言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

こぼれた愛に、コロネーション

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こぼれた愛に、コロネーション

 

 

 愛に一度溺(おぼ)れると、心が渇望したとき、身体に染み付いてしまった愛が泣いているように思える。

 静かなジャズが流れるバーに来ていた。ピアノが主体のしっとりした曲調。それほど混んではいなく、カウンターの空いた席に腰を下ろし、メニューを眺める。

 色とりどりのカクテルが写真とともに順番に並んでいる。トパーズやエメラルド、ルビーの輝きを放っていて、ちょっとした宝石箱のようだ。インペリアル・フィズ、シェリー・フリップ、メリーウィドゥ、グラッドアイ、アフィニティ、ライラ、キール

 目についたのは、ギムレット。透明な色をしている。空っぽの愛を想像して、マスターにそれを頼む。今の私にぴったりだと思った。

 マスターが頷き、ドライ・ジンとライムジュースと氷をシェーカーに入れていく。蓋をし、手首のスナップをきかせ、慣れた手つきでシェークする。

 ショートカクテルのグラスに、無色透明の液体が注がれた。色を持たないからだろうか。私が流した涙の色に見えて、心の中でひっそりと微笑む。

 グラスが静かに目の前へ置かれた。指でつまむと、ひんやりとした。グラスの縁を唇へ運び、傾ける。辛みを含んだジンが舌にキレのある酸味を突き刺しながら、喉の奥へ流れていく。胸の中に冷え切ったライムの果実を放り込んだようだ。おいしい。お酒を飲んだのは、いつぶりだろう。日本を離れる時、職場の人に送別会を開いてもらった時だろうか。それとも――。

 グラスを置く。胸に溜まった切ない思い出を絞り出すようなため息が出た。ふと、右の頬に視線を感じた。見ると、席を一つ挟んで、隣に若い男性が座っていた。二十代後半くらいだろうか。私と歳が近い雰囲気がした。手元には私と同じショートのグラス。中身はほとんど残っていない。やや頬が赤く、瞳に迷いがあった。既に、結構飲んでいるのかもしれない。まつ毛が長く、目元が垂れ下がっている。物腰の柔らかな印象を受ける顔立ちだった。澄んだ表情をしていたが、私と目が合うと、眉を曇らせて、首を振る。

「すみません。そのお酒、てっきり、僕のものだと思ってしまいました。今飲んでいるものと同じものをもう一度、無意識に頼んだのかと」

「あなたも、ギムレットを?」

「はい。……僕も今日、失恋をしまして」

 失恋、という言葉に私の耳が微(かす)かに反応する。

「同じ会社の先輩でした。先ほど、そこの公園で想いを伝えてきましたが、ダメでした」

「そうですか」

「会社を辞めて、イタリアに飛ぶと。都市計画の勉強をしたいと、彼女は言っていました」

「なるほど」

 私はその先輩とやらの女心が、痛いほどにわかった。もちろん、この若者の気持ちも。こぼれ落ちた想いを吐き出すように若者が話を続ける。

「一目惚(ぼ)れ、みたいなものでした。会社に入って、先輩たちとの交流会があって、たまたま席が隣になって。話をしていると、仕事の考え方とか、人生観とか、驚くほど共感して。何より、見た目が凄く可愛いいんですよ。背も小さくて。その日のうちに、僕は恋に落ちていました。猛アタックの末、ようやく二人でデートできる関係になりました。一緒に流行りの映画を見たり。雰囲気のいいカフェへ行ったり、絵画の個展へ行ったり。秋には紅葉を見に、登山もしました。でも――」

 若者は言葉を切る。まつ毛を伏せ、残ったカクテルを一気に飲み干した。

 タイミングがいいのか、悪いのか、ジャズの曲が終わる。短い沈黙の後、次の曲が始まった。こぼれるようなウィスパーボイスが切なくて美しい、女性のボーカルソングだった。

「……実は私も今日、フラれたんですよ」

 つい、自分の気持ちも囁(ささや)きたくなった。

「理由を聞いても?」

「あなたの逆ですよ。……日本へ帰ってきたんです。数時間前まで、私は上海(シャンハイ)にいました。アンティーク家具の勉強をしたくて、会社を辞めて、日本を飛び出したのです。三年前に。向こうに同じく日本から来ていた男性がいましてね。結婚の約束までしていたのですが……」

 私はグラスを再び持ち上げ、唇へ運ぶ。さっき飲んだ時と比べて、苦みが幾分、薄まっているような気がした。

「……先日、父が亡くなりましてね。ショックでした。私には兄弟姉妹がいないので、母が独りきりになりました。母のために日本へ戻りたい。日本で一緒に働こう。そう言いましたが、彼は賛同してくれませんでした。自分は夢半ばで日本へ戻るわけにはいかない。私は夢と恋人よりも、家族を選んだ、というわけです」

「なるほど」

 私がさっき呟いた一言と、同じ一言を若者がこぼした。自分の想いを吐き出していると、なんだか身体が軽くなってくるのを感じた。私はゆっくりと頬杖をつき、誘うように若者の瞳を見つめる。

