4.芸術は変わらない-So the spring comes-⑥
「あら。奇遇ね。このフェリーに乗るの?」
渚の駅・曲島の喫煙スペースに、玲子が立っていた。初めて会った時と同じような服装で、横に花柄のキャリーケースが置かれていた。玲子の指には煙の出ない電子タバコが挟まれており、口元で燻(くゆ)らせている。
「タバコは喉と体に悪いっすよ」
「そうね。次で最後の一本よ。吸う?」
玲子は微笑んで、シワが寄ってぺしゃんこになった箱をナツに差し出した。
「あなたは、馬鹿ですか」
今、波止場に止まっているフェリーは香川県行きだった。玲子はこのフェリーに乗り、淡路島を経由した高速バスに乗り継ぎ、関西空港へ向かうらしい。
ナツとハルは、次のフェリーに乗って、岡山県へ向かう予定だった。そこから広島駅まで新幹線に乗り、フェス会場へ向かうバスに乗り継ぐ。
唾付きの帽子を被ったナツは、空を仰いだ。島の空は、ナツが初めてこの島へ来た時と同じように、濃い霞で覆われていた。大きく息を吸い込むと、胃の中まで霧が濃くなりそうだった。最低限の着替えや小物を詰め込んだショルダーバッグが、肩に食い込む。
午前七時。太陽は南の方角へじりじりと昇っているのが、かろうじて確認できた。暑い空気が、頭の先から覆いかぶさってくる。
「もしかして、心晴(こはる)とどこか、出掛けるの?」
玲子は明るく澄んだ声で尋ねる。その瞳は話好きな女子高生と同じように輝いている。海もナツをからかうように、波のはねる音を響かせている。
「真司さんの計らいで、セトウチロックという夏フェスへ行くことになりました。玲子さん、知ってます?」
「音楽雑誌の記者を馬鹿にしてる? 西日本では、一番大きなフェスよ。去年、私が記事を書いて、特集したわ」玲子は唇の端っこを上げながら、からかうような視線をぶつける。「もしかして、泊まり?」
「……なんか、真司さんの親戚が、広島で旅館を経営しているらしいので、今日はそこに泊まります」
「へええええええ」
玲子はわざとらしく瞼(まぶた)を見開き、肩を揺らしながら驚いた声を上げた。
「大人のお姉さんから、一つ、素敵なアドバイスをしてあげよう」
「なんですか?」
「コンドームはちゃんと、買っておきなさいよ」
「な、なにを言ってるんですか」ナツが顔を真っ赤にして、喉に声を詰まらせた。「へ、部屋は、べ、別々ですよ」
玲子は吹き出し、鈴が鳴るような笑い声を転がす。
「なに赤くなってるのよ。冗談よ。あなたがそんなことをするタイプじゃないのは、百も承知」
香川県行きのフェリーが、汽笛を鳴らした。甲高い音が、霞の空に中へ吸い込まれていく。ベンチに座っていた旅行者たちが立ち上がり、誘われるようにフェリーへ乗り込んでいく。それを横目に、玲子はタバコを喫煙所の灰皿に押し付け、指から弾く。
「若いって、いいわね。私も負けてられないわ」と玲子が呟く。その声はとても小さかったが、ナツはかろうじて聞き取れた。
「……さて、私もそろそろ行くわ」玲子はガラガラとキャリーケースを引きずり、ナツの傍にやって来た。「いろいろ、世話になったわね」
「おれの方こそ」ナツは姿勢を正す。「……ありがとうございました」
並んで立つと、玲子は背が高い。今日はハイヒールを履いているから、尚更だ。ナツと同じくらいの位置に、目線があった。マスカラをつけなくても長く整ったまつ毛は、美しかった。その下の瞳は、今日も濃い墨色をしている。唇がみずみずしいピンク色に染まっていて、妙に色っぽい。やはりこの人は、大人の女性なんだなと、ナツは再認識した。
一足早く、玲子との別れがやってきた。人と出会うことは、別れを一つ増やすことだ。だからナツは、接点を増やしたくないと思っていた。記憶を消すことが、嫌だったから。
もう、そんなことは考えない。島猫亭で培った気持ちは、途切れさせたくないと思った。ナツはこれからも、人との出会いを重ね、成長することを学んでいくのだ。
「あのあと、心晴がまた私の泊まるホテルに一人でやってきたわ」
「え? どうしてですか?」
だから昨日、帰りが遅かったのかとナツは思った。ハルが島猫亭に戻った時間は、午後七時を過ぎていた。外は既に暗くなっていた。
