言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【5.円環は朱に染まりし凪の花⑤】

 

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 5.円環は朱に染まりし凪の花⑤

 

 玄関の前で、ナツは独り、島猫亭を見上げた。

 霧が流れる音が聞こえそうな静寂の中、その真っ白な建物は、いつものようにひっそりと曲島を見下ろしていた。すぐそばでコルジリネの葉が、霧の流れに身を任せ、カサカサと揺れていた。

 細かな水の粒が、ナツの肌を撫で、首筋をくすぐっていく。冷たかった。深呼吸をすると、肺が水で満たされるような気がしたので、軽く息をする。

 午前四時半。あたりはまだ、薄暗かった。世界が目覚めていない時間だった。ハルは五時過ぎに目を覚ますことを知っていた。だから、この時間に島猫亭を出る。

 ナツは心の中で、お世話になりましたと呟き、背を向け、足を踏み出す。ハルの父と母には、昨日の夜、広島から帰ったあと、ハルがシャワーを浴びている間に、こっそりと別れを告げていた。「これからも、心晴のこと、よろしくね」と震えた声で円華(まどか)に言われた。その目もとには、小さな涙の雫が輝いていた。真司からは島猫亭とプリントされた小さな茶封筒を受け取った。ナツの二週間分の給料だった。手に取ると、それはずっしりと重かった。

 ドラム缶の中で、白猫のシロと黒猫の黒が、仲良く小さな身体を丸めて、寝息を立てていた。

 曲島始発のフェリーで、ナツは岡山県へ向かうつもりだった。今日、昼前の飛行機で北海道へ帰ることになっていた。このことを、ハルには伝えていなかった。

 

 

 フェリーが汽笛を上げ、動き出した。霧が深くて、海の先が全く見えなかった。波のぶつかる音だけが、耳に届く。既に夜が明けたようだ。霧の向こうに太陽がぼんやりと浮かんでいるのが、微かに見えた。

 フェリーの船尾で手すりに寄りかかり、ナツはスマホを取り出した。ちょうどスマホが震えた。

『どうして、何も言わずに帰っちゃうの?』

 ハルだった。

 ナツは一瞬、喉の奥に何かがこみ上げてきたが、奥歯を噛み締め、ぐっと堪える。メッセージを指で打ち込む。

『なんか、会っちゃうとさ、調子が狂いそう』

 これは本音だ。ハルを目の前にすると、別れが惜しくなりそうだった。きっと、涙も零れる。北海道へ帰りたくなくなる。決意がぶれそうだった。

『バカ。大バカ』

 どこかで聞いたようなメッセージが、スマホに表示された。

 曲島は朝霧に覆われていた。手を伸ばせば、霧の塊を鞄の中に詰め込めそうなほど、濃い霧だった。ハルは恐らく、フェリー乗り場の波止場まで来ているのだろう。でも、この霧では、姿は見えない。

 ナツは、これでいいんだ、となんとなく思った。別れはやっぱり苦手なのだ。でも、線と線は確かにつながった。そのつながりを、二度と消すことはない。消えることは、ない。アキも玲子との接点も、これからずっと。すべてはこの曲島にある島猫亭がつなげてくれたのだ。

 ナツは目の奥から何かが零れそうだったので、霧の中へ紛れ込ませるように瞬きをした。

 その時だった。背後に、光を感じた。振り返ると、濃い霧の隙間から、光の円環が見えた。一陣の風が太陽の日差しとともに、ナツの身体を突き抜け、吹き抜けていく。

 砂浜へ押し寄せる波のような音を立てて、細かな水の粒が海の上で渦を巻きながら洗い流されていく。ナツが乗るフェリーと曲島とが、光で一直線につながった。霧が、晴れた。

 朝焼けの太陽が、ふ頭を、いや、曲島全体を真っ白に輝かせた。島の底から、光の線が立ち昇っているように見えた。引き波を残した曲島の海が眩しいほどに揺らめいている。ふ頭の先に、ハルがいた。レモン色のワンピースが風に揺れている。朝焼けの光に染まり、まるで燃えているようだった。

 ナツは眩しい光に目を細めながら、鞄の中から、古びたノートを取り出した。日焼けしたページを指でぱらぱらとめくっていく。

 自分の名前を見つけた。顔を上げ、光り輝く曲島を再び見つめた。

 ふ頭でハルがその小さな両腕を上げ、大きく振っている。手の平に収まったアイフォンがキラキラと光を反射させていた。ナツも背伸びをして、両手で振り返した。手に握った欠点ノートが旗のように揺れる。

 ――君は、自由な猫のようだった。おれも、自由になる。

 スマホが手の平の中で、再び震える。

『また、会えるよね?』

『うん。必ず』

 ハルから届いたメッセージは、ナツの心の中に深く、しっかりと刻み込まれた。

 今度の約束は、忘れない。絶対に。

 曲島は、朝霧に囲まれていた。威風堂々、瀬戸内海の中で根を下ろし、佇んでいた。それはまるで、朝霧の上に浮かぶ巨城のようだった。

 ハルが小学校の頃に書いていた欠点ノートには、小さな文字で、仙田夏雄の欠点が書かれていた。

 

 鳥頭=大バカ。

 でも。

 自由で、真っ直ぐ。

 

 鳥頭は二重線で消されていて、それより後ろは、綺麗な赤字で書かれていた。

 

 

 飛行機が広島上空を旋回しながら、青空の中へ高く舞い上がる。ナツはその小さな窓から、瀬戸内の海を見下ろした。中国地方の山脈、四国の山脈、その間に鏡のような青い海が見えた。ぽつぽつと島が浮かんでいる。宮島で食べたもみじ饅頭(まんじゅう)のようだった。あのどれかが、曲島だ。

