言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

世界が少しでも【1.春の前②】

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1.春の前②

 

 

 乾杯という掛け声とともに、グラスと氷のぶつかる音が軽やかに鳴り響き、わたしは我に返った。季節外れの風鈴があちこちにぶら下がっているようだった。

「就職おめでとう」

 学生たちの明るい声が耳の奥へ滑り込んでくる。場の雰囲気とは裏腹に、わたしの心は憂鬱(ゆううつ)になった。

 今日は新しく研究室に配属された四年生の歓迎会が行われていた。場所は、焼き鳥屋のチェーン店。安くて量が多く、学生に人気だ。肉の焼ける香ばしい香りが、脂が炭火に落ちて飛び跳ねる音と一緒に漂ってくる。お腹の中で、空腹のスイッチが押され始める。身体は正直だ。心とは違うのだ。

 黄金色の液体が並々と注がれたグラスを片手に持ち、わたしは視線を迷わせる。

 ここにいるメンバーは、ほとんどが顔見知りの学生たち。大学院の先輩が数人いたが、講義の演習でよく見かける顔だった。キンキンに冷えたグラスを傾けると、ほろ苦い液体が喉の奥へ流し込まれていく。舌の上がピリピリしてきて、顔をしかめる。ビールはいまだに美味しさがわからない。

 話を聞いていると、わたしがいる研究室の学生は、七割くらいが既に就職が決まっているらしい。企業から内々定をもらっている姿は、なんだかオーラのような、キラキラした宝石の粒を纏(まと)っている。満面の笑みを浮かべながら、お互いの近況を報告し合う学生たち。焦りと不安の重みに耐えながら、わたしは目を細めながらぼんやりと見つめるだけだった。今日は歓迎会なんかじゃなくて、企業にめでたく就職を決めた人たちへの歓迎会みたいで、このまま帰りたくなった。

 ネットとか、新聞とか、テレビの中では、不況という言葉がよく伝えられる。そんな冷たい世界からは、切り離された華やかな空間。

 朗報を風に例えるなら、彼らは風に吹かれて軽快に鳴り響く風鈴で、わたしはそこに取り残された気だるい暑さみたいなものだった。わたしに風なんてやってこない。春香なんて名前がついているくせに、今のわたしの心は打ちひしがれ、どんよりとした冴えない雲が厚く立ち込めている。まるでわたしのところにだけ、春を通り越して一足早く梅雨がやってきたようだった。

「彼らの人生はバラ色である」

 さっき、研究室の教授が、乾杯の挨拶の時に話していた言葉をぼんやりと思い出す。そういう例えを初めて使った人は、一体どこの誰なんだろう。人生を何かに例えるなんて、馬鹿げてる。道とか、輝かしい未来とか。バラ色の道を歩き続けたところで、何か意味があるのだろうか。人生なんて、先が見えないから、進む価値があるのではないのか。

「最近、調子はどう?」

 真也がビールジョッキを片手にやってきて、わたしの隣に座った。満面の笑顔を浮かべている真也に対して、わたしは顔をそむけながら、苦笑いをした。

「……このわたしを見て、調子が良く見えるんなら、真也の目はどうかしてる」

 わたしは目の前の皿に積み重なった焼き鳥を手に取り、串ごと噛り付いた。とがった皮肉もぶつけながらも、真也の分の焼き鳥も、小皿へ綺麗に取り分ける。彼はわたしの皮肉にはまるで気に留めない様子で、取り分けた焼き鳥をおいしそうに頬張る。

 真也は先週、大手の銀行に一次面接を通った。銀行に行くと決めていたのは大学に入る前からで、出会ってから幾度となく、わたしに将来の夢を語っては、語気を強めていた。

「俺は世界の中心で、巨額のマネーを動かすんだ。ゆくゆくは、経済のトップに君臨する」

 その言葉は誰が聞いても呆れるくらい途方もない夢なんだろう。だけど、わたしはその言葉を初めて聞いたとき、真也のことをすごいと素直に思った。確固たる夢を早々に決めたことに対して。勿論、今でもすごいと思っている。現に、難なく面接をパスして、彼の夢が一歩ずつ確実に、現実へ近づいているのだ。

