言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

砂にまみれた砂を呑む

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砂にまみれた女の23年間の軌跡。

意外に長い短編小説。

果たして短編小説と呼べるのか。

思いつくままにつらつらと書き上げただけの物語。

 

R15です。

 

*******************

 

 

――罪がなければ、逃げるたのしみもない――

砂の女』より

 

■■■

 

 突然だけど、私は今日、大学を辞めると決めた。

 何故って?

 理由は簡単だ。一言で済む。

 でも、その前に、私がこれまでに生きてきた二十二年間……。ん? 待て待て。四月十八日?  今日は私の誕生日だ。あは。こんな日に、あんなくそったれな大学を辞めることを決めるなんて、最高のプレゼントをしてくれるじゃないか、二十二歳の私よ。そして、ハッピーバースデー、二十三歳の私。思えば、これまでろくなプレゼントをもらってこなかったなぁ。一週間前に別れた彼氏なんて、シルバーの無駄にキラキラしたネックレスとか、一時間も行列に並んで買ったと言っていた甘ったるいシュークリームとか。人間の欲の歯車にまみれた輝きと味がして、私は嫌悪したよ。表には出さなかったけど。「わぁー、ありがとー」といかにも嬉しい気持ちを押し出しながら、瞳を夜空に浮かぶ星のように輝かせて(私からは見えないけど)は、ハッピーなカップルってこういうもんかと失望してた。当然、そんなろくでもない私は、フラれた側だけどね。でも、セックス終わったあとに別れ話するとか、あれは人生で最高に萎(な)えたなぁ。もうちょっと初めて達したオーガニズムの余韻に浸らせて欲しかった。ようやく、あの気持ち良さがわかってきたとこだったのに。

 あぁ、しまった。下ネタに話が逸れた。これ、R15かな?

 とにもかくにも、これまでに生きてきた二十三年間について、私の生きがいというか、重要なことを話さねばならない。私がなぜ、あんなろくでもない大学へ進んだのか。これは一言で済まないんだ。そうだなぁ。たぶん、一万文字くらい?

 まぁ、付き合ってよ。私のことを彼女だと思ってさ。ちなみに私、自分で言うのもなんだけど、すごく可愛いんだよ。一言で表すなら、守りたくなるか弱い女の子って感じ。さらさらで白砂みたいな指どおりの髪に触れながら、耳元で愛してると囁きたくなるような。好きでしょ? 男ならみんな。胸もそれなりにあるよ。Dカップ。揉みしだきたくなるよ。最後まで聞いてくれたら、触らせてあげてもいいよ。あぁ、そうか。SNSって男だけじゃなくて、女も読むのか。ダメだ。最後に私の連絡先をアップしておこうかと思ったけど、やめたやめた。炎上とかストーカーとか、怖いしね。

 私はさ、女なんて、大嫌い。生まれ変わるなら、男になりたい。だから、別にあんたらに期待してないよ。これまでも、これからの人生も。

 とにかく、話すよ。私のこれまでの人生は最高だった、ってお話。

 私の生きる原動力は、常に人生を面白くするか。そのことだけに焦点を当てて、エネルギーを注いでいた。今考えると、注ぎすぎて虫眼鏡で紙を焦がすように、ちりちりと燃え尽きてしまったのかもしれないけど。

 

 

 私は海辺の砂の上で生まれた。実際に覚えているわけではないけど、義父が言うには、砂にまみれたバスタオルの中で、口の中を砂だらけにしながら、小さな顔を真っ赤にして泣き喚いていたらしい。つまり、私は捨て子ってこと。たまたま拾ってくれた義父には感謝してるよ。だって、今まで生きることができたんだからさ。義父は男やもめだった。子供が欲しかったけど、子宝に恵まれず、奥さんは交通事故か何かで私を拾う数日前に亡くしたらしい。私を里子として引き取るのに散々苦労したらしいけど、私は不自由なく育てられた。

 だけど、私はいつも、道路脇に落ちてる薄汚い布のように、砂にまみれていた。でも、私は自分の人生が薄汚れているとか、周りの人と比べて不幸だなんて、一度も思ったことがない。私は常に、海辺で拾った砂を奥歯で噛みながら、浄化して、吐き出していた。ざらざらで乾燥した、白い素肌にも撫でつけながらね。一見、不快に見えるようなものも、口の中に入れてしまえば、無味無臭。不幸も一緒だよ。被ってみれば大したことがない。でも、砂の中にはたまにガラスの破片や細かい貝殻などが混じってるから、私の腕は傷だらけだ。たまに鉄の香りがするから、たぶん、口の中も。人生の道標として鋭いナイフを突き刺して、人生の華として深紅の口紅を滑らせるようなものだ。私にとって、不幸なんてものは、お洒落なワンピースのように着飾るものなのだ。ポケットの中に常に砂を忍ばせ、不幸を吐き出しながら、私は毎日を過ごしていた。お陰で私は、人の痛みというものが、子供の頃からよくわかったし、それが見えるようにもなっていた。

 私のこの行動はいつしか、他人を寄せ付けない排他的なものとなる。例えば、魚の目を想像してもらえるとわかりやすい。私は小学生になって、足の親指の先にそれができた時、嫌悪と絶望と苦痛をすべて混ぜ込んだような叫び声を上げた。見るからに異質なモノ。他所(よそ)に投げ出して、穴を掘って埋めたい。そんな見た目だよね、アレ。アレと私は一緒だった。私は自分のことを『魚の目の法則』と定義した。

 そんなこんなで、高校生になったとき、私は苛められる対象として華々しくデビューすることになった。不幸のベクトルに染まりきった高校デビューだ。いやぁ、あれはビックリしたよね。なにがビックリしたって、中学校の時はみんな、私をいないもんだと思って無視していたから、特段、気にしなかった。独りが好きだったしね。だけど、高校のみんなは、私に暴言を吐くんだよ。こんな砂にまみれた女なんて、気持ち悪いと思ったんだろうね。中学校まではそれで終わりだったけど、高校はどうやら違うらしい。気持ちの悪い人間は、排除しなければならない。または、更正しなくてはならない。

