言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【4.芸術は変わらない-So the spring comes-②】

 

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4.芸術は変わらない-So the spring comes-②

 

 高校へ入学した時の想い出がよみがえる。まるで、自分の頭の中にユーチューブアプリがインストールされたように。

 すべてを、憶えている。

 藤堂秋(とうどうあき)との出会いは、薄暗い部屋だった。

『映画研究部』

 古びた扉に黒ずんだプレートが掲げられていた。運動部の勧誘を振り切って廊下を歩いてきたナツは、その扉をノックした。

 返事は、無かった。ドアのノブを回し、扉をゆっくりと開く。かび臭い香りと、古本の香りが鼻をついた。

 部屋の中には、雑誌を読んでいる一人の男子生徒がいた。カーテンを閉め切り、小さな読書灯の下、おそらく出たばっかりの雑誌だろう、指でめくられるページは、鮮やかな色を放っていた。耳が隠れるほどの茶髪、個性を強く出した赤眼鏡。その奥で光を放つ瞳。いかにもチャラい奴、という烙印をナツはすぐさま押した。

 そんな人間が、高校の煌(きら)びやかな青春とは無縁の部屋にいたのだ。ナツは一瞬、軽音部の部屋か何かと間違えたかと思った。

「なに?  お前も青春とかほっぽりだして、退屈な日常に足を踏み入れて、世の中を俯瞰的(ふかんてき)に眺めたい系?」

 雑誌をめくりながら、ナツの方を見ずに、茶髪の男が声を出す。その声は思ったよりも高かった。

「いや、おれは……」ナツはまだ少し痺れていた右脚を撫でる。

「ちなみに、俺はちがうぞ」

「え?」

「映画を作るんだ。この高校三年の中で。本気だぞ。俺の本気についてくる気があるなら、この部屋に足を踏み入れていいぞ」

 読んでいた雑誌を閉じ、彼は顔を上げた。その瞳は真っ直ぐで、ナツの視線を押し返す。決意の気持ちが視線の周りに纏わりついていた。ナツの暗く湿った胸の中に、小さな光を灯していく。

 それが、ナツとアキの出会いだった。

 世の中はそんなに甘くない。映画を作るという作業は、とんでもなく重い。

 それに気がついたのは早かった。ちょうど高校一年生の学校祭の頃だ。学校祭で、ちょっとした映画を二人で公開しようとしていたのだ。部員は、ナツとアキの二人だけだった。意外に同級生は、暗い部屋ではなく、解放された空間で、バスケやサッカーなどを行って高校の青春を謳歌(おうか)しているようだった。

「やっぱさ、こんなむさい男二人で映画作っても、ヒロインがいねぇと映えねぇよな。お前、ちょっと彼女作ってこいよ」

 アキが大きくて重そうなカメラを抱えながら、マイクや録音機材を抱えるナツに言った。

「なんでだよ」

「彼女なら、俺たちの手伝い、してくれるだろ。無償で。愛に金は不要だ。恋人との時間があればいいからな。ただし、とびっきり、スタイルのいい女な。髪は長い方がいい。光に映えそうだから、茶髪だな。脚と腕がスラッとして、目がくりっとしてて、アメリカの女優のようにグラマラスで」

「そんな女、いねーよ」ナツが盛大にため息をつきながら、アキの言葉を遮る。「アキが作ればいいだろ。おれなんかより、よっぽどもてるだろ」

「あ? 俺にはそんな暇ねぇんだ。高校で彼女は作らねぇ。己を律する。夢を叶えるためには、ストイックにならねぇとな。なにしろ、俺は、未来の映画監督様だからな」

 がははと胸を張って笑う。見た目だけでは、アキが本気なのか、冗談なのか、判断がつかなかった。

 夏の学校祭が終わり、外の空気が少しずつ、ひんやりと肌を撫で始めたある日。

 アキは突然、宣言する。

「おれ、ユーチューバーになるわ」

「はぁ? 映画は?」

 部室の扉を開けると、アキは何やらパソコンで動画を見ていた。最近、ミュージックランキングで上位に食い込んでいるアーティストの歌が流れていた。ギターとか、ベースとか、ドラムのリズムが重低音で鳴り響いていた。

