言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

1.空のブランコ②~ラピアライズの亡霊~

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1.空のブランコ②~ラピアライズの亡霊~

 


「ラピアライズの亡霊?」
 姫様が弾んだ声を出す。心なしか、瞳も輝かせている気がする。
「あぁ」唇から酒をこぼすように呟きながら、マスターが頷く。「この地には昔から、亡霊、小人(こびと)の精、竜(ドラゴン)の類が集まるとされていてね。鉄道の終着駅まで行くと、眼前に広大な氷の海が広がる。ユングフラウアローのアイスメアと呼ばれる場所だ」
 話しながら、マスターが樫(かし)の木をくり抜いたゴブレットを姫様とわたしの前に置いた。雪のように真っ白な湯気の下から、生クリームの色をした大麦のスープが顔を覗かせていた。玉ねぎやセロリなどの刻んだ野菜も入っている。こっちの言葉で言うと、ビュンドナーゲルシュテンズッペ、と言うらしい。
「そこに、亡霊が出るってことですか?」わたしは熱を持っているであろうゴブレットに、指を添えながら問いかけた。
 姫様は早くもゴブレットに唇をつけ、熱さに気を付けながらスープを堪能している。「これは体が温まるー」と頬を赤くしながら呟いている。
「さっきは、本当にごめんなさい」姫様の隣に座る亜麻色の髪をしたアンナが、今にも泣きそうな顔を俯かせている。「ここ最近は、やけに気が立っていて……」
「いえ、さっきのは100%姫様が――」
「で、その亡霊とやらが、空のブランコを独り占めしてるってこと?」わたしの言葉を遮り、ゴブレットをテーブルの上に置いた。中身は空だった。舌を火傷しないのか、いつもハラハラする。
「いや、独り占めと言うか……。実は、亡霊の姿を見たものは、誰もいないんだ。ただ、空のブランコを見に行った旅人、登山家、観光客。そんな人間がユングフラウアローの頂を目指したものの、誰ひとりとして帰ってこない。だから、亡霊に殺されたんだと、この街のみんなは噂している。空のブランコは、今となってはまるで、おとぎ話のように語り継がれるだけになってしまったんだ。もう俺が生まれる、ずっと、ずっと前の話だよ」マスターが肩をすくめる。「おまけに、そのアイスメアには、ユングフラウアローの登山口へ向かうケーブルカーがあるんだが……。今はそれすらも、動かないんだよ。亡霊が壊してしまったと、もっぱらの噂さ」
 マスターの言葉にアンナが沈黙する。唇を噛み締め、瞼(まぶた)の下に涙をたたえている。今にもとけた雪のように零れ落ちてきそうだった。姫様は顎に手を添え、軽くうなずいている。
「だから、さ」マスターが姫様の空になったゴブレットを手に取る。「さっきのカナンの言葉は正しいのさ。ずっとこの地に住み続けている人からしてみたら、昔は観光の目玉だった空のブランコが見れなくなってしまったのは、悲しいと話しているけど。人の命には換えられない。悪いことは言わない。黙って引き返した方が賢明だね。まぁ、ユングフラウアローのアイスメアは、終点の駅からでも見えるから、それを見る価値はあるよ。絶景だよ」
「そうね。わかったわ」姫様がまつ毛を伏せながら、両手をテーブルにつき、立ち上がった。「さっき怒ってたカナンも一緒に、ユングフラウアローの頂(いただき)へ連れてけってことね」
「は?」
「え?」
 マスターとアンナが同時に、甲高い声を上げる。姫様の顔へ二人の視線が交錯する。姫様の言葉が聞き取れなかったのではない。絶対に聞き間違いだと思ったのだろう。それほど、姫様の提案は素っ頓狂なもので、酒の席で発するような戯言だった。姫様は酒を一滴も飲んでいないが。
「アンナさん。行きましょう」
 姫様に突然、手を差し伸べられたアンナは、「え、で、でも。どこに?」と瞳と掌を迷わせている。全身に困惑の色を纏っている。当然だ。姫様はいつも言葉が足りない。
「おいおいおいおい、あんた。自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
 マスターが亡霊でも見ているかのような顔で、姫様へ言葉を投げかける。テーブルをばんばんと聞こえよがしに叩いている。それに音頭を取るかのように、姫様が頷く。
「ええ。私がこの地ですべきことが、わかったわ」姫様は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。「あなたたちは空のブランコ、見たことあるの?」
「今の話、聞いてたか? だから、今となっては――」
「なぜ、おとぎ話になってしまったの? あなたたちが、もう見れなくなってしまったと勝手に決めつけて、信じなくなったからでしょう?」
 姫様が頬をぴしゃりと叩くように、言葉をぶつけた。マスターが言葉を飲み込む。アンナが姫様を見上げ、瞬きをする。
 姫様は腰に掌を当て、胸を張り、大きく息を吸い込み、お腹の底から自分の声を絞り出すように二人へ言った。
「あなたたちは、見たこともない亡霊には怯えるのに、あるかも知れないものには目を背けるのね。私は、自分のこの目で見たもの。この耳で聞いたもの。この鼻で嗅いだもの。この口で食べたもの。この肌で感じたもの。それらを自分の記憶の中にしっかりと刻み付けない限り、絶対に、空のブランコは無いと信じないわ」

 

 

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あなたたちは、見たこともない亡霊には怯えるのに、あるかも知れないものには目を背けるのね。