 ヒーローの武器を振りかざしたような正義感やら、優等生ぶったくそ真面目など正論やら、私の目の前で危なっかしく並び立てていたよ。つんと指で触れば、ドミノ倒しのように壊れそうだったけどね。

『捨て子は世に出る』という諺(ことわざ)があるけど、昔の人はよく言ったものだ。捨て子の歴史は日本書紀にまで遡るらしい。と言っても、それが日本に残る最古の書物だから、私はもっと古代の頃から、捨て子というものは人間の悪意に晒されていたと思う。

 人間ってさ、年を重ねれば重ねるほど、論理的になって、その論理をツギハギの鎧のように着込むから、人の痛みがわからなくなるんだね。鈍感にも程度ってものがある。あいつらの言葉には、人の痛みを理解するような気持ちなんて、砂粒ほども含まれていない。わかりやすい勧善懲悪のドラマだよ。自分たちが最高に正しいと信じ切っている。まさに私が発見した『魚の目の定義』に私の名前を代入して、そこに容赦なく言葉の石ころをぶつけてくる。私は底辺の細い線の縁にぶら下がって、死にかけの蛇のように這いずり回っているんだ。

 あいつらはオチのない喜劇なんかよりも、今にも落ちそうな悲劇へ、無味乾燥の瞳から棘のある微笑みを突き刺してくる。砂の中に綺麗な青い宝石が混ざっていても、汚らしい黒いヘドロが混じっていたら、当然それに目を向ける。汚いものを取り除きたくなる。綺麗にする過程で、ヘドロで石ころを作り上げて、私に投げつけるのだ。

 その石ころを危なっかしい土台にあるピラミッドの頂点から落としてくるのが、すみれという女だった。本当に可憐なすみれの花のような女だった。完全に名前勝ちしている、と初めて会話したとき、思ったよ。だって、そんな女から、真っ黒に焦げた消し炭の油のような、ねちゃねちゃして、どろどろとした暴言が吐き出されるのだから。私はこの汚い高校生活そのものですら、美しいと思えたよ。

 同じような作業に慣れてくると、段々と人間は過激になる。あいつらは限界って言葉を知らない。網目の細かいザルで砂をこしているうちに、どんどんとそのザルは更に荒い目になっていく。新しいもの、大きなものへ持ち替えていくのだ。私の手に握られた砂の直径はわずか1mmぽっちで、文字通り、見た目通り、ちっぽけなものだ。奴らは常にザルを持ち替えて、より大きな直径の石ころを振り落としてくる。私は質より数で勝負するしかなかった。

 まぁ、私はさっきも言ったけど、可愛いからさ。バケツいっぱいの水を頭からぶっかけられて、制服が私の身体にピタリと吸い付いたときは、男どもは優しかったよ。下心はパンツを履いていないように、丸出しだったけどね。私はスカートの裾を少しだけめくって白い太ももを晒(さら)しながら、近づく男どもを鼻で笑ってやったよ。両手に湿った砂を掲げながらさ。気分は義父が好きな漫画ワンピースに出てくる七武海(しちぶかい)のサー・クロコダイル。ちょっと古いか。今だったら、鬼滅(きめつ)の刃の方がわかりやすいよね。砂の呼吸、壱ノ型、砂衣(すなごろも)! 的な感じだね。まぁでも、そんな奴らを相手にするのが面倒臭くなってきたから、私は高校をわずか一年で辞めた。義父は何も言わなかった。

 砂まみれの退学届けを紙飛行機にして職員室へ飛ばしたあと、私は満開の桜の下で背伸びをして、スキップしながら帰った。当時流行っていたロックバンドの音楽を鼻歌で口ずさみながらね。手に持った薄っぺらい鞄を、海よりも深い色をした青空に放り込みながら、バスにも乗らず、歩いて家へ帰った。片道二十キロもある国道をひたすら歩いた。ボロボロのスニーカーだったから、砂がどんどん足の裏に食い込んで痛かったけど、とにかく風が気持ちよかったな。帰ったら疲れ果てて、ベッドの上で泥のように溶けて眠った。

 次の日からは、何もすることがなくて、気分爽快。とりあえず、三ツ矢サイダーをコンビニで買ってきて、義父が使うビールジョッキに氷を入れて、ぷはぁと一気飲みしたよね。缶ビールでも良かったけど、苦くて飲めたものじゃないから、やめておいた。カランと丸い氷が崩れて、太陽の光を虹色に反射させて、私を照らしていたよ。私は指先でくるくるとビールジョッキを回していた。

 自由ですら、絵にかけるような気分だった。意味もなく文房具屋で五十号もある大きな白いキャンパスを買って、自転車に無理やり縛り付けて、河川敷へ出掛けたこともあった。何も描けなかったけどね。でも、それこそが自由なんだ。だったら、キャンパスなんて持っていくなよと一人ツッコミして、芝生の上に投げ出したまま、私は川の向こうまで聞こえるような笑い声を飛ばしていた。

 ずっと家にいる生活は、勉強に集中できた。教科書を読むだけのつまらない授業なんかより、よっぽど有意義。誰にも邪魔されないし、自由な猫のように暖かな太陽の日差しを全身で浴びながら、好きな時間に昼寝もできる。今だと、ネットのサイトとか、ユーチューブで、高校授業がわかりやすくまとめられているんだよ。学校って無意味だなぁって、つくづく思ったよ。

 ぱりっと洗濯糊(のり)のきいたシャツを着込んだ学生が街のあちこちに飛び回っていた。そいつらを横目に、私はいつも同じ小汚い私服でうろうろしながら、茶色に染めた髪をかき上げていた。まぁ、私の生活のほとんどが、コンビニと家との往復だったけどね。それでも、たまに遠くの海が見たくなったときには、片道三時間かけて電車を乗り継いで好きな時間に行くことができたし、山に登りたくなったときには、参考書を片手にボロボロのスニーカーで悪戦苦闘しながらも、頂上で大声出して朗読していた。登山してたお爺さんは白い目で私を見ていたけど。