「諦めてねぇよ。けど、まずは発信することが大事かなって。ほら。最近、流行ってるじゃん? ボカロ系ミュージックっていうの? こつこつ下積みして、着実に登録者増やして、ある日突然バズるやつ」

 アキは、器用だった。もともと映画撮影用に録音機材も揃えていたし、コミュ力も抜群だった。すぐさまユーチューバーとして、華々しくデビューした。

異世界の青春チャンネル』が誕生した瞬間だった。

「なんで、高校の日常? もっと楽しいこと、発信したら?」

「まずは身近なところから、共感する人を見つけるんだよ」

 アキの読みは、当たった。

 同世代の高校生に、抜群にウケた。特に、ナツの高校の中で。

 つまらない授業に、楽しみの色を添える動画。先生の癖や言葉。それをモノマネする。意外にうまかった。

 期末テストの傾向。これまでの過去問を揃え、科目ごとに徹底的に分析していた。ヤマの当たる確率は六十パーセントと高く、再生回数を稼いだ。分析しすぎて、動画を作りすぎて、アキの試験勉強が進まなかったことは言うまでもない。

 明らかに付き合ったことを公開したいカップルへ取材し、きちんと許可ととりつつ、いかにも自分で気が付いたという体(てい)で、探偵のように「あいつらは付き合い始めたぞ」という分析をする動画。構成力が抜群で、これも恋愛に飢えた生徒たちに人気だった。

 一番、再生回数が飛び跳ねたのは、京都への修学旅行。そのホテルの夜の様子を、隠し持ってきた最低限の録音機材を使って、ライブ放送をしていた。そのあと、先生に大目玉を食らったのは言うまでもない。

 アキのチャンネルは、少しずつ、確実に登録者数を増やしていた。高校二年生の終わり頃には、気づけば八百人を突破していた。

「千人突破したらさ、ちょっとした小遣いになるらしいぜ。貧乏な高校生にとってはなかなかの額だ」アキがパソコンで動画を編集しながら、唇を上げ、面白そうに笑っている。「まぁ俺はまだ十七だし、金はもらえないけどな。でも、金が目的じゃないんだ。俺は今、ぞくぞくしてくる」

 パソコンのキーボードを叩く音が部室に鳴り響く。アキは楽しそうに笑い、眼鏡を押し上げる。

「でもなぁ。俺、ほんとうは、裏方とかそういうのがいいんだよな。映画演出家って言うの? 脚光を浴びるのに、向いてないんだよな」

「これだけ再生回数稼いでおいて、よく言うよ」アキの目の前で自前のパソコンを使って、ナツは動画のチェックをしていた。「……ここのテキスト、漢字、間違えてるぞ」

「ん? どこ?」

 アキが腰を浮かせると、部室の扉が小さくノックされた。

「アキくん、いる?」

 扉からひょっこりと顔を出したのは、女子生徒だった。五組の冴子だ。サラサラの黒髪が肩の上で波を作るように揺れている。心なしか、汗臭い部室の中に、可憐な花の香りが舞い込んできたように思えた。最近、よく部室にやってくる。どうやら、アキのことが気になるらしいとナツが知ったのは、ついこの前だ。

「おう。冴子か。どうした」

「一緒に帰ろうかな、って思って」

「悪ぃ。今日中にこの動画をアップしたいんだ。まだ時間かかりそうだ」

 そう言うとアキは、部室の時計を見上げた。時計の針は午後五時をさしていた。

「そっか。わかった。じゃあ、またね」

 冴子は心底残念そうにまつ毛を伏せ、暗い表情を残したまま、扉を閉めた。

「いいのか?」ナツが扉に視線を移したまま、呟く。

「……別に付き合ってるわけじゃねーし」アキが肩をすくめる。「それより、ナツ。お前、隣のトモコちゃんとはうまくいってんの? お前の恋バナを動画にアップしていい?」

「……やめてくれ」

 アキはほぼ毎日、動画をアップしていた。どんなに忙しくても、どんなに疲れていようとも、家に帰ってからも作業を続けていた。

異世界の青春チャンネル』の扉が閉まることは、これまでに一度もなかった。

 

 

