言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

無意識の贖罪(しょくざい)

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 人と付き合うと、なんとなく、罪の意識を持てよと思うことがある。

 私はそんな人間の一人だ。

 でも、それをなんとなく許容しているうちに、自分自身へ罰が下っているような錯覚に囚われる。つまり、人と付き合うことは、巡り巡って、自分を罰することになるのかもしれない。

 

 

***********

 

 

 最近、夜、眠れない。

 おろしたてのパジャマが、肌を滑るように撫(な)でていく。やけに冷たい。蒸し暑いのに、シーツの上に寝そべる身体がぶるりと震える。

 化粧落としたっけ。闇の中、指先でそっと唇に触れてみる。もちもちで、口紅はついていなかった。どうやら、無意識のルーティンで、顔を洗って、シャワーを浴びて、歯を磨いて、寝る前に化粧水もきちんと肌に染み込ませたようだ。触れた頬は、みずみずしかった。

 ほっと胸を撫で下ろし、横を向く。ベッドの脇にある目覚まし時計が目に入った。暗くて、時間まではわからない。針が動く音に耳を澄(す)ます。

 そういえば、ファンデーションが切れかけていたな。明日、買いに行かなきゃ。ゆっくりと瞼(まぶた)を伏せる。頭の先から足の爪先まで、神経が眠るような、固まったような感覚に落ちる。

 こういう時は、無性に物語を空想したくなる。どんな物語かというと、女神様が神様と喧嘩して、大地が真っ二つに裂けるお話だとか。天使と悪魔が結婚して、ひねくれた少女が生まれるお話だとか。とにかく下らない、辟易(へきえき)とした妄想。

 絵本作家になりたいな。たった今思った。私のような大人が、すやすやと安心して眠りにつけるような物語を描くのだ。大人だって、誰かのぬくもりに触れて、眠りにつきたい時だって、たまにはある。でも、今考えたような物語じゃあ、安心感なんて微塵(みじん)も持ってないな。やっぱり、私には無理か。

 寝返りを繰り返し、まどろんでは目を開け、目を閉じては、タオルケットを頭まで被る。ダメだ。やっぱり眠れない。首筋に汗が流れていく。部屋の中に溜まった湿気が、圧力を感じさせる。

 鉛のように重くなった身体を起こす。真っ暗な部屋に視線を迷わせる。カーテンの隙間から、青白い光が漏れていた。もう雨は止んだのだろうか。月は綺麗に出ているのだろうか。指先でカーテンをつまんで空を覗き込んだ。そのどちらでもなかった。夜空は分厚い雲でぴったりと蓋(ふた)をされていた。指を離す。カーテンの生地がふわりと落ちてくる。

 口の中は、乾いていた。帰ってきてから、身体の中へ水分を摂取していなかった。立ち上がるのも面倒だ。このまま眠ってしまおうと思い、再び身体をベッドへ沈みこませる。部屋の湿気が、勝手に私の身体を潤してくれるのを願う。

 眠れないときには、理由がある。事の発端は、いつだったか思い出せないのだけど。

 私は常に、無意識の中に、誰かの贖罪(しょくざい)を抱えている。

 

 

「ケーキに、アイス。あとは?」

 私は振り返り、後ろをついてくる親友の佳菜子(かなこ)をじっと見つめた。彼女はスマホを片手に、上の空だった。

「うーん。チーズはどう? 先生、好きなんだよね」

「チーズか……」

 ため息を吐き出す。佳菜子はすぐ近くにあったブルーチーズを手に取り、くるくると回している。パッケージには英語のような文字が連なっていた。きっと、海外産のものだ。私は買い物かごを腕にぶら下げ、所在なげに足をぷらぷらと動かす。

 私は、チーズが嫌いだった。そのことを佳菜子も知っているはずなのに。

「チーズよりさ」私はそろそろと前の方を指さす。「私は、バターの方が好きだな」

「バターって」佳菜子が鼻で笑う。「そのまま食べるものじゃないでしょう。真面目に考えてる?」

「真面目か、真面目じゃないかで言うと、真面目じゃない」

「そう言うと思ったけど。理央(りお)は先生のこと、嫌いなの?」

「そういうわけじゃないけど……」

 佳菜子が放った直球の言葉に、思わず口ごもる。先生とは、二ノ瀬(にのせ)先生のことだ。この春から赴任してきた若い講師。博士号をどこかの国立理系大学で取得して、たまたま私たちの大学に空きがあったと言うので、私たちの研究室へ配属された。実は、佳菜子と二ノ瀬先生はこっそり付き合っている。というか、元々、顔見知りだったらしい。まだゼミの人にはバレていないし、知っているのは親友の私だけだ。

