5.円環は朱に染まりし凪の花③
今日の最高気温は、二週間ぶりに三十度以下になるらしい。
確かに、部屋の窓を開けてみると、少しひんやりとした。北海道の感覚で考えると、十分に暑い空気であるが、本州へやって来て二週間、ようやく身体が暑さに慣れ始めたようだ。
ナツは睡眠不足の重い瞼(まぶた)をこすり、少しだけ力が弱まった太陽を見上げた。日差しが眩しかった。青空はいつもと変わらない。
今日がハルと過ごせる、最後の日だ。
寂しい、という気持ちは無かった。ただ、お腹の上あたりが、小さく縮こまっていて、いつもより食欲が無い感じだった。
時計の針はまだ七時よりも前だったが、ポケットに入れてあったスマホが震えた。アキから電話がかかってきた。
『ナツ。起きてたか』
「こっちのセリフだ」
『確かにな』とアキが受話器の向こうで笑っていた。そう言えば、あの件以来、話をしていなかった。
『……悪かったな。いろいろと』
「気にするな。おれは、大したこと、してねーよ」
自分が動いたわけではない。アキがイノベーションを消さなかったのは、誰かさんの長いコメントのお陰で、これからアキの未来を作り上げていくのは、アキ自身だ。
『……ハルちゃんさ』
「ん?」
『最高だな。やっぱり、見た目はトモコちゃんに似てるのか?』
「どうかな」ナツが苦笑する。「それより、アキ。お前は大丈夫なのか?」
『あ? 何言ってんだ。俺はいつでも元気100%だぜ』ガハハと下品な笑い声が耳に届いた。この感じは、いつものアキだ。きっともう大丈夫なのだろう。ナツは胸を撫で下ろしながら、空を見上げた。
「アキ。頼みがあるんだ」
『写真、送ってくれるなら、いいぜ。ハルちゃんの』
「……いろいろ手助けしただろ?」
『今、お前、自分で大したことしてねぇって言っただろ?』
「わかったよ。あとで送るよ。ハルには言うなよ? 怒ると、すっげー怖いんだからな」
『肝に銘じておく。なぁ、ナツ』アキの声が突然、改まる。
「なんだよ」
『高一の頃。俺が本気で映画を作りたいと部室で言った時よ。お前だけは、俺のこと、笑わなかったよな』
「そうだっけ」心の中では笑っていた気がする。
『映画研究部、誰も入部しなかったよな』
「帰宅部なのにな」
『あれ。俺が中途半端な奴を部屋に入れなかったんだ。知らなかっただろ? やってくる奴ら、根性無さそうな奴、ばっかりでよ』
「いや、知ってた」ナツは笑った。
『ええ? そうなの? なんだよ、早く言えよ!』
「なぁ、アキ」今度はナツが改まった声を出す。「人の心を動かすって、難しいよな」
『俺の場合、動きそうだったのが、止まったって感じだったけどな』
「え?」
『なんだろーな。うまく言えねーんだけど。線香花火って、じーっと、最後まで揺らしちゃいけねーんじゃん。あれと一緒だ。零れかけた火花が落ちそうになったとき、時間がぴたりと止まる感じ。そのまま、輝きを失わないって言うか……』
「アキ。ありがとう」
『え? 今の言葉に、何かいいことでもあった?』
「ああ。まさに、表と裏だよ」
ナツはまつ毛を伏せた。深呼吸をする。お腹の上にたまった霧のような気持ちを吐き出した。胃の奥が広がった。
「調べて欲しいことがある。夕方までに」
広島中央大学は、広島駅から電車に乗り、一時間ほどの場所にあった。駅を降りたあとは、バスに乗り継ぐ。
ハルの口数は、少なかった。今日は日差しがそれほど強くなかったので、麦わら帽子を被っていなかった。白いブラウスに、デニムのロングスカート。少し、大人っぽい恰好だった。大学へ行くと言ったから、それなりの正装を意識したのかもしれない。ナツも今日は、半袖のポロシャツに、真新しい水色のジーンズだった。
南正門前、というバス停でナツとハルはバスを降りた。『広島中央大学』と彫られた黒光りした石壁が、二人を出迎えた。門の奥には、大きな建物がいくつも見えた。オープンキャンパス開催中、と書かれた看板が正門の脇に置かれていた。
「大学って、初めて来た」
「わたしも……」
ナツが周りの様子を伺いながら、その足を敷地内に踏み入れる。ハルもそれに続いた。