 今考えてみると、わたしと真也が出会ったことは、自分にとっても彼にとっても、大きな転機でもなんでもなかった気がする。お互いの進む道は、何も変わらない。わたしは大した夢も希望もなく、なんとなく国立の大学にやってきて、なんとなく自分の興味のある講義を受けて、なんとなく大学生活を送ってきただけだった。そんなわたしと比べて、真也は一歩も二歩も先の人生を歩んでいるみたいで、少し寂しかったりする。だけど、その寂しさは恋人同士の感覚ではなくて、森の中でうっかり落としてしまった小銭のようなもので、引き返したところで見つけることができないような、そんな感覚だ。わたしは過去を振り返ることが、嫌いだ。だからこそ、わたしは真也との出会ったことに、少し歯がゆい後悔を覚えている。

「もう就職活動なんてしたくないな。……馬鹿みたい」

 誰に聞いてもらうわけでもなく、わたしは小さな綿雪が宙をふわふわと彷徨(さまよ)っているような声でぽつりと呟いた。

「いっそのこと、このまま仕事しないで生きていきたい」

「春香は、国民の三大義務って知ってる?」

ニート、脱税、九九を覚える」

「……聞いた俺が馬鹿だったよ」

 わたしのどうでもいい答えに真也は肩をすくめる。

「じゃあ、真也はなんのために働くの?」

「俺は世界の経済を動かす立場にいたいんだよ。だから、銀行に就職するって、大学入った時から何度も言ってるじゃん。おまけに初任給27万円だし、ちゃんと休暇も取れて、福利厚生も素晴らしいみたいだしさ。完全なるホワイト企業。いいことづくめだよ」

「あー、はいはい。よかったね」

 わたしは何遍も、耳を取りたくなるほど散々聞いた真也の言葉を、もう耳に入ってくるなと言わんばかりに手を振り、邪険に振る舞う。

「どうして面接で志望動機、ちゃんと答えないかなぁ。俺がきちんと志望動機、春香のために考えてあげたのに」

「あんな誰にでも書けるような綺麗事を並べて、よく大手銀行に内定をもらったわね」

 わたしは頬杖をつきながらグラスの縁を唇に押し当て、一気にあおる。

「こういう受け答えだけは、ちゃんと出来るんだね」

 真也は苦笑しながらビール瓶を傾け、手に持ったグラスへビールを継ぎ足す。甘いカクテルを頼もうと思っていたのに、勝手に余計なことをするなと声を上げて毒づきたくなった。

「……大体さあ、志望動機ってさあ、なんなの?」真也に注がれたグラスを強く握りしめながら、わたしは愚痴っぽく言葉を吐き出す。「その会社を受けたいって言う動機でしょう? わたしは別に入りたくもない会社に志望する動機なんて持ってないし、嘘はついてないのよ。ただ正直に自分の意見言ったら、『残念ながらご希望に添えない結果となりました。今後ますますのご健康とご活躍をお祈り申し上げます』なんて。ご縁のなかった会社にお祈りされても、ご利益なんてないっての」

「昔からそうだけど、最近はますますひねくれてるよね。じゃ、春香は一体何がしたいの? それだけ頭がよくて勉強も出来るのに、もったいないよ。せっかく、親が大学まで行かせてくれたんだからさ」

「それがわからないから、悩んでるんじゃない」

 わたしはちょっとムッとし、グラスを乱暴に置きながら、真也を睨み付けた。並々に注がれたビールが泡を立てて机の上に零れた。

 別に、就職をしたくないわけじゃない。仕事をしたくないわけじゃない。

 小学校の頃から勉強することは全然苦じゃなかった。だから、わたしはがむしゃらに勉強してきた。読書も好きだった。政治、経済から、科学。漫画も小説も、ジャンルを問わずなんでも読んできた。知識だけは無駄に人一倍で、小さな子供ながら、いろんなことを知っていた。

 例えば、昆虫はなぜ六本足なのか。地球は時速何キロメートルで自転しているのか。リンゴを甘いと感じるわたしたちの舌はどうなっているのか。目についた疑問を次から次へと調べ上げ、知識という雑草をむさぼるように喰い散らかした。

 その培った知識をすぐに振りかざすものだから、理屈っぽい、ひねくれた子供だった。周りの友達からは『がり勉』だとか、『頭でっかち女』と肩書を押され、馬鹿にもされた。わたしより知識の少ない人たちが、わたしを馬鹿にしてきた。でも、わたしは全然気にしなかった。どうでも良かった。わたしはわたしを高めることに夢中だった。

 学があれば、人は成長できる。人生を謳歌(おうか)できると信じていた。

 それなのに今、就職という壁にぶつかった。面接対策は、学ではなかった。自分の器が試されるとわかった。

 ぶつかったというより、見えない小さな石に躓(つまず)いたのかもしれない。要するに、今までは知識と言う盾を何も考えずに構えていただけ。それは相手が自分ではなくて、他者だったから。子供の時に自分を高めすぎたがゆえ、今になって何がしたいかわからなくなってしまった。就職という壁すらも見つけられなくなったように思う。

