言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【4.芸術は変わらない-So the spring comes-⑤】

f:id:hinata_manabe:20200505071100j:plain

 

4.芸術は変わらない-So the spring comes-⑤

 

 ナツは自分の部屋に戻っていた。灯りをつけず、ベッドに横たわっていると、扉がノックされた。

「夏雄(なつお)くん。ちょっと、いいかい?」

 ハルの父――真司の声だった。

 島猫亭の店内は、いつも通り、コーヒーの香りで満たされていた。真司に呼ばれ、ナツはカウンターの席に座る。ハルの母――円華は奥のキッチンにいた。ハルはどうやら、まだ帰ってきていないらしい。時計の針は十八時をさしていた。今日は夕食の予約が無いと真司が言っていた。

「飲むかい?」

 真司がナツの前に一杯のコーヒーを置いた。一筋の湯気が、ナツの火照った顔を薙いでゆく。

「……いただきます」

「ハワイコナだ」

「え?」

「コーヒー豆の名前さ。フルーティーな香りと、柔らかい酸味が特徴だよ」

 島猫亭の香りをすべて受け止めたそのコーヒーには、ナツの顔が鏡のように映っていた。ナツは両手をコーヒーカップに添える。自分の体温よりも遥かに熱々だった。

「手術、成功したと連絡が来てたよ」

「手術?」

「横山さんの奥さん。ほら、和三盆。夏雄君が見つけてきてくれたじゃないか」

「……あ」

 ナツは恥ずかしくなった。あれ以来、いろいろなことが起こりすぎて、すっかりと頭の隅に追いやられていた。「良かった」と呟きながら、ナツは胸をなでおろした。

「心晴(こはる)がいない間に、話しておこうと思ってね」そう言いながら、真司が小さな丸椅子を持ってきて、ナツの前に座った。「あの子からは、絶対に君には言うなと、耳にタコが出来るほど口止めされていたけど」

 キッチンの奥から、リズムカルな包丁の音が、ナツの耳に届いた。円華が何かを刻んでいる。

「七月の中くらいかな。心晴が夏雄くんと、連絡を取り合うようになったのは」

「そうですね」ナツは頷いた。今でも鮮明に覚えている。初めてスマホに変更し、ハルへラインを送った日のことを。

「それ以来、ハルが息を吹き返したように、明るくなってね。驚いたよ。……実は、君をこのバイトに誘ったのは、私なんだ」

 ナツは瞼(まぶた)を見開いた。

「君のお父さんには、借りがあってね。いや、正確に言うと、君のお母さんかな。君のお母さん――仙田裕子(せんだゆうこ)さんは、臨床心理士だっただろう?」

「……どうして……」

 知っているのだ。という言葉が出てこなかった。真司の言葉が、唐突で、驚くものばかりだったから。

「少し、昔の話をしよう」

 真司が浅く呼吸をしながら、目を細める。

 ハルが中学校の卒業間際、真司はそれまで勤めていた会社を辞めた。真司が激務のため、体調を崩したのだった。ハルの家族は北海道を離れ、真司の地元である岡山県のある街に引っ越して来た。

 ハルは岡山県の市立高校に入学した。友達もすぐ出来て、明るく、元気に高校生活を謳歌していた。

「でもね、あの子が高校一年生の夏くらいかな。私の母――心晴の祖母の体調が、急に悪化してね」

 心晴の祖母――一ノ瀬晴美(いちのせはるみ)は当時、たった独りで島猫亭を切り盛りしてたらしい。このため、島猫亭は一時的に休業せざるを得なかった。

「この店を、このカフェを閉めてはならない。想いを途切れさせてはならない。私の母はいつも、病院のベッドの上でそう呟いていた。何度も、何度もね」

 島猫亭は、この曲島で最初にできたカフェだ。ハルは祖母の意思を継ぐため、自分たちが店を継ごうと提案した。

「驚いたよ。いや、でも、当然の言葉だったのかもしれない。あの子は昔からお祖母ちゃんっ子で、私の母の言葉は、いつも真剣に聞いて、受け入れていたから」

 こうして、ハルの家族は岡山県から、この曲島へ移り住んだ。慣れないカフェの仕事に戸惑いつつも、真司、円華、ハルは島猫亭を再開させた。

「初めは、辛かったよ」真司が苦笑する。「コーヒーの作り方も、ケーキの作り方も、料理の出し方すら、まるでわからない。何もかも手探り。やってみると、この島猫亭のコンセプトは、あまりにも重くてね。我々の手には、とても持てないような大荷物だったよ」