その敷地は、広大だった。塀に取り囲まれた敷地の中には、たくさんの木々や池が点在していて、それらを貫くように道路が結ばれ、背の高い建物へ繋がっていた。入口近くの地図によると、一番近くにあるのが、教育学部の建物だった。続いて、文学部、理学部、法学部と並んでいた。
「おれ、数学はそこそこ得意だけど、何の学部に行けばいいとか、全然、わかんないや。ハルは、得意な科目ってある?」
二人は教育学部の建物へ足を向けた。歩きながら、ナツが尋ねる。
「わたしは、やっぱり、国語かな」ハルはぎこちなく笑った。「本、読むの、好きだから」
数分歩くと、教育学部の建物に着いた。ちょっとした小高いビルのようだった。綺麗な窓がいくつも並んでいて、青空と雲が映っていた。
入口の自動ドアをくぐり抜けると、吹き抜けのロビーとなっていた。天井が高く、開放的だった。らせん状の階段が、二階へと続いていた。ゴミや埃はなく、掃除が行き届いていて、綺麗な場所だった。自動販売機やベンチも置いてあり、休憩スペースも広かった。
「大学って、学校じゃなくて、ちょっとした会社みたいだな。高校と全然雰囲気が違う」ナツが感心しながら呟いた。「実際に来てみると、大学に行きたいなーって思っちゃうな。こんな綺麗なところで勉強したい」
「ナツは、大学に行かないって思ってたの?」
ハルが横で少し驚いた表情をしていた。
「実は進路希望、まだ出してないんだ。……決めてない」
ロビーの壁に掛けられた幾つもの大きな液晶画面を見上げながら、ナツが答えた。画面には『この大学へ進学したい皆様へ』と文字が表示されていて、各学部の紹介動画が流れていた。
「そうなんだ」
ナツの言葉に、ハルが表情を曇らせる。その指は、肩に掛けられたショルダーバッグをきつく握り締めていた。
液晶画面の紹介動画が、工学部の情報システム系の紹介に切り替わった。三次元のコンピューターグラフィックを作成する動画だった。
「……おれさ、中学のとき、ユーチューバーになりたいって思ってたんだ」
「人気だもんね」
ハルも液晶画面を見上げながら、頷いた。
「おれの父さん、変わっててさ。ユーチューバーになりたいって言ったおれを止めないんだよ。普通、止めるよな」
ナツは肩を揺らして笑った。父の言葉を思い出す。
「やってみて、失敗するのも人生だ。挫折の経験をしないと、人生を歩いていけないんだぞって。その言葉を聞いて、逆に怖くなってさ。普通の人生を歩みたいって思った記憶があるんだけど」ナツは腕を頭の後ろに回した。「……普通の人生って、なんだろーな」
まるで自分自身に問いかけるように、言葉を転がした。ナツはちらりと、ハルの横顔を見た。少しうつむいたその顔は、何かを考えながら、次の言葉を選ぼうとしているようだった。
「ハルはさ、将来、島猫亭を自分で経営したいと思ってるの?」
ナツが尋ねる。その質問に、ハルは弾かれたようにまつ毛を瞬かせ、顔を上げてナツの方を見た。
「……わからない」首を小さく振る。「でも、島猫亭はずっと、曲島にあり続けてほしい。これからも、ずっと。変わらずに」
「あ、ほら。経営学とか会計学とか、学ぶところもあるよ。経済学部だって」
ナツが画面を指差す。工学部の紹介動画から、経済学部の紹介動画になった。カフェで大人の男性が接客する写真や、会社の社長みたいな人が何かを話す動画が次々と再生される。
ハルが顔を上げる。その目は少し、輝いているように見えたが、すぐに光を失った。湿気を帯びた線香花火のように。唇が固く結ばれる。再び、視線を床に向けた。
沈黙が落ちた。後ろで自動ドアの開く音が聞こえた。
「……ナツ。わたし、本当はね。本当は――」
「あっれー? そこにいるの、心晴じゃん」
大人びた大学のロビー内に、場違いな子供っぽい声が響き渡った。ナツとハルが同時に振り向いた。
ロビーの自動ドアが閉まる。その前にいたのは、ハルよりも明るい茶髪で、髪が肩より少し長いところまで伸びた少女だった。額の真ん中で分けていて、軽くウェーブしている。
その瞳は大きく見開かれ、真ん丸だった。整った鼻筋で、ふっくらとした唇には少しだけ大人へ背伸びをしたような桃色のルージュが塗られていて、艶めいていた。
