4.芸術は変わらない-So the spring comes-④
「……ナツ、すごいね」
「え?」
島猫亭へ戻る帰り道、自転車を押すナツに、ハルが声をかけた。
「さっきの玲子さんへの交渉。わたし、鳥肌が止まらなかった」
「ハルだって……」
イノベーションに残されたあのコメント。そのことを言おうとして、ナツは言葉を飲み込んだ。きっと「なんのこと?」とはぐらかされるだけだ。猫のようにすました顔をされるだけ。
「ハルだって、お祖母ちゃんの想いを、ずっと変わらずに守り続けてきたんだろ? そっちの方がすごいよ。だからこそ、玲子さんを説得できたんだと思う」
雨が上がったあとの曲島は、じりじりと蒸し風呂のような空気に包まれていた。雨に濡れた身体はすっかり乾き、体温がさっきより上がっているような気がした。
気づいたら、真っ赤なトマトがある波止場に来ていた。玲子のホテルから、近い場所にあったらしい。今日の夕方、ハルと一緒に見に行く約束をしていた。
曲島に来て、ナツが初めて触れたアート。昔から変わらないもの。今日も変わらずに、波止場の上でひっそりと佇んでいた。
変わらなくていい。自分の口から発した言葉のはずなのに、ナツの心の中に、深く染み込んでいく。
「玲子さん、『これで借りは返せたわね。お世話になった』って笑ってた」
「そっか」
「ナツはちゃんと、アキくんの大切なものを守ったね」
ハルがナツの横顔を見つめている。その瞳は相変わらず深くて、真っ直ぐだ。ナツの心が浮上して、ハルに捕まれてしまいそうだった。ナツの胸の鼓動が、早まる。
「……人は他人のためだから、行動できる。そんなこと、玲子さんも言ってたな」ナツは呟いた。「でも。アキのことは救えたけど。結局、おれって、何がしたいのか。その答えはまだ、見つからないままだ」
「そんなこと、ないよ。小学校の頃の約束だって、ちゃんと守ったじゃん。ナツは、変われたんだよ」
「実は、あれ。ただ、忘れていただけかもしれないんだ」ナツが申し訳なさそうに笑う。「おれは、何にも変わってないよ。バカのままだ」
「そんなことないよ」同じ言葉を繰り返し、ハルがうつむく。「わたしは、変われなかった。ナツと違って、約束、守れてないんだ」
「変わらなくていい。そんな選択肢もあるよ」玲子に言った言葉を、ナツはもう一度、自分に言い聞かせるように転がす。「今のハルのまま、島猫亭を守ればいい」
「ダメなの。変わらなきゃ、ダメなの。わたしは」ハルが首を振った。「わたしは、ナツが思っているほど、素晴らしい人間じゃないの。……最低な人間なんだよ」
ハルが砂浜を駆け出していく。あの時と同じように、砂粒を蹴り上げながら。その背中にナツは声をかける。
「ハル、ちょっと、待って……」
「わたしは、最低な人間なの」
後ろから、ハルの声がした。ナツは「え?」と思った。
振り返ると、真っ赤なトマトの前に、真っ赤なランドセルを背負った少女がいた。
黒髪でおかっぱ。猫のように切れ長の目で、小さな鼻、固く結んだ唇。猫のようなくせ毛が耳から飛び跳ねている。髪の長さは短い。その瞳は、じっとナツの方を見つめていた。
小学校のアルバムと同じ顔のハルが、目の前にいた。右手の掌を差し出している。
「返して。それ」
「返して?」
気が付いたら、ナツも小学生に戻っていた。視線を落とした右手には一冊のノートが握られていた。
『欠点ノート』
と綺麗な字で書かれていた。どこにでもある、何の変哲もない大学ノートだった。
「仙田君。それ、間違って、持って帰っちゃったでしょう。お願いだから、返して」
「なんで、こんなこと、書いたの?」
ナツが尋ねる。その言葉に、ハルは掌を引っ込め、泣きそうな顔をした。
「……もしかして、読んだの? そのノート」
「読んだよ」
「……」ハルが唇を噛み締め、今にも泣きそうになっている。「……最低」
「別に、大したこと、書いてなかったぞ」ナツがへらへらと笑いながら、ノートを開く。「クラスみんなの悪口だろ? おれもよくノートに書くぞ。バカとか、頭悪いとか。おれの隣のマスヤなんて、酷いんだぞ。この前、貸した漫画が――」
ページをぱらぱらとめくるナツの手から、ハルはノートを乱暴にひったくる。
