5.円環は朱に染まりし凪の花④
厳島神社は、広島湾の宮島にある世界遺産だ。広島駅から電車に三十分ほど揺られ宮島口駅まで行くと、そこから宮島行きのフェリーが出ている。
昼食を食べていなかった。ナツもハルも食欲はあまりなかったが、宮島口駅の周りで簡単な食事を済ませ、フェリー乗り場の列に並んだ。列には外国人観光客が多かった。
潮風が吹き付ける。少しだけ、肌がひんやりとした。気温は二十九度だった。額に浮き出た汗のかけらを、指先でナツはぬぐった。
「厳島神社、実は、行ったことないんだよね」とハルがフェリーの切符に視線を落としながら打ち明ける。「いつか、朱里(あかり)と一緒に行こうね、って約束したことがあったから……」
「そっか。なんか、ごめん」
「ううん。もう、いいの」ハルが首を小さく横に振る。心なしか、表情が少しだけ柔らかくなった気がした。
「……皮肉だよね。学校辞めちゃったっていう、一番知られたくないことをナツに知られたら、なんだか、すっきりしちゃった」
わたしは何も変わってないのにね、と弱々しく微笑む。
「学校なんて、おれは、行かなくてもいいと思ってるよ」
「……でも、朱里の言ったとおり、大学には行けないでしょう? わたしは、自分の未来の選択肢を、自分で消しちゃったの」
ハルの言葉に、ナツは黙った。自分も中学校の頃、母を亡くしたときに思ったことと同じ言葉だった。
フェリーが波止場に寄せられたようだ。人の並ぶ列がゆっくりと前へ進む。
「ナツ、覚えてる?」歩きながら、ハルが話を始める。「みんなの悪いところがなくなれば、世界が幸せになるって、わたしは本気で思っていたこと」
「うん。覚えてる」
「わたしね」ハルは波止場の向こうにある海を見つめながら、目を細めた。「島猫亭が変わらなければ、自分もこのまま変わらなくていい。そんなふうに思ってた」
ナツも海の方へ視線を向けた。ずっと遠くに漁港が見えた。白い帆を広げた船や、小さな筏(いかだ)のような船、大きな観光用の船がいくつも見え、空と海の間に霞んでいた。
猫のような声が頭上から聞こえた。すぐ頭の上にカモメが三羽、体の割に大きな羽を広げてゆらゆらと舞っていた。
「ナツはもう聞いたかもしれないけど、島猫亭のリノベーションの話が来たとき、カフェが変わっちゃったら、わたしはお祖母ちゃんの想いを忘れずにいられるのかな、って考えてた」
列の動きが止まり、二人は足を止めた。ハルは傍にあった欄干に腕を乗せる。潮風に栗色の髪とブラウスの襟が棚引く。
「お祖母ちゃんは、いつか、いなくなる。それは、わたしにもわかっていた。だから、少しでもいいから、お祖母ちゃんの匂いを感じて、ギリギリまで、お祖母ちゃんの心が古い島猫亭に生きていてほしかった」
ハルがリノベーションを反対した理由。その理由が、ハルの口から記憶を零すように紡がれる。その理由は、ナツにも共感できた。忘れたくないものや変わって欲しくないものは、いつだって、自分の傍にいつまでも残っていてほしい。
「でも、逆だった。強すぎたの。さらに、お祖母ちゃんが死んだとき、曲島の優しさが、わたしの中で、優しすぎたの。この優しさに、甘えちゃいけないんだ。わたしはお祖母ちゃんがいなくても、島猫亭を、お父さんとお母さんと、一緒に新しく、変えていかなきゃいけないんだ。そんなふうに思った」
再び列が流れ始め、二人はフェリーの上に足を踏み入れた。船の底から波が撥ねる音が聞こえてきた。地面が少しだけ、揺らめいていた。ナツとハルは、階段を昇り、広島の街が見える方へ並んで立った。潮風が強まり、二人の髪をなびかせる。
「……辛かった。高校と、カフェと。両方を頑張るのが。毎日、授業が終わったら、急いで電車に乗って、フェリーに乗って、家へ帰る。カフェの仕事は楽しかったけど、そっちを頑張れば頑張るほど、高校生のわたしが、どんどん消えていくの。ナツがさっき言っていた、普通の人生。高校に通うことが普通の人生なら、普通のわたしが、どんどんいなくなっていく感じ」
ナツは曲島で、離島で暮らすことの大変さについて考えたことを思い出していた。ナツの日常とハルの日常。それらは決して、交わるものではない。