「今日はなんだか、飲みたい気分になりましてね。三年ぶりのお酒です。向こうではお酒を断(た)っていたので、久々に心がときめいています。……こんな私を、口説きたいと、思いませんか?」

「まさか。僕が愛した人は、来月からイタリアへ向かう会社の先輩だけですよ」

「そうですか。私は今、あなたを口説きたいと思ってますよ」

「……」

 若者は無言のまま、見つめ返してきた。私は続ける。

「たまに、考えるのです。愛とは何かと。ちょっとした、哲学的なものです。行き場を失ったこぼれた愛というものは、一体どこに行くのかと。仮に、私が今このグラスを右手で倒したら、あなたの身体へカクテルがこぼれていくでしょう。そんなふうに、私もあなたも敵わぬ愛に溺れて、こぼれ落ちたのです。こぼれもの同士、うまくいくかなと。そんな出会いがあってもいいのでは、と思いましたけど……」

「そんな理由で、僕は、人を好きにはなりませんよ」

 ぴしゃりと言われる。手の平で頬をぶたれたようだ。胸が締め付けられるように痛くなった。久々にお酒を飲んだからだろうか。私もどうかしている。

「ちょっと、お手洗いへ」

 次の言葉が出てこなかった。気まずい空気に耐えられなくなり、席を立った。

 鏡の前に立つ。数か月、伸ばしっぱなしの髪が肩を撫でていた。眉毛にかかった前髪を指でかき分け、自分の瞳を見つめる。

 今日は化粧もきちんとしていなかった。日本へ帰る飛行機から上海の街を眺めていると、なんだか涙が止まらなかった。赤くなった目元を隠すために、空港で軽く化粧は直したけど、心の痛みは無意識にこぼれ落ちていたようだ。今更後悔しても、私は日本へ帰ってきたのだ。もう元には戻れない。

 自分で決めたことだ。前を向くしかないのだ。

 席へ戻ると、若者の姿はもう無かった。悲しい感情が沸き上がるほどのものでもなかったが、言葉では表現できない寂しさに駆られた。また独りで飲むのか。そう思いながら椅子に座ると、グラスの下に、小さな付箋(ふせん)が貼ってあった。綺麗な字で何やら書かれている。

『雰囲気のいいお店を発掘したいと思ってました。この店のお酒を全種類飲むまでは、僕は通おうと思ってます。……もし次に会ったときは、上海の話でも、聞かせてくださいね』

 律義な男。私は今日、たまたまここへ来ただけだ。たまたま新しい服と靴を買いたくて、たまたま帰り道に遠回りをしたいと思って、たまたま雰囲気のいい看板が目に入ったから、たまたま足を踏み入れただけだ。店の名前すら憶えていない。また来るとも言っていない。私は付箋を指でつまんだまま、鼻で笑った。

 するとそこへ、新しいショートグラスが差し出された。指どおり滑らかな、ブロンドヘアーのような色だった。日本から果てしなく遠いヨーロッパ、イタリアに住む女性がイメージされた。優しい輝きを放っていた。

「今、隣にいらっしゃったお客様からの贈り物です」

 コロネーション。マスターはそう呟いた。ドライベルモットとオレンジビターズの香りと苦味が効いたカクテルと説明された。

 私はグラスを指につまんで、瞼(まぶた)を閉じながら唇をつけた。唇の隙間からこぼれ落ちてきたカクテルは、思ったほど苦みを感じなかった。甘酸っぱくて、遠い昔、胸の奥にひっそりと隠していた恋心のような、懐かしい味がした。上海へ発つ前に想いを寄せていた会社の先輩。その先輩と最後に二人で飲んだお酒の味を思い出した。

「おいしい……」

 知らず知らずのうちに声が出ていた。そうか。こぼれた愛は、きちんと器に戻さなくてはならないのだ。今の私は空っぽの心しか持ち合わせていない。もう一度、拾い集めて、古びて壊れた想いを飲み干しながら、新しい想いを吐き出すのだ。今度は、こぼさないように。

 そう言えば彼は「僕も今日、失恋をした」と言っていた。私が失恋したことをどうしてわかったのだろうか。目の前のカクテルを見つめたまま、ぼんやりと思考を張り巡らせる。

「すみません。このカクテルの意味は……」

 新しい出会いの味を噛み締めながら、私は目の前のマスターに尋ねた。

 

 

 

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 このお話に出てきたカクテル言葉は、次の通りです。

 

コロネーション「あなたを知りたい」

 

ギムレット「遠い人を想う」

 

インペリアル・フィズ「楽しい会話」

シェリー・フリップ「楽しい時間」

メリーウィドゥ「もう一度素敵な恋を」

グラッドアイ「君にときめいて」

アフィニティ「触れ合いたい」

ライラ「今、君を想う」

キール「唯一の人」

 

http://ennkei.yukihotaru.com/select-cocktai.html

 

 

 昔、上海へ旅立った人を想いながら、この物語を作りました。その人はもう日本へ戻って来ていて、名も知らぬ誰かと結婚しましたけどね。いい思い出です。

 新型コロナウイルスが収束したら、私はウイスキーが飲めるおしゃれなバーを発掘するのだ。