言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

 

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『1.夜が明けるかどうかのころの意の古風な表現。2.(そうなる保証はないが)将来あることが実現した、その時。暁闇~明け方近くになっても月が出ておらず、あたりが暗いこと。』

 

 

 ところどころ木の枠が剥(は)げかかった東屋(あずまや)は、夜の帳(とばり)に深く沈み込み、まるで眠っているようだった。

 琴葉音絵(ことはおとえ)は東屋のベンチにうずくまり、寝静まった世界が起き始める瞬間を確かめようと、息を潜め、じっと耳を傾けていた。

 そこは古びたキャンプ場の隅っこで、世界に溢れるすべての音を忘れることができる唯一の場所として、闇を抱えた人間を招き入れているのかもしれなかった。

 今日は、夏至だった。一年で太陽が最も空高く昇り、最も昼の時間が長くなる日。夜が明けるのは、一年で最も早い日ではないらしい。音絵はこれまで勝手にそう決めつけていたが、どうやら違うと、さっきスマホで検索して知った。その日は既に、数日前に過ぎ去っていたらしい。

 時期的にまだ早いのか、キャンプをしている人間はまばらだった。音絵のように、夜通し目を凝らし、耳をそばだてている人間は、誰一人として存在していなかった。大小さまざまなテントの中で、彼らは世界が起きる瞬間まで安らかな吐息をついていることだろう。

 背後の藪(やぶ)が擦れる音で、音絵は肩越しに振り返った。舞い上がる髪の毛が耳を切り裂くように擦(こす)れた。

 黒い影が木の幹を素早く登っていく。太い幹が最初に枝分かれしたところで影が止まり、小さなシマリスが顔を出した。胡麻粒のような鼻孔をぴくぴくと動かしている。

 音絵は安堵し、まつ毛を伏せた。再び、闇の底に耳を傾ける。

 どうしてここに来たのか、理由はよくわからない。気が付けば駅前でレンタカーを借りていた。駅からたまたま最初に目に入った筑波(つくば)の山の麓までその車を走らせ、この場所を見つけたのだった。

「音絵はいつも、自分を横目に見てるんじゃないか? 自分との歩調を合わせるのに必死。だから、他人とすれ違っていることに、まるで気づかないんだ」

 横山翔太(よこやましょうた)が最後に放った冷たい言葉を、音絵は頭の中で反芻(はんすう)した。彼とは今日、別れたばかりだった。交際が始まってわずか一年余りだった。

 友達の紹介で大学一年生の秋頃に出会い、何度か話をして、何度か出かけているうちに交際へ至った。桜の木の下で告白されたのを覚えている。

 しばらく、交際は順調だった。しかし、音絵にとっては戸惑いと疲労の連続だった。人を満足に好きになったこともなく、男性と話すことが中学生の頃から苦手だった音絵は、素直な気持ちを表に出すのが不器用だった。

 自分を横から見ているのは、当たっているな。言われて初めて気が付いて、音絵は思わず苦笑した。出会いも別れも、嬉しいことも悲しいことも、「あぁ。自分の心は今、外に刺激されて動いているんだな」と自分に言い聞かせながら、世界と自分を切り離して、客観的に見ていたと思う。まるで、空に浮かぶ月から、ゆったりと世界を眺めるように。

 世界を俯瞰的(ふかんてき)に眺める自分と現実の自分との気持ちにすれ違いがあったことすら、確かに音絵は気づいていなかった。だから、翔太とのすれ違いに気づくはずもなかったのだ。夜になったら太陽は地球の裏に隠れるが、月は昼間も見えることがある。徐々にそのずれが目に見えるようになった時には、既に遅かった。太陽はそのまま月を残して、夜の闇に沈んでいく。

 大学に入って三年目。自分は変わったんだという気持ちでいたのは、勘違いだったのだろうか?

 月だけが残った世界は、果たして何を見つめるのだろうか?

 頬にうっすらと光を感じて、音絵は瞼(まぶた)を開いた。東の空に浮かんだ数多の星たちが、急速に光を失っていることに気が付いた。辺りが急に明るくなったようだった。今日は月が出ていなかったからだろうか。

 薄白く染まり始めた空に目を細め、音絵は思った。ちょうど、この筑波の山の向こうから、太陽が昇ってくるところだった。世界を照らす太陽は、夜の帳をゆっくりと巻き上げ、その色を少しずつ明るくしていく。

 ――そうだ。山に登ってみよう。

 明けの明星を山の上で見たい。そうすれば、自分の今まで記した足跡が一つ一つ光に照らされて、浮き上がってくるのではないか。それらは、決して自分が、世界から切り離されている存在ではないと、証明してくれるのではないか。

 もしかしたら、難しく考える必要はないのかもしれない。実現までは複雑で深い森を進んでいたようで、振り返ってみれば、自分が進んできた道は至極単純だったのかもしれない。

 暗闇に閉ざされた後じゃないと、わからないこともあるのだ。世界はゆっくりと明るくなり、忙しく動き始める。

 まだ叶わぬ願いを胸にしまい込みながら、音絵はゆっくりと立ち上がった。間もなく訪れる世界の朝を想像して、徐々に薄くなっていく紫色の帳に、嘆息の念を溢した。