 この週末、三人で誕生日パーティーをやろうということになった。私の二十二歳の誕生日が、明後日の日曜日だった。昨日、お昼ご飯を学食で食べながら、「三人でやらない?」という佳菜子の提案を聞いた時、私は骨と骨をつなぐ軟骨が身体から消え失せた気分になった。身体のあちこちが軋んで音を立て、悲鳴を着込んでいるような感じ。「いいけど……」と、その時の私も、今みたいに口ごもりながら、佳菜子の言葉を飲み込んでいた。思い出しながら、チーズを選び直している佳菜子に、ぼんやりとした視線を投げつける。

 少し尖った顎(あご)に親指を添え、うつむき気味に瞳を迷わせている佳菜子の横顔は、少し幼く見えた。まつ毛が真っ直ぐ突き出している。彼女は元々、童顔だ。二十歳を過ぎても、大人びた女性という評価を下すところまで届いていない。キャラメル色に染められた髪は、さざ波のような弧を連ねながら、日焼けのしていない首筋まで伸びている。あぁいう髪に憧れるんだよな。肩まで真っ直ぐ伸びた自分の黒髪を指先で梳(す)きながら、そっと胸で呟く。私の髪は自己主張が強すぎて、あんなふわふわ感は得られない。

 正直、髪質以外は、勉強も見た目も性格も、佳菜子より少しだけ上だと信じている。私は大人びた女性という評価へ、背伸びしてようやく手が届くような顔立ちをしている。別に勝ち負けにこだわるわけではないし、上から目線でものを言いたいわけではない。だけど、そのことで佳菜子にはなんとなく、もやもやとした負い目を感じてほしいのだ。

 買い物を終えると、外は雨模様だった。梅雨の時期には珍しくもなんともない、息苦しい酸素。この酸素を胃に取り込むと、身体が湿気を帯びて、更なる憂鬱(ゆううつ)を溜め込み、重くなる。私はため息混じりの声を上げ、傘を開いた。佳菜子が傘を開くのも、同時だった。小気味良い空気が、雨音の中で静かに揺れて弾ける。

「雨、多いよね。せっかく盛った髪も、すぐダメになっちゃう」

 佳菜子が空から落ちてくる雨の雫のように、ぽつりと呟いた。片手で髪の毛を触っている。半ば諦めかけた表情だ。

「梅雨(つゆ)だから、仕方がない」

 私は傘の端っこから空を窺(うかが)う。灰色の雲はまるで、太りきった猫のようにゆったりと、手を伸ばせば届きそうな低い空を横切っている。

 無意識に感じるもやもやの根底はなんだろうと、憂(うれ)う空の下、歩きながら考える。だけど、そもそも考えた時点で無意識ではなくなるのだから、矛盾している。私はその考えを振り払うように、くるくると傘を回した。雨の滴が跳ね、私の手の甲に当たり、長袖のシャツを濡らした。ブーツにはアスファルトの埃が混じった雨水が染み込み始めていた。

 そうだ。このもやもや感は、あの時の感じに似ているなと思った。

 子供の頃に夢中だったヘンリーを探せ。眼鏡をかけたヘンリーがどこにいるのか、ひたすら探していく絵本だ。他にもペットのダブとか、ガールフレンドのポミーとか、ページ一杯にあふれた数多の人間や物や建物。その中に紛れた彼らを探すことが、私の楽しみだった。もう探す対象がなくなったと思ったある日、ヘンリーでもない、ポミーでもない、名も知らない人間が、各ページに隠れていることを知った。こんな人を探せなんて、絵本のどこにも書いていなかった。きっと、この絵本だけに隠されたシークレット人間なのだ。世紀の大発見だと思った。そのことを自分だけの宝物にしようと、胸の中へしまったまま高校生になった時、それがネットで語られているサイトを見つけた。

『ヘンリーを探せには、秘密のキャラが隠れている!』

 いや、待て待て。これは最初に私が見つけたんだぞ。なぜあなたが、さも自分だけが知っている秘密をこっそり教えるように、上から目線なんだ。マウスを握りながら、心の中で叫び、一人で悶絶していた日のことを思い出した。

