言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【4.芸術は変わらない-So the spring comes-③】

 

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4.芸術は変わらない-So the spring comes-③

 

「お願いがあります」

「……私、暇じゃないんだけど。突然、電話があったと思えば、何の用?」

 玲子はホテルのロビーにあるテーブルで、パソコンのキーボードを叩いて待っていた。その表情は真剣だった。明日にはこの曲島を出て、東京に戻ると言っていた。今日までに取材したものを、文章にまとめているのかもしれない。

 曲島の海が正面に見える、広いロビーだった。海は灰色に染まっていて、空には影を落とした鉛色の雲が埋め尽くされていた。海と空の境界線が混ざり合い、霧のような雨が渦巻いていた。

 雨に濡れた鞄を握り締めながら、ナツは額の雫を袖で拭った。身に付けた服は、水を吸って少しだけ重かった。

 ハルは栗色の髪が雨に濡れ、いつも外にはねている毛先が真っ直ぐに垂れていた。まつ毛には小さな雫がいくつも纏わりついていた。

「知ってます。だから、取引しませんか?」

「私にメリットのある取引かしら?」

「将来、再生回数が一億を越えるようなユーチューバーを、手に入れることができるかもしれませんよ」

「藤堂秋(とうどうあき)のことを言ってるの? なら、話はおしまいよ」玲子はパソコンモニターに視線を落としたまま、冷たい言葉をため息とともに吐き出す。「彼にセンスがあるのは認める。でも、それも高校生レベル。最近の動画を見ても、よくわかるわ。まさにスランプ。世の中のうっぷんを晴らせば、ご飯を食べていけるほど、甘い世界じゃない」

「そうでしょうね」

 玲子の指摘は間違っていない。ナツは頷いた。だから、アキは過去を消した。

「それがわかってるなら……」

「これからの主役は、アキじゃない。ユーチューバーの主役は、あなただ」

「……は?」

 そこで初めて、玲子が顔を上げた。整った眉が「意味がわからない」とでも言うかのように大きく曲がり、眉間にできた隙間は、疑問を埋めたように尖っていた。

 横にいるハルも「え?」とぽかんと口を開けて戸惑いの視線をナツに向けている。

「アキは裏方になるんですよ。季節の主役が巡るように、フェードアウトです。冬田玲子さん。あなたに次は季節が巡るんです」

「なにを言って……」

「あなたは、イノベーションの動画を見て、どう思いましたか?」

「……」

「言いましたよね? 風景写真。アニメーション。CG。背景の構成は目を見張るものがある、って」

 ナツは鞄に手をかけ、中身からビニール袋とタオルにくるまったパソコンを取り出し、玲子の前に置く。

 ナツの手は震えていた。パソコンはひどく重かった。他人の過去が詰まったものは、他人の手で抱えるには重すぎる。

「これを見てください」

 ナツはフォルダを開く。アキが昔、作っていた動画をパソコンで見せた。

 アキが自分で描いたアニメーション。パソコンでコツコツと作り上げたCG。何気なく撮影した風景動画の数々。それらは単独で何かしらの物語を紡いでいるものや、二つ以上の動画を組み合わせて構成されているものもあった。アキのユーチューブには一切公開されていないものだ。

 その数、ざっと百以上。

「彼は昔、映画を作ろうとしていました。これらのデータは、その名残です。中学校に上がる前から、こういうのを作るのが好きだと言ってました。子供の頃から、こつこつ積み立ててきた作品です。でも、高校に入って、本格的に映画を作ろうとした時に、挫折した。この素材を輝かせることができる主役がいなかったから。自分は主役になれない。そう言って、ユーチューバーになりました」

 すごい、とハルが絞り出すような声を吐き出した。玲子はその動画をただ黙って見つめている。その瞳はパソコンの光が反射して、煌(きら)めいて見えた。

イノベーションの動画は、アキが高校に入ってから作られたものです。でも、それまでに作られた動画のコンセプトは、アキの感性は、何も変わっていないはずです。あいつは、まっすぐだから」

 ナツは一旦、言葉を切った。ここからだ。ここからは言葉を慎重に選ばなくてはならない、とナツは思った。大きく深呼吸する。

「……玲子さん。玲子さん、本当はもう一度、夢を追いかけたいんじゃないんですか? もう一度、輝きたいんじゃ、ないんですか……?」

 すがるように、問いかける。玲子の表情は変わらない。変わらないように見えた。ナツは続ける。

「この前、昔の玲子さんの動画を見せてもらったとき、思ったんですよ。プラスボイスの動画。どうして、昔の動画を消さなかったのだろう、って。アキのように、自分で作った動画を消さなかったのは、なぜなんだろう、って。玲子さんを叩くコメントは、確かにたくさんありました。おれは当事者じゃないから、玲子さんの気持ちはわかりませんけど、辛かったと思います。とても。悲劇の主人公になった気分は、おれにも痛いほど、わかります」

 悲劇の主人公。その言葉に、玲子ではなく、ハルが反応した。隣で鼻をすする小さな音がした。ナツは右脚を撫で、拳を軽く握りしめる。

「玲子さんへのコメント。見るの嫌でしたけど、全部見ました。そして、確信しました」ナツはここで言葉を強める。「……応援してくれる人が、いたからですよね? 応援してくれる人も、いるんですよ。共感してくれる人も、絶対にいるんですよ。世界を消さないでと、壊さないでと、願う人が。アキの動画と同じように。たとえ独りでも、炎の中で吠え続ける猫のような味方は、必ずいるんです」