 高校を辞めて二年を過ぎた頃、私は高校卒業認定の試験を受けて、高校のあいつらが目指してた大学に受かってやろうと考えた。意外にも私、やってみると暗記が得意なんだなって、初めて知ったよ。試験なんて、所詮、暗記だ。ドラえもんに出てくる暗記パンを頬張るように、私は頭の中に公式とか、歴史とか、英単語とかをもしゃもしゃと詰め込んだ。私の自由なキャンパスには、いくらでもそれらが描き足せた。

 最高の皮肉を、今まで私を馬鹿にした奴らにプレゼントしてやろうとほくそ笑んだ。この日のことは三年以上が経った今でも忘れられない。たかが大学受験の発表なのに、まるで、人生の合格発表みたいだと勘違いしているんだよ、みんな。

 私に一番暴言を吐いていた女、すみれ。すみれのフェイスブックを私は知っていた。だから、どこの大学を受けるのか、把握していた。律義にアップしているんだよ。自分の勉強した軌跡ってやつ? 自分はここまで頑張ったと、いろんな人からイイネ! を貰いながら、すみれは生きていた。承認欲求が強いんだなと思いながら私は目を細め、スマホ画面越しにすみれの軌跡を眺めていた。

 受験の結果は、すみれの間近で眺めることができた。一浪までしたのに志望大学を落ちたらしく、呆然とした顔は、塩味がきいてそうな涙でぐちゃぐちゃだったよ。私は隣にこっそりと肩を並べていたけど、生まれて初めて、もらい泣いてしまった。だって、私は人の痛みが痛いほどにわかるからね。すみれが広げた絶望と悲壮の海へ静かに舟を漕いでやった。ものすごい努力したんだなってのは、なんとなく身に纏うオーラでわかった。フェイスブックでもその努力はたくさんのデジタル文字で語られていたけど、現物の努力ってものは、目の当たりにすると声も出なくなるんだね。息を呑む光景というのものは、壮大で素晴らしい景色とか、目を見張るほどの美しい人物を見た時なんかじゃない。人の生きてきた時間が真っ向から全否定された瞬間を見た時なんだと、私は思ったよ。

 私たちは歓喜やら、悲壮やら、絶望やら、いろんな感情が混ざり合った雑踏に取り囲まれていた。合格発表の掲示板を遠い世界の異物のように見上げるすみれが、私にとってこの上もなく美しくて、儚くて、愛おしかった。

 無言ですみれに寄り添っていたら、彼女は私の震える肩に寄りかかってきた。思わず私は胸がドキドキした。私のことなんて、まるで覚えていない顔だった。私は高校にいた時、ストレートパーマで黒髪、眼鏡だったけど、その時は茶髪でポニーテール、コンタクトにしていたから。いかにもあいつらが好きそうな女子高生を演じていたから。

「あなたも、落ちたの?」

 すみれが涙でぐしゃぐしゃにつぶれた声を私の肩に溢した。私は首を縦に振り、すみれの言葉と嘘を、自分の涙と共に地面に落とした。

「……これは、罰かもしれない」

「は?」

 すみれが意味のわからないことを雨の滴のようにぽつりと呟いたので、私は思わず肩を上げた。その仕草に驚いたすみれが、私から離れる。

「私ね。昔、一人のクラスメートを、退学させちゃったことがあるの。ちょっと不思議な子だったけど、その子は別に悪いことなんてしていなかった。私、そのとき成績が上がらなくてイライラしてたから、つい暴言を吐いたことがあって。そうしたら、止まらなかった。次から次へと出てくる。いつの間にか私があの子を虐めるクラス代表みたいになっちゃってて。でも、そのお陰で成績はまた上がった。結局、それは神様が与えた私への罰だったんだなって。罰で培った知識と努力なんて、やっぱり認めてくれないんだなって。あなた、その子と雰囲気が似てるから、ちょっと思い出しちゃった」

 すみれが鼻をすすって、可愛らしく微笑む。その仕草はまるで、ビルの雑踏の中、可憐に咲かせるか弱い花が、霧雨に濡れているようだった。

 涙でぼやけていた私の視界が突然、輝いた。うそ泣きだったのかもしれないけど、頭の中にすうっと、なにかが降臨してきたのだ。たぶん、すみれが召喚した、悲劇の女神の力だ。そいつが杖を振りかざして、私の瞳に入り込んだ曇り空を、快晴に変えたのだ。

 すみれにはもう、美しさも、儚さも、愛おしさも、微塵も感じなかった。

 同時に私には、腹の奥底へ砂の悪魔が召喚された。こいつは勝手に私を悲劇のヒロインと決めつけて、その舞台に立って、悲劇を演じているのだ。罰を与えよ。悪魔が囁いていた。私はポケットに手を突っ込み、拳を握りしめる。

「ねぇ、これから、一緒にお茶でも……きゃっ」

 すみれがこっちに悲しみを向けた瞬間、私はポケットから砂を取り出し、彼女の今にも脆く崩れそうな顔面にぶつけてやった。勢い余って、周りの受験生にもふりかかる。涙の落ちる音は聞こえなかった。ただ、さらさらと、時が流れる音が聞こえた。私はすみれがどんな反応をするのか、見てみたかった。見ろよ。悲劇の主人公はここにいるぞ。来てやったぞ。お前が望む、悲劇のショーの始まりだ。私はうなじで縛っていた髪を勢いよくふりほどいた。自慢のDカップに、髪の毛が手ですくった砂のようにサラサラと舞い下りてくる。砂にまみれて、ざらざらとしていたけど。

「……、ちゃん?」

 細めた瞳を手の甲で擦りながら、すみれは私の名前を呼んだ。声が小さすぎて、何て言ってるか、まるで聞こえない。口の中にも砂が入ったらしく、よだれを垂らしながらひどく咳き込んでいる。

「ねぇ、あんた。何をしているの? げ、砂?  砂なの、これ。服が汚れたじゃん」

 前にいた名も知らぬ女が振り返って喚き声を泡のように吐き出しながら、私に詰め寄る。今にも私の胸ぐらを掴んできそうだった。その顔はまるで、怒ったメス豚だ。私はその豚から手の指先にぶら下がっていた受験票をひったくった。