 その重さと辛さは、ナツにも容易に想像できた。ハルの部屋にあるたくさんの本。あれはみんな、真司が購入したものなのだろう。三人で知識を蓄え、行動し、試行錯誤を繰り返しながら、訪れる客と接していたのだ。ゆっくりと、少しずつ、時間をかけて。

 それでも、カフェのど素人である一ノ瀬一家が、島猫亭を続けてこれたのは、この曲島に住む人たちのお陰だと言う。

 みんなで培ってきた想いが、今度は島猫亭を助けたのだ。一ノ瀬晴見が紡いできた想いが、巡りに巡って、新世代の島猫亭に想いを繋いでいく。

「店が軌道に乗ったのと、同時かな。古くなった島猫亭をリノベーションする計画が出てきた」真司がカフェの中を見渡した。「既に五十年以上が経過していたからね。さすがに、いろいろと限界だったよ」

 ただ、と真司が言葉を切った。

「リノベーション。これを、心晴が反対してね」

「……ハルが?」

 ナツがまつ毛を瞬(しばた)いた。

「そう。最近、夏雄君にも少し、迷惑をかけたね。あんな態度さ。何を言っても、唇を曲げ、部屋に閉じこもった」

 それでも、真司は業者と少しずつ、リノベーションの計画は進めていた。晴美も島猫亭のリノベーションには賛成していたからだ。しかし、

「話を進めているうちに、私の母の体調はますます悪化した。そして」

 ハルが高校二年生になる直前の春。ついに一ノ瀬晴見は息を引き取った。享年七十歳だった。

 島猫亭の祖である、偉大なる人物の喪失だった。

「私は覚悟していたよ。元々、こっちに戻って来たのは、母の体調を鑑(かんが)みてのことだったからね。でも、あの子は、違った」

 ハルのショックは、計り知れなかった。

「この島の人たちも、当然、慈(いつく)しんだ。年配の人も多いからね。心晴をみんな、自分の孫のように可愛がっていたから。だから、それが、余計に辛かったのかもしれない」

 ナツは俯いた。自分の母が死んだときのことを思い出した。

「そうこうしているうちに、頓挫(とんざ)していたリノベーション計画について、心晴が突然、『いいよ』と言ったんだ」長い沈黙のあと、真司が言った。「『お祖母ちゃんの匂いがする。だから、リノベーション、してもいいよ』って」

真司が拳を握り締め、口元へくっつける。言葉に詰まっていた。ナツは呼吸を止めていたことに気づき、深呼吸した。

「新しい島猫亭は、去年の秋に完成したんだ。曲島のみんなが祝ってくれたよ。少しずつ、私たちもカフェの仕事に慣れてきた。少しずつリピーターも増えて、心晴も祖母の死を乗り越えてきたと思っていた。その時さ。先日までこの島猫亭にやって来ていた、冬田玲子さん。彼女から取材の話が舞い込んできた」

 話が徐々に、現在に近づいてきた。

「これまた、あの子が猛反対してね。リノベーションの時とは、比べものにならなかったよ。これ以上、この島猫亭を他人に踏みにじって欲しくないと、涙ながらに訴えてきた。その頃になると、リノベーションしたばっかりということもあって、新規のお客さんも増えてきていたんだ。この島は、観光客も多いしね。でも、中には、この前のような、ちょっと癖のある客もいる。そのことが、心晴の心に精神的なダメージを与えていたのかもしれない」

 真司が言葉を切る。先日、ハルと自分の身に起こったことを思い出しているのかもしれない。ナツも思い出していた。

「そこからは大変だった。部屋から出てこない。我々と一切、話もしない。食事もしない。まるで、癇癪(かんしゃく)を起こした猫のようだったよ。あの子の時間が、ぴたりと止まったんだ」

 ナツには信じられなかった。

「……でもね」ゆっくりと言葉が続けられる。「七月の中旬。突然、世界が変わったかのように、心晴が変わった」真司はナツの顔を見つめる。「何があったか、私も円華も、全くわからなかったよ。突然、夏休み直前に、取材を承諾したんだ」

