言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【4.芸術は変わらない-So the spring comes-①】

 

f:id:hinata_manabe:20200505071100j:plain

 

4.芸術は変わらない-So the spring comes-

 

 記憶がリピートされる時がある。

 それは夢なのか、現実なのか、わからない。でも、自分が確かに経験した記憶だ。ナツが生まれるよりもはるか昔に上映されたモノクロ映画が、途中で二倍速、五倍速、十倍速になったり、次のチャプターまで一気に飛んだり、途切れ途切れで再生されるような感覚だ。

 父や母の世代は、ビデオとか音楽のデータを、今で言うDVDとかブルーレイとかデジタルではなく、アナログの媒体――例えば、テープというものに、記録していたらしい。何回も再生すると、やがてそのテープが伸びてヨレヨレになって、質が落ちたり、酷い時には擦り切れて、もう二度と再生できなくなると聞いたことがある。

 人間の記憶も、同じなのかもしれない。思い出すという行為をするたび、昔の記憶が薄まっていく。更に、今の自分の経験や考えがコメント欄に書き込まれるように加えられ、新たな記憶として上書きされているのだ。

 

 ▶

 

 一体、いつからだろう。

 何かを頑張るということに、意義を見出せなくなったのは。

 ナツは頭の中に、中学生の頃の記憶が再生されていた。

 それは、雪がしんしんと降る朝だった。降り積もる音が聞こえるほどに、雪はナツの住む街を真っ白なペンキで塗りつぶすように上書きしていた。

「今日も、走るの?」

 ブーツの靴ひもを結ぶナツの背中に、声が被さった。スーツ姿の母――裕子が心配そうな顔をキッチンの扉から出した。

「今日、何年かに一度の大雪らしいよ。警報も出てる。さすがにやめたら?」

「大丈夫だよ」ナツはコートを腕にひっかけながら、立ち上がる。「別に、時間を測って、思い切り走るわけじゃないからさ。身体を温めるための、散歩みたいなもんだよ」

 忍耐力と根性を身に付けろ。その父の言葉は、ナツの中学時代を常に引っ張っていた。陸上部に入部してから、毎日欠かさず、暑い日も、雨の日も、風の日も、一時間は走ることにしていた。

 ナツは長距離の選手だった。強要されたわけではない。ただ、走るということが心と身体に心地よかった。不思議と、何キロ走っても、全然疲れなかった。努力の時間をかければかけるほど、周りよりも長く、そして早く走れるようになる自分に、酔っていたのかもしれない。

「夏雄、高校でも陸上、続けるんだろ?」

 中三の夏、ナツが全道大会へ出場したことに、父は喜んでいた。

「仙田。お前のタイムは、この三年でみるみるうちに短くなったぞ。高校でも続けていれば、全国大会への切符も、そう難しくないぞ」

 学校の先生も、自分のことのように期待していた。

「わたし、走ってるナツが好きだよ。高校は別々だけど、大会の時には応援に行くからね」

 中学校の頃、付き合っていた彼女――名前は確か、アヤノ――も、可愛い笑顔を咲かせながら、ナツにうっとりとした声で囁いていた。

 走れば走るほど、ナツの道が長くなり、太くなり、他人との交差点が増えていく。それはナツにとって、興奮するものだった。誰かが応援してくれる。誰かの言葉が待っている。それを拾い集めることに、ナツは未来を期待していた。

「じゃあ、気を付けてね。今日の夜も母さん、帰ってくるの遅いから、キッチンにある材料で、適当にご飯作って食べててね」

「あぁ。わかったよ」

 そう言ってナツは、玄関の扉を開け、白銀の世界へ足を踏み入れた。その瞬間、木綿のような雪が頬や唇を撫で、首筋をくすぐった。ナツは背中のフードを深々と被り、降り積もったばかりの雪を踏みしめ、走り始めた。

 家の庭に敷地と道路の境目はまったくわからないほど、白い絨毯がどこまでも続いていた。白い綿雪が永遠と降り注ぐ中、白い息をリズムよく吐き出しながら、ナツは走り続けた。

 それが、母との最期の会話だった。

 

 ▶×五倍

 