『俺さ、動画配信、辞めようと思うんだ』

 スマホの奥でアキが小さな声で呟いていた。その会話とスマホの電波を切り裂くように、激しく雷が鳴る。大きな雨粒が窓ガラスを激しく叩いていた。

 浩介との電話を終え、ナツはすぐさま、アキのチャンネルを開いた。瞬間、自分の目に飛び込んできた事実を疑った。

 コメント欄は、罵詈罵倒(ばりばとう)で埋め尽くされていた。

 大荒れ。炎上。芸能人とか、政治家とかの発言に対して、よく見かける悪意という毒を含んだもの。それがアキの動画の中に、狂ったように注入されていた。玲子と話をしたばかりのその現象が今、目の前で繰り広げられていた。

『おい、こんなバカなことはやめろよ!』

 浩介がコメントを更新して、罵詈罵倒を防いでいるように見えたが、次々と更新されるコメントの前では、焼け石に水だった。

「なんでだよ」

 ナツはユーチューブを閉じ、アキへ電話した。すぐに通話がつながった。つまずきそうになりながら、自分の部屋へ駆け込んだ。鞄の中から、持ってきたパソコンを取り出す。鞄の中でコードが引っ掛かり、小さな荷物がばらばらと床に散らばったが、構うことなくパソコンを机の上に置いた。持ってきたWi-Fiを起動し、インターネットへ接続する。

 パソコンは古く、なかなか起動しなかった。ナツは焦る気持ちを抑えながら、アキの言葉を待つ。

『五組の冴子。俺、フったよ』

「それ、動画の炎上と、関係あるのか?」

『冴子さ、結構、学内でモテる奴だったんだ。可愛いし、性格もいいからな。で、俺がフったもんだから、周りの男子が俺を敵対視。それでこのありさま』

「そんなの、ただの逆恨みじゃねーか」

『ナツ。他人の気持ちへ踏み込むって、難しいよな。他人に近づいたり、突き放したりすると、自分のやりたいこととか、自分の気持ちとか、百八十度、変えてかなきゃならなくなる。俺、どうすりゃいいか、わかんなくなったわ』

 アキが呻くように言った。電話の先で、頭を抱えている様子がナツの頭の中に浮かんだ。

 人と人には、関係を築くための必要な距離がある。それはナツも十分にわかった。耳が痛くなるほど、玲子からも散々聞いた。

『冴子にもさ。「私がどれだけ長い間、アキのことを待っていたと思ってるの。どんな気持ちでこの夏を過ごしていたのか、わかってるの。あなたは、本当に冷たい男ね」って、散々、罵られた』

 冷たい男?

 どこかで聞いた言葉だった。

 ナツはハッとした。ようやくパソコンが起動する。画面をクリックし、アキのユーチューブを開いた。

 ナツは戦慄した。

 

 冷たい男。

『アキは最低。アキは最低。アキは最低。アキは最低――』

『大嫌い。大嫌い。大嫌い。大嫌い――』

 アキへの好意が、憎悪に切り変わっていた。

 

『俺も言いたいこと、発信しつくしたし、もうネタもないんだわ。高校のイベントも、もうほとんどないしな。そろそろ潮時か、って夏休み中、ずっと考えてたわ。イノベーションを作ってた時もなんとなく思ってた。これが俺の限界なんだって。結局、夢は見れなかったよ。ごめんな。ナツ』

 どうして。なぜ、謝るのだろう。

 パソコンの画面に並んでいた動画のサムネイル画像が、突然、黒く切り替わった。

 

 動画は削除されました。

 

 アキが、過去を削除し始めたのだ。

 やめろ。ナツは心の中で叫んだ。

 ナツはアキが羨ましかった。それはわかっている。でも、ようやく今、自分がどうしてアキの動画を毎日チェックしていたか、理解した。

 アキが自分の夢に向かって進んでいくだけで、その夢の片鱗に触れていた。一緒に走り続けることができた。それだけでナツは、一緒に夢へ向かって駆け続けていると、心のどこかで安心していたんだ。高校の生活に、明るい光が差していたのだ。

 

 動画は削除されました。

 動画は削除されました。

 動画は削除されました。

 

 やめてくれ。アキ。

 お前の過去は、そんなもんじゃない。

 

 動画は削除されました。

 動画は削除されました。

 動画は削除されました。

 

 だけど。

 それが消えていく。

 二人で作り上げた線が、消えていく。

 

 依然として、コメント欄には新着の文章がアップされていく。ほとんどが悪意を持ったものだ。ごくたまに、『こんなことはよくないよ』『これ、炎上……? ひどくない?』という憐(あわれ)みのコメントも見かけるが、無意味だった。

『最近、アキの動画もつまらなかったしな』

 お前らにわかるのか。

『大人しく、高校生っぽい生活、送っていれば、こんなことにはならなかったのにな』

 高校生っぽいって、なんだ。

『一人の女の子を傷つけた。この罪は重いぞ』

 アキを傷つける権利は、お前らにあるのか?

