とか、概論とか、そういうのばっかりだったのにね。二年生は演習科目が多くなった気がする」

 

 エプロンをつけたカフェの店員が注文を聞きに来た。瑞希はホットカフェラテを飲んでいるようだった。カップの底に少しだけまだ残っていた。メニューを見ながら、俺は有機栽培コーヒーを頼んだ。

 

 私も二杯目を頼もうかなと呟き、瑞希は視線を迷わせている。

 

「二杯目は、おごるよ」

 

「え、悪いし、いいよ」

 

「待っててもらったから。おごらせて」

 

 コーヒーとカフェラテを注文し、俺は瑞希を向き合う。

 

 久しぶりに会った瑞希は、髪の毛をおろしていた。この前会った時まではポニーテールだったけど、クセのある髪は外側に大きく弧を描きながら肩を撫でている。結構、髪が伸びたなと思った。

 

 ぼんやりと見つめていると、俺の視線に気がついた瑞希がくすぐったそうに微笑みを浮かべた。

 

「なに? ぼんやりして」

 

「いや、別に……」

 

 やっぱり、いつ見ても瑞希は可愛い。

 

「工学部もさ」二杯目のカフェラテへ砂糖を注ぎながら、瑞希が話す。「講義のあとには、すぐ演習なんだってね。二年生からは、いろいろな実験とかもあるって聞いてるよ。健(たける)くんの方が大変そう」

 

 俺はコーヒーに口をつけた。瑞希と出逢ってからは、大人っぽさを演出するためにブラックで飲んでいる。舌を通り過ぎていくコーヒーは味の違いなんてわからないし、結構、苦いけど。

 

「数字ばっかりだから。俺、頭の中で計算するのは得意だからさ。勝手に、脳内で数式に変換される。活字の意図を理解する方が、俺には無理」

 

「私は、数字とかアルファベットとか見てると、頭がこんがらがって、爆発しちゃうよ」

 

 理系の人って羨ましいなー、と瑞希が笑う。こっちのセリフだよと俺も微笑み返した。

 

「私の紹介した本、読んだ?」

 

 まだ半分くらいしか読んでないけど、瑞希と付き合ってから、俺は少しずつ小説なんかを読むようになった。

 

「この前、ユーチューブで健くんが教えてくれた音楽動画見たよ。なかなか斬新な感じだね。思わず、ネットで買っちゃった」

 

 高校の頃は音楽なんてあまり聴いていなかったらしいけど、俺と付き合ってから、彼女は流行りの音楽をパソコンでダウンロードするようになった。

 

 二人で他愛のない話をしながら、一緒に笑い合う。

 

 こうやって、会話をキャッチボールする時間がいつまでも続けばいいのにと思う。だけど、どんなにコーヒーをゆっくり飲んでも、飲む量と比例して、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

 

 窓から差し込む日差しに、陰りを感じて、俺はなんとなく時計を見上げた。気付けば、もう午後四時を過ぎていた。俺も彼女のカップも、飲み物はほとんど残っていなかった。

 

 瑞希が手洗いに立ち、手持ち無沙汰になったので、俺はスマホを取り出した。孝太からラインでメッセージが届いていた。『琴葉先輩の論文を発表している写真を見つけた』とコメントが添えられ、どこかのサイトのURLが貼り付けられていた。

 

 「ねぇ、何見てるの?」

 

 ちょうど小さな画面の中に、琴葉先輩の写真が表示された時だった。瑞希がハンカチを片手に席へ戻って来た。

 

「この人、知ってる?」

 

 俺はスマホの画面を見せた。白い大きなスクリーンの前で、パソコンを操作しながら、何かを発表している姿だった。それを見た瑞希の表情が曇る。

 

「……知らないけど。誰? 工学部の人? 学部が違ったら、全然、交流ないからわからないよ」

 

「この人、今日から始まった構造力学っていう講義でさ、ティーチングアシスタントで来てたんだ。友達とか先輩にどんな人か聞いてみたら、すごい人なんだってわかって、びっくりした。工学部を今年、首席で卒業したんだって。確かに、話をした感じ、すごく頭が良さそうな人だったな」

 

「ふーん」

 

 さっき得た情報を、自慢するかのように早口でまくし立てる。瑞希はあまり興味を持っていないようだった。席につき、ハンカチを掌の中で折り畳んだり、広げたり、弄んでいる。その目元が少しだけ鋭くなり、表情が硬くなっていた。

 

「……綺麗だね、その人。頭もいいんだ。健くん、好きそう」

 