 この時に感じたもやもやと、今の胸のもやもやが、なんとなく似ている気がした。

「昨日の」

 昔のどうでもいい思い出を頭に浮かべていると、佳菜子が釣り針へ引っかけるように言葉を取り出した。相変わらずスマホを操作している。

「課題。もうやった?」

「自然再生、だったっけ? 日本の環境を元に戻そう、って取り組みをしてる事例を調べて、考察を述べるやつ」

「そうそう。それ。理央、調べた?」

「うーん、インターネットでなんとなく、事例は検索してみたけど……」

 言葉を濁らせる。足元にたまる泥水のように。本当はもう終わっていた。パソコンを使ってレポート三枚にまとめた。インターネットの画像検索で、無駄に写真もいくつか貼り付けて、見栄えも良くしていた。でも、やったと言ってしまうと、佳菜子に見せなくてはいけないような気がして、嘘をついた。対価は対等でなくてはならない。損をするのは、いつも先に言ってしまう方だ。

「私の分も、探しといてくれない?」

「はぁ? 嫌だよ」反射的に露骨な返事をした。「私、暇じゃないんだよ。今日、バイトもあるし」

「いいじゃん、ケチ」佳奈子が不服そうな声を上げている。「ついでに調べてくれればさ。さすがに考察は自分で書くし。……なんか最近、理央、冷たくない?」

 佳菜子のその言葉が耳に入った途端、雨の落ちる音がボリュームを上げた。世界から発せられる音のボリュームが上がって、私の聴覚のバランスが崩れた。突然、なぜだろう。

 佳奈子の大事なことを知ってるのは、この世界で私だけなのに。彼女はいつも、私に対価を払ってくれない。

(一緒にいることが、対価でしょう)

 そんな声が雨に混じって降り注いだ気がした。私は頭の中で雨音を打ち消そうと、目を閉じた。心の中に溜まる湿気がどんどんと濃くなっていき、霧のようにざわついていた。

 

 

 大学の裏には、廃車置き場がある。ここを突っ切るのが家までの近道だけど、夜は絶対に通りたくない。私は闇に埋もれて真っ黒な空間を一瞥(いちべつ)し、街灯に照らされた狭い歩道を歩き始める。自分の足音と、カエルの鳴き声が耳に届く。道路脇の草やぶが風に揺れ、カサカサと鳴っている。吸い込む酸素は、相変わらず濡れていた。

 この街はどうしてこんなにも田舎なのか。名物と言ったら、リンゴくらいしかない。寂しいところだ。寂しい街に住むと、どうしても寂しさという積み木を重ねる場所が増えて、人の温もりが不足してくる。一人暮らしには向かない街なのだ。

 バイト先のコンビニで買ったおにぎりとお茶を手にぶら下げ、街灯に照らされた木の影を踵(かかと)で縫うようにして踏みつけていく。コツコツコツ、と足音に合わせて、リズムよく。こうすれば、幾分、この街の温かみが増すような気がした。

 履き慣れたスニーカーは、少し古くなって緩んでいて、靴下へ吸い付くように弾んでいる。足の指に神経を凝らすと、なんだか足の裏がつりそうになった。足を止め、コンクリート塀に掌をつき、つま先を地面に叩く。

 新しい靴、買った方がいいかな。あ、しまった。ファンデーションを買うのを、忘れた。

 そんなことを考えていたら、前から誰かが歩いてくる気配を感じた。少し離れた街灯の下に、人間の身体がぼんやりと見える。目を凝らす。でも、暗くて全然、顔が見えなかった。こんな夜中に、誰だろう。背筋に氷の欠片を少しだけ散りばめたような恐怖感を覚える。ストーカーだったら。痴漢だったら。まだ罪を犯していない人に、あらぬ疑惑をかけるのは申し訳ないけど、私は臆病な人間なのだ。

 こういうとき、自分が男だったらな、と考えてしまう。女という存在は、この世界には敵が多い。これまでも、この先も、この世界の不条理と闘い続ける。そんな気がしてならない。世界は全然、公平にできていない。

 暗闇の衣を少しずつ剥(は)がしながら近づいてくる人影は、女性だった。少し、年かさの。ほっと胸をなでおろす。カツカツと踵(かかと)を規則的に鳴らしながら、女性がすれ違っていく。化粧っ気は無かった。耳にはブルートゥースのイヤホンが突っ込まれていた。私の方に視線など、まるでくれなかった。

