言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

世界が少しでも【1.春の前③】

 

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1.春の前③

 

 去年の夏休み、大学三年生のときだった。わたしはインターンシップとして、ある小さな出版社の職場へ行った。

 コピー、印刷、お茶くみ。一昔前のオフィスレディの仕事を揶揄(やゆ)するような事務作業は一切なく、能力があれば、男性も女性も関係なしに同じ仕事ができるとアピールしていた。いわゆる、同一労働同一賃金だ。男女差別をしないと言うスローガンがその会社では徹底されていて、女性が働きやすい職場としての地位を確立している会社だった。

 株式会社バハラナ。フィリピン語で「なんとかなるさ」という意味があるらしい。大学の掲示板には、募集要項と一緒に会社の理念が記載されていた。それを見て興味を持ったわたしは、すぐさまエントリーした。出版社は大学内での競争率は高かったらしいけど、成績順からインターンシップ先が決められるので、わたしは問題なく希望の会社へ行くことができた。

 インターンシップの初日は、猛暑日だった。窮屈なスーツで身を固め、東京メトロ丸の内線から外へ飛び出した。途端に、重々しい湿気と降り注ぐ蝉しぐれを頭から被り、わたしは顔をしかめた。人混みがあふれる新宿通り沿いにそびえ立つビル群は、真夏の日差しの中で濡れるように輝いていた。東京新宿区の四谷。大学は立川の方にあったので、新宿を越えたのは久々だった。

 額から流れる汗なのか、纏(まと)わりついた湿気なのか、よくわからない水分を、わたしは取り出したハンカチで軽く吸い上げる。この暑さには、不慣れだ。せめて目尻のメイクが落ちてしまう前に会社へ着きたいと思い、わたしは足を早め、歩道を歩きだした。幸い、駅から近い建物だった。

 会社のフロアはビルの十四階だった。吹き抜けのホールに並んだエレベーターのスイッチを押すと、すぐに電子音が鳴り響き、扉がわたしを歓迎するように開いた。履き慣れていない革靴の足を踏み入れ、乗り込む。一人だけだったので、鞄からペットボトルを取り出し、お茶で喉を潤す。エレベーターが止まり、扉が開いたので、わたしは周りを窺(うかが)うようにそっと身体を押し出した。物音ひとつしない廊下だった。足音を立てないようにゆっくりと進むと、バハラナと会社名が掲げられたパーティションの前に、受付の女性が見えた。

 薄桃色の可愛らしい制服を身に纏(まと)っていた。まつ毛が長く、鼻筋が高かった。簡素なメイクでもいいほど、女性の顔は整っていた。会社の受付嬢というのは美人が多いなと感じていたけど、やはりそういうものなのだと、その時、わたしは確認した。

 身分を述べると、学生証の提示を求められた。わたしは財布の中から免許証と同じ大きさのカードを取り出し、女性へ渡した。女性は両手で受け取った学生証とわたしを見比べ、「はい、結構ですよ」と微笑みを浮かべながら学生証を返してきた。女性は手元の電話でわたしがやって来たことを誰かに伝えている。「お客様がお見えになっております」だなんて、なんだか社会人みたいだと思った。

 やがて担当の人がやってきた。スーツ姿で眼鏡、短く切り揃えられた髪が爽やかな男性だった。その手で引っ張られるように職場へ案内された。

 バハラナの職務スペースは狭くもなく、かと言って広くもなかった。ちょうどよく収まっている、という印象を受けた。

 緊張するままわたしは、フロアの隅にある小さな会議スペースで、会社の概要や仕事の内容、一週間の予定を男性から淡々と話された。

「他のみんな、今週末に校了の雑誌があってさ」男性――名前は戸口さんとさっき自己紹介していた――が眼鏡を拭きながら、やや疲れた表情で話す。「僕、まだ二年目のペーペーだから大した仕事がないんだけど、まぁ、僕の補助が主な作業かな」

 はぁ、とわたしはペンを片手に、手帳を開きながら頷いていた。

「とりあえず、今日は定時で帰っていいから。それまで、この会社で出してる雑誌でも眺めて、雰囲気、掴んでおいて」

 戸口さんは後ろの棚から、雑誌を何冊か引っ張り出し、わたしの目の前にどさどさと置いた。頬を細かい埃が撫でていくと気づいた時には、わたしの喉が苦しそうな不満を尖らせていた。顔を背け、拳を口元へ添え、小さくせき込んだ。

「あぁ、ごめんごめん。今年に入って、ここの棚の掃除、してなかった」

 思わず戸口さんを睨み付けそうになったが、わたしは頬をなんとか緩め、大丈夫ですよと笑った。明日からマスクが必要だと思った。

 この会社はWeb事業が主軸で、雑誌の作成は月に一回のペースとのことだ。就学前の子供がいるお母さんを対象としたWebマガジンを発行していることは、インターンシップへ来る前にホームページで確認していた。

 割り当てられた簡素なパソコンで、インターン学生専用の会社サーバーへアクセスすると、いろんな資料がフォルダの中に格納されていた。Webマガジンの元原稿だった。イラストを駆使して作成された一枚ものの原稿は、わたしの創作意欲をくすぐった。

 わたしは鞄の中からクリアファイルを取り出し、その中に挟まったインターンシップの募集要項を引っ張り出した。

『企画・リサーチ・取材・原稿作成・校正の一連の流れを体験』

 この一週間で、この資料作成に携わることができるのかと思うと、わたしの心は熱を持ち、子供のように躍っていた。

 

 

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