言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

理系コンストラクション【第1号 モーメントゼロ②】

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1.モーメントゼロ②

 

 

「お前、あれは流石(さすが)にないわ」

 目の前に座る孝太が肩をすくめ、ため息混じりのうんざりした声を上げている。

 工学部にある学生レストランは、天井、壁ともにガラス張りで、陽の光を余すことなく取り込んでいた。数多の学生が織りなす喧噪に交じって、俺と孝太は教科書が入った鞄を置き、長テーブルに腰かけていた。目の前には本日の定食メニュー――メンチカツ定食の皿が並んでいた。付け合わせにはキャベツの千切りとミニトマト、わかめと大根のみそ汁。柱に掛けられた時計の針は、長針、短針どちらも仲良く十二を指していた。

「でも、最高だったぞ。お前の名前はきっと、琴葉先輩の脳へ、深く刻み込まれたに違いない」

 ガラスコップに入った冷たいほうじ茶を口に含みながら、孝太がニヤついている。

 俺は綺麗なキツネ色に揚げられたメンチカツを頬張った。歯ごたえのある衣が小気味よい音を弾かせ、肉と一緒に舌の上で広がる。口の中はとろける旨味と香ばしい匂いでいっぱいになった。

 メンチカツをじっくりと噛み締めながら、演習中のやり取りを思い出す。

「あなた、名前は?」

 今日の問題、わからないんですけど、教えてもらえますか。そう伝えると、琴葉先輩は俺にそう尋ねてきた。沈黙の空気に包まれた講義室内では、その声は鋭く響き渡った。

「佐野健(さのたける)、ですけど。それが何か?」

 俺が自分の名前を答えると、先輩はワンピースのポケットからスマホを取り出し、何やら画面を操作し始めた。ソニー最新のエクスペリアだ。機種変更しようか悩んでいたものだった。

「……嘘つき」

 吐息から零れ落ちてきたような小さな声だった。

「へっ?」

「今日の問題。去年の、材料力学の講義。それと一緒」

 掌におさまったスマホの画面をこちらへ向ける。小さい画面の中に、何かの演習問題が映し出されている。目を凝らすと、『材料力学・第一回目演習』と書かれた横に、俺の汚い字で書かれた名前が見えた。提出済、と赤い印が押されている。まさか、今までの演習問題をすべて、スキャンしてスマホに入れているのか? 学生全員?

 スマホを再びポケットにしまい、琴葉先輩は大きな瞳で俺をじっと見つめる。

「何が疑問か。具体的に。解き方、忘れた? そんなわけない。さっき、仁(じん)先生が教えたはず。答えは一つ。今日の授業を、あなたは、聞いていなかった」

 単語が一つ一つ区切られたような、なんだか不思議な喋り方をする人だと思った。抑揚がなく、淡々としている。最低限の情報しか、言葉に発していない様子だ。おまけに澄んだ声をしているので、クリアな情報が劣化しないまま脳へ突き刺さってくる。教育を省エネルギー化すると、こんな感じになるのかもしれない。

 俺が何も答えずにいると、琴葉先輩はおもむろに、俺の前に置いてあるまっさらなノートを細くて白い指先でつまみ上げる。両手も持ち、ぱらぱらとめくる。紙の動きに合わせて、瞳が揺れ動いていた。やがて、ぱたんと閉じる。

 スマホを取り出したポケットと同じところから、小さな黄色い付箋(ふせん)と万年筆を取り出す。万年筆は軸が綺麗に磨かれていて、高価そうなものだった。付箋へ何かを書き込み、俺のノートに貼り付ける。小さな丸い字で『23』と書いてある。視線を上げると、琴葉先輩はそのまま踵(きびす)を返し、無言で、講義室の前へ戻ろうとしていた。