 ナツはハルをチラリと見た。ハルは唇を固く結び、玲子の反応を見ているようだ。視線をゆっくりと玲子へ戻す。

「玲子さん。島猫亭に初めて来たとき、心が動かされたんじゃないんですか?」ナツはこれまでの玲子を思い出しながら、静かに問いかける。「居心地のいい場所。悩みを打ち明けれる場所。優しい場所。自分を受け入れてくれる場所。自分の過去がまた、輝くような場所。……探していたんじゃ、ないんですか?」

 その問いかけに、初めて玲子が反応した。瞳がろうそくのように揺らめく。この反応を、消してはならない。ナツは軽く息を吸い込んだ。

「……だから、歌った。島猫亭の夜には、過去の自分を素直に、黙って、受け入れてくれる人が、たくさんいたから。ハルの声が、優しかったから」

 曲島の童謡。島猫亭の創始者、一ノ瀬晴見(いちのせはるみ)が作曲したもの。その想いが、変わることなく島猫亭に、そして、ハルに受け継がれていた。夢を諦めるな。夢を追い続けろ。夢を持つ者に花が咲け、夕陽が輝けと願う歌。他人に寄り添うような、優しい歌声。

「……玲子さん。あなたは夢を持っている人、夢を探そうとしている人、夢を探している人に、世の中は厳しい、知識が足りない、努力が必要ときつい言葉は投げかけました。でも、夢を追うこと自体は、絶対に、否定しなかったですよね」

 ナツは思わず、これまでの玲子の言葉を思い出し、喉が詰まった。手のひらを添え、軽く咳払いをする。

「おれは心地良かったですよ。玲子さんの言葉が。ハルの言ったとおりだった。大変な時もありました。心が折れるときもありました。でも、その言葉があったからこそ、おれは今、玲子さんにこうして、交渉している。社会の厳しい視線から、弱みを守れるような切り札を、持ってくることができた」

 ナツはパソコンに手をかける。流していた動画が終わっていた。動画のソフトを閉じ、アキからもらったフォルダが表示された。数々のデータが、画面を埋め尽くさんばかりに溢れていた。夢の欠片が、今にも画面からこぼれ落ちてきそうだった。

「もちろん、アキ一人では行動できない。だから、あなたの力が必要なんです。そして」ナツは玲子の瞳を覗き込んだ。「この世界は、たった一人の人間の才能で生きていけるほど、甘くない。そう言ったのも、あなただ」

 あの時、アキと初めて部室で会った日。そのときにアキが投げかけてきた同じ視線を、今度は玲子にぶつける。心のろうそくに火を灯すように。次の言葉で最後だ。

「……変わらなくていいんです。アキも、玲子さんも。お互い。それぞれの世界を掛け合わせて、世界へ問いかければいいんです。主役が見つからないアキ。主役になれなかった玲子さん。二人が繋がれば、きっと何か、生まれる。おれは、そう信じています」

 炎が灯る。玲子の瞳が、真っ直ぐにナツを見つめる。その瞳を、ナツはよく知っていた。何も未来に希望を描けなかった自分が、アキの夢をつなごうと固く決意したとき。その時に宿した炎と、同じだ。

「だから、お願いします。アキを。おれの親友を、救ってやってください。お願いします」

 ナツは頭を下げる。固く拳を握り締める。

「わたしからも、お願いします」

 ハルも隣で声を上げる。その声は小さくかすれていたが、固い意志を宿していた。もう誰が何を言っても自分の考えは変えない。そんな強い意志を、ひしひしと感じた。

 玲子が観念したように横を向き、ロビーから見える海へ視線を向けた。鉛色の雲は、いつの間にか消えていた。薄い雲の隙間から、太陽の日差しが斜めに差し込み、瀬戸内の海を明るく照らし始めていた。

「……この島に来て」

 玲子の唇から、ぽつりと言葉が落ちてくる。ナツが玲子へ視線を戻す。

「頼りない少年に出会ったな。女の扱い方も、ろくにわからないような奴がいるな。そう思ってたわ」

 玲子の周りを彩る空気が、変わる。ホテルのロビーに、夕陽のカーテンが音を立てて、流れ込んでくる。玲子の身体に、朱色の灯がぽつりぽつりと、心の炎が全身へあふれ出るように、零れ始める。まるで、夢の花を添えるように。あの童謡と同じだ。

「加えて、一度決めたら、自分の芯を絶対に曲げない子猫ちゃんも、隣にいる」玲子は真剣な眼差しのハルをチラリと見て、瞳を逸らした。降参よ、と呟く。「……負けたわ。仙田夏雄(せんだなつお)」

 玲子は窓の外を眺めながら、初めて、ナツの名前を呼んだ。耳を突き抜けたその言葉が、脳を駆け抜け、目の奥に飛び込んできた。同時に、目の前がぼやける。目の中にたまる何かを振り払うように、ナツも外を見た。

 最高のオーシャンビュー。

 雨が上がったあとの空は、この世の汚いものをすべて洗い流してしまったように、輝いていた。なにものにも汚されていない、自由な夕焼けの空が、窓の向こうに広がっていた。

「このホテルからでも、こんなにきれいな夕陽が見えたのね。毎日、出歩いていたから、気付かなかったわ」

 玲子がすっきりとした表情で呟き、長い髪を手の平でかきあげた。長く透き通った砂浜色の髪には、夕陽のカーテンがふんわりと覆いかぶさっていた。それはまるで、金色に光り輝くヴェールを纏っているようで、夕陽を従える女王に見えた。

 その姿はまさに映画のワンシーンのようで、ナツの心を砕いた。

 この人なら、世界を変えられる。アキと一緒に、新しい世界を取り入れながら、その都度、この世界をぶち壊してほしい。ナツはそう願った。

 隣でハルが、その目元で虹のように輝く雫を、細い指でそっと拭っていた。それはきっと、雨の雫ではないと、ナツは思った。

 

 

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