「受験ばんごー、2007。お、受かってんじゃん。良かったね。私と同じ学部だ。春からヨロシクー」

 私は受験票を指先でひらひらさせながら、唇の端っこを吊り上げた。メス豚とすみれが瞼(まぶた)を大きく見開いた。完全にシンクロしている。面白い。

「何、あんた。ねぇ、こいつ、あんたの友達?」

 メス豚がすみれに怒りの矛先を向けた。すみれが口許の砂をぬぐいながら首を縦に振ったときは、私はやれやれと肩をすくめた。そこは知らないって言っとけよ。悲劇を演じるのはいいけど、そこに更に悲劇の糸を手繰り寄せるな。演技が下手くそだなと私は歯噛みし、鼻の先っぽからため息をついた。

 今度はすみれの受験票をメス豚がひったくる。

「ふん。あんた、落ちてんじゃん。底辺高校から背伸びでもして、受験した?  こんな変な奴がいる高校だもの。当然よね」

 ほら見たことか。悲劇を演じていた舞台には、新しい悲劇がどこからともなく襲いかかるのだ。私はその時、確信したよ。因果応報ってやつ。結局、過去に何かしら悪いことをした人間には、すみれの言うとおり、罰が降りかかるのだ。

「よわっちぃ人間を苛めるのが、そんなに楽しい?」

 私は吐き捨てるように言った。このメス豚には、今この場で罰を与えなければならない。

「は?」

「ちなみに私はいつでも楽しく生きてるよ。この上もなくね。たださ……」私は自分の身体を押し出すようにして、メス豚の胸ぐらをつかんだ。「底辺高校だと勝手に決めつけんなよ。人の努力を笑うな。他人のことを笑っていいのは、悲劇を演じるのに失敗した時だけ。自分のことを馬鹿にされたときだけだ。今、誰かがあんたのことを馬鹿にしたか?」

「ふざけ、ないでよ!」メス豚が腕の弾みをつけて、私の手を乱暴に振り払った。「意味わかんないこと言ってんじゃ……」

 すかさず私はポケットの中の砂を両手に掴み、連投する。ばさりばさりと小気味のよい音がして、メス豚が悲鳴を上げる。大きく開いた口のなかに見事にストライク。私は拳でガッツポーズ。

「行くよ」と私はすみれの腕を乱暴に掴み、走り出す。

 背中で「ふざけんな、てめー」という最早、我を忘れた鳴き声が響いたが、私たちは無視して走り続けた。

 気づいたら、私とすみれは大学構内に幾つもあるせせらぎの上で、黙って立ち尽くしていた。この大学は敷地がとにかく広い。木々の隙間から、弱々しい太陽に日差しが降り注いでいた。

「あなたは、何をしたいの?」

 すみれはせせらぎの流れを見つめたまま、言葉をこぼした。

「……別に。何がしたいってわけじゃない。自分の人生を、面白おかしくしているだけ」

 私はポケットをまさぐりながら、すみれの質問に適当な答えを返していた。砂がもうあまり入っていなくて、また海へ調達しに行かなければならないと、ため息をついた。

「私には、わからない。高校辞める前もそうだった。あなたはいつも、よくわからなかった。あなたの目は、いつも何を見ているのか」

「別に、誰かに理解してほしくて、生きてるわけじゃないし……」

 私は砂まみれの掌で、せせらぎを跨ぐ橋の欄干を握り締めた。砂粒が掌に食い込み、少し痛かった。

「どういうこと?」

 すみれが上目遣いで私を見上げていた。

「どいつもこいつも、他人を蹴落とさないと、生きていけないのかなって、いつも思ってるんだよね、私。蹴落とした先に何があるの? 他人と比べた先に何があるの? 他人が掘った人生の落とし穴を探しながら、綱渡りするように生きてるみたい。それでいて自分が穴に落ちた時には、悲劇のヒロイン気取って、誰かのせいにしているじゃん。あんたみたいに。もがけばもがくほど、落ちてくる砂に溺れるだけなのにさ。それって、何が楽しいの? それなら自分で落とし穴を掘って、自分から飛び降りていけばいいじゃんと、私は思うけどね」

 すみれは黙っていた。唇を噛み、私のことを矢が刺さった白鳥を見るかのような瞳を向けている。

「私が高校を辞めたこと。それがあんたの罰って言うんならさ、私を捨てた人間には、どんな罰が待っているんだろうね。もし見れるなら、私は目の前で見てみたいよ。どんな罰が下るのか。雷でも落ちてくる? 乗っていた飛行機が墜落する? さぞ、愉快で痛快な罰が待っているんだろうね。……でも。生憎だけどさ、不幸がいつかやってくるとしても、私たちには全てを見ることができないんだよ。テレビとかパソコンで切り取られた痛ましい事故だって、あれ、本当に起こった出来事なの? って思う。たまたまその場にいた人間が、気まぐれで不幸を救い上げるような、そんな世界なんだよ。世界は広くて、ちっぽけだ。すみれ、あんたもね。あんたが大学を落ちたところで、同情してくれる人間なんて、本当は誰もいないんだよ。私も含めて。友達も。先生も。兄弟も。親ですら。誰も。誰もだよ。だったら、自分で自分を慰める? もっと無意味だよ。フェイスブックで大学受験に落ちたって記事でも書いてみたら? イイネって、たくさん押されるよ」

 私はポケットに残った砂を全部、せせらぎの真ん中へ、童話に出てくる花咲爺さんのようにばらまいた。さらさら、さらさらさらと、せせらぎの流れにカーテンが舞うように、砂が零れ落ちていく。不幸の形は、見ることができない。この砂のように。