 リビングの掛け時計は、午後七時をさしていた。

 ナツはまな板の上で玉ねぎを切り刻んでいた。焼きそばでも作ろう。そう思ってキッチンに立っていた。

 電話が鳴った。ナツは顔を上げた。二階へ続く階段の傍にある電話が、けたたましく鳴っている。携帯電話を持っていたので、もし自分に用があるならそれにかかってくるはずだった。珍しい音に怪訝そうな顔をしながらも、受話器を手に取った。音が止まる。

「はい。仙田ですが」

 受話器の奥から聞こえた音は、知らない男の声だった。そのあとの会話は、全く覚えていない。気がつくと、ナツは冬のコートに袖を通しながら、家を飛び出していた。

 母が事故に遭った。隣の市の病院に運ばれた。意識は不明。情報はその三つだけだった。

 車のライトが並ぶ国道に出て、バスに乗ろうとした。道路は、大雪のせいで大渋滞だった。雪はやんでいたが、あちこちで車のエンジン音と、クラクションが飛び交っていた。雪で半分以上が埋まったバス停へ、抱き着くようにして駆け寄り、凍り付いてよく読めない時刻表を確認する。バスは二十分おきで来ることになっていたが、この渋滞では仮に乗れたとしても、病院へいつ辿りつくのかもわからない。タクシーも同じだった。

 そこから、病院までは、軽く二十キロはあっただろう。でも、ナツは午後八時過ぎには、薄暗い病院の廊下で足音を響かせていた。自分がどうやって病院へたどり着いたのか、玉ねぎを切ったように、記憶がぷっつりと切れていた。

 ポケットで携帯電話が震えていた。病室へ飛び込むと、携帯電話を片手に握り締めた父が立っていた。顔は涙でぐしゃぐしゃだった。

 携帯電話が鳴り響く音が、止まる。ナツの視線は、父の傍にあるベッドに向けられた。そこには、綺麗な顔で、まるですやすやと眠るように横たわる母がいた。

 枕の横にある心電図は、赤いランプが点滅し、甲高いビープ音を発していた。テレビドラマでよく見るものだ。

 その波形は、何も示していなかった。

 代わりに、厳しい現実の波がナツへ押し寄せてきた。

 

 ▶×0.5倍

 

「裕子を亡くして、これからどうするの?」

 母の妹である友紀(ゆき)叔母さんが、葬式の後、父へ冷酷な言葉をぶつけた。

「共働きで、散々、裕子を働かせておいて。あの日も、疲れがたまっていたんじゃないの? だから、事故なんて起こしたのよ。私は、あなたを許さない。たった一人の姉を奪ったのは、あなたよ」

 今まで特に関わりを持たなかった線が、まるで燃え上がるように交わる。

 たった一人の姉を亡くしたのは、気の毒だろう。悲しみをぶつけたくなる気持ちも、痛いほどにわかる。でも、それは父もナツも一緒だ。たった一人の妻を亡くし、たった一人の母を亡くした。

 その事実は、変わらない。

 だけど、父が働くのも、母が働くのも、それらはナツの家族の問題であって、彼女の問題ではない。

 父は黙っていた。浴びせられる苦痛に、ただ黙って耐えていた。唇を固く結んだまま。それが逆に、燃え上がった炎をいつまでも消すことなく、父とナツをただ、ひたすらに攻撃する。

 結局、忍耐力と根性を身に付けても、苦労が増えるだけ。ただ黙って話を聞いているだけでは、他人を更に燃え上がらせ、自分の世界が好き勝手に踏みにじられるだけだった。目の見えなくなった巨象が、ゆったりと歩くように。

 

 ▶

 

「日常生活に支障はありません。ただ、この脚では、本気で走ること。高校で、運動部に入ることは、無理でしょう」

 葬式の後、ナツの右脚が思い出したように痛みを走らせた。その時、ナツは気が付いた。あの夜、たぶん、病院まで雪道を二十キロも走ったのだ。おそらく、全力で。

 父と病院へ行くと、険しい表情をした医者にそう告げられた。

 不思議と、悔しさとか、後悔とか、不安とか、そんな気持ちが沸いてなかったことを覚えている。

 要するに、これから将来に渡って、全力で駆け続けることができなくなった。ただ、それだけのことだ。

 都合が良かった。理由ができたのだ。これ以上、忍耐力と根性を身に付ける必要がない。自分の道を広げる必要がないと。

 ナツはほっとしていた。

 