曲島に来て感じたハルとの距離。それは二次元でいうと、平行線のようなものだ。いつまでも、どこまでも、線を引っ張っても永遠につながらないのだ。
「いつしか、授業に集中できなくなった。朝も早かったし、夜も遅くまでカフェの勉強をしてたから。友達も、わたしを誘うことがなくなった。遊びにもいけない。わたしは、高校生らしい生活を、諦めるしかなかった。そうしたらね」ハルが一瞬、言葉を詰まらせた。「……性悪説の話。最低なわたしが、また顔を出したの」
「それで、また新しく、欠点ノートを書いたの?」
ナツが静かに尋ねる。ハルが「うん……」と消えそうな声を潮風の中へ滲ませながら、頷いた。
フェリーは紺碧の海を真っ二つに分けるように進んでいた。引き波がフェリー乗り場に向かって、真っ直ぐ伸びている。視界がゆらゆらと上下に揺れ、西の空へ少しだけ傾いた太陽が、二人の影を揺らしていた。
新緑の稜線が近づいてきた。宮島だ。到着まで、十分ほどだった。
フェリーから、海の中に浮かぶ朱塗りの鳥居が小さく見えた。厳島神社だ。ナツは心の奥で呟いた。
ゆっくりと宮島の波止場にフェリーが横付けされる。少しだけ鈍い振動音が腹の奥に響く。観光客が忙しなく動き始めた。
「降りようか」
ナツが声をかけると、ハルが頷いた。
日本三景・宮島。そう書かれた石碑が道の真ん中に佇んでいた。その根元で、シカがアスファルトの上に鼻息をまき散らしながら、口をもごもごと動かしていた。
「日本三景って、ここと、あと、どこだったっけ。京都の天橋立(あまのはしだて)は去年見たからすぐ出てくるけど、あと一つは……?」
ナツは二本の指を立てながら、頭を捻った。ハルがくすぐったそうに笑う。
「松島。松尾芭蕉(まつおばしょう)が有名な句を残してたじゃない」
「あぁ、そうだ。国語の授業で習ったよ」
近づいてきた鹿の頭を優しく撫でながら、ハルは「可愛い」と呟く。
石碑を通り過ぎると、道路の真ん中に鳥居が見えた。狛犬が向かい合っている。そのすぐ上に、太陽が煌めき、ナツとハルを照らした。砂浜沿いに松の木が整然と並んでいた。さざ波が揺れる海は、太陽の光を反射させて眩しいほどに輝いていた。
夕暮れまでには、もう少し時間がありそうだった。ナツは通りの脇に小さな茶店を見つけた。
「なんか、美味しいもので食べよう」
宮島の店には、もみじ饅頭(まんじゅう)が並んでいた。
お茶と一緒に二人で頬張りながら、他愛のない会話をする。
「アキくんにわたしの写真、送ったでしょ」
「え? なんでわかるの?」
ナツはカスタードクリームが入った饅頭を口いっぱいに噛み締めながら、目を見開いた。
「やっぱりね」ハルが尖った視線をナツに向ける。「こっそりわたしのこと撮ってるの、知ってたんだからね」
「……ゴメン」謝りながら、よく見てるなとナツは思った。この前、どうして自分のことを見るのと言っていたのに、ハルも同じじゃないか。
「今度から、こっそり撮らないでね」
「うん。わかった」ナツは甘すぎず、さっぱりとしたクリームを飲み込んだ。喉の中を優しく通り過ぎていく。
「一緒に、映りたいな。ナツと」
「あとで、撮ろう。厳島神社をバックにして」
「うん」
ハルが笑った。えくぼが咲き誇る、優しい笑顔だった。
白く輝く太陽が海を挟んだ広島の山脈へ近づき、小さくなっていた。
ナツとハルの目の前に、湿った砂浜が広がった。緑色の海藻が、砂浜の上に真っ直ぐ一列に残っていた。薄い鏡を貼り付けたような海が、朱色の鳥居の真下に広がっている。鳥居のすぐ下まで、歩いていけそうだった。宮島は今、干潮の時間が近づいているらしい。そんな観光客の会話が聞こえた。
ナツとハルは渇いた砂の上に腰かけた。肩と肩が少しだけ触れ合う。風が二人の腕の隙間を通り過ぎていく。波の音は穏やかだ。時折、観光客の笑い声が響き渡るが、それ以外は何も音がしなかった。
厳島神社の本殿と、海の中に浮かぶ鳥居は距離があった。
「すごいね。ここ、満潮の時には、あの本殿も海の上に浮かぶんでしょう?」
ハルが感嘆の声を上げる。
「満潮の厳島神社も、いつか見に来よう」
「そうだね。また、来たいな」
ハルが言葉を切った。何かまた、過去を語ろうとしているのかもしれない。その表情はなんだか切なかった。今度はナツが先に言葉を発する。