「……だったら、私が自分でこの世界を変えてやる。イイネのスイッチは、自分で探して、自分で押してやる。それが私の生きる目標だ」

 世界に復讐するわけではない。私は世界のすべてを自分のものにして、コントロールしたいと強く思った。

 大学に入って、私はまず初めに、私を変えてみた。目指したのは、清楚系女子だ。メイクも上手になったし、ナチュラルな見た目を、盛りに盛ってみた。インスタ映えじゃない。現実の世界の中で、私は太陽の光に切り取られるように、くっきりと映えるようになった。

 加えて、清楚系女子は穏やかな心を持ってSNSを書く人が多いと聞いたので、ブログも始めた。タイトルは『固定悲劇批判劇場(こていひげきひはんげきじょう)』。ペンネームは『魚野瞳(うおのひとみ)』。この世の悲劇をすべて喜劇に変えてやろうと想いを込めて、1と0でできたサイトをひたすら更新し続けた。

 新入生オリエンテーションの日、あのメス豚が私のことに気づかなくて、話しかけてきたときには、心の中で爆笑した。私も私で、完全なる加工女子を演じてたからね。挙句の果てに、

「私とあなたは、仲良くなれそうだね」

 とまで言ってきたものから、笑いをこらえるのに必死だった。こいつ、意外にいいやつなのかも。私は掌を花のように口元へ添えて、上品な微笑みを浮かべながら、時計の針を箸でつまむように、ゆっくりと大学生活を謳歌した。うまくいかない恋人との悩みとか、目指すべき大人の未来とか、頬を赤く染めたくなるような夢も、お互いに独り暮らしの部屋で夜通し打ち明けられるまで仲良くなって、卒業式の時にでもカミングアウトしてやろう。そう思っていたのに、

「……気づいてたよ」

 大学二年生の秋、どうでもいいことで喧嘩をしたある日、逆に彼女からカミングアウトされた。喧嘩した理由なんて、まるで覚えていない。夕ご飯のおかずをどうするとか、そんなレベルの話だったと思う。

「私は別に、あの時のことを恨んではいないよ。確かに、私も悪いことしたからね。何も言わなかったのは、あなたへの償いのつもり。大人だからさ。もう過去には拘らないで、前に進もうと思ってただけ」

 彼女の玄関先で、電気をつけないまま突っ立っていた。薄暗くて、私の顔も、彼女の顔も、全然見えなかった。カモミールのような香りだけが鼻についた。靴箱の上に置いてある芳香剤の匂いだった。

 また罰とか、罪とか、償いという言葉が出てきた。このメス豚を砂の中に埋めてやりたいと、心の底から思った。だけど、私の気持ちに反比例するかのように、そこまで大量の砂は私のポケットには入っていなかった。メス豚はもう、暴言を吐かなかった。私を憐れむような瞳でただ、じっと見つめているだけだった。まるで魚の目のように。その日を境に、私たちは会話をすることがなくなった。

 私の人生の目標も、アニメのフレームレートが動くように、ぶれ始めた。それと同時に、『固定悲劇批判劇場』のアクセス数が急増した。理由がわからなかった。私に気づかない何かが、確かに切り替わったのだ。

 清楚系女子は男にモテたから、寄ってくる男どもと片っ端から付き合った。でも、交際期間は一か月と持たなかった。砂にまみれた裸の私を見て、男どもは汚い魔物にでも出会ってしまったかのような声を上げていた。私の身体を撫でているうちに肌へついた砂と、私の顔を交互に見下ろし、薄れた眉を寄せながら、間違いなく嫌悪していた。それでも、既に自分の欲望を抑えきれなくなってしまった彼らは、私の狂った心に目を背けながら、私の身体を優しさの欠片すら感じさせない腕と身体で抱きしめていた。

 なんとなくわかった。彼らは裸の私を求めているんじゃない。自分だけの快楽を求めているのだと。綺麗で清楚な香りがする私に惹かれて集まってきた、ただの働きバチに見えた。あぁ、働きバチは全部メスか。じゃあ、明かりに集まってくる蛾(が)だね。まぁ、なんでもいいや。彼らは自分たちの性欲に対しては想像力豊かで正直だけど、所詮、ただのリアリストどもだった。

 そんなリアリストたちは更に現実を重ねて、私を不幸の落とし穴へ呼び込もうとする。私が見つけ出した落とし穴なんて、全く持って興味はない。自分の不幸へおいでおいでと呼び込むのだ。それを決定的にさせたのが、とある先輩との会話だった。

「人は、誰かへ償うために生きているように見えるって? はっ。ばっかじゃないの」

 私は今年の春から大学四年生になって、とある研究室へ配属された。その新人歓迎会の後、小さな部屋で、お酒で酔っ払った私は勢いで、先輩につまらない人生論を説いていた。それを聞いた先輩が私の言葉を一笑に伏した時、私は頭に血がのぼっていた。気づけば、私が息を荒々しく吐き出す音と、パソコンのハードディスクが回る音だけが、その部屋に響いていた。机の上に並んだハイスペックパソコンには、私が投げ捨てた砂が散らばっていた。

「償われて許しを乞えるくらいなら、世の中はみんな、幸せになっていくんだよ。そんな幸せを呼び込むような不幸せなんて、都合よく振ってくるわけがない。私を、不幸の穴へ呼ばないで欲しい」

 先輩は腰をかがめて机に散らばった砂粒を、ロボットのように丁寧に指先で集め、拾っていた。私の吐き捨てた言葉なんて、まるで聞こえていないという感じだった。集めた砂は、テーブルの下に隠されるように置いてあったゴミ箱へ捨てられていく。私が自分で積み上げてきたこの世界の喜びを全否定しているようだった。私はその姿を、ピラミッドの頂点から見下ろすように眺めながら、機械のように言葉を投げ落とす。

「償い、罰、贖罪、許しを乞うこと。そんなものは、私にとって死にたくなるほど、嫌悪するものだ。人間は何かを償うために生きてるんじゃない。それが人生なら、死んでるも同然じゃん」

「そう。だから?」

 先輩の目と言葉は凍り付いていた。空気がひび割れる音が聞こえたような気がした。ピリッと、薄い氷を踏んでしまった音。何を言っても、その氷の目は、とけることはないと感じた。