「このことは、忘れて」睨み付けるような眼差しに、ナツは言葉を飲み込む。「……わたしは、最低な人間なの」
それだけ言うと、ハルは背を向け、腕を振り上げながら、逃げるように走り去っていった。
「なぁ。なんであんなこと、ノートに書いてたんだ?」
次の日の放課後。誰もいなくなった教室で、ナツはハルに話しかけた。ハルは黒板に書かれた文字を、黒板消しで拭いているところだった。
「……忘れてって、言ったでしょ」
教室にはもう誰もいないのに、ハルは誰にも聞こえないような小さな声で囁く。
「いや。忘れようとしたよ。したけどさ」ナツは頭のてっぺんをかく。「そう考えるとさ。頭がぐるぐるして、逆に考えちゃうんだよ。委員長がなんで、あんなこと書いたのかなって。聞こうとしたら、昨日は、ぴゃーっと逃げちゃうしさ。まるで猫のような女の子だったよ」
「仙田君って」ハルは黒板消しを握ったまま、目を丸くしていた。「鳥頭じゃ、なかったの?」
「は?」
その帰り道、二人はランドセルを背負い、小学校の裏にある海沿いを歩いていた。波の音が二人を包み込んでいた。
「仙田君は、性悪説って、知ってる?」
「せーあくせつ? なにそれ?」
ナツはきょとんとした顔で、ハルに尋ねる。
「この前、テレビでね。偉そうな学者が言ってたの。人間は生まれたときから醜いもの。悪意を秘めた生き物だって。わたしは、それを信じたくなかった。でもね、周りの友達を観察してたら、やっぱり、人間って欠点ばかりなんだなって思ったの。そうしたら、ノートにそれを書く手が、止まらなくなった」
ハルは自分の細い腕をぎゅっと抱きしめながら、ぶるりと震えていた。
「最低でしょ? わたし。そうしていると、自分が一番、醜い人間なんじゃないかって、怖くなった」
「よくわかんね。だから?」
「お祖母ちゃんがね。よく言うの。人を信じなさい。人に優しくしなさい。そうすれば、心晴も優しくなれるよって。だから、わたしはみんなを信じていた。それなのに、よくよく考えたら、みんな、悪いことばっかり、心に持ってるの。わたしは、それを信じたくなかった」
ハルは空を仰ぐ。枯葉のような色をした空の中に、一番星がひっそりと輝いていた。
「……わたしは、人の悪いところが全部なくなれば、世界が平和になると、そう思った。だから、みんなの悪いところがなくなれと、ノートに書きだしていたんだと思う」
「そんなこと気にしてないで、お祖母ちゃんの言うこと、信じればいいじゃん。一ノ瀬って、バッカだなー」
「……バカ? わたしが?」
「うちの母さんも、よく言ってるぞ。バカなこと考えてないで、何も考えずに人を信じなさいって。人間はみんな、変なことを考えるから、人を信じられなくなるんだって。無心になれって。無心ってどういう意味か、知らないけどな」
「そうなんだ……」
「一ノ瀬こそ、鳥頭なんじゃねーの。おれのこと、あのノートに鳥頭って書いてたけど」
「仙田君。鳥頭って、意味、わかってるの?」
「え? バカって意味なんじゃないの?」
「違うよ」
「え? そうなの」
ハルがくすぐったそうに笑う。
「鳥頭は、すぐ忘れるってことだよ。ニワトリってね、三歩歩いたら、記憶をなくすんだって。仙田君も、忘れん坊だしさ。いっつも、宿題忘れてるし」
「なるほどな。じゃあさ、すぐ忘れる鳥頭ってことは、口が固いってことじゃね?」
「なに、言ってるの?」
ナツはぴょんと防波堤の上に飛び乗った。胸を膨らませ、大きく息を吸い込む。
「おれはー! 高校生になるまでー! あのノートの書いてあったことを誰にも言わないぞー!」
海に向かって、大声を上げた。
「ちょ、ちょっと。仙田君。何してるの? 危ないよ」
ハルに足を引っ張られて、ナツは防波堤の上から降りた。
「約束守ったらさ。一ノ瀬に連絡して、会いに行くわ。その時は、欠点を乗り越えた人間ってことだろ? 成長の証だ。大人への一歩だ。だから、一ノ瀬も」ナツはハルの小さな肩をばんばんと叩き、肩を掴んでハルの身体を前後に揺らす。「人と自分を信じて、大人になれよ!」
「せん、だ、くん」
「ん?」
「やっぱり、仙田君って、バカだ。いや、大バカだ。訂正、する」
ゆらゆらとナツに身体を揺らされるまま。ハルはぎこちなく笑っていた。
時は流れ、小学校の卒業式の日。