「おれの父さん、人事部なんだ。だから、大学生とか面接することが多くてさ。昔、言ってたんだ。短所は裏返せば、長所なんだって」
「短所が、長所?」
うん、とナツが頷いた。言葉を続ける。
「さっき、ハルの友達の朱里に言葉をぶつけたとき、思った。ハルの欠点ノートの書かれてたクラスメートの欠点。悪い所。目を背けたいこと。それってさ、裏を返せば、良いところになるんじゃないか、って」
「そう、かな」ハルが不思議な顔をしていたが、朱里に言ったナツの言葉を思い出したのか、「あ、そうかも」と合点がいったようだ。
「うん。アキの言葉も、ヒントになった。動き出す時間と、止まった時間。集中力がない人は、いろんなことに興味があるとか、頑固な人は、約束を守る人、とかさ。ハルは、人の欠点を見てたんじゃないんだよ。人の輝くところを探していたんだ。お祖母ちゃんも言ってただろう?」
「人の輝くところを、探していた……」
「だからさ、ハルは、これからも変わらない一ノ瀬心晴として、人の欠点を徹底的に探して、輝かせて、長所にして返せばいいんだよ」
「わたしは、わたしのまま……」
「過去は美化する。それは正しいんだ。人の弱みも一緒に、美化しちゃえばいいんだよ」
ナツはハルの瞳を覗き込む。いつも通り、海のように深く、綺麗に透き通っていた。何もかも見透かしてしまうその瞳は、あの玲子ですら手ごわいと評したものだった。
「……玲子さんから、島猫亭の取材の話が来たときね」ハルが鳥居の方へ視線を向けた。瞳の中に太陽が映りこみ、光を帯びた。「変わりたいわたしと、変われないわたしが混ざり合って、中途半端になってたの。頭の中はぐちゃぐちゃだった。時代は目まぐるしく、変わりすぎていた。机の上のノートには、クラスのみんなの欠点しか書いてなかった。気がついたら、それしか頭の中に思い出さなくなってた。人間の悪いところ。見たくないところ。……醜いところ。他人だけじゃなくて、自分のことすら、全然、信じられなかった」
「ハルはさ。自分一人だけで、変わろうとしてたんだと思う」
ハルがナツの方へ顔を向ける。
「おれもそうだった。でも、気付いた」軽く拳を握り締めた。「変わるってなんだろう。自分の考えを百八十度変えること? いや、違う。自分に目を背けて、嘘をつくことだ。人の根っこなんて、変わらない。だから、人なんて結局、自分を貫き通すことや自分を変えないことに気づくか、自分の見方を変えるかどうか。それだけなんだよ」
「わたしが昨日言ったことと、似てるね」
ハルがぎこちなく微笑む。風が吹き抜け、髪が再び舞い上がり、ハルの耳が少しだけ見えた。ナツが頷く。
「だから、誰かにあいつ変わったな、と言われる時は、大抵、そいつの思う通りになるか、自分が正反対になるかだ。素の自分を出して、誰かに理解してもらった方が、よっぽどいいことだよ」
そうだね、そうだよね、と自分を言い聞かせるようにハルが何度も頷いている。
「さっきの言葉、アキの動画が炎上した時に、重ねてた」
「え?」
「朱里に言ったこと。人の嫌なとこって、伝染する。現実でも、ネットの中でも同じなんだなって」
みんな、自分の嫌な部分と向き合いたくないんだ、とナツが呟く。
「誰だって、自分が生きてきた過去を否定されるのが、嫌なんだ。過去は美化したいんだよ。でも、そこと向き合わないと、なにも変わらない」
ハルがうん、と呟く。砂浜に打ち寄せる波の音が、潮風と共に耳をくすぐった。
「おれ、自分の言葉だけじゃ、誰も変えられないんだって、いつも思ってた。ネットでも、現実の世界でも。いつも、その場凌ぎで、重みのない言葉しか並べなれなかったから。そんなふうに思ってた。イノベーション見たとき、ハルは変わりたいと思ったのかもしれない。でも、それは、アキの力だ。玲子さんだって、ハルが横にいてくれたから、折れてくれたのかもしれない。おれができたのは、今までのみんなの言葉を、ただ繫いだだけだ。それだけだ」
「そんなことないよ」
「わかってる。だから、自分に何ができるか、ますますわからないんだ。今、こうやってハルに話をしているけど、これでハルを救えるかどうか。自分の考えたこと、やったことが正しかったのか。よくわからないんだ」
