言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【5.円環は朱に染まりし凪の花②】

 

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5.円環は朱に染まりし凪の花②

 

 ナツの頬に何かがチクリと当たった。意識がまどろむ中、何が当たったんだろうと頭の中でぼんやりと考えるが、思考が定まらない。遠くの方から、何やらギターの音が聴こえてくる。押し寄せる波のような拍手の音。

 頭の芯が、渦を巻いていた。瞼(まぶた)を開けと、ナツの脳が命令を下そうとした瞬間、頬に何かが当たった。

「……冷たいっ」

 ナツは反射的に上身体を起こした。瞼を開くと、すぐ目の前に、ハルの瞳があった。今にも鼻と鼻が触れてしまいそうな距離だった。

「だ、大丈夫?」ハルが少し頬を赤く染めながら身体を離し、左手をナツの前に差し出す。「かき氷、買ってきたよ」

 ナツは木陰になった芝生で寝転んでいたようだ。この暑さで頭がぼーっとしていたらしい。気温は午後に三十五度を超えていた。小さな濃い影と小さな宝石のような光が、ミラーボールのようにナツとハルの身体を駆け回っていた。

「ありがとう」

 ナツはピンク色のシロップがたっぷりかかったかき氷を受け取った。カップはたくさんの水滴が流れていて、指先の温度を冷やしていった。

 二人は公園の南側にいた。特別な作りの会場だった。森の奥にひっそりと、隠れ家のように設置されたステージは、夏の日差しを避けるようにたくさんの木々に覆われていた。木の根元には、雨の訪れを諦めた紫陽花が、多くの花びらを散らしていた。

 拍手が巻き起こる。ステージの上では、簡素なパイプ椅子に座った細身の男性が、アコースティックギターを抱えていた。

 ありがとうございます、次の曲へ行きます。という声がマイクを通して聞こえた。

 甘すぎるシロップと、溶けかかった氷の粒が、ナツの舌の中へ少しずつ染み渡っていく。イチゴの甘さではなく、砂糖の甘さがいつまでも口の中に残る。

 ハルも隣で、無言で同じ色のかき氷を口に運んでいる。ふわりと肩の上で栗色の髪の毛が舞う。木漏れ日をかき分けて、一筋の風が突き抜け、ナツの頬も撫でていく。

 ナツはなんとなく、空を仰いだ。たき火の奥に残った、ぼんやりとした炎のような夕焼け。気温はまだまだ高い。胸の中に何とも言えない、もやもやとした感情が湧き上がってくる。

 くすんだ空から零れてくる音の無い風が、夏の青空を焦がしたような空気を運んでくる。それはナツとハルの周りに充満し、纏わりつき、呼吸をするたび、心の隅までゆっくりと滲んでいく。不思議な香りがした。これに名前を付けるとしたら、夏の匂いだ。ナツは感じた。

 夏の終わりが近いのだ。

「……ハルのお祖母ちゃんのこと、聞いてもいい?」

 ハルがかき氷をすくう手を止める。瞬きをして、うん、と軽く頷く。

「なぁに?」

「ハルのお祖母ちゃん。どんな人だった?」

「……」ハルの瞳が何かを思い出すように揺れる。一瞬の沈黙。「……人を、信じる人だった。何があっても」

 ナツがそうなんだ、と頷いた。その言葉にナツは、ハルと約束した時の言葉を思い出していた。このときに交わした会話を話そうか、ナツが迷っていたら、ハルが言葉を続けた。

「わたしもね。ずっと、そう考えてた。小学校の頃、ナツにも言ったことがあったよね。性悪説の話。あの話を知ったときは、自分のことも、人も信じられなくなった。そのことをお祖母ちゃんに、聞いたことがあるの。『悪い心を持った人間は、どう信じればいいの?』って」

「……そうしたら?」

「お祖母ちゃん、しわくちゃな顔をして、笑ってた。『心晴もそんなことを考えるようになったんだねぇ。大人になったんだねぇ』って。そのあと、わたしの手を握りながら、『悪い心なんて、心晴が奪っちゃえばいい。そして、いい心に浄化して、その人に返せばいいんだ』って、大真面目に言ってた」

 夏のこぼした空気の中に、微かに島猫亭の匂いが含まれていた気がした。ナツはそれを探し出すように、大きく息を吸い込む。

「人の過去ってね、いつか、輝くことがあるんだって」

「輝く?」

「うん」ハルがかき氷のカップを足元に置き、両手で膝を抱え、その上に自分の顎を載せる。「わたしね。最近まで、それは過去をただ美化して、自分の都合のいいように、思い出を作り変えてしまうことだと、勝手に思ってた」