「あ、あの」

「教科書」

 歩きながら背中で鋭く呟き、教壇近くの椅子へ腰かけ、持ってきていたパソコンを開く。

 俺は諦め、付箋に書かれた番号のページを開いた。そこには、モーメントのつり合いに関する解説が載っていた。

 再び、椅子に座る先輩へ視線を向ける。その瞳はパソコンの画面に向けられていた。もう誰も私に話しかけるな。そんなオーラに包まれていた。

「結局、時間内に解けなかったのは、俺だけだし。つーか、あんな対応されたら、頭なんてもう、全然回らなかったよ。他の人の演習は、俺がコピペしないように全部回収されたし。帰り際、直接、先輩へ提出するように冷たい声で命じられたし。今週中に。あれは絶対、俺に対する報復だよ……」

「だから言ったろ。かたい女だって」

 孝太はいつの間にか、定食の半分を平らげていた。俺も腕が誰かに引かれるように箸を動かし、胃の奥へご飯をおさめていく。

 かたい女、か。琴葉先輩のかたいは、漢字では表すことができない。なんだかもう、仕草も言葉も、心と頭の中の思考も、全てがかたいと思った。

「なぁ、この演習問題ができたら、一緒についてきてくれよ。俺もう、一人であの人と会話するのが怖い」

「あの目は、世界のすべてを憎んでる目だよ。俺だって、近づきたいくないね。近づいたら、こっちまで憎悪の炎で焼き尽くされそうだ」

 孝太がワザとらしく震え上がる。

 世界を憎んでいる、か。確かにそうかもしれない。なんだか世界のすべてを、生まれついた時から疑ってかかっているように思えた。

 メンチカツ定食を平らげた俺は、鞄の中からさっきの演習問題を取り出した。

 

 次の構造物の中で、モーメントがゼロとなる点はどれか答えよ。また、各支点の反力と最大モーメントの値を求めよ。

 

「ところでさ」孝太へ視線を向けた。「モーメントって、何だっけ?」

「だからお前、それ、去年の材料力学でも習ったぞ。……単位、取れてたんだろ?」

「全然覚えてない。たぶん、ギリギリだったと思う。物理系、苦手なんだよな……」

「お前は、工学部を舐(な)めてる」

 モーメントとは、回転の原動力のことだ、と孝太が説明する。

「支点と力点の距離が長ければ長いほど、モーメントの力は大きくなるんだ。要するにてこの原理と一緒だよ。例えば、メンチカツを挟む場所が箸の先っぽだったら、少し重く感じるだろ? で、この演習に出ているモーメントがゼロとなる点って言うのは、回転する力がゼロとなる点はどこかってことを聞いているんだよ。この世にある動いていない構造物ってのは、基本、力の釣り合いが取れて、バランスが取れている状態だからな。作用する力と反力の総和はゼロになるんだ。それが物理学だ。構造力学の基本中の基本だぞ。覚えとけよ」

 さすが、成績表は『優』をかっさらう男。きちんと物理現象を理解しているのか、教え方がうまい。紙に図解までしてくれる。

「まぁ今日の演習は、高校物理さえわかっていれば、簡単だったけどな。仮にも受験生だったんだろう。今日は夕方講義もないし、図書館でちょちょいとやって、提出しちゃえば?」

「今日は、午後からデートなんだよな。たまたま瑞希が、午後の講義が休講になったんだって。久しぶりに会えそうだからさ」

「え? お前、午後イチの応用数学演習、出ないの?」

「代返しといてくれない?」

「冗談じゃねえ。あれも構造力学と一緒で、演習課題を最後に提出するらしいぞ。って言うか、先生がかなり細かいって話だ。出席の時、きちんと一人一人、どこで声を上げているか、チェックしてるとか。代返してるやつ、単位落としたって、サークルの先輩から聞いたことあるぞ」