 ▶×二倍

 

 葬式とか病院とかを理由にして、長く休んでいた中学校へ、久々に登校する。

 教室の扉を開けると、おしゃべりをしていた生徒が、一斉にナツの方を見た。

 みんな、同じ顔をしていた。ナツの悲しみを否定するものは、誰もいなかった。ナツの気持ちに同調し、連鎖し、教室は悲しみの落とし蓋をふんわりと被せたように、静まり返っていた。空気だけが煮詰まっていく。

 まるで、悲劇のヒーローだ。

 ナツは席に座る。ナツ、大丈夫かな。お母さん、突然、死んじゃったんだって。なんか、足も痛めて、陸上も続けられなくなったらしいよ。高校では、どうするんだろう。なぁ、誰か励ましてやれよ。可哀そう。可哀そう。可哀そう。

 そんな声はナツの耳に届いてこなかったが、ナツの頭の中に流れるように再生されていた。ユーチューブのライブ映像のようだった。そこには自分の思考は存在しなかった。思考が止まっていた。でも、世界は動いていた。休むことなく。途切れることなく。

「夢に向かって走っている仙田君が、好きだったのにな……」

 卒業式の日、アヤノが暗い顔で呟いた。

「走れなくなったのは、仕方がないことだけど……。お母さんを亡くして、気持ちは痛いほどにわかるよ。早く、立ち直ってね……。高校に行っても、元気でね」

 不幸が重なると、人はどうでもよくなって、吹っ切れる。

 交わった線が、消えていくのだ。いや、消えていくのではない。消しゴムで消していくのだ。自分で、ごしごしと。

 培ってきた想いが途切れていく。途切れたら、何も残らない。

 駆け抜ける意味がない。意味をなくしたのだ。

 走った先にあったのは、母の死と、走れなくなるという現実だけだった。

 ナツはこれから訪れる未来の世界を、自分で押しつぶしたのだ。悲劇なんて、これ以上、欲しくなかった。自分が主人公になることなんて、まっぴらごめんだ。

 今思えば、欠点だけが露呈した人間へ切り変わった瞬間だった。よく今まで生きてこられたものだ。

 

 最初のチャプターへ。▶

 

「走ること、最近、意味ない気がしてきた。自分のやってることが、よくわからなくなってきた」

 記憶が更に遡った。

「意味ないことは、ないと思うよ」

 優しい声がそよ風のように耳を撫でる。ナツは顔を上げた。そこには、母の背中があった。生きている。

 家の前の小さな庭に、母がじょうろで水をあげている。庭には新緑の芽が産声を上げていた。日差しは、温かかった。

 季節は、おそらく春。いつの春かはわからない。長距離走のタイムがうまく伸びなくて、悩んでいた時期があったことを思い出した。きっと、その時だ。

「母さんだって、世の中にわからないことが、たくさんあるよ」

「そうなの?」

「うん。なんのためにここまで働いているのか。なんのために、花に水をあげているのか」

「花は、見てると、心が落ち着くからじゃないの?」

「うーん。なんだろう。最近、なんだか、違うような気がしてきたんだよね」

 じょうろから流れる水が止まる。母は腕を傾けるが、中はもう空っぽのようだ。母が振り返る。その顔は春の日差しに触れ、ナツを包み込むような温かい笑顔を宿していた。

「ナツ、宿根草(しゅっこんそう)って知ってる?」

「……知らない」

「花はいつか枯れる。でも、冬になって、雪が降って、とけて、春になったら、また新しい芽が生えてくる。宿根草ってね、いつまでも根が土の中に残っているの。冬を越えたら、また同じ場所で、同じ花を咲かせる。不思議だよね。地上の花は全部枯れて、跡形も残らないのに。同じように季節は巡って、春も必ずやってくるんだよ」

「ごめん。何が言いたいのか、全然、わからない」

「……ナツにも、わかるときが、いつかきっと来るよ」

 母はまつ毛を伏せ、微笑む。

「人も同じ。人の根っこは、ずっと変わらないんだよ。意味がないと思っているのは、変わりたいと思ってる証拠。でも、きっと、変わらなくていいこともある。変わりたいと思って、結局、変わらなくてもいいやと思うこと。それは自分が何かを乗り越えたことと、同じじゃないのかな。そうやって、自分の想いがひと回りして巡ることも、時にはあるんじゃないかな」