「あなたは、まだ子供なの? 私たちは、これから社会へ飛び立つ身なの、わかるでしょう? 人はそれぞれ役割を与えられる。誰かへ償うんじゃなくて、誰かを回していくの。それがこの社会で生きるってことでしょう。何を言ってるの、あなた」

 あぁ、そうか。私は理解するとともに、眩暈(めまい)がした。

 大人になると人の痛みだけではない。自分の痛み、毎日移り変わっていた喜怒哀楽。それらもすべて、砂漠で永遠と彷徨ったように渇望するのだ。アスファルトにたまった水たまりが蒸発したように消え失せるのだ。

『固定悲劇批判劇場』の喜劇は、私だけのもの。でも、そのイイネを押すのは他人。私もいつの間にか、自分の人生を他人に測ってもらうようになっていた。悲劇だけじゃなかった。喜劇ですら、一緒くたにして。最早、善悪の区別すらつかなくなるような、曖昧な日々に私は足を踏み入れていたのだ。

 先輩はパソコンについた砂を振り払っていた。私の身体に纏わりついた砂は、いつまでも振り払われることなく、残っていた。

 薄気味悪い。と、先輩の瞳が私を睨みつける。みじん切りしたキャベツのサラダに、マヨネーズではなくて、砂粒をかけるような、そんな冷笑。無表情の仮面を彩るために、冷たい氷が点々と張り付けられたような笑顔。高校の時にはまだ、悪意があった。そこにはまだ、私を虐めてやるぞという負の感情があったのだ。でもこの先輩には、悪意すらない。何もない。無味乾燥。砂が腐って、とけていったような虚無感。

 青春とか、思春期とか、恋愛とか、それらを乗り越えていく過程で生じる葛藤や不安なんて、通りすがりの親戚みたいなものだ。笑顔で挨拶していれば、誤魔化せる。それよりも、その先にある真っ暗で絶望に満ちたつまらない人生の方が、よっぽど悪意にまみれた魔物だと思う。それを、洗濯しても汚れの落ちないシャツのように、毎日着こなしていかなければならない。まるで呪いのように、人を重く、縛り付けるのだ。

 そんな人生に何が残るの?

 私は掌に残った砂のやり場に困り、迷った末、それをすべて口に放り込んだ。大さじ二杯分くらいはあっただろう。舌の上をざらざらと通り過ぎていく。何も味はしない。この世界と同じ。無味無臭を一気に飲み込んだ。

 先輩は信じられないという目で私を見つめ、身体を震わせながら、口元をぱくぱくさせていた。その様子はまるで、餌を与えらなくて、必死になっている死にかけの金魚のようだった。

 人間は生きている中で、どこかで境界線を引っ張る。自分と他人の。そのくせ、この社会に組み込まれようと必死になっている。私は世界を楽しくしたいと思っていたけど、それすらも叶わないと思い知った。私は無力だ。何もかも、無駄だった。

 誰しも、社会の歯車にかみ合わさった瞬間に、他人に対して無関心となるのだ。関心があるのは、目の前の無機質を振り払う作業とか、今日を生きるために食べる夕ご飯の献立だけ。冷酷な時計の針が、時をチクタクと刻んでいく。日々が全自動になるのだ。動き出したら止まらない。回る、回る、回る。どこまでも、いつまでも、際限なく。昨日から今日。今日から明日。そこに喜怒哀楽に染まった私はいない。色を無くして、ただただ身を任せるのみ。最早、そこには砂すら噛める余地すらない。歯車が壊れることを恐れ、纏わりついた異物をすべて、すぐさま必死に振り払うのだ。目の前の先輩のように。

 この世界の人間は、神様に作られたロボットなのか?

 世の中にうまく同調するという細かい設定を盛り込んでないで、ありのままに生きろよ。下らない人間なんて、私が変えてやるよ。どこにもスイッチがないなら、私がスイッチを作る。そうやって、周囲は影響するんだ。いや、しなければならない。自分の意思を持てよと、私は心の底から思っている。底辺から声を上げている。でも、声は届かなった。どうしようもできなかった。

 そのあと、私は激しい腹痛に襲われた。本物の砂の悪魔が、私の腹の中で蠢(うごめ)いているようだった。家のトイレで、新人歓迎会で食べたジンギスカンや、飲んだビールを吐き散らかし、朦朧とする意識の中、その悪魔が耳元で囁く声を聞いた。

 ――お前の人生そのものが、罪なのだ――

 学校とは。組織とは。社会とは。そんなことを考えていたら、あることに気がつく。みんな同じ思考にまみれているのだ。私はそれに砂をぶつけて、振り払おうとしていた。

 ……そうか。私は自分の人生そのものから、逃げていただけだったのだ……。

 子供の頃、砂を噛む私に対して、「海の砂を呑み込むと、盲腸になるぞ」という都市伝説を義父から聞いたことがあったけど、本当に盲腸だった。

 意識がはっきりしたのは、手術が終わって、ベッドの上だった。海が見える病院だった。身体を起こすと、傷が腹の上でムカデがうごめいているように痛んだ。私はうめき声を漏らす。

 この世界の歯車を動かす原動力はなんなのか。楽しさじゃないのだろうか。私は窓から、なんとなく見覚えが砂浜を眺めながら考える。指先にはもう砂がない。私は綺麗で真っ白で、女神様が着るようなパジャマを纏っていた。砂のようにサラサラだ。指先で触れると、溶けるように生地が流れていく。サラサラという音は聞こえないが、指先の感覚がすり抜けていくような触感。

 私は飲み込んだ砂を吐き出すように、嗚咽した。戻れ、戻れと。私の汚らしい武器が戻れと。だけど、それはもう戻ってこない。私の武器は、こんなにも脆くて、小さくて、どうでもいいものだったのだ。

 掌をかざす。そこにはもう、何も残っていなかった。

 あんな武器では、世界は何一つとして、変えることはできなかった。

 私は、私だけの世界を楽しんできただけだった。それは私を馬鹿にした最低な人間たちと変わらない。だから、二十三年分の罰が、私に纏わりついていた砂に蓄積して、私に痛みを与えたのだ。

