言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【エピローグ、そしてプロローグへ】

 

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エピローグ、そしてプロローグへ

 

 一ノ瀬心晴(いちのせこはる)が、部屋の前に置かれた小さな箱と、扉の隙間に挟まった小さな紙切れを見つけたのは、既に太陽が顔を出した時間だった。

 和三盆(わさんぼん)と、手紙だった。

『春になったら、一緒に食べよう』

 その手紙を目にした瞬間、顔を洗い、着替えて、島猫亭を飛び出していた。

 朝霧が、いつもよりも濃い気がした。腕を振り上げるたびに、濃い霧の塊が身体に纏わりつき、重くなった。息を切らしながら、坂道を下る。

 フェリーが汽笛を鳴らす音がぼんやりと聞こえた。渚の駅・曲島がうっすらと見えてきた。あたりは薄暗かった。太陽の光が霧のせいで届いていなかった。人の姿はまばらだった。始発のフェリーは、そんなに人が乗り込まない。肩で息をしながら、首を伸ばして、視線を迷わせる。もう出発の時間だ。波止場の先へ足を早めた。

 フェリーの残す引き波の音が、霧をかき分けながら耳へ入り込んできた。フェリーの船尾がうっすらと見えた。

 首を振りながら、ポケットに入れていたスマホを取り出す。メッセージは何も届いていない。

 息を大きく吸い込むと、細かな霧のかけらが、肺に満たされていくような気がして、軽くむせた。

『どうして、何も言わずに帰っちゃうの?』

 メッセージを送る。すぐに既読になった。手元にはスマホがあるのかもしれない。やや遅れて、返信が届く。

『なんか、会っちゃうとさ、調子が狂いそう』

 意味がわからなかった。反射的に指が動いた。

『バカ。大バカ』

 どこかで呟いたようなメッセージが、スマホに表示された。

 昨日は何も言っていなかった。もっと遅い時間に帰ると思っていた。父と母の動きがぎこちなかったのは、これが理由だったのだろう。

 目の奥に何かがたまってきた。涙を流したいけど、いつもと違う感情が胸の中で沸いていた。悲しいとか、悔しいとか、そういう気持ちではない。よくわからない。

 身体に纏わりついた霧を振り払うように、顔を上げた。

 その時だった。目の前に、光を感じた。目を凝らすと、濃い霧の隙間から、光の円環が見えた。一陣の風が太陽の日差しとともに、身体を突き抜け、吹き抜けていく。

 砂浜へ押し寄せる波のような音を立てて、細かな水の粒が海の上で渦を巻きながら洗い流されていく。引き波を残すフェリーと曲島とが、光で一直線につながった。霧が、晴れた。

 朝焼けの太陽が、瀬戸内の海を、いや、フェリーを真っ白に輝かせた。フェリーの向こうから、光の線が立ち昇っているように見えた。引き波を残した曲島の海が眩しいほどに揺らめいている。船尾に、仙田夏雄がいた。レモン色のシャツが風に揺れている。朝焼けの光に染まり、まるで燃えているようだった。

 眩しい光に目を細めながら、両腕を振り上げる。手の平に収まったアイフォンがキラキラと光を反射させていた。彼も船尾から身体を乗り出し、両手で振り返しているのが見えた。手には何かが握られていた。旗のように揺れている。

 ――あなたは、自由な猫のようだった。わたしは、もう大丈夫。

 腕を下ろし、スマホにメッセージを打つ。

『また、会えるよね?』

『うん。必ず』

 彼から届いたメッセージは、心の中に深く、しっかりと刻み込まれた。

 今度の約束は、破らない。絶対に。

 フェリーは、朝霧に囲まれていた。威風堂々、瀬戸内海の中に浮かび、真っ直ぐと進んでいた。それはまるで、朝霧から旅立つ鳥のようだった。

 小さな三毛猫が鈴を鳴らすような声を出しながら、足元に寄り添ってきた。ミケだ。二週間ぶりに見た。温かかった。

 少女と猫は燃えるような朝焼けの空の下、いつまでも寄り添って、船を見送っていた。

 

 

 ――二年後。

 

 

 ********

 

 

 二回目の春がやってきた。

 息を大きく吸い込んで、広島中央大学のキャンパスに立つ。

 ここまで来るのに、約二年がかかった。

 

 その間、いろいろあったけど、なんとかここまで来れた。

 

 あのあとすぐ、朱里(あかり)と仲直りができた。島猫亭に突然、ひとりでやって来たときは驚いたよ。「ごめんね」と一言呟きながら、わたしが初めて自分で淹れたコーヒーを飲んでくれた。「コーヒーって嫌いだったけど、心晴が淹れたのは甘くておいしい」って笑ってくれた。嬉しかった。朱里はこの大学に無事、現役で合格してたよ。もう会ったかな? 実は一緒に何度か勉強してたんだ。

 