 アキのかけがえのない三年間。どういう気持ちで、どういう夢を持って、動画を作ってきたのか。

 どうして想像できない?

 デジタルの世界なんて、指先一つで、簡単に壊せることを、十分に知っているんじゃないのか?

 散々、テレビで。ドラマで。インターネットで。ツイッターで。SNSで。ニュースで。散々、取り上げられていただろう?

 どうして、自分の都合のいい過去ばかり、狂ったように美化するんだ?

 どうして、夢を追い続けている人を、つぶすんだ?

 どうして、他人の価値観を、受け入れることができないんだ?

「やめろ。やめろ、アキ」

 受話器に向かって、叫ぶ。アキの反応はない。

 

 

 おれはアキに、夢をかなえて欲しかったんだ。

 

 

 どれくらい時間が経ったのだろう。いや、時間はそれほど経っていないのかもしれない。

 最後に、学校祭で発表したイノベーションの動画だけが残った。ナツとハルが曲島で再会するキッカケとなった動画。この動画を見たから、ナツは曲島へやってきた。

これも消えるのか。

 ナツはパソコンの前で、目を閉じ、うずくまった。アキとの通話は、いつの間にか切れていた。

 今更、自分が何か言って、何になる?

 ――ちょっと、相談があるんだけど。

 あのときアキの話をきちんと聞いていなかったことが、今更、悔やまれる。そこでアキの話を真剣に聞いていたら、この事態は、避けられたのだろうか。

 瞳の奥が熱くなってきた。喉がひどく渇いていて、痛んだ。舌の先が痺れている。世界が変わっていてくれと、すがるような気持ちで瞼(まぶた)を開き、パソコン画面へ再び視線を向ける。

 ナツが視線を上げると、画面を埋め尽くすほどの、長いコメントがポップアップされていた。

 更新時間は、たったいま。

 

 名前。small spring。

 

『わたしの大切な人に勧められて、アキくんを知りました。

 今までの動画、全部見てます。

 高校生って馬鹿だな。男子って馬鹿だな。

 女子目線からだと、正直、呆れた目線もありました。

 

 でも、それが、いいなって、思ってました。

 すごくいい。

 

 わたしを、高校生活という何気ない日常に、運んでくれる。

 大切な人と一緒に、仲良し三人組で、同じ高校で生活しているように思える。

 

 先生の癖は面白いけど、つまらない授業風景。

 

 頭が柔らかくなれ自分と唸った、一夜漬けの試験勉強。

 そしてヤマが外れて、やっぱり全然解けなかった、期末テスト。

 

 学校帰り、木漏れ日の下、口の中でとけていく、コンビニで買った冷たいアイスクリーム。

 

 暑くて、喧騒が漂って、少し身体が重いけど。初めてみんなが一丸となって何かを達成した学校祭。

 終わった後の打ち上げ花火と、誰が最後まで火花を散らせるか競った線香花火。

 

 朝霧の中、風を切りながら漁港に向かって自転車で坂を下る爽快感。

 

 練習はだるいけど、本番はちょっと本気の体育祭。バレーボールが顔面に当たって鼻から流血騒動。

 

 クリスマスが近くなって、誰かと誰かが付き合ったとか、そんな極秘情報。

 

 雪がしんしんと降り積もっていく、懐かしいあの感覚。それをブーツで踏みしめる、音。感触。冷たさ。マフラーに顔を埋める、温かさ。コンビニで買ったホカホカのあんまん。熱々のお茶。冬にとけていく、笑顔。

 

 初めての修学旅行。初めて行った京都での思い出。トランプ。恋愛トーク。遅くまで起きてはしゃいでいた、本気のまくら投げ。

 当然、次の日は寝不足で、バスガイドさんの話なんて、そっちのけで爆睡。

 