 私に罪を犯した人たちが、罪を償ってほしいわけじゃない。私自身への罪ですらも利用して、自分たちの人生に生きる希望でも、持っていればいいだけ。それだけでよかったのにさ。

 あぁ、ちっぽけ。醜いよ、私。可愛くもなんともない。必死にしがみついていた人間社会の底辺から、ようやく落っこちることができた、最低よりも更に下に落っこちた人間だ。人間でもないのかもしれない。そんな人間は、泥にまみれることも、砂にまみれることもできやしない。真っ白で、透明で、空っぽだ。

 私は空っぽになったポケットと頭で海を眺めながら、大学を辞める決意をした。せめて、大学を卒業して決まりきった会社に就職して、つまらない砂漠のような人生に私は足を踏み込みたくない。砂にまみれた人生なんて、もうまっぴら御免だ。そう思った。

 でも、私はここから、どうすればいいのか、まるでわからなかった。

 

 

 とまぁ、こんな感じだ。一万三千文字にもなった。つらつらと語ったよ。

 スマホを使って私のブログ『固定悲劇批判劇場』にアップしようかと思いながら文章を打った。つまんない人生に終止符を打つつもりで。

 でも、結局、アップしなかった。なんだか自分の人生感をすべて吐き出したら、結局、ひねくれ者がひねくれた文章を綴っているだけに見えた。しかも、私の人生はたかが一万三千文字程度に集約されるんだ。ネットのあちこちにアップされている、ちょっとした短編小説と同じ。

 自分だけが楽しい人生など、誰が共感してくれると言うのだろう。ようやくそれに気がついた。分厚い広辞苑から誤字脱字を引っ張り出すように、私もどこかで人を見下していた。自分の世界を無理やり空に浮かべて。

『盲腸になって、入院した。笑える』とだけブログに呟いて、私はスマホをすぐ脇のテーブルに乱暴に放り投げた。拍子にラインが起動されていたけど、どうせ誰からも連絡もないし、どうでもいい。足と腕を投げ出して大の字になって、ベッドに深く身体を沈み込ませた。どうでもいいどうでもいい。私は目を閉じ、世界がなくなればいいのにと願いながら、眠り続けようと思った。

 それから、数日が経った。

「……、ちゃん? 叶(かなえ)ちゃん」

 暗闇の中で私の名前を呼ぶ声がした。私はゆっくりと目を開けた。

 瞼をめいっぱい見開いた。病室の入り口には、大学受験の合格発表以来、会っていなかったすみれが胸を張って堂々と立っていたからだ。胸の前には花束を抱えていた。春に咲く薄桃色の桜がちらりと見えた。

「体調、どう?」

「どうして……?」

 ここにすみれがいるのだ。私が病院にいることを知っているのだ。言葉が出てこなかった。すみれは前にも見たことがあるような、可憐な花が咲くような笑顔を浮かべた。

「叶ちゃんのこと、直接、目の前で笑いに来たよ」

「……え?」

「他人のことを笑っていいのは、悲劇を演じるのに失敗した時、だったっけ? 大学では悲劇、演じられた?」

「……」

 何も言えなかった。私は大学で悲劇を演じているつもりなど、毛頭なかった。

 でも、私は人生を楽しくすることを、諦めた。そう考えると、私の人生の全てが、悲劇と呼べるのかもしれなくて、私は俯いた。ぽたりと私の手の甲に何かが落ちた。涙だと気づいたのは、自分のしゃくり声を聞いてからだ。

「……笑いたいなら、笑えばいい。どうせ私には、何も残っていないから」

「ねぇ、叶ちゃん。つまんない人生ってさ、どうやったら、楽しくできるの?」

 そんなこと、知るもんか。知っていたら、私は今、涙など、流していない。

「私にとっては、叶ちゃんが演じる悲劇は、最高の喜劇のショーだったよ」

「……何、言ってんの?」

「『固定悲劇批判劇場』」すみれが悪戯っぽく微笑みを浮かべ、鼻で笑う。「三年前、見つけたのは、偶然だった。なにこれ最高に面白い。世の中にはバカでまぬけで、底辺を這いずり回っているような女がいるんだなって、初めて読んだときは腹を抱えて笑った」

 私は勝ち誇ったような声を吐き出すすみれを、ただ黙って見つめていた。すみれは、高校の時と同じ薄汚れた笑顔をかざしていた。

「もしかして、これ、叶ちゃん? って気づくまでには、ちょっと時間がかかったけどね。見事に盛っていたよね。清楚系女子って言うの? インスタ映えならぬ、ブログ映えが冴えに冴え渡ってたよ。よくもまぁ、自分に降りかかる悲劇をここまで笑いに変えることができるなと、そこは無駄に凄いなって思って、感心してた」

 どこかのねじが外れて、音響が狂ってしまったスピーカーのような笑い声を、すみれは発していた。悪意をわざと隠しているような、そんな笑顔だった。耳が痛くなった。

「読んでいるうちにわかったよ。叶ちゃんでも、誰かに助けを求めるんだなって」

 嘘だ。私は、助けを求めてない。そんなの、一度も思ったことなんて無い。そう言おうとしたけど、喉にねっとりとした泥が絡みついたように、言葉が出ない。代わりにすみれが言葉を続ける。

「嘘だと思ってる? 私には見えてたよ。叶ちゃんの痛みってやつ? 砂にまみれた下らない女の喜劇に見せかけた悲劇。まるで人生そのものが悲劇のよう。そんな女が作る世界の方が、何倍も楽しいのだから、みんなもこっちに来いって、いつも叫んでるように見えたけど。そんなもの、楽しいわけないじゃない。バッカだなぁっていつも思ってたよ、私は」

 助けなんかじゃない。そんなの。絶対に違う。違うのに。

 頬を伝う温かいものが、顎(あご)の先っぽからとめどなく滴り落ちてくる。涙が止まらないのは、どうしてだろう。

 すみれはそんな私を見ながら、肩を揺らし、腹を抱えて笑っている。あははは。可笑しい。可笑しいよ、叶ちゃんと呟きながら、私はベッドのタオルケットと一緒に、拳を握り締める。