「……そうか。でもまぁ、一回くらい……」

「最初の一回目から講義をサボる奴は、絶対に二回目もサボるね。断言するよ」

 孝太はテーブルにゆっくりと頬杖をつき、食事が終わり席を立ち始めた学生たちへ視線を向ける。

「……ったく。瑞希ちゃんはなんで、お前みたいな不真面目な奴と付き合ってんだか。お前にはもったいない。あんなに可愛いのに。他にいい男いるだろうに」

「うっせぇ。言うなよ、それを」

 孝太の言葉が胸を突き刺した。そのことを、否定できなかったから。

 スマホを取り出して、ラインを開く。

『健くん、今日の午後は、本当に講義ないの?』

 大辻瑞希(おおつじみずき)と表示されたトーク画面を開くと、新しいメッセージが届いていた。

 彼女は、文学部人文科学科の二年生だ。

 去年、学内のイチョウ並木が綺麗に色づいていた頃だったから、秋の終わりだ。たまたま講義で出た課題について調べ物をしようと、普段は行かない大学の図書館へ足を運んだ。調べ物を終え、外に出ると、冷たい雨が激しく降っていた。どうしようかと空を仰ぎながら途方に暮れていると、後ろから声をかけられたのだ。

「傘、差し上げましょうか?」

 振り向くと、図書館の入り口に可憐な笑顔を咲かせた背の低い女の子が立っていた。その小さな腕には、二本の傘が抱えられていた。

 髪型はポニーテールだった。耳より低いうなじのあたりで髪の毛を束ね、毛先が肩のあたりに伸びていた。まだ高校生から抜け出していないような幼い顔立ちで、自然なメイクが素朴な印象を受けた。俺を見上げるような上目遣いの瞳は、降り注ぐ雨粒を映して輝いていた。

「実は、この前、図書館に傘を忘れてしまっていて。安物で申し訳ないんですけど、よければどうぞ、好きな方を使ってください」

 そう言うと彼女は、はにかんだ笑顔と一緒に、傘の柄を差し出した。どちらもコンビニで売っているようなビニール傘だったけど、黄色と水色で、少しだけオシャレな感じがした。俺には彼女が、金のオノと銀のオノを持つ女神のように見えた。

 べたな展開だった。だけど、図書館で雨の日に傘を借りるというシチュエーションが、俺が高校の頃に思い描いていたキャンパスライフそのものだった。何より童顔の笑顔とドジっ子的な振る舞いが、俺の積み上げてきた女性像を破壊した。本当にこんな子が実在したのだ。大学は、日本は、世界は広かった!

 その瞬間、恋に落ちていた。どうやら俺は、自分の心を彼女の中に落としてしまったらしい。

 一目ぼれみたいなものだった。苦笑いしながら「返さなくていいです」と言われた傘を無理やり返し、スマホの連絡先も聞いて、猛アタックした。彼女の目に敵うように、必死に自分を磨いた。それまで興味を持たなかった流行りの服装、靴、髪形。バランスを取ろうとしたのだ。似合いの男になるように。

 大学のキャンパスが広すぎて、工学部と文学部の建物は少しだけ遠かったけど、自転車を飛ばして何度か一緒に昼食を食べたり、出会った図書館で一緒に勉強したり、そんなことを繰り返しながら、ようやく先月の初めに交際のオッケーをもらうことができた。実はまだ付き合って一か月も経っていないのだ。

 瑞希は一緒にいると、よく笑う子だった。でも、「会いたい」と彼女から言われることは、まだ一度もなかった。

 だから、俺は少しだけ不安に駆られていた。今だに『くん』付けなのは、付き合い立てだから仕方がないとして、既にすれ違いのようなものを感じてならない。俺の気持ちだけが大きすぎるのではないかと、なんとなく思っている。瑞希は恋人といる時間より、自分の時間や大学の勉強を大事にしたいのだろう。

 実を言うと、講義をサボってまで会うことは、迷っていた。瑞希はきっと、孝太の言う通り、不真面目な人が嫌いだと思う。会いたい気持ちと、嫌われたくない気持ちの狭間で、俺は今、大きく揺れ動いていた。

 瑞希は本当に俺のことが好きなのだろうか。よくわからなかった。

 結局、ラインには『ごめん、休講は俺の勘違いだった。夕方、時間があったら少しだけ会おう』と返信した。

 彼女に嘘をつくのはやっぱり、はばかれたから。

 

 

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