 ハルは瞼を閉じ、軽く息を吸い込む。小さな肩が少しだけ上がって、また下がる。

「でもね。ナツが、アキ君のことを助けてあげてと、玲子さんに話をしていたときね。思ったんだ。自分の過去なんて、絶対に変わることはない。綺麗な過去でも、誰かに話したくない過去でも、それはどっちも自分の大切なもの。どっちが欠けても、今の自分はないんだって。あぁ、そうか。これが人の過去が輝くことなんだって。ナツが教えてくれた」

 ナツはなんとなく視線を落とした。カップの中の氷は、薄桃色のシロップに沈み込み、消えていた。

「……だけど」ハルは自分の腕をぎゅっと抱きしめ、身体を小さくさせながら、膝の中に顔を埋めた。「わたしはまだ、お祖母ちゃんみたいに、なれない。……、信じるのが、怖いの」

 ハルの肩が少しだけ震えていた。ナツはハルの隣に寄り添いながら、ただ黙って話を聞いていた。最後の声は小さすぎて、何を言っているのか、聞き取れなかった。

 やがて、ハルが顔を上げる。唇を腕の中に埋めている。唇の動きが見えなかったが、ナツには「自分を、信じるのが、怖い」と聞こえたような気がした。

 ナツは手に持った溶けたかき氷の残りを、一気に飲み干した。甘さが薄くなっていたが、冷たさはもう無かった。勢いをつけて立ち上がり、ハルを見下ろす。

「行こう」

 ナツが手を差し出す。その小さな身体と過去を拾い上げるように。ハルはぎこちなく微笑み、軽く首を振りながら、「自分で立てるよ」と呟きながら立ち上がる。

 ハルは麦わら帽子を被り直し、ワンピースについた細かい草の葉を振り払っていた。

 ハルの過去は、暗く沈んだままなのだ。それを輝かせるためには、どうしたらいいのか、ナツは考える。

 自分に残された時間は、あと少しだ。

 二人は一足早く、帰りのバスへ向かっていた。混む前にバスに乗り込もうと思ったからだ。遠くから、まだ熱気が続いているフェスの喧騒が、祭囃子(まつりばやし)のように聞こえた。 

 西の空の彼方に、燃えカスのような太陽が沈みこんだ。どこからか、コオロギの鳴く声が聞こえてきた。

 ハルが隣を歩く。その足取りは、何かを踏みしめるように、しっかりとアスファルトの上に足跡を残していた。

 突然、空の上から何かが弾ける音が降ってきて、鼓膜を揺らした。

「あ」ハルが空を仰ぎ、声を上げた。「……花火だ」

 まだ完全な闇に染まっていない夜空に、紫陽花色(あじさいいろ)の花火が散る。散り散りになった火花が零れ、消えていく。再び、火花が上がり、大輪の花が咲く。

 花火を見るのは、いつぶりだろう。ナツが唇を薄く広げながら首を曲げていると、ハルの微笑む声が聞こえた。

 気がついたら、ハルの瞳が花火ではなく、ナツを見上げていた。

「……どうしたの」

「なんでもない」

 ハルは微笑む。その瞳はじっと、ナツの瞳を見つめていた。その瞳の中に、夜空の花火が煌(きら)めく。まるで舌の上で転がした砂糖菓子のように、ゆっくりと溶けていった。

 

 

 広島駅を出て、真司が紹介してくれた旅館へ向かった。旅館は、広島駅北口から歩いて五分ほどの場所で、背の低い建物の中と一緒に紛れるように佇んでいた。古川旅館という看板が、建物と建物の隙間から顔を出している。建物の中へ足を踏み入れると、フロントにいた恰幅の良いおばさんが、夏の暑さを吹き飛ばすように大きな声を上げた。

「あらぁ、心晴ちゃん。久しぶりぃ。あれれれ、なんだか、すごい大人になったねぇ」

「お久しぶりです。松子(まつこ)伯母さん」

 ハルが笑顔で挨拶をした。松子は真司の姉にあたるらしい。

「意外に早かったねぇ。夕食の準備、すぐ始めるから、部屋に荷物を置いて、先にお風呂でも入ってきな」

「ありがとうございます」とハルが答え、荷物を肩にもう一度かけ直しながら、ナツに笑顔で言う。「じゃあ、あとでね」

「うん」

 ハルが先に部屋へ向かった。ナツは旅館の中を興味津々に眺める。歴史のありそうな、古くも、味のある内装だった。和を基調とした小物が、あちこちに置かれてあった。家庭的な雰囲気で、心が落ち着くような場所だった。

 視線を感じて顔を向けると、カウンターの奥から、松子がじっと、ナツの方を見ていた。その目は、ナツの全身を突き刺すように鋭かった。その掌が、こっちにおいでとひらひらしている。ナツが近づく。