 他人はそれほど、他人に興味はない。それはなんとなくわかっているつもりだ。だけど私は、やっぱり違うと感じている。他人は誰かに興味を持つべきなのだ。だから、自分が他人にどう思われているのかも、気にするべきだと思う。試験の点数を見せ合って、身だしなみに気を遣って、自分の良いところを出し惜しみしない。そうやって、他人から憧れの眼差しを享受しながら、成長していかなければならない。人は人に寄り添わなくてはならない。冷たく突き放すのは、他人ではなく、自分にすら興味を無くした瞬間だけでいい。

 なんだか、裸足で帰りたくなった。スニーカーと靴下を脱ぎ、アスファルトに足を載せてみる。ひんやりとした。無機質な冷たさだ。小さな石ころが足裏に食い込み、少しだけ気持ちが良かった。

 空を仰ぐと、今日は雲の隙間から真っ白な月が見えた。まん丸だ。今日は満月だったっけ。

 それがあまりにも美して、心を落ち着かせた。しばらくの間、時を忘れて首を伸ばしていた。ふと、蚊の羽音が耳を撫でていった。反射的に腕を振り回した。手の甲が何かに思い切り擦れた。コンクリート塀だ。気づいた時には、痛みが腕を走り、頭の芯まで突き抜けていた。

「いったぁ……」

 手の甲を見ると、斜めに傷が何本も走り、じわじわと赤い血が滲んでいた。、目もとに薄くたまった涙をこらえながら、手の甲を舌で舐め、靴下とスニーカーを履き直した。

 変なことを考えるから、変なケガをする。そういえば、あの廃車置き場には血まみれの幽霊が出るって噂だっけ。血まみれの怨念。舌の上で鉄の香りを転がしながら、私は恐る恐る後ろを振り返った。廃車置き場は相変わらず、黒く塗りつぶされていた。街灯のジリジリという音が頭の上から降り注いでくる。灰色の蛾(が)が一匹、くるくると弧を描くように、飛び回っている。

 私は前を向き、全速足で帰路を急いだ。途中、大学の男子学生二人組を追い越したから、きっと、変質者と思われたに違いない。

 

 

 家の玄関を閉めた瞬間、あくびが出た。昨日はほとんど寝ていなくて、ほぼ徹夜だったのだから、当然の帰結だ。よく今日のバイトを乗り切れたなと思う。

 でも、同時にお腹が鳴った。睡眠欲と食欲が一瞬、脳の中で一戦を交えたけど、私の身体は勝手に冷蔵庫の前へ直行していた。欲望に身体の動きが不戦勝していた。

 冷蔵庫を開けると、チーズとワインがあった。日曜日、私の誕生日パーティーで食べて、飲むものだった。なんだか、少しだけ、眩暈(めまい)がした。佳菜子にとって、これらはきっと、私を祝うものではないんだ。勝手にそう思った。

 なぜ、いつも私だけが、罪の意識を被らなければならないのだ。

 佳菜子とは高校が一緒だった。その時に話をすることはなかったけど、大学に入学してから、仲良くなった。それ以来、私と佳菜子はいつも一緒にいる。でも、佳菜子は彼氏ができてしまったし、私の視線をあまり、感じなくなっている。冷たくなったと言うくせに、冷たくなったのはどっちだよと、心が怒りを駆り立てていく。私のことを意識してくれと、願っているのに。

「私はね、先生とは、三十まで結婚しない」

 妄想のような未来を佳菜子の口から聞いた時だ。私も未来が妄想のように思えてきて、息苦しくなった。なんとなくだけど、私は誰かを好きになることは、三十歳までないような不確定な確信を持った。恋とか、愛とか、彼氏とか、そんなものに出会ってしまったら、人生に青カビが生えたような想いを駆られるような気がした。目の前のチーズのように、狭くて冷たい場所に格納されながら。

 私が結婚しないことに対して、佳菜子は無意識に贖罪を感じていればいいのだ。自分が結婚する時まで、ずっと。結婚式のスピーチは、たぶん、私に任されるのだろう。精一杯の贖罪を、佳菜子には被ってほしい。精一杯の可愛さアピールをして、祝辞を読む私の姿が目の奥に浮かんだ。

 売り言葉に、買い言葉ってやつだ。自分が傷ついたら。そのまま相手も傷つかなければならない。痛みを知れよ。かと言って、罪悪感にとらわれるは、やっぱり私なのだ。結局、回りに回って、自分に痛みがたどり着く。