「好きなことをやりなさい。好きな仕事をしなさい」

 就職活動で悩んでるわたしに、母はただ、こう言っていた。

 でも、好きな仕事と言われても、何かわからない。この社会の中に、一体何があるのか。それすらわからないのだ。わたしが必要とするものは一体なんなのか。社会が必要とするものは一体なんなのか。疑問が次から次へと、泡のように沸き上がってくる。考え出したらキリがない。でも、そんなことを考えたって、わたし自身の泥仕合になるだけ。

「お母さんは、何のために働いてるの?」

「そんなの決まってるでしょう。ご飯を食べていくためさ」

「ふぅん。そんな理由で、毎日、つまんなくないの?」

「理由? 生きることに理由がいるのかい?」

「だって、いま、お母さんはわたしに、好きな仕事をしなさいって言ったよ。お母さんは、自分のやりたい仕事を見つけたの?」

「わたしが自分のやりたい仕事を見つけれなかったから、その分、あんたが好きな仕事を探すんだよ」

 なんだその責任転嫁は。その時は思っていた。

 子が親の望む人生を送ることは、一番の親孝行であることはわかってる。だけど、その言葉は逆に、わたしにとってプレッシャーになるものだった。

 わたしは就職活動をして、気づいた。みんないつしか、自分が得た知識や経験を生かして、やりがいのある仕事を選ぶことに、適当な理由を無理やりつけて自分を納得させているだけなのだと。だからわたしが、どこかの会社に入りたいっていう動機を全然見つけることができないままでいるのは、みんなが足並みを揃える現実から逃げていたいだけだ。意義を感じないことをやるのが、苦痛なだけなのだ。

 真也の言うとおり、本当に単なる頭の堅いひねくれ者なんだ。

「わたしはフリーターだ。夢のないフリーター決定。いや、もしかしたらニートかもしれない。最悪なパターン」

 目の前が急に歪んだ。わたしの目が移す世界の画角が狭まり、視界の隅っこが折れ曲がっている。悩み疲れているのか、酔いの回りが早かった。なんだか泣きたい気分に駆られて、わたしは両手で顔を覆って大袈裟に肩をすくめた。

「おい、春香。泣いたら面倒だから、とりあえず、泣くのはやめろ」

 真也がわたしの肩を乱暴に揺すっている。やめろ、吐いてしまうぞと言おうとしたら、

「でもさー、大学に行け、大学に行けってさ、とりあえず大学に行かせる親って言うのも悪いと俺は思うね」

 隣で話を聞いていた同じ研究室の尾崎が突然口をはさんだ。

「どういうこと?」

 真也が私の代わりに質問をした。

「そもそも大学に行くって言うのはさ、カッコつければ勉学のためじゃん? でも、今は就職するために大学に行ってる感じになってる気がするんだよね、俺は。今っつーか、昔からなのかもしれないけどさ。大学の就職率? 大企業の即戦力選抜? 結局、俺らのためじゃなくて、大学の偉い人たちとか、会社のために、就職活動してるだけみたいな」

「……まぁ、否定はしないけどさ」真也がため息をつくのが聞こえた。「でも、大学行かないと、そんな大企業に行けないのも事実じゃん。需要と供給が成り立ってるってことで」

「需要と供給が成り立ってる? お前、それ本気で言ってるの?」尾関が声を少し荒げたように聞こえた。「俺はさ、お前みたいに大企業に行く頭なんて持ってないから、南の気持ちはなんとなくわかるよ。やりたくもない仕事とか探して、無駄にセミナーに参加して、みんなと歩く速度を合わせてさ。動くこと、エントリーシートをひたすら書くのが美徳みたいな? でも、実際、自分のホントに行きたい会社に入れた奴って、この中で何人だと思う?」

 わたしはテーブルに手を置き、なんとなく周りを見回した。軽やかなムードの中で、お互い「おめでとう」と声を掛け合い、焼き鳥とビールを頬張る学生たち。彼らの胸中なんて、きっと誰も知る由もないのだろう。

「尾崎……。お前の就職先って」

 真也はやや暗い顔になった。

「丸山機械鉄鋼っていう、小さい会社」尾崎は言った。「一応、第一志望だよ。別に俺は行きたい会社に入れなかったとしても、お前のことをひがんだりはしないさ。ただ、そういう奴もたくさんいるってことだよ。……そこで暗い顔してる南も含めてさ」