 その時のナツは、母の紡ぐ言葉の意図が、全然理解できなかった。

「花にはね、人の想いが宿るの。だから、花言葉がある。想いは巡る。いつか、つながるときがくる。ふとした瞬間にね、ひょっこり記憶の芽を出すの。花の美しさを目にしたとき、そのとき考えていた大切な想いとか、ね。わたしは、いまだに、想いをつなげられていない気がするけど……」

 母が柔らかな微笑みと言葉を残したまま、光の中に消えていく。季節が流れる。目の前の光景が、暗転し、切り替わった。

 母の声はいつも、心のひだを撫でるように、心地よかったことを覚えている。

 優しさとか、切なさとか。そのすべてが温もりを持って、ナツの葛藤を包み込み、いくつもの感情が頭の中に押し込まれ、支えられているようだった。

 

 ■

 

 曲島の島猫亭の前だった。ナツは玄関に腰かけていた。

 ナツはどうやら、うたた寝をしていたらしい。

「……ハル?」

 玄関の脇にあるコルジリネの下で、栗色の毛がもぞもぞと動いていた。三毛猫だった。ナツがこの曲島へ来たときに、フェリー乗り場の前で見かけた、あの猫だった。

「お前か。随分、久しぶりだな」

 ナツが手を伸ばすと、みゃあと可愛らしい声を上げながら、ナツの膝にその小さな顔をすりつけた。尖った髭が肌を撫で、乾いた鼻が温かかった。

「お前は、ハルみたいな猫だな。目元も、鳴き声も、似てる気がする。毛の色も一緒だ」

 喉を撫でると、切れ長の目を垂らして、気持ちよさそうにじっとしていた。

「名前はあるのか?」

 みゃあ、と猫が自己紹介をするように一声鳴いた。

「……おれ、どうしたらいいんだろうな。自分のことも。ハルのことも。よくわかんなくなってきた」

 島猫亭のみんなは、市場へ買い出しに行っていた。ナツは一人で留守番をしていた。このあと、ハルと一緒に、海に浮かぶトマトを見る約束をしていた。

 

 ――変わらないから、理解されるものもあるのかなって。わたし、思うんだよね。過去に作ったものが、未来の誰かの目に届いて、手に渡って、いろいろな記憶がよみがえって、ようやく理解される。その瞬間が、わたしは好きだなって思う。

 

 赤いトマトの前で言っていたハルの言葉が、猫の鳴き声と共に蘇った。

 

 ――思い出って、美化しちゃうものだから。

 

 ナツは立ち上がった。猫が不服そうに足元で鳴き声を上げている。頭の中で、何かがはまった気がした。小学校の頃に交わしたハルとの約束が、今、ナツの中にある記憶と記憶を、しっかりと結び付けたような気がした。

 ポケットでスマホが震えた。浩介だった。めずらしいな、と思いながらスマホを耳に当てる。

「どうした? お前が電話してくるなんて、めずらし――」

「ナツか? アキのユーチューブが、大変なことになってる!」

 スマホを握る指先に、ぽたりと何かが落ちてきた。なんだと思って見ると、頬にも何かが当たった。尖った針を地面に突き刺したような無数の雨脚が、目の前へ迫って来ていた。

 悲劇の神様は、いつだって、虐(いじ)める誰かを探している。そのターゲットに選ばれるのは、偶然ではない。長い人生の中には、必然なことなのだ。

 

 

 

**************

「あー、今ドラマいいとこだったけど、見逃しちゃった。ちょっと、テープを巻き戻してくれない?」

 

 この言葉がわかる若者はいるのでしょうか。

 

 友達と格闘ゲームで対戦していて、つい盛り上がりすぎてコントローラーを引っ張ってしまって、画面が暗転。もしくは、セーブしないままRPGやってて、お母さんの掃除機がゲーム機にぶつかって、画面が暗転。

 

 この現象と悔しさがわかる若者はいるのでしょうか。

 そのあと、ゲーム機のスイッチを入れると、呪いのBGMがかかりますよ。

 

「お気の毒ですが、冒険の書は消えてしまいました」

 

 ↓ 次のお話へ。

www.hinata-ma.com

 

 

 ↓ 前のお話へ。

www.hinata-ma.com