「あ……」
ハルの表情は青ざめ、その唇は震えていた。
「あー、やっぱりー。雰囲気、全然違うけど、後ろ姿でわかったよ。髪、染めた? あれ? 眼鏡やめたの。コンタクト?」
茶髪の少女がにやにやと、小ばかにするような笑みを浮かべている。その瞳が更に丸くなり、悪魔のような色に染まっていく。
「もしかして、この大学、受けようとしてるの? 高校を中退した、あんたが?」
少女の言葉が鋭い矢となって、ハルの身体を射抜いたように見えた。その表情が完全に固まる。まるで石像のように、時間がぴたりと止まる。
「無駄な努力は、やめておきなよ。そもそも、受験すらできないでしょ」更に追い打ちをかける。「悲劇のヒロインでも、気取っているの? 今時、そんなの流行らないよ。言っとくけど。あんたのことを相手にするやつなんて、どこにもいないんだから。家で大人しく、カフェの手伝いでも、してれば? 中卒肩書の、箱入り娘さん」
ハルはうなだれて、目を閉じていた。握りしめた拳は、口元を覆い隠している。肩は大きく震えていた。今にも、この世界から消えてしまいそうだった。
ナツはハルの震える肩にそっと手を置き、茶髪の少女を睨み付けた。
「……人の傷に塩を塗るってのは、上田朱里(うえだあかり)、だったか?」
ナツの言葉に少女がギクリとする。見開かれた瞳が、少しだけ小さくなり、唇が薄く開かれた。なんでそれを、という顔だ。
「……どうして、あたしの名前を?」
「当たりか」
「なに、あんた。心晴の彼氏? もしかして、あんたもあのノート、見たの?」
「人の性格をよく捉えた、素晴らしいノートだよ。あれは」
ハルも「どうして……」と血の気が引いた蒼白の顔で呟きながら、ナツを見上げる。目の下には今にも溢れんばかりの涙が溜まっていたが、その瞳はこれまで以上に透き通って見えた。
「悲劇のヒロイン、か」
ナツが足をゆっくりと踏みしめ、朱里に一歩近づいた。その様子に、朱里は少しだけ後退(あとずさ)る。
「なによ。心晴があたしに何をしたか、あんた、わかってるの?」
朱里の声は小さいが、威圧感があった。その言葉が小さな壁となって、ナツの身体へぶつかってくる。
「そんなの知るかよ」ナツが朱里の言葉を押し返すように、小さく叫んだ。「でも、図星だったんだろ? ハルが指摘した、あんたの短所。欠点。悪いところ。嫌な部分。見たくないものだったんだろ? 目を背けたかったんだろ?」
ナツの言葉に朱里が息を飲む。今度は彼女の動きが止まった。
「悲劇なんて、自分からたぐり寄せて、掴むもんじゃねーんだわ。なりたくてなってるもんじゃねーんだよ」
悲劇はどこからか、突然降ってくるのだ。神様が空から地面に向けて、適当に矢を放つように。シェイクスピアが描いた四大悲劇のリア王は、悲劇が悲劇を生んで、最後には自分ではどうしようもできなくなったと、アキから聞いたことがあった。
「あんたこそ、悲劇のヒロインになりたかったんじゃないのか? 自分が傷ついたと、傷つけられたと、日常のなんでもない言葉に、適当に理屈つけて、ハルにぶつけたんだろ。自分で重箱の隅をつついて偶然見つけた悲劇に、勝手にハルを巻き込んでんじゃねーよ」
「な……」朱里がわなわなと震えていた。
「ハルは、この世界で一番、優しくて純粋な瞳を持った高校生だよ。それがわからないあんたは、確かに悲劇のヒロインなんだろうな。脇役だけど」
少しだけ声のトーンを落として、ナツが問いかけるように言葉を放つ。
「……でも、あんたもわかるんだろう? 人の一番痛い傷がどこにあって、それがどんなに痛いか、わかるんだろう? そこまで他人の痛みがわかるんならさ。ハルの痛みだって、痛いほどに……」
朱里はただ黙ってナツの言葉に耳を傾けていた。震える唇を噛み、床に視線を落としている。
「この世界に、ヒーローもヒロインもいないんだよ。誰かが支え合って生きていかなきゃいけないんだよ。そうすれば、誰だって、舞台に立てる。主人公になれるんだよ。たとえ、裏方だったとしても。おれは、そう思うよ」
アキのユーチューブで見た炎上したコメントが、ナツの頭の中に次々とよみがえる。みんなが罵詈罵倒を並べる姿に、ナツはずっと違和感を覚えていた。でもようやく、この違和感の正体がわかった。