「仙田君」別れ際、卒業証書を握り締めたハルがナツに声をかけた。「これ」
差し出されたのは、欠点ノートだ。ナツはそれを受け取る。
「なんで?」
「約束。守ってくれるんでしょう?」ハルが微笑む。「わたし、中学校、仙田君とは別々だけど、絶対に忘れないから。また、会おうね」
ナツは島猫亭の自分の部屋に戻っていた。
鞄の中から、約束のノートを取り出した。六年も前のものだ。ノートは日焼けしていて、少しボロボロだった。
子供じみた、ちっぽけな約束だ。大人になることの意味や、変わることの意味すらわからなかった、子供の頃の思い出だ。
でも、ちっぽけな約束だったからこそ。ナツは顔を上げる。だからこそ、ナツとハルは、この曲島で再会した。二人だけの世界は、確かにここに残っていたのだ。
ノートを握り締め、ナツは立ち上がる。ハルとの約束は忘れていたんじゃない。ナツは忘れたんだ。記憶の引き出しの奥にそっと、しまい込んだ。自分の欠点なんて、見たくなかったから。そしてきっと、ハルも。
「……ハル。いる?」
ナツは持ってきたノートを握りしめたまま、ハルの部屋の扉をノックする。返事はなかった。ハルはまだ、島猫亭に戻っていないようだ。
どこに行ったのだろう、と頭の中でぼんやりと考えていたら、ドアのノブが回った。
ガチャリと、部屋の扉がゆっくりと開く。「入ってもいいよ」という誰かの声が聞こえた気がした。
ナツは右足を、部屋の中へ踏み入れた。まだ新しい絨毯の上に、ナツの足跡がしっかりと刻み込まれる。まだ見ぬハルの部屋。古い本の匂いと、微かにハルの匂いがした。レモンの香りだ。
六畳ほどの小さな部屋だった。壁一面に埋め尽くされた本棚。文庫本とか、新書。ハードカバー。様々な色の背表紙が、ぎっしりと並べられていた。曲島の歴史に関する本が何冊かあった。玲子が持っていた曲島の童謡が載っている文庫本もあった。その背表紙は擦り切れていた。他には、カフェを経営するための本や接客に関する本、コーヒー、お酒、料理、ケーキ、お菓子などの本もたくさんあった。
本棚の一角を覆い隠すように、ハルの制服が掛けられてあった。高校の制服だろう。冬用の長袖と夏用の半袖。冬用の制服にはシワが寄っていた。夏用の半袖にはシワ一つなかったが、肩のところに少し、埃が被さっていた。永い間、袖を通した形跡がなかった。
数多の本から見下ろされるように、腰の高さほどの古いオーク材の机があった。ハルの机だ。デスクトップのパソコンが、電源が入ったまま、置かれていた。スクリーンセイバーの画像が、くるくるとモニターの中で回っている。ハードディスクの回る音が、部屋の中でカリカリと音を立てていた。
机の端っこには雑誌が何冊か立て掛けられていた。ブックエンドで仕切られていて、可愛らしい猫のマスコットが飾られていた。新刊の旅行雑誌やカフェを紹介する雑誌。玲子の会社が出版している音楽雑誌もあった。高校の教科書とか、参考書の類は、無かった。
机の横にある小さな棚には、真新しいコンタクトレンズのケースと洗浄セット。使い古された眼鏡が転がっていた。卓上の鏡と散髪用のハサミも置いてあった。
ハルの部屋を見回して、ナツは理解した。どうして、ハルの生活の中に、高校の匂いがしなかったのか。その理由が、頭の脳にある記憶の履歴書に、パソコンと同じくカリカリと音を立てて書き込まれていく。
だから、か。ナツは思った。ライン、いつもすぐ既読になったもんな。
机の上には、一冊のノートがあった。
表紙には『欠点ノート』と書かれていた。ノートは汚れ一つなく綺麗で、まだ新しいものだった。
ナツが手に持っていたものと同じタイトルのノートが、ハルの机の上にも、確かに置かれていた。
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ふとした瞬間に、ランダム再生されるぼんやりとした夢のような記憶。
一気通貫で、ユーチューブ動画がストリーミング再生されるように思い出す記憶。
過去を実際に追体験するような記憶。
私はこれを、記憶の三段活用と勝手に名付けます。
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