「さっき、自分で答えを言ってたじゃん」ハルが微笑みながらナツを見た。ハルの瞳は真っ直ぐに、ナツを捉えていた。「人の心を動かす、って。それって、実はものすごいことだと、わたしは思うよ」
ハルが空を見上げた。ナツも見上げる。揺蕩(たゆた)う雲が筋のように並んでいて、薄くなり始めた青空に滲んでいた。
「わたしは、もう、ナツに救われたんだよ。心を動かされたんだよ」
「……え?」
「ナツから初めてラインをもらった日のこと。今でもわたし、鮮明に覚えてるよ」ハルが首を傾げ、ナツを上目遣いで見つめる。「ナツはさ、わたしが変わろうと思ったの、アキくんのイノベーションを見たからだと、思ってるでしょ?」
「……違うの?」
ナツが驚いて尋ねる。ハルはやっぱりね、と悪戯っぽい微笑みを返す。
「アキくんのイノベーションは、確かにわたしの心をえぐったよ。けどね。わたしが玲子さんの取材を許可したのも、わたしが変わろうと思ったのもね」 ハルが真っ直ぐ前を向いた。「全部、ナツのおかげだよ」
「……おれの?」
「うん」
ハルはポケットからスマホを取り出した。ハルのスマホを見るのは、初めてだった。傷一つない、真っ白な色をしたアイフォン。小さな可愛らしい猫のストラップがついていた。
ハルの指が画面をタップして、ラインを開く。ラインは高校のグループと、ナツの名前があった。ハルはその震える指で、高校グループの履歴をタップする。
ずらりとならぶ、クラスメートの呟き。そこにはハルもいた。どこかで見たような猫のアイコンだった。ハルもラインで呟いてる。でも。
「アキくんの動画とは逆。わたしだけが、いなくなった。この世界から」
ラインのやり取りには、ハルが存在していなかった。ハルの呟きは埋もれていた。たくさんのメッセージの中に。たくさんの日常に。高校生の一ノ瀬心晴が、世界から消え去ったように。
「時間が止まればいいなって、いつも思ってた」
さっきまでふわりと舞っていたハルの栗色の髪が、肩にゆっくりと落ちていく。そのまま、なびくことはなかった。気付けば、風が止まり、周りの景色が濃くなっていた。
太陽が鳥居の向こうに隠れていて、ちょうど二人が座る場所に、影を落としていた。朱い鳥居の下に広がる海は、時間が止まったように、波が消え去った。本物の鏡のように、水縹(みはなだ)の海に鳥居が映えている。辺りがしんと、静寂に包まれる。
瀬戸内には凪(なぎ)というものがある。玲子から聞いたその言葉を、ナツは思い出した。
耳には、ハルの声と自分の呼吸する音しか、届いてこなかった。
「島猫亭がリノベーションして、新しい匂いになったけど、おばあちゃんの想いは生き続けてる。それをわたしが繋いでいかなきゃ。でも、わたしの居場所がどんどん狭くなるの。カフェの中でも、学校の中でも。
そうしてるうちに、学校に行かなくなった。別に、学校に未練はなかった。お父さんやお母さん、学校の先生は散々止めたけど、すぐ退学届けを出した。
そんな中、取材の話。
時代に追い付けない。わたしは変われない。背伸びしても、変わっていく曲島と島猫亭の速さに届かない。なんだか、疲れちゃったの。カフェでお祖母ちゃんの想いを繋ぐことすら。
からっぽのわたし。ここにも、わたしはいない。どこにも、いない。いるのは、変わることができなかった、中途半端なわたし。
お前は変われないんだよ。変わらないんだよ。そんなうじうじしたわたしが、もう一人、心の中にいたの。
おまけに、高校辞めたのに、このスマホの中にも、ちぐはぐなわたしが、まだいたの。不思議だよね。わたしは高校にいないのに、わたしがいないとみんなが形付けたわたしが、この掌の中にいるんだよ。
それじゃあ、ここにいるわたしって、一体、なんなのかな。暗い部屋の中で独り、そんなこと、毎日、ずっと考えてた。
……そんなときだった。ナツがやって来たのは。
世界の外から、突然、顔を出したの。
知り合いかも? ってメッセージが出て、ひょっこりと、飛び出してきたの。
そして、呟いたの。『元気?』って。
手の中のスマホが見えなくなった。指先は熱いのにね、わたしの視界はぼやけて、ナツから届いた初めてのラインのメッセージが、その日はもう、読めなかった。