違和感は、人の業(ごう)だ。悪いところや見たくないものをみんな、他人事のように隠すのだ。他人の弱みを無理やり見つけて。それが連鎖して、悪意が深まっていくんだ。でも、自分の悪いところなんて、絶対に隠せない。隠せないから、人は探す。乗り越える線みたいなものを。
それを乗り越える時は、自分自身の弱さと真剣に、向き合った時だ。
「おれは、世界の主人公に、ならなくていい」
ナツはハルの背中を優しく撫で、行こうと声をかける。二人は入口に向かって足を進め、視線を落として突っ立っている朱里の横を通り過ぎる。
「……人の心を動かすような、そんな人間になれれば、それでいいんだ」
最後にナツはそう呟いて、外へ出た。
「ナツ、知ってたの? 退学のこと。……あのノートのこと」
「……ごめん。悪いと思ったけど、ハルの部屋に入っちゃった」
二人は大学から出てバスに乗り、再び、電車に乗っていた。行先も決めないまま、広島駅方面へ戻る電車に飛び乗った。
電車の座席はガラガラで空いていたが、ナツとハルは車両の後ろにある扉の近くで、寄り添うように立っていた。
「……でも、退学は知らなかった。学校へ行ってないんだなってことは、なんとなくわかってたけど……」
ハルが高校を辞めていたことについては、一瞬、思考が止まったものの、ナツにとっては些細なことだった。
「ハルの部屋の前に立ったときさ、『入っていいよ』。そんな声が聞こえた気がした。もしかしたら、ハルのお祖母ちゃんが、招き入れたのかもしれない」
「そう、なんだ……」ハルは扉の横の手すりに捕まっていた。握りしめた手に、もう片方の手のひらを重ねる。「わたしのこと、幻滅したでしょ。わたしは、小学校の頃から、何も変わってないの。人の悪いところばかり、見つけてしまうんだ……」
朱里の言葉で涙が溢れそうだった瞳は、今は既に乾いていた。ハルはそっとまつげを伏せる。
「朱里はね。わたしがこっちに来て、初めてできた友達だったの」ハルはゆっくりと言葉を紡ぐ。「でもね。ある日、あのノートが朱里に見られちゃって……。次の日には、クラス全員に広まってたの」
「昔のおれ……、いや、曲島に来る前のおれなら、上田朱里に、罵詈罵倒を並べてただけかもしれない」
「朱里は、本当はね。優しい子なんだよ。まだこっちに来て間もなくて、友達のいないわたしのこと、一番に気にかけて、話しかけてくれたの……。でもね、全部、わたしが悪いの。わたしが――」
「ハル」ナツはハルの言葉を遮った。「ようやく、わかった気がする。おれがどうすればいいか。……ハルがどうすればいいのか」
ナツは電車の窓から外の景色を見た。瀬戸内の海が、流れていく家の隙間から見える。
ポケットでスマホが震えた。アキだった。
『ナツ、すまん。いろいろ調べたけど、ありきたりな場所しか見つからなかった』
アキのラインには、URLが貼り付けられていた。ナツがそれをクリックしようとしたら、再び、アキからメッセージが連続で届いた。
『写真見たぞ。ハルちゃん、最高に可愛いわ。お前にはもったいないくらい』
『そうそう。お前に重要なこと、言うの忘れてたわ』
『ハルちゃん、彼氏いないってよ』
確かに重要な情報だった。でも、今のナツにとっては、そのことよりも、もっと重要なことがあった。
ナツはアキから送られてきたURLをクリックした。スマホの画面に、一枚の写真とその場所へのアクセス方法が表示された。これだ、と思った。広島で、夕焼けが綺麗に見える場所。その場所をアキに探してもらっていた。この場所で、ハルの時間を動かすのだ。ナツはそう決めた。
『頑張れよ。親友』
最後のメッセージがアキから送られてきた。ナツは心の中でお礼を言い、頷く。
「……この電車、どこまで行くんだろ」
ナツは顔を上げ、電車の路線図を見た。終点は、岩国という駅だった。宮島口は、その途中の駅だ。
「ハル。世界の芸術を見に行こう」
「……え?」
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