「さぁ……。どうしてかしらね」玲子は悪戯っぽく微笑む。「女同士の会話は、男には話せない内容なのよ」
玲子は拳を軽く握り締め、ナツの胸の真ん中へ軽くぶつけながら、真剣な眼差しで言葉を発する。
「胸を張りなさい。あの子の時間をとかすのは、あなたの役目よ」
その言葉が、軽い振動と共に、ナツの胸の中に刻み込まれる。心臓の鼓動が一瞬、早まり、全身に血が流れていく。
「私が保証する。あなたなら、大丈夫」
玲子の想いをしっかりと受け取り、ナツは頷く。玲子は視線を逸らし、フェリーの方へ身体を傾けた。「私もこれから忙しくなるわ」と小さな声で呟く。
「これから、北海道。ついでに、二度輝く夕陽を見てくるわ」
「え」とナツが疑問をこぼした時には、玲子は既に背を向け、足を速めながら、波止場を進んで行く。その足取りは、仔鹿のように軽やかだ。波止場に打ち付ける波の音と、波止場のコンクリートを叩くハイヒールの音が、耳に心地よく鳴り響く。
「また会いましょう。仙田夏雄」
キャリーケースを掴んだ右手がピースサインを作り、二本の指先をひらひらと揺らしている。左手から放たれたタバコの箱は、弧を描きながら近くのごみ箱の中へ収まった。
玲子の乗ったフェリーが引き波を残して、瀬戸内海を進んで行く。船尾には、潮風に誘われてたなびく茶髪の髪があった。やがて、島を包み込む霞の向こうへ消えていった。
これからアキと一緒に夢を叶えていくであろう姿を想像して、ナツは考えた。二人はなんと呼べばいいのだろう。美女と野獣。いや、アキは野獣という感じではない。鬼に金棒。……金棒はアキか?
次のフェリーがやってくるのが見えた。霧の中で汽笛を鳴らし、曲島へ近づいてくる。ナツたちを乗せる船だ。
「おまたせ」
背後から声がかかった。ナツは振り向く。
この曲島で初めて会った時と同じ、ぎこちない笑みを浮かべたハルが立っていた。潮風に栗色の髪がなびいている。鳥の子色のワンピース。これも再会したときと同じ格好だ。
肩には、少し大きめの白いショルダーバッグが掛けられていた。小さな掌が、それをしっかりと掴んでいる。
昨日、ナツが真司から受け取った夏フェスのチケットを見せた時、ハルは一瞬、顔を曇らせた。でも、すぐに「うん。一緒に行こう。わたし、これ、ずっと行きたかったんだ」と笑顔を見せた。そこからは、いつも通りのハルだった。
書き入れ時の週末に、ナツとハル、二人が島猫亭から離れることは、真司も円華も大変だろうと思った。ナツがたまたま顔を見合わせた円華にお礼を言うと、「お店のことは、私たちに任せて。自分たちのお店だしね。子供は子供同士、余計な心配をしないで、楽しんできなさい」と笑い飛ばされた。
「お祖母ちゃんが死んじゃってからは、あの子、海の向こうに線を引いてしまったの。この島は、朝霧がなかなか晴れないから、夜明けがずっと来ないみたいで、心配なのよ」
円華から聞いた言葉をナツは思い出した。
そんな線は、今から飛び越える。線を引くことは、いつだって自分が勝手に決めつけた二次元の世界に過ぎない。軽く息を吸って、足を一歩踏み出すだけで、簡単に乗り越えることができる。どんなに冷たい雪に閉ざされようとも、冬は終わる。次にやってくるのは、暖かな春なのだ。
「行こう」
ナツの声に、ハルが小さく頷く。
霧に囲まれるのは、この曲島の中だけでいい。
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ここで第4話は終わりです。
次の第5話が、この物語の最終話です。ようやく終わりまで来ました。
ここからの展開を描きたいがために、この物語を進めてきました。私が一番に描きたいと思っていたシーンです。ここへ繋ぐために。
エピローグ含め、あと7回くらいです。
それにしても、冬田玲子さん、かっこいいな。うまく描けたかどうかわかりませんが、こんな大人の女性と友達になりたいと、いつも思っています。
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