 島猫亭は、今も変わらない。

 読んだと思うけど、玲子さんが記事を載せていたよ。発売前に、原稿が島猫亭へ送られてきた。言葉を失った。もちろん、いい意味で。

 一ノ瀬晴見――わたしのお祖母ちゃんの想いが、きちんと、物語の描くように文字で連ねられていた。社会人ってすごいと、何度も思ったよ。

 あ、和三盆の話もコラム欄に載っていたよ。ちょっとした笑い話も交えていて、ぷっと吹き出したよ。『女心のわからない高校生』には共感した。

 だけど、この島猫亭の記事が、音楽雑誌で書いた最後の記事だったらしいの。この記事を最後に、玲子さんは旅行雑誌の方へ異動したと聞いた。でも、「音楽は違うところで表現するから、別にいいのよ」って電話の奥で笑ってた。そうだよね。あの人は、いろんな世界を既に持っているからね。

 

 あのガラの悪かったおじさん、覚えてる?

 実はあの人、有名な旅行雑誌の編集長だったらしいの。玲子さんの記事を読んだとき、是非とも、うちの雑誌でも島猫亭を取り上げたいと、連絡があたの。

 今では、わたしのお母さんのことを、姉御と慕っていて、お母さんがとても困っている。

 

 あ、そうそう。この前、東京で初めてアキ君に会ったよ。入学祝いで、わたしを東京へ招待してくれたの。予想していたよりも、軽い人だった。でも、あんな人だからこそ、困難ですら、軽く飛び越えていけるんだね。羨ましい。 わたしのことをトモコちゃんに見た目も性格もそっくりと言っていた。これは内緒。

 今は東京の小さな会社で、映像作成を学びながら、仕事をしている。ユーチューブは高校の頃に作ったチャンネルと名前を変えて活動している。玲子さんと一緒に。The Spring Comesというユニット名。なんか、どこかで聞いたような名前。まぁ、いいか。

 びっくりしたのは、その時に会った玲子さんの髪が、ばっさりと切られていて、髪の色が黒くなっていたこと。女神様みたいだった。あの人、地毛の方が、絶対にいい。

 配信動画は、徐々に登録者数と再生回数を増やしている。十万人突破も目前だ。この世界の矛盾を歌った曲は、わたしのユーチューブのお気に入りに入っている。

 

 

 ナツがキャンパスの中を歩いてくる。

 自由で、真っ直ぐな人。

 あなたが来てからの島の生活は、いつも猫と駆け抜けているようだった。

 小学校の時も、曲島で再会した時も、わたしのことを猫みたいだと笑ったけれど、本当に自由な猫は、ナツ。あなたの方だったよ。

 でも、あの言葉で、わたしは確信したんだよ。あなたは変わっていないと。

 

 ナツは今、広島中央大学経済学部の二年生。経営学や経済学を学んでいる。大学を出た後は、自分で組織を立てて、わたしのように学校を中退した若者を手助けする仕事をしたいらしい。

 

「ただいま」とわたしが言う。

「ただいまは、おかしくないか?」とナツがぎこちなく笑う。切りそろえられた短い髪は、春によく似合っていた。

「あってるよ」

 わたしは、春に咲く桜のように満面の笑顔を見せた。……つもり。今度はうまく笑えているかなぁ。

 夢と希望に目を輝かせた若者たちが集うキャンパスの中で、深緑に包まれた桜の木が、わたしたちを包み込んでいた。

 風が舞い、胸の上まで真っ直ぐ伸ばしたわたしの黒髪が、白いブラウスをくすぐった。

「なんか、もう、猫みたいじゃないね」

「ストレートパーマかけたからね。大人みたいでしょ?」

 

 キャンパスの奥にそびえたつ建物を見つめる。

 わたしの進む道は、教育学研究科。

 わたしね。ナツにまだ言ってないことがあるの。

 臨床心理士になりたい。だから、大学院まで進むつもり。

 

 一年遅れちゃったし、大変なのは、わかってる。でもね。

 

 高校の頃のわたしみたいに、自分のことがわからない人たちへ、手を差し伸べるような。心がもやもやしている人たちに、寄り添えるような。

 そんな人間に、なる。

 

 何者にも縛られない自由。

 わたしの心の霧を払ったのは、紛れもなく、ナツだったよ。

 わたしはね、ナツ。あなたのようになりたいと思ってた。

 でも、それは、勘違いだったみたい。

 わたしが「一ノ瀬心晴のようになりたい」と誰かに思わせるような、芯のある人間にならなきゃ。

 

 答えが出たよ。本当にありがとう。

 

 ねぇ、ナツ。

 わたしね、あなたのことが……。

 

 ううん。今はまだ。この気持ちはまだ、心の中にしまっておく。

 

 厳島(いつくしま)神社の女神様に、あのとき願ったのはそんなものじゃないだろうと、怒られそうだから。

 

 海に浮かぶあの真っ赤なトマト。また二人で見に行こう。

 わたしの気持ちは、あの島で一緒に見た芸術のように、いつまでも変わらないから。

 

 

 霧が晴れれば、世界は、こんなにも変わる。

 心は、晴れやかだ。

 

 

 令和四年四月。入学式の日に、大切な人に迎えられて。

 一ノ瀬心晴

 

 

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