「まぁ、見た目は綺麗なんだけど。性格に難ありって言うか。さっきも演習の時にさ、わからないとこ教えてもらいたかっただけなのに、冷たくあしらわれてさ。参るよ」

 

 俺はその時のことを思い出しながら、弾んだ声で話をするが、「ふーん」と瑞希が不服そうに口を尖らせていた。

 

「そうやって、こっそり人のこと調べて、その人のいないところでなんかさ、いろいろ言うなんて、よくないと思う」

 

 悪いことをした子供を諭す先生のような口調だった。さっきまで明るく、楽しく、釣り合いが取れていた瑞希との空気が、少しだけ歪(いびつ)になった感じがした。俺はスマホを握り締めたまま、喉の奥にチクリと、小さな魚の骨が突き刺さったような痛みを感じた。

 

「……なんだよ。悪口言ってるわけじゃないんだから、別にいいだろ。どうしたの」

「健くんが、女の人の話をするって、初めてだから」

 

「そうだっけ?」

 

 頭の中で記憶をまさぐる。孝太とかの前では、よく好みのタイプの女性とか、好きな芸能人やアイドルの話とか、そういう話題を出す。確かに瑞希の前では、会ってない間に何をしてたとか、何があったかとか、お互いの近況報告しか、してないような気がした。

 

 瑞希はハンカチを綺麗に折り畳み、鞄の中へしまっている。代わりにスマホを取り出して、時間を確認していた。四時二十三分という数字が見えた。

 

「別に、いいよ。私もあんまり、健くんに会いたいって言わないからさ。週一で会える綺麗で、頭のいい先輩の方が、健くん、本当はいいんでしょ?」

 

 瑞希は視線を落としたまま、尖った声を突き刺してくる。喉元に絡みついた不満を、すべて吐き出してくるような感じだった。

 

「なんだよ、そうは言ってないだろ。なんだか不思議な人に会ったっていう、報告だよ。それに、俺は瑞希に、いつも会いたいと思ってるよ。毎日でも、講義の合間でも、一緒にご飯とか食べたいし」

 

 その俺の言葉に瑞希が反応し、顔を上げる。

 

「それなら、ちゃんと言ってよ」

 

 視線と声が冷たく交わり、俺と瑞希の間の空気が暗く沈んだ気がした。しばしの沈黙。

 

 今まで会いたかった気持ちと、言いたくても言い出せなかった気持ちが、胸の中で複雑に混ざり合い、胃の中へ一気に流れ込んでくる。なんだか瑞希に気を遣っていた俺が、バカみたいだと思った。

 

「そんなのわかるじゃん……」気づいたら勝手に声が出ていた。「瑞希には、俺から猛烈アタックしたんだから。いつも会いたいことくらい。瑞希は、本とかたくさん読んでいろんな物語を想像しているのに、俺の気持ちは想像できないのかよ」

 

 言っちゃいけないことだった。それに気づいたのは、瑞希が唇を噛み、涙が溜まり始めた瞳で俺の方を睨み返した時だった。瑞希の気持ちがみるみるうちにしぼんでいくのが、目に見えるようにわかった。空気が抜けた風船のように。

 

「……わかんないよ」小さく、擦れた声だった。「言わないと、わからないよ。私は、そんなにたくさんのことをきちんと理解できるほど、器用じゃないもん。もう、いい」

 

 瑞希は財布から千円札を取り出し、机の上に置いた。鞄をぶら下げ、席を立つ。

 

「怒るなよ」

 

「怒ってない。健くん、私の気持ちなんて、やっぱり全然わかってない」

 

 瑞希は俯いたまま、俺の横を通り過ぎ、足音を響かせながら店を出て行った。周りに座る学生たちは、俺たちの会話に耳を傾けていたのか、視線を迷わせつつ、戸惑うように会話を再開していた。

 

 まだ付き合って一か月しか経っていない上に、あまり二人で会ってもいないのに、喧嘩してしまった。その事実が俺の頭を支配して、居座っていた。何も考えられない。

 

 ――モーメントがゼロになる点はどこか答えよ。

 

 不意に構造力学の問題文が、脳のてっぺんから、心臓の中へ流れ込んでくる。鼓動は不安定で不規則だった。呼吸がうまくできなくて、息苦しかった。

 

 身体の中に流れる血液が、全然釣り合っていないぞ、バランスが取れていないぞと文句を言いながら暴れているようだった。

 

 あんな問題、俺には解けない。もし、さっき簡単に解くことが出来たんだったら、瑞希と喧嘩など、していなかった。

 

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 文学部の演習内容は、完全なる想像です。

 

 

 

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