 尾関の声を聞きながらわたしは、彼が努めて明るく振るまっているような空気を感じた。それは面接に失敗している人だけが感じる、微妙な空気の違いだった。尾崎はきっと嘘をついている。そんな気がしてならかった。わたしはグラスを固く握りしめ、重い空気をかみ砕くつもりで、焼き鳥を口へ放り込んた。炭火でよく焼かれた鶏肉は、柔らかくて、とても美味しかった。

「まぁ、とにかく」なんとなく行き詰った空気になりそうなところで、真也が話題を元に戻した。「春香。そんなに深く考えないでさ。少しでも興味のある会社探して、まずは志望動機、考えてみなよ。フリーターになるかどうかは、その後でもいいし。ぶっちゃけ、こんな時代だから、フリーターでもいいかもしれないし。いやいや、よくないけど。でもまぁ、最近は新卒採用にこだわらない企業も増えてるしさ。何がやりたいか考える時間がありすぎるって言うのも、贅沢な気がしない?」

「真也はもう、大手企業に内定をもらいそうだから、そんな悠長なことが言えるのよ」

 優しい言葉をかけられてるはずなのに、わたしの口から出る言葉は嫌みしか出てこない。これは本当にわたしの悪いクセだと思う。

「だからそうは言ってないって……」

 真也は必死に弁解しようとする。

「真也」

 背後から女性の声がしたので、わたしは振り返った。長髪の女の子が立っていた。背が低い割に肩まで伸びた黒髪。よく手入れされていて、指どおりが良さそうだった。唇を固く結んでいて、まるで日本人形のように憮然とした表情だった。市川奈津美(いちかわなつみ)だった。彼女も同じ研究室で、最近、何かと真也と関わることが多い。深刻そうな顔をしていた。

「奈津美。どうした?」

「ちょっといいかな」

「あ、あぁ……」

 真也は歯切れが悪かった。わたしに目配せをしている。

 そんな目をしなくてもいいのに、と思う。わたしだって鈍くはない。どう考えたって、わたしに勝ち目はない。

「どうぞごゆっくり」

 わたしはグラスを指先でつまみ、仮面の笑顔を取り繕って、そそくさとその場を退散した。

 まだ就職が決まっていない仲間と、次はどこを受けるとか、長所と短所の書き方はどうするとか、当り障りがない就職の会話をしていると、ポケットの中のスマホが震えた。画面を開くと、真也がわたしにラインを送ってきていた。

『さっきはごめん。今度またゆっくり話を聞くから。参考までに、就活中、いいと思った企業のURLを添付しておく』

 添付されたアドレスをタップすると、『株式会社・宮田出版』という会社のホームページへ移動した。

 出版関係の仕事だった。わたしが本を読んだり、文章を書くのが好きだってことを考慮しての会社だった。

 一年前、ひどいケンカをして別れたと言うのに、わたしに対して今までと同じような態度を取ってくれるのは、真也らしい。その心地良さに甘えている自分も、少しだけ情けなかった。今となってはもう、真也と付き合っていたことは、どうでもいいと思っている。強がっているわけでも、当然ない。それなのに、わたしの胸はハッカの香りを思い切り吸い込んでしまったみたいに、冷たくキリキリと痛んだ。

 わたしは、真也のことが幸せだと思う。実際、わたしもあんなふうに多くの幸せをつかみたい。

 でも、たまに思う。どうして誰かの幸せを羨ましいのか。誰かの幸せと全く同じものを求めたとして、それがわたしの幸せとは限らないのに。いや、だからこそ、他人の幸せが羨ましいのかもしれない。

 わたしは真也が送ってくれたアドレスを削除しようとして、スマホの画面を長押しする。

『削除』という文字が画面に現れる。その文字が、スマホが放つ青白い光とともに、わたしの目から脳に突き刺さり、頭の中の思考を大きく揺れ動かす。

 いい会社、いい企業に就職したところで、わたしのやりたいことが明確にわからなければ、それは自分の生活に中に入り込むオマケのようなものなんだ。

 わたしは大きな溜め息を吐き出し、やっぱり削除を押さずに、スマホを鞄の中にしまおうと思った。今日はもう、スマホなんて見たくなかった。席を立ち、自分の鞄、どこに置いたんだっけと辺りを見回す。

 真也と奈津美の姿はどこにもいなかった。二人で違う店にも行ったのだろうか。

 たぶん、わたしが幸せをつかんだとしても、自分の幸せが正しいと思うことは、一度だってないのだろう。

 

 

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