言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

1.空のブランコ①~アイガースカイの街にて~

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 ――この物語を、私の大切な人へ捧ぐ。

 

 

1.空のブランコ①~アイガースカイの街にて~

 

 

 長いトンネルを抜けると、雲の海が広がった。切り立った崖がまるで、巨大なグラスの縁(ふち)に見え、雲が注がれた飲み物のようだった。スプーンを使えば、そのまますくって食べられそうなほどに、濃い塊だった。その真ん中から突き出ているのは、真っ白な雪を被った、巨人が住むような岩肌の山。垂直の壁には、雪が降り積もることができないと思っていたが、シルクの生地のような雪が、崖の下から吹き上げてきたように張り付いてる。

 揺れる汽車の窓から外の景色を見ていた姫様は、ため息を飲み込んだ。

「次の駅は、アイガースカイ。次の駅は、アイガースカイ」

 車掌の声が車内に鳴り響き、汽車がスピードを緩め始めた。深く積もった雪をかき分けるように、細い線路が崖の先の駅まで伸びているのが見えた。

「アイガースカイの町は、標高二千八百六十五メートルの山に存在する町です。山というより、最早、壁ですね」

 わたしは窓の外に視線を向けている姫様に説明した。

「この先の山を更にあと五時間程度、汽車で登ると、我々の目的地であるユングフラウアローの駅に到着します」

「そうなの。じゃあ、今日はもう日も暮れるし、この町で一泊ね」

 姫様が暖房の熱さで朱く染まった頬を上げ、少しだけ青みがかった明眸(めいぼう)を傾けながら、にこりと少女のように笑った。そのみずみずしくてふっくらとした唇は桜の花びらのような色をしている。絹のスカートからちらりと覗いた素肌の膝を叩いて立ち上がり、座席の上にある棚から、荷物をおろす。

 汽車が甲高い音を立てて、駅のホームへ滑り込んだ。同時に姫様は身を翻し、気付いたらホームに降り立って、大きく背伸びをしていた。

「姫様は、計画性が、無さすぎです」

 慌ててわたしも列車から降り、姫様の後ろ姿に対して文句を言った。

「大体、これから標高三千メートルを超える山へ向かうと言うのに、その軽装はないでしょう。山を甘く見過ぎです」

 姫様の格好は、薄手の革コートを羽織っているのみだった。この直前の駅で雪が降り始めたので、「寒い!」と叫びながら、慌てて近くの仕立て屋で購入したものだ。

 この時間、この標高の駅では風も相当に冷たいと思われるが、姫様はコートのぼたんを止めることもなく、文字通りマントのように肩へ羽織っていた。襟の上に零れた艶のある黒髪が、汽車が出発して流れていく風を受けて、ふわりと舞い上がっていた。姫様はくるりと首を回し、微笑む。

「大丈夫、大丈夫。山登りの装備くらい、この町に売ってるでしょ? 結構、大きな町らしいし」

 姫様は欠伸を噛み締めながら、わたしの話など興味がないと言うかのように、適当に相槌をうっていた。

「全く。まぁ、姫様なら大丈夫なんでしょうけど。ちなみにユングフラウというのは、この国の言葉で、『乙女』という意味を持つらしいです。姫様には似つかわしくない言葉ですね」

 わたしが指を立てて説明をしていると、姫様はいつの間にかホームの階段を下り、駅の売店で何やら食べ物を物色していた。

 

 

 わたしの名前はペテロ。ただし、人ではない。

 正確に言うと、人の形をしたからくり人形だ。なので、性別は不詳だ。

 誰に作られたかと言うと、それはわからない。記憶がない。ただ一つだけ言えることは、姫様とこうして世界を回っているということだ。

 わたしが姫様と呼ぶお方は、ティア・オルハール。歳は二十一。もちろん、女性だ。姫様と呼ぶからには、どこかの国の王女様である。これまた、どこの国かはわからない。

 要するに、わたしたちはどちらも、過去の記憶というものがすっぽりと抜けているのだ。

 ホテルで夕食をとった姫様とわたしは、街の酒場にやってきていた。ただし、姫様はお酒を一滴も飲めない。それでも酒場へやってくるのは、姫様曰く「酒場の雰囲気が好きだから」とのことだ。