不思議だった。
高校を退学しようと決めたときは、涙は出なかったのに。
気付かないうちに、涙が溢れていたの。あんなの、初めて。
あぁ、わたしはまだ、いる。
ここに、いるんだ。いたんだ。
ナツがわたしの変わらない過去を、手繰り寄せてくれたんだ。つないでくれたんだ。
何度も。何度も、思ったよ。
そして一緒に、変わらなきゃっていうわたしを連れてきた。
約束が、蘇ったの。美化されていない、何物にも染まっていない、あのときの約束が。
何も考えずに、人と自分を信じようと思ったんだよ。
そうしたら、いても立ってもいられなくなって。暗い部屋を飛び出した。
鼻の先まで伸びてた、ぼさぼさの髪をばっさり切って。
ぶ厚くて古い眼鏡外して、コンタクトにして。
髪も、思い切って栗色に染めて。
おしゃれで、可愛い、流行りのワンピースも、ネットですぐ買った。
すぐに玲子さんへ電話して、取材来てもいいですよって。
お父さんも、お母さんも、目を丸くしていた。
変わりたい。変われるんだ。
わたしの想いは、一つだけ。
だからね。
わたしを変えたのは、ナツなんだよ。
お父さんに言われて、ナツにバイトをお願いするとき。
わたしの指、震えてた。心臓なんて、ばくばく。
初めてナツが島に来た日も、どうしようどうしようって。
家から出られなかった。
でも、ナツはここに来てくれた。
だから、わたしもナツに会おう。会うんだ。そう決めた。
初めて会った日は、必死だった。
フェリーが到着する時間の、一時間も前から、ずっと待ってた。
ずっとね、あのフェリー乗り場の陰から、ナツのこと、見てたんだよ。
会った時も、うまく笑えるかな? 変な顔してないかな?
ずっと、そんなこと、考えてたんだよ」
ハルがゆっくりと言葉を切った。
あの日、初めて出会った日と同じ、ぎこちない笑顔がすぐ横にあった。
透明な円い涙が一筋、切れ長の目尻から朱(あか)く染まった頬を伝い、零れ落ちていく。
ハルの髪の毛がふわりと、蕾(つぼみ)から花びらが開くように、舞い上がる。
凪が、終わったのだ。
時間がゆっくりと、凍った氷が溶け出すように流れる。
少しずつ、少しずつ。
太陽の光が音もなく、二人へ斜めに降り注ぎ、背中で片陰が交わる。
「ヤドカリ」ハルが小指で目尻の涙を拭いて、泡沫のような花笑(はなえ)みを浮かべた。「釣れるように、なったんだよ」
二人で見に行った曲島の真っ赤なトマト。その前でナツが教えたヤドカリ釣り。
「ずっと練習、してたの。魚も釣れたときはびっくりした」
夕方、いない日が多かったのはそのためか、とナツは思った。
「今度、見せてあげるね」
夕陽の光に負けない力強い笑顔が、そこにあった。栗色の髪は光を浴びて、まるで蝉鬢(せんびん)のように輝いていた。
ハルの過去はきちんと輝いていた。ただ、時間が止まっていただけ。ハルの秒針が、ゆっくりと動き始めた。
西の果てに沈みゆく太陽が、動き出した波の上で揺れている。朱い鳥居の真ん中で、線香花火のような残り火を零していた。
「行こう」
ナツは立ち上がり、手を差し伸べる。ハルは頷き、その手を握りしめる。
今度は、しっかりと。二人のちっぽけな約束が、ようやくつながった。
朱い鳥居から零れる光の粒が、ナツとハルが握り締めた手の周りで円環となり、二人の手を眩しいほどのレモン色に染め上げた。それはまるで、凪の中、紅蓮に咲いた一輪の花のようだった。
しっかりと握りしめたハルの掌は、燃えるように、熱かった。
「愚者は経験。賢者は歴史に学ぶ。だったっけ? 誰か偉い人も言ってたよな」
「ナポレオン?」
ナツの言葉に、ハルが首を傾げながら答える。
二人は厳島神社の本社に立っていた。唐紅(からくれない)の神紋は、「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」の形をしているらしい。花びらのような形をした紋章が、三つ並んでいた。
朱塗りの大きな柱が奥に並んでいた。神紋が輝く提灯が天井にいくつもぶら下がっている。神様がおわす場所として、まさに厳かな場所だった。
「せっかくだからお祈りしよう」