 ナツの視線と真司の視線が交わり、二人の記憶が重なった。

「夏雄くん。君なら、理由、わかるんじゃないかな?」

 ナツの頭の中で、この夏に経験した全ての記憶と言葉が線を結んだ。線と線が一気に交わり、接点が光り輝き始め、炭酸水のように弾けた。頭からあふれた分は、ナツの瞳の下にたまり、今にも零れそうだった。

 まさに、イノベーションだ。すべての始まりは、そこにあったのだ。ハルも、ナツも、アキも、冬田玲子も。全員の止まっていた時間が、一気に動き出した瞬間だった。

 ナツの目の奥から何かが零れようとした時、それを止めるかのように、真司の腕がそっと伸びてきた。カウンターの上に何かを置く。

「夏雄くん。今日まで、ありがとう」

 目の前に置かれたのは、何かのチケットだ。『セトウチロック』と書かれている。

「最後に、あの子に――心晴に、高校生らしいことを、させてほしい。それが、君にお願いする、最後の仕事だ」

 真司は喉に何かが引っ掛かったような声で、なんとか言葉を紡いでいる。

「これは……」

「こっちに来て、あの子がずっと行きたいと言っていた、広島県で行われる夏フェスだ。チケットは二枚ある。夏雄君と、心晴の分」

 ナツはチケットを手に取る。ナツのバイトは、あと二日でおしまいだった。三日後には、北海道へ戻る予定となっていた。

「あのコルジリネはね」真司が玄関の方へ視線を向けた。「心晴が高校生になる時に、祖母から贈られたものだ。あの子の身長と、大体同じくらいのものを選んでね」

 ナツも振り返り、花火のような形をした葉っぱを見つめた。ハルが毎朝、欠かさず水を与えていた。

「当時、私が通っていた臨床心理士さんから、紹介されたものだ」

 え、とナツは思った。真司の方へ視線を戻す。心の中で、何かが震えた。ナツの心臓に宿っていた根が動き出し、記憶の芽が飛び出てきた。想いが、ここにもつながっていたのだ。

「君がここに来る前、君のお父さんから、電話があったよ」真司が微笑む。「息子を、頼みますと」

 そう言って、真司が、深々と頭を下げた。

「私からは、これからも心晴をよろしくと、お願いしたい。君と出会って、文字通り、あの子の世界が変わったんだと思う」

 ナツは次の言葉が出てこなかった。ようやく喉の奥から言葉の糸を引っ張り出し、唇の外へ静かに吐き出した。

「ハルは、他にも隠し事をしていますね……」

 真司が顔を上げ、切ない表情をゆっくりとかき消すように、微笑んだ。その瞳は涙がたまり、ゆらゆらと揺れていた。

「あとは、直接、ハルに聞きます」

 母さんの想いは、巡っていたよ。ようやく、意味がわかったよ。ナツは思った。

 笑った顔。怒った顔。悲しい顔。切ない顔。でも、今一歩踏み込めない。踏み込むと、一歩下がるような感覚。前に進むのを嫌がっていた。変わるのを、拒むように。でも、なんとかして変わりたいと願う、心の迷い。曲島で再会した、これまでのハルを思い出す。

 少しぬるくなったコーヒーに、ナツは唇をつけた。それは、とても甘く、優しい香りがいつまでも舌の上に残った。今までに飲んだコーヒーと、まるで違った。

 それはナツが成長したからなのか、島猫亭の優しさが溶け込んでいるからなのか、ただ単にコーヒー豆が素晴らしいものなのか、ナツにはわからなかった。

 でも、一つだけわかったことがあった。

 世界は動いた。次は自分たちが時代に追い付く番だ。

 自分もハルもきっと、アキや玲子にはなれない。ナツはそれを十分にわかっていた。でも、自分たちの心を燃やすことは、時間を動かすことは、きっとできる。

 この島でハルに出会い、島のみんなと触れ合い、冬田玲子に出会った。たくさんのことを学んだ。

 自分の未来は、自分で決めなくてはならない。今が、その時だ。

 一ノ瀬心晴の心にたまる霧を、はぎとるのだ。

 

 

 

******

『頭の中で、この夏に経験した全ての記憶と言葉が線を結んだ。線と線が一気に交わり、接点が光り輝き始め、』

 

このシーンを頭の中で思い浮かべたあと、この動画をご覧になってください。

49秒以降。まさにこんな感じ。

youtu.be

 

 

↓ 次のお話へ。

 

www.hinata-ma.com

 

 

↓ 前のお話へ。

www.hinata-ma.com