言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

第一章 おとぎ話編 プロローグⅠ~夏が終わる七日前~

f:id:hinata_manabe:20200612065357j:plain

 

第一章 おとぎ話編 プロローグⅠ~夏が終わる七日前~

 

 

 記憶は定かではない。

 確かあれは、姫様が父上の大事なコーヒーカップを割った日だった。母上との大事な結婚の記念の品。それを姫様は割ってしまったのだ。暑い夏の日だったな。いや、もう夏も終わりそうな日だったかな。

 ……そうだ、思い出した。

 姫様の誕生日が八月の終わりの三十一日だったから、その七日前だ。

 大切な、そして、忘れられない日だ。

 コーヒーカップが割れたのは、姫様のせいではない。わたしの不注意だった。

 その日、わたしは姫様の母上の部屋で、荷物の整理をしていた。

 埃を被った棚の中で食器を取り出していたら、手が滑り、大切なコーヒーカップを落としてしまったのだ。それを偶然、目撃して、戸惑ってしまった姫様は城を飛び出した。

 雨が降っていた。パシャパシャと泥を跳ね上げながら姫様が駆けだしていくのが、部屋の小さな窓から見えた。

 その後ろをすぐ、黒い影が追っていくのが見えた。

「……ラプソディー?」

 わたしは首を傾げた。

 ラプソディーとは姫様が大切にしている黒猫のことだ。額のところに三日月の傷跡があるので、姫様が『三日月のラプソディー』と名付けた。

 ラプソディーは姫様のことが大好きで、姫様もラプソディーのことを大切にしていた。二人はいつも一緒にいた。

 わたしは雨足が強くなってきた道の中、姫様とラプソディーを探しに行った。

 姫様の居場所はわかりやすかった。まだ時間が経っていなかったので、泥道に残った姫様の小さな足跡を辿って行けば良かったからだ。わたしは雨に濡れるのも構わず、森の中を走って、走って、走り抜けた。

 やがて、わたしは切り立った崖の下に辿り着いた。そこで姫様が頭から血を流して倒れていた。姫様のすぐ傍で、ラプソディーが雷のように泣きわめいていた。数多の岩が近くに転がっていた。わたしは崖の上から落ちてきて、姫様に当たったのだと思った。

「姫様?」

 わたしはすぐに駆け寄って、姫様の手に触れた。その手は、まだ温かかった。

「……姫様っ」

 わたしは必死に姫様の名を呼び続けた。しかし、姫様は二度と動くことはなかった。

 わたしは雨の中、姫様を背負って城に戻った。

 城に戻ると、

「姫はもう二度と目を覚ますことはないだろう」

 と、付添いの医者が告げた。

 わたしには信じられなかった。

 姫様は必ず目を覚ます。それを胸に想い続けた。

「わたしは未来永劫、あなた様を守り続けると誓います。いつか、あなた様が目を覚ますまで」

 隣でラプソディーは、かなしい目をしながら、か細い声を喉から絞り出した。

 ……もう思い出せないくらい昔の話だ。

 

 

 ↓ 次のお話へ。

www.hinata-ma.com

 

↓ 目次へ。 

www.hinata-ma.com