ナツが小銭を財布から引き抜き、賽銭箱に投げ入れた。木の底に小銭がぶつかる音が、厳かな空間に響き渡る。
「何を祈るの?」
ハルもナツに倣い、小銭を投げ込んでいた。
「これからも過去が、素敵でありますように」
ナツが「なんだっけ」と呟きながら、ぎこちない様子で二拝二拍手する。重ねた掌の音が、建物の奥まで乾いた音を響かせ、重なる。
「なにそれ、変なの」ハルが吹き出す。「ふつう、これからの未来じゃないの? 厳島神社は女神さまが祀(まつ)られているんだよ。ご利益は交通安全って、ここに書いているよ」
「同じだ、同じ。交通安全ってことは、道に迷わないように、ってことでしょ。しかも、神様なんだから、一介の高校生よりは力あるでしょ」
ナツが最後に掌を力強く叩いた。その音が山彦のように跳ね返り、重い音となってナツの耳へ返ってきた。
「ハルはなんてお願いしたの?」
ハルはまつ毛を伏せ、掌を合わせていた。ナツが尋ねると、ゆっくりと瞼(まぶた)を開き、微笑みながら言葉を転がした。
「……人の弱みに目を背けない。それを約束した」
ハルは腕を下ろし、ナツの肩に寄り添った。
「わたしはもう、大丈夫だよ、ナツ。約束破ったら、女神様に怒られるしね」
島猫亭の想いは、一ノ瀬晴見から、一ノ瀬心晴にきちんと受け継がれた。これからも変わらない想いは、曲島でいつまでも生き続けて、世界へ飛び立っていく。
人の短所は長所であり、人間の良し悪しは、表裏一体だ。
人生も同じだ。表裏一体なのだ。ナツはハルの透き通った鳳眼(ほうがん)を見つめながら、心の中で思った。誰かの言葉が、誰かの人生に大きく影響している。
曲島で見た数多の変わらない芸術を思い出す。美術館も真っ赤なトマトも、これから先の未来に過去から変わらずに、誰かの目に届いていく。誰かの心を動かすときをじっと待っている。
人は適当に生きているだけでは、何も変わらない。レールの敷かれた人生を選ばなかったとき、それまでに過ごしてきた何気ない毎日の意味は、一体なんだったのか考えなければならない。自分と自分の周りにどう影響するのか。自分だけが変わるだけでは、歩くことはできないのだ。誰かと誰かが影響し合って、それで世界が少しずつ変わり、レールが再び敷かれていく。
自分の時間が止まっていたとしても、世界は確実に動いている。違和感なく。
時には、変わることが最善かもしれない。無理に変わろうとしても、世界の秩序が乱れることもある。それを乱さないために、自分の世界を壊すか、自分の世界を偽る方法を選ぶこともある。
でも、その世界から、自分という存在がいなくなる。
だからこそ、ナツはハルに自分の世界を壊さずに、変わることを望んでいた。でも、ナツ自身は変わることを拒んでいたのかもしれない。それでは歩幅が合わないことに気が付いた。秒針が動いても、短針がいつまでも回らないように。違和感に気づいていながらも、歩き続けていれば、やがてハルの姿が見えなくなっていたのだ。
見えない未来を掴むことは、自分の過去をすべて背負いながら、現在の地面をしっかりと踏みしめなくてはならない。
自分と真剣に向き合うとは、そういうことなのだ。そうすれば、人の心を動かすこともできると、ナツはようやく気が付いた。
ナツはまだハルの温もりが残る掌を握り締めながら、強く思った。
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十年くらい前に、世界遺産の厳島神社を初めて訪れました。あの時に経験した時間が止まったような空間を、私は一生、忘れません。
この厳島神社で体験した、時間が止まったような凪。
このシーンを描きたくて、この物語を紡いできました。ここは、かなり気合を入れて書いていますが、あとでまた推敲したいです。
直島をモデルとした離島を舞台としたのも、このシーンを描きたいがために、プロットを練りました。
一ノ瀬心晴の思いの丈が、ここですべて吐き出されました。二人の間の霧がまさに晴れた瞬間です。
ようやくここまでたどり着きました。感無量です。
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