言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

時雨

f:id:hinata_manabe:20200531161605j:plain

 

時雨

 

『秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱらと通り雨のように降る雨。』

 

 この話は、秋の終わり頃だったことは覚えてる。でも、正確には何月の出来事だったか、それはよく覚えてない。十一月の終わりだったか、十二月の始まりだったか、もうすぐ本格的に雪が降りそうな、そんな寒い日の出来事だった。

 日本には、いろんな雨が降る。

 その雨の名前は、テレビの天気予報などで誰かが言ってるのを耳にしている。けれど、「実際にはどんな雨があるの?」って聞かれても、正確な名前を僕はよく知らない。その日は、そんな名も知らぬ雨が突然降った日だった。冷たく、肌を突き刺すような雨だった。

 駅前の大通は帰路に急ぐ人たちが、鞄や買い物袋などで雨を遮りながら、巣を荒らされた蟻のように走り回っていた。

「まいったな。通り雨かな。すぐにやめばいいのだけど」

 僕も傘を持ってきていなかったけど、雨に濡れたくなかったので、同じく傘を持っていない人たちに紛れて、駅の構内で途方に暮れていた。雨脚は地面に小さな氷柱(つらら)を突き刺しているようで、空を見上げると、灰を濁らせたような雲が渦を巻いていた。そびえたつビルのてっぺんは、ぼんやりと霞んでいた。

 僕は小さく溜息をついた。ふと横目に、少女の姿があることに気がついた。少女は、駅の軒下で小さな身体を折り曲げ、しゃがみ込んでいた。耳が隠れるほどに、絹のような黒髪が真っ直ぐ肩まで伸びている。指先を弓のように交差させて、長いまつ毛を伏せていた。その姿は、まるで、神様に祈るようだった。

 僕は不思議に思ったので、少女に足音を立てずに近付いてみた。高校生だろうか。大学生だろうか。二十歳になるか、ならないか。とにかく幼さを残した顔立ちをしていた。肌は白く、透き通っていた。幼く見えていても、少しだけ大人っぽく見えるのは、もの静かな佇まいのせいだろうか。

「何してるの?」

 僕は静かに尋ねてみた。

 少女は瞼(まぶた)を開き、墨色(すみいろ)の瞳を僕の方へゆっくりと向けた。長いまつ毛に、雨の小さな滴(しずく)がきらめいた。

「この雨が、やまないように祈っているの」

 少女は、怯える小鳥を誘うような声で呟いた。

「……どうして?」

「季節の変わり目って、考えたことある?」

「季節の変わり目?」

 僕は首を傾げた。

「そう。春から夏へ。夏から秋へ。秋から冬へ。そして、冬から春へ。季節はなんとなく過ぎてるけど、その変わり目って、いつか知ってる?」

 僕は首を振った。考えたことがなかった。

 僕の感覚では、気が付いたら夏が終わってて、気が付いたら秋が始まってて、明確な季節の変わり目というのがいつなのか、実際のところ、よくわかっていなかった。カレンダーをめくって九月になった。やがて、十月になった。そういうのは頭でわかっていても、本当の意味での夏や秋が、いつから始まるのか、不思議と今まで考えたことがなかった。

「でもね、季節の変わり目ってね、本当は存在しないものなの。人間がさ、水たまりが凍るから、雪が降るから、寒いから、冬。雪がとけるから、新芽が吹き出すから、桜が咲くから、春。そんな風にね、季節の名前を変えていった方が、気持ちも新しくなるでしょ? 季節ごとに、楽しく日々を過ごせるでしょ? だから、勝手に名前をつけてるだけだと、私は思うの」

 少女は小さな顎を上げ、灰色の空を見上げた。

「雨の名前もそう。季節が変わってくだけで、雨の名前も変わっていっちゃうんだ。でも、私は人間が勝手に作った季節の変わり目がわかるから、雨がやまないように祈っているの」

「冬がやってくると、雨はもう降らないから……?」

 僕が尋ねると、少女は唇を曲げ、くすりと笑った。

「逆」

「……逆?」

 僕は聞き返した。

「雨が降らないから、冬がやってくる。雨が続けば、秋が続く。ただ、それだけのことなんだけどね。でも、私の役目も、もうじき終わりかなぁ」

 少女は瞬きをしながらゆっくりと立ち上がり、降り注ぐ雨脚を濡れた瞳で見つめた。やがて、持っていた水玉模様の傘を広げて、雨が降り注ぐ中、歩き始めた。少女が握る傘に冷たい雨が突き刺さり、少女が履くブーツに冷たい雨が染み込んでいく。

「さよなら。また、次の季節に会おうね」

 少女は一度だけ立ち止まり、僕の方へ振り返った。悲しみの色を混ぜ込んだ、今にも泣きそうな笑顔だった。少女は前を向き歩き始め、その小さな背中が、やがて雑踏の中に消えていった。僕は黙ってその後ろ姿を見守っていた。

 どのくらい時間が経ったのだろう。気付けば、雨はいつの間にか上がり、雲が流れ、澄んだ青空が頭上に広がっていた。太陽の光が、駅前の広場に出来上がった水たまりで反射し、世界を輝かせていた。

 僕は大きく息を吸い込んだ。胸の中がひんやりと冷たくなった。なんだか悲しくなるような、切なくなるような、今まで味わったことのない空気だった。

 それから少女の姿を見ることはなかった。

 細かな雪が降り始め、季節は本当の意味で冬に変わっていた。

 それは、秋の終わりに見る、不思議な不思議な出来事。