言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

理系コンストラクション【第1号 モーメントゼロ】

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1.モーメントゼロ

 

 

 ――この先生の研究室には、かたい女がいるらしいぞ。

 俺がその噂を聞いたのは、大学の二年生に上がって、自由なキャンパスライフがより楽しさを増してきた時、構造力学というつまらない講義が始まった時と、同時だった。

 午前中二コマ目の講義は、約五十人の学生が真新しいノートや教科書を机の上に広げながら、教授の背中へ真剣な眼差しを向けている。教授の指は、癖のある書体でアルファベットや数字などが並ぶ数式を次から次へと黒板に書き出している。講義室は窓から差し込む春の日差しを受け、静まり返っていた。チョークと黒板が擦れる小気味よい音だけが、規則的に耳へ届いてくる。

 俺は欠伸(あくび)を噛み殺しながら、後ろの方の席でまっさらなノートの上にシャープペンを投げ出し、スマホを触っていた。昨日はバイトで、寝たのは朝四時だった。ほとんど睡眠時間が取れていない。このままノートに突っ伏して眠ってやろうかと思っていたら、後ろに座る友人の孝太(こうた)からラインが送られてきたのだ。

 かたい女。

 研究室にいるということは、おそらく大学院まで進んでいることになる。それを踏まえて、初めて耳にする言葉の意味を、想像してみる。

 例えば、この科目。構造力学という言葉を初めて目にした時は、堅苦しくて難しそうだなという印象を持った。一年生の頃にも、材料力学だの、流れの力学だの、力学系は多少あったものの、それらの名前を貫いて、更に堅い存在をアピールする構造力学とは何ぞや。俺は首を傾げながら、表情を硬くして、もらったばかりの時間割を眺めていたことを思い出した。

 同じ工学科で四年生の先輩と、バイト先の居酒屋がたまたま一緒だった。昨日、同じシフトでバイトに入っていたので、ちょっとした休憩の合間、構造力学について所感を尋ねてみた。

構造力学かぁ。あれは、社会インフラ工学科の鬼門だよ」

 先輩はため息をつきながら、うなだれていた。聞くところによると、期末試験が難しすぎて、追試を受ける人、単位を落とす人が続出するらしい。先輩もその一人で、「次の追試で落ちたら、俺、卒業できないかも」と、冗談なのか本気なのかわからないような顔をしながら、同級生の間で言い触らすなよと笑っていた。名前だけではなく、どうやら卒業のガードすら固い科目のようだ。

 こんな感じで、かたい女と聞いて、俺がイメージするのは、顔の表情が硬いとか、口が堅いとか、男に対するガードが固いとか。そんな程度の語彙力(ごいりょく)しか持ち合わせていない。きっと、さぞ暗い女性なのだろうな。服装は田舎っぽくダサい古着で、顔の表情は髪が伸ばしっぱなしで眼鏡もしているからいつも暗く、唇をきつく結んで仏頂面。

 地味系サブカル女子。俺は見たこともない女性に対して、勝手にそんな烙印(らくいん)を押していた。だから、「おい、健(たける)。この女だぞ」と隣に座る孝太が肩をつついて顔を上げるまで、「大学院まで進む理系女子というものは、非リア充である」というカテゴリーに括(くく)っていた。

 琴葉音絵(ことはおとえ)。工学研究科社会インフラ工学専攻。

 そう書かれた学生証を首からぶら下げた女性が、今まさに目の前にいた。桃の花のような香りと共に、俺の前にひらりとA3の紙を残して歩いていく。講義の演習問題を学生一人一人に配る姿は、俺が勝手に「非リア充」とカテゴリー分けした女子とは、かけ離れたものだった。さっき想像した姿とは真逆だ。俺はそのかたい女と評される人物に、思わず口を開けたまま見惚(みと)れてしまった。最近、付き合い始めた瑞希(みずき)に、ラインでメッセージを送り返すのも忘れていた。

 春の桜を感じさせる、袖が長めのワンピース。耳を隠す程度に伸び、軽くウェーブした墨色の髪。目元は切れ長で瞳が丸い。柔らかそうな唇は微笑みをたたえ、都会に咲く可憐な一輪の花を彷彿とさせる。

 どこが地味系サブカル女子だよ、数分前の俺。どこがかたい女なんだよ、孝太。

「じゃあ、琴葉くん。あとはよろしく」

 さっきまで講義室の前で教鞭を振るっていたい教授は、手を軽く挙げながら琴葉先輩に声をかけ、少し急いだ様子で部屋を出ていった。彼女は頷き、「演習、始めて」と短い言葉を発した。見た目通り、声も明るく澄んでいて、広い講義室の中へ、凛(りん)と鈴のように響き渡った。

 この構造力学の講義は、最後に演習問題を解くことになっているらしい。琴葉先輩はどうやら、その演習問題の解き方を、さっきまで教鞭を振るっていた教授の代わりに、補佐することになっているようだ。いわゆる、ティーチングアシスタントと呼ばれるものだ。

 ちょうどいいではないか。開始直後に「この問題わかりません!」と手を挙げれば、あの可憐な女性と会話ができる。きっと清楚な微笑みをたたえたまま、優しく、丁寧に解説してくれるに違いない。ずっとスマホを触っていて、講義の内容も大して頭に入っていなかったし。

「すみません!」

 俺は目の前に置かれた演習問題を一行も読まないまま、勢いよく手を挙げた。

 そして、数分後に理解する。「かたい女」の意味を。

 

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