「私が一番面白いと思った言葉は、『この世界は無味乾燥』。叶ちゃんの言葉は弾けてるよね。まるで世界をポップコーンのように炒め続けているんだよ。悲しみも不幸も、憎しみすらも混ぜ込んで。最高だった」

 すみれの言葉が私を切り刻んでいく。痛いほどに。

 小さい頃から、ナイフのような鋭い大人の正論に、私の心は切り刻まれていた。それを隠すために、砂をポケットに忍ばせた。生まれながらの不幸なんて信じない。信じたくなかった。世界の不幸を並びたてて、緻密に、砂をつまむように、私の身体をアレンジしていくことに決めていた。徹底的に。容赦なく。痛みに慣れていたはずなのに、どうして、こうもすみれの言葉は私を抉(えぐ)るのだろう。

 結局、私だって、仮面のような人生の中に、砂と一緒に埋もれていくしかないとわかったからなのだろうか。底辺だろうが、頂点にいようが、努力しようが、成功しようが、失敗しようが、同じ砂漠のような人生に足を踏み入れていく。動物園のペンギンが狭苦しいプールでばらばらに泳いでいても、飼育員の合図で息苦しい宿舎へ行列になりながら戻っていくように。

 大学に入って、私を変えた瞬間、それは決まっていた。私は思い出した。人の痛みが、いつしか見えなくなっていたことに。人の痛みじゃなくて、自分の痛みすら、いつの間にか感じなくなっていたのは、私の方だった。

 人の痛みが見えるだけじゃあ、何も語れない。砂は腐らない。腐っていったのは、私の心。でも、馬鹿で狂ったような正義論で、がちがちに固められていた。それに気が付いたときには、既に遅い。私には何も残っていない。

「……と、まぁ、ここまでは、つまんない女たちが紡ぎだした悲劇な人生のエピローグだね」

 すみれが絵本を読み聞かせるお母さんのように呟きながら、いつの間にか、私のベッドの横にある空っぽの花瓶に、持ってきた花を活けている。ふわりとすみれの髪の毛からいい匂いがした。花の匂いかもしれなかったけど、私は心が妙に落ち着いた。

「……私ね。結局、大学、行かなかったんだ」すみれが思い出したように呟く。「三年間、ずっと、バイトだけしてた」

「そうなの?」

「うん。あの合格発表のあと、私は空っぽになった。暗記してた公式とか、英単語とか、歴史の年号とか。ぜーんぶ、消え去ったの。たぶん、叶ちゃんのせいだね。あ、思い出したら、腹が立ってきた」

 そのお腹にパンチしていい? とすみれが真顔で言ったので、私の目の奥にある涙は、すうっと波が引いていくように消えていった。すみれはすぐに冗談だよと鈴を転がすように笑う。

「あの日から、確かに悲劇のショーが始まっていた。人生の悲劇。何もかもつまんない。バカげてる。努力なんて無駄。そんな考えが私の身体を切り刻んでいった。でもね。私、思ったよ。合格発表の時の叶ちゃんの言葉を思い出した。……ねぇ、叶ちゃん」

 すみれの身体が近づき、私の首にそっと手を回し、抱きしめた。その手は温かくて、心地よかった。肩にすみれの小さな胸が当たった。Aカップしかなさそうだったけど、柔らかかった。私のぼさぼさになった髪を優しく指で撫でながら、そっと耳元で、甘い吐息を吐き出しながら、呟く。

「……二人で一緒に、この世界を変えに行こうよ」

 その瞬間、私の頭の中が、真っ白になった。今まで自由のキャンパスに描いていた、埋め尽くされんばかりの偽物の喜劇が、すべて吹き飛んだような気がした。

「私たちはもう、大人の階段を何歩も飛び越えちゃったけど、まだ間に合う気がするんだよね。ほら、叶ちゃん。大学に行く前に言ってたじゃん。『私たちはすべてを見ることができない』って。穴に落っこちた叶ちゃんを、今度は私が仕方ないから拾い上げてあげるよ。叶ちゃんのことなんて、誰も同情なんて、してくれないからね」

 すみれが私からゆっくりと離れ、病室の窓を勢いよく開け放った。砂の香りと、潮の香りがいっぺんに吹き込んできた。

「世界が変わったことに一人で気づかないならさ、二人で一緒に探そうよ。世界を変えるスイッチってやつ? 独りだったら見えない景色はたくさんある。でも、二人だったら? 見える景色は二倍だよ。人生も二倍。何でもできる気がしない?」

 すみれが振り返って、ね? と首を傾げて微笑んだ。

「同じ空っぽの仲間どうし。私は叶ちゃんが空っぽになるのを、まだかまだかと、ずっと待っていたんだよ」

 潮風に吹かれながら髪をかきあげるすみれは、悲劇のヒロインではなく、まるで、私の人生のヒロインに見えた。この子は、こんなに可愛い子だっただろうか。破壊的だ。私は胸の鼓動の波打つ音が聞こえたようだった。今なら、私はこの子に抱かれてもいいとさえ思えた。

 机の上にある小さな鏡が目に入った。清楚なパジャマに身を包み、目を真っ赤にした私が見えた。可愛さの欠片もない。私は急に恥ずかしくなって、下を向いた。

 ……そうだ。新しいブーツを買おう。いつも履いているスニーカーは丈が短くて、砂がすぐ入り込んでくる。ついでに温泉に行って、このざらざらの肌をつるつるにして、汚れを洗い落として、おいしいものを食べよう。

 二人で世界を変える。それも、悪くない。

 私は再び涙が伝ってきた頬を上げた。きっとぐしゃぐしゃな酷い顔をしているんだなと思ったけど、ようやく真っ白な笑顔の花を咲かせることができた気がする。

 風に誘われるまま、花瓶に活けた桜の花びらが一片、私の掌へ舞い降りてきた。私はそれを壊さないように、そっと両手で包み込んだ。

 私たちのこれからの人生は、きっと最高に違いない。