 無駄に涙が出そうになったので、チーズを取り出し、包み紙を乱暴に剥がして、一気に口へ放りこんだ。日本産チーズとは全く違った香りが、口の中を突き抜け、喉を曲がり、鼻の奥に粘土のようにしがみつく。ワインの栓も乱暴に開け、瓶のまま、がぶ飲みする。胸がかぁっと熱くなった。

 そうしているうちに、ポケットの中で電話が鳴った。既に結構、酔いが回っていた。

「もしもーし。誰ですかぁー?」

 着信先を見ずにスマホをタップした。私の言葉はきっと、呂律が回っていない。

「……理央? 酔っ払っているの?」

 佳菜子だった。声はいつもと同じだったけど、眉間にしわを寄せた表情が想像できた。

「いえいえ、ぜーんぜん」

「何、嘘ついてるのよ。なんかあったの?」

「別に。なにもないですよー」

「もしかして、今日、冷たくなったねって言ったこと。気にしてる?」

「気にしてるわけないじゃん」

 しゃっくりのような笑い声が出た。身体が勝手に動揺していることに、脳は気が付いている。今日の私は心より身体が敏感だった。そのことを思い出すと、手の甲に静電気のような鋭い痛みが走った。見ると、擦り切れた傷の上に、真新しい真っ赤なかさぶたが、うっすらと覆いかぶさっていた。絆創膏(ばんそうこう)をつけなきゃと、急に冷静になった。

「……さっき、ケガをしたんだよね」

 泣きそうな声が喉の奥から出てきた。自分でも驚いた。

「え、大丈夫?」

「なんだか、痛いんだよ。すごく。なんかよくわからないけどさ。泣きたいくらい。ねぇ、佳菜子。これさぁ。この痛みの文句は、私、誰に言えばいいの?」

「……今から、そっち行こうか?」

「え」

 予想外の佳菜子の言葉に、今度は脳が動揺した。頭が揺さぶられる。

「なにか、買っていくもの、ある? 明日、理央の誕生日だし、なんでもいいよ」

「……ファンデーション」

「え? そんなんでいいの? そう言えば、リキッドのやつ、切れかけてたね。それでいい? ご飯は? 食べた?」

「佳菜子の作る、ホタテバター炒めが食べたい」

「えー。しょうがないなぁ。材料、二十四時間のスーパーで買ってくから。生のホタテが無かったら、冷凍で我慢してね。じゃあ、待ってて。たぶん、三十分以内には着くから。理央の好きなチューハイも買ってくよ。一緒に飲み直そう」

 唐突にいつも通りに電話が終わって、私は脱力した。結局、佳菜子の用事がなんだったのか、わからない。まぁいいか。うちに来てから聞けばいい。

 スマホを机の上に置いて、ふらふらと立ち上がる。キッチンでコップへ水を汲み、一気に飲み干す。冷たくて、気のせいかもしれないけど、ちょっと甘みを感じる液体が喉を潤し、胃の中へストンと落ちていく。

 自然再生のレポート、佳菜子に見せてあげよう。なんとなく思う。こうやってやっぱり、佳菜子とは続いていくんだろうなと。

 絆創膏を探すため、机の引き出しを開ける。開けたり閉めたりしながら、化粧も直さなきゃなと思ったけど、別にいいか。

 毎日の生活が充足しているわけではない。足りない分は、つまらない不満を財布へ入れるように持ち運んでいたい。雨の日に呼吸する理由とか、夜道を裸足で歩く理由とか。徒労感に包まれて生きていかないと、睡眠もやってこない。

 だけど、ふとした瞬間に、眠れなくなる。要するに、悩みのキャパオーバーだ。今の私は。

 よくわからないけど、やっぱり誰かの贖罪は、無意識でなければならないのだ。佳菜子だって、罪の意識くらい、無意識に持っておいてよと願いながら。私は無意識の中へ身を投じ、よくわからない梅雨のような虚無感を、常にポケットへ忍ばせながら生きていくのだ。

 私の心は、いつでも勝手に誰かを許さないでいてほしい。だけど、一番許せないのは、自分自身の痛みを許容して、忘れてしまう瞬間だ。この世界の不公平を許容しないで吐き出しては、なんとなく憎み続ける。そんな感じで時間を進めていく。

 私だけの宝物や罪なんてものは、きっと、どこにも存在しない。私は、私の気持ちを吐き出しながら、今日も眠りにくい夜を過ごしていく。