「……なんですか?」

「あんたが、真司が言ってた例の彼氏かい。あの心晴ちゃんにも、ついに、春が来たんだねぇ。今まで生きてきた甲斐があったよぉ」

 ハルのお父さんは一体、この人に何をどう伝えたんだ。ナツは反論したくなったが、それもそれで面倒臭そうなことになりそうだったので、苦笑しながら部屋へ向かった。

 ナツに用意された場所は、六畳ほどの小さな部屋だった。部屋の奥に、小さな液晶テレビと冷蔵庫、木のテーブルが置かれていた。肩にかけた鞄を置き、部屋にあった着替えの浴衣を持って、ナツは浴室へ向かった。

 旅館の風呂は小さかったが、ナツの貸し切りだった。シャワーから出る湯で、フェスでかいた汗を綺麗に洗い流す。熱いほどの浴槽に浸かり、身体の疲れを癒やす。

 露天風呂もあった。ナツは扉を開け、素肌の足を踏み出した。生温い風が、熱くなったナツの身体を少しだけ冷やし、広島の空へ運んでいく。夜空を見上げる。広島の街の光に隠れながらも、自己主張の強い星が、いくつか見えた。

 ハルもあの星みたいに、もう少し輝けばいいのに。

 そう願いながらナツは、誰もいない浴槽から足だけを出してブラブラさせ、広島の空気がすっかり混ざり込んだため息を吐き出した。

 

 

 目の前に漆塗(うるしぬ)りの食膳が並べられる。その奥に浴衣姿のハルが座っていた。まだ乾ききっていない艶のある髪が、肩まで真っ直ぐ伸びていた。お風呂上がりの石鹸の香りがする。

 小鉢やお造り、季節の魚と野菜の天ぷらが並べられていた。八月の広島ではコイワシと呼ばれるカタクチイワシが旬らしい。味噌汁には広島市太田川(おおたがわ)河口で育った、大粒のしじみがお椀の中に隠れていた。ご飯はアナゴのどんぶりだった。お椀の蓋を取ると、香ばしい醤油の香りが鼻孔をくすぐった。

 松子が用意してくれた広島料理に舌鼓(したづつみ)をこぼしながら、ナツとハルは笑い合う。

「明日、何しようかな」

 コイワシの天ぷらを箸で口へ運びながら、ナツが言う。

「広島観光でもする?」

「広島と言ったら、原爆ドームが思いつくけど」

「わたしは一回だけ行ったことあるけど、行ってみる?」

「そうだなぁ……」ナツは曖昧に返事をする。「……ちょっと、あとで考えてみる」

「うん。わかった」

 食事を終え、ペタペタと板張りの廊下を裸足で歩く。部屋の前に辿り着くと、ハルが手を振った。浴衣の袖が揺れている。

「じゃあ、お休み。また明日ね」

 それぞれの部屋の前で、二人は別れた。

 薄暗い部屋の真ん中に、布団が敷いてあった。畳の上に敷かれた一人用の布団は、部屋の中に無理やり押し込んだようで、窮屈そうだった。

 歯を磨き、顔を洗い、まだ火照った身体を、真っ白なシーツに滑り込ませる。ひんやりとした。一日中、炎天下にいたのだ。身体は悲鳴を上げていた。でも、頭の中は逆に冴えていた。

 枕の上に顎を載せ、ナツは瞳だけを動かし、部屋の壁を見た。物音はしない。壁一つ隔てて、向こう側にハルがいる。

 スマホを取り出し、ラインを開く。

 ナツは既に、明日、どこへ向かうか、決めていた。

 帰りのバスを降りたあと、ハルがコンビニで飲み物を買っているとき、ナツは駅の中である広告を眺めていた。

『起きてる?』とナツがメッセージを打つ。すぐに既読となった。

『起きてるよ』と返ってくる。

『明日の話なんだけど』

『行きたいところ、決まった?』

 ナツの指が止まる。たぶん、次の言葉は、ハルを大きく動揺させるだろう。でも、踏み込まなくてはならない。ハルの過去を、ハル自身の口から聞くためには、これしか方法が思いつかなかった。

『明日、広島中央大学オープンキャンパスに行かない?』

 ちょうどこの週末に開催されていた。広島駅の構内に、大きく貼り出されていたポスターには、そう書かれていた。

 既読になる。長い長い沈黙。ようやく、メッセージが返ってくる。

『いいよ』

 ナツは枕の上に息を吐き出した。心臓の音が頭の芯に響き渡る。

『じゃあ、また明日。おやすみ、ハル』

『おやすみ。ナツ』

 ラインを閉じ、部屋の電気を消した。部屋の壁に掛けられた時計が、コチコチと音を立てている。

 なかなか眠れなかった。ようやく意識がまどろみ、ナツが眠ることができたのは、窓の外が少し白くなってきた頃だった。

 

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