「父さんは、なんで働くんだ?」

 ナツは眼下に広がる瀬戸内海を見つめながら、二週間前、広島へ向かう飛行機の中、父へ聞いた言葉を思い出した。

「行く前にも聞いたけど、さっぱりわからないんだ。何のために大学へ行くのか。どうして、学校に行くのか。会社に行く意味って、なんなのか。まるでわからない」

「夏雄、知ってるか?」

「なにを」

「働くってのはな。お金のためでも、生き甲斐でも、自己実現でも、成長でも、なんでもない。働くことは、自分のためにやるものではない。違うと父さんは考えてる」

 父が飛行機の座席に深く腰を傾け、肩を下ろしながら、真面目な声で話していた。

「……誰かに貢献すること。でも、誰かのため、っていうだけじゃ、その誰かのために、お金を稼ぐだけになる。例えば、父さんがお前のために仕事をして、ただお小遣いをあげるだけ、とかな。でもな、そういうことじゃないんだ。お金じゃないんだよ。誰かに対して、自分の知識や経験、考えたこと、自分が実現したこととか。それらをしっかりと伝えて、道標になって、誰かに生きる希望を与えること。あぁそうか、なるほどと、思わせること。働くって字は、人が動くって書くだろう。人を動かすんだ。人の心を動かすんだ。社会を回すことは、そういうことだと、父さんは思っている。四十年以上生きて、ようやくそれがわかったよ」

 父は言葉を切った。ナツはその言葉の意味を考える。頭の中に、深く刻み込まれる。

「夏雄」

「うん?」

「心晴ちゃん、可愛いといいな」

「なんだよ、突然」

「あぁ、父さんも、恋がしたいよ」

「四十過ぎの未亡おっさんが言うと、笑えないし、キモいぞ」

「……そうかもな」

 あの時交わした父との会話が、一字一句、鮮明によみがえった。

 今なら、よくわかる。父の言葉の意味が。

 飛行機が雲の上まで上昇し、瀬戸内の海が見えなくなった。ナツは拳を握りしめた。

 自分になにができるのか。真剣に考えたのは、初めてだった。

 

 

「よー、夏雄。曲島、どうだった? 恋は芽生えたか?」

 仕事から帰ってきた父がノックと同時に部屋へ入ってきた。ナツは机の上でパソコンを開いていた。父と目が合ったが、ナツは構わず、視線を戻した。

「……別に」

「何してるんだ?」父が眉をひそめながら、パソコン画面をのぞき込む。「なんだ、これ? 高校中退した場合の、大学試験? NPO? お前、一体、何を……?」

 ナツの机の上には、広島中央大学オープンキャンパスで持ってきた受験要項やパンフレットが積み重なっていた。

「父さん」ナツがマウスをクリックしながら、父の顔を見上げた。「広島へ行く前、父さんに聞いたよな? 何のために働くのか」

「ん? あぁ。それがどうした」

「曲島へ行った二週間。よく考えたよ。働く意味。お金をもらう意味。世の中を回すこと。そして、失敗。大切な人との距離の取り方。誰かに貢献すること。人の心を動かす意味。ようやくわかったよ」

 ナツは早口でまくし立てた。父は驚いた顔をしていた。

「……なぁ、父さん。一生のお願いがあるんだ」

「お前、それ聞くの、夏休みに入ってから二回目だぞ。お前は何回、一生のお願いがあるんだ」

 ナツは机の引き出しを開けて、島猫亭で稼いだバイト代を取り出した。島猫亭と書かれた茶封筒だ。ナツにとっては、お金はもうどうでも良かった。それ以上のものを、あの島猫亭から受け取ったから。

「前借りした飛行機代は、携帯の機種代と一緒に利子つけて返す。これでチャラだ」

 父は目を丸くした。ナツが差し出した封筒を受け取らず、首を振った。

「ちょっと待ってろ」

 父はナツの部屋を出て、自分の部屋へ向かった。少しして、預金通帳を手に持って、戻ってきた。

「ここに、ざっと三百万円ある。児童手当含めて、母さんが死ぬ前から一緒に、コツコツと積み重ねたお金だ。母さんが死んで、お前が高校に入ってからは貯めるペースが遅くなったけど……。お前がこの先、どこの大学にでも行けるように、貯めていたお金だ。好きに使え」

 受け取った通帳には、仙田夏雄と書かれていた。気のせいかもしれないが、それはずしりと重みがあった。

「夏雄。お前は母さんが死んでから、世の中はひどく冷たいと、なんとなく思っていただろ? いろいろあるんだぞ。今、自分で調べているから、わかるだろうけどな。誰かの助けは、手を差し伸べてくれる人は、たくさんいるんだ。社会の歯車ってのは、そうやって回っているんだ」

「うん。わかってる」

「心晴ちゃんは、どうやら可愛かったようだな。お前のこれからの人生を決めてしまうほどに」

 父が肩を揺らしながら、からかうように笑っている。その目はとても爽やかに澄んでいた。ナツは苦笑し、そして、深くうなずいた。

 開けていた窓から、一筋の風が部屋の中へ迷い込んできた。その風は、肌を刺すように冷たく、ナツと父は一緒に身体を震わせた。北海道の風は既に、秋の匂いがした。

 ナツは窓から頭を出し、暮れゆく空を見上げた。夕焼けに染まった空の中には、一番星が輝いていた。

「もう、夏が終わるな」

 背後で、父がぽつりと呟いた。

 

 

 

******

 ナツの父が飛行機の中で放った言葉は、私がこれまでに生きてきた中で出した『働くことの意味』でもあります。

 この言葉が、この物語で伝えたかったことです。

 あなたにとって、働くとは、何ですか?

 

 

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