 簡素な木の扉を開け、足を踏み入れてみると、意外と人が多かった。幸い、酒場の片隅にある二人掛けのテーブルが空いていたので、姫様とわたしはそこに座った。

「いらっしゃい。若いお姉ちゃんに、若いお兄ちゃんかい。姉ちゃん、珍しい髪の色をしてるな。どこの国から来たんだい。新婚旅行ってところかい?」

「いいえ。彼は、私の騎士です」

 最初の頃は、姫様のその言葉にわたしは吹き出していたが、今となってはもう慣れた。

 姫様が言うには、確かにわたしはもともと、姫様が住む国の騎士だったようだ。腰に一振りの剣をさしているものの、剣術の心得すら忘れてしまったらしい。わたしはこの剣を使ったこともないし、使うこともできないと思う。

「そして、私は、ただの旅人です」

 もちろん、姫様がどこかの国の王女であることは内緒の話で、あくまでこれはお忍びの旅なのだ。そういう設定なのだ。

「へー。旅かい」酒場のマスターが大げさに肩をすくめ、笑った。「確かにこの国は、旅人が多いところだからね。ユングフラウアローまで行くのかい?」

「えぇ。空のブランコが見たくて」

 姫様が頬杖をついて何気なしにそう言うと、お店の主人が言葉を飲み、目を丸くした。すぐ近くにいた旅人の男たちもこちらに視線を向け、酒を手に持ったまま、姫様の言葉に騒然としている。姫様の周りだけ、張り詰めた糸がぴんと張ったようだった。

「……あんた、正気かい? 驚いたよ。あれをまだ見に来る人がいたんだねぇ。なるほど、だから騎士を連れているのか」

 マスターの声が内緒話を囁くように小さくなった。

「どういうことですか?」

 姫様が眉をひそめ、透き通る青眼と疑問の声をマスターにぶつけた。

「空のブランコは、今となっては――」

「おい、おやじ! 下らねぇこと教えてるんじゃねぇよ!」

 テーブルにコップが叩きつけられる音と、男の怒号が酒場の中に響き渡った。

「カナン。来てたのかい」

 マスターがカナンと呼ぶ男に目を向けた。赤毛で短髪の男だった。その目は既に酔眼朦朧(すいがんもうろう)としていて、頬は真っ赤に染まっていた。筋肉がむき出しになった右手には、古びた木製のゴブレットが握られていた。たぶん、それをテーブルに叩きつけたのだろう。男の手の周りには、赤いワインのような液体が点々と飛び散っていた。

「その世間知らずの、異邦人に教えてやんな。ユウグフラウアローの街まで行くのは、無駄だってな。この街でとっとと引き返せってな」

 酒と唾を吐き捨てるような言葉だった。取り付く島もないというのは、おそらく、このことを言うのだろう。

「ふぅん」

 姫様が首を曲げ、楽しげに声を転がした。背中の椅子を倒す勢いで立ち上がり、男の傍へ近づく。

「あなたの事情は知らないけど、私は空のブランコをどうしても、この目で見なくてはならないの。あるんでしょう? この国に。ユウグフラウアロー、だったっけ? その山をちょちょいと登れば、見ることができるんでしょう?」

 姫様も姫様で腕を組み、男を見下すように眺めながら、取り付く島を無理やり引っ張り出すような態度を取る。これはまずい。

「てめぇ、喧嘩売ってるのか」

「喧嘩は売ってないけど、喧嘩をしたいのなら、買うわよ」

「女のくせに、生意気なクチ利いてんじゃねーよ」

 わたしとカナンが椅子を倒しながら立ち上がるのと同時だった。「やめて、カナン!」という女性の声が店の中を切り裂いた。テーブルがガタガタと揺れ、カナンの持っていたゴブレットが地面に落ち、赤い液体が飛び散った。カナンの履いていた革靴が酒まみれになったが、姫様は猫のように身体をふわりと舞い上げ、華麗にそれを避けていた。気がつくと、亜麻色の髪をした美しい女性がカナンの身体にしがみついていた。

「邪魔だ、アンナ。こいつ、俺のことを、コケにしやがった」

「女の人じゃない。何、ムキになってるのよ」

「カナン。暴れると、出禁にするぞ」

 マスターが厳しい言葉を発すると、カナンはチッと大きく舌を鳴らし、ポケットから紙幣を取り出してテーブルの上へ乱暴に置いた。アンナと呼ばれた女性の腕を振り切り、そのまま彼は肩を怒らせながら、騒然とする酒場から出ていった。

 

 

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