 高校三年間、すべての思い出が、ここにはありました。

 

 アキくんから見る目線は、たぶん、わたしと同じく大切な人のことを見ているんだな。

 そう感じました。

 

 このイノベーションを見たときは、わたしはなんとも言えない気持ちになりました。

 なんというか、わたしの考えのすべてを、心の芯をえぐるような。

 なんてわたしは、ちっぽけなんだろう。

 そのときの気持ちは、今でもなんて表していいのか、わかりません。

 

 でも、これだけは言えます。

 

 アキくんの動画は、ちっぽけなもんじゃない。

 わたしと大切な人をつないでくれた。

 わたしの過去を輝かせてくれた。

 そんな動画です。

 

 どうか、これからも、アキくんの世界を発信し続けてください。

 うまく言えないけど、それがわたしの願いです。

 

 きっと、わたしの大切な人も、そう願っています。』

 

 

 スモールスプリング。小さい春。……まさか、とナツは思った。

 ネコの顔をしたアイコンだった。

 まるで、猫が炎上する世界に向かって、吠えるように。

 大事なものを守るように。

 春の木漏れ日のようなコメントが、吹き荒れる炎の中で、煌々(こうこう)と浮かび上がっていた。

 たった一匹の猫が、炎上した世界の中で、ひときわ、輝いているようだった。自分の芯を持って、心の炎を燃やしているように見えた。

 

 十分が経った。長い長い時間だった。

 イノベーションは消えなかった。

 

 願いが、届いた。

 アキの世界はまだ、消えていない。

 

 でもどうすれば。

 このままでは、アキの心は、きっと。

 

「くそっ」

 スマホとパソコンを投げて壊したかった。でも、そんなことをしても無駄だ。イチとゼロの見えない世界は、これからもアキを攻撃して、生き続ける。

 依然として、窓に雨粒が叩きつけられている。この大雨でも、デジタルの炎を消すことは出来ない。

 いや。まて。

 ナツはパソコン画面を見つめながら、思い出した。マウスを動かし、データが詰まったフォルダをクリックしていく。過去に、過去に遡る。

 あった。

 高校一年生。夏の日付のフォルダだ。

 階層が深かった。二年前のことなのに、過去はこんなにも遠かった。

 

 ――俺が本格的に映画作成を再開するまで、これをお前に預ける。

 

 アキの言葉が頭の中によみがえる。

 ナツはパソコンを握りしめた。タオルを何重にも巻き、雨に濡れないようビニール袋で包み込み、鞄の中へ入れ、部屋を飛び出した。ちょうどハルが階段の下から駆け上がってきたところだった。

「ナツ。アキくんが」

「知ってる。行こう!」

「どこに?」

 息を弾ませながら、ハルが不思議な顔をしている。ナツは階段を降り、島猫亭を飛び出す。

 島猫亭の前に止めてあった、雨に濡れたままの自転車を引っ張り出す。

「ハル、乗って」

 ハルは頷き、雨の雫に服が濡れるのも構うことなく、ナツの後ろに身体を乗せ、しっかりとナツの腰に腕を回した。

 雨は、幾分、小降りになっていた。ナツは玲子からもらった名刺に書いてある携帯電話の番号をタップし、脚を蹴り上げ、自転車を走らせた。

 ナツはアキに出会って、高校生活が輝いた。自分が消し去った未来に、光が再び灯ったのだ。

 自転車のペダルを漕ぎながら、ナツは言葉を噛み締める。

 あいつの動画が気に入らないと世界が矛先を向けても、おれは、叫ぶ。

 あいつの動画に救われたのは、お前らじゃない。

 このおれ、いや、おれたちなんだと。

 後ろでナツにぴったりと寄り添うハルの身体は、熱かった。

 

 

 

 

******

 今回の話に出したYouTubeの炎上の話について、奇しくも、木村花さんのニュースと被ってしまいました。意図的に被せたたわけではありませんが、この場を借りて、彼女のご冥福をお祈りいたします。

 ネットの炎上に関して私が言いたいことは、この物語の中で主人公が思いの丈を吐き出しているので、それと同じです。

 あまり語ることはありませんが、もっと、世界が優しくなればいいのにと、いつも思っています。

 

 

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