言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【3.芸術は変わらない-The spring is far-⑨】

 

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3.芸術は変わらない-The spring is far-⑨

 

「どうぞ」

 ナツはコンビニでミネラルウォーターを買うと、ベンチに座る玲子に手渡した。

「ありがと」

 玲子は喉を揺らして、水をゆっくりと飲んだ。キャップを閉め、ふぅと小さく息を吐く。

「あれだけは、昔からダメなのよ。あのちろりと出る短い舌と、ぬめりとした感触の鱗(うろこ)がダメ」

「おもしろ……いや、驚きましたよ」

 ナツは真顔を装ったが、笑いを堪えきれず、唇が曲がっていた。そのまま玲子の隣に座る。

「……馬鹿にしてるでしょう?」

「し、してないですよ」

「別に、いいわよ」

 玲子がふんと鼻から息を吐き出しながら、髪をかき上げた。

「あなた、曲島(くましま)の歴史に詳しい?」

「いえ、全く」

「……少しは勉強しなさいよ」

 勉強のできない生徒にうんざりするようなため息をつきながら、玲子が曲島の歴史を簡単に話し始めた。

「この島はね、第二次世界大戦後、多くの山を切り崩して、開墾をしたのよ」

 曲島はレモンやミカンなど、柑橘系果実の栽培を行い、他の島や四国、中国地方の県と交流して、発展したらしい。山を切り崩してできた畑は、段々畑と呼ばれるが、それは日照と水はけに優れ、柑橘系果実の栽培に、とても適していたとのことだ。

「でもね、その畑を作って、継続していくには、ものすごい労力とお金がかかるのよ」

 見て、と玲子が山の方に目を向けた。ナツが見上げると、うっそうと木々が生い茂って緑が深い山と、そうでない山が交互に見えた。茶色い地肌までは見えないものの、背の低い草原が広がっている山はやや多かった。

「最近では、耕作を放棄した土地が、増えてるらしいわ」

 離島というのは当然ながら、平地が少ない。このために山を切り崩す必要があったのだが、土壌も栄養分が少なく、非常に痩せている状態だった。島の港から農作物の肥料となる海藻や堆肥などを人力で運び上げて、畑の土を作ることから始めなければならなかった。その土地が完成するまでに、山を切り崩してから、丸十年はかかるとのことだ。

「……重いですね」

「そう。歴史は重いのよ」玲子が頷く。「今日見たセンシティブ・ミュージアムも、この前行ったアーティストハウス・ミュージアムも、畑を放棄した農地に建設されたものなのよ。建物は綺麗だったからわかると思うけど、ここ二十年以内のものね」

 なるほど、とナツは思った。だから、あんなに島の景観と調和していたのかと納得した。玲子は話を続ける。

「この島は、農業から観光業に力を入れることへ切り替えた。これは結構、革命的なことだったと思うのよ。先人が血と汗と涙を流して、やっとのこと作り上げた畑を手放して、アート、芸術というものを重視する。人と人との交流に重きを置くことにシフトする。そして、その革命を起こしたのが……」

「カフェ島猫亭(しまねこてい)、ってことですか」

 ナツの頭の中で、この曲島の過去と島猫亭が一本の線につながった。玲子が大きく頷く。

「そのとおり。その中心人物こそが、バスの中で言った一ノ瀬晴見(いちのせはるみ)。一ノ瀬真司(いちのせしんじ)の実母であり、心晴(こはる)の祖母。あの島猫亭を、この曲島の住民すべてに認めさせた偉大な人物よ。この人を特集することこそが、私がこの曲島に来た理由。島猫亭の取材をしに来た理由よ」

 島の歴史を知ると、ものすごい場所でバイトをしていたんだな、とナツは急に自分が恥ずかしくなった。これまでに真司やハルへ提案した意見は、いかに軽くて、ちっぽけだったのか。何年も、何十年も祖母の想いをしっかりと守り続けてきたんだ。その守り続けてきたものが変わることを、ハルが頑なに拒否するのも、無理はない。

「次は、曲島カフェに行くわ」

 コンビニの前のベンチから立ち上がり、玲子が言った。

「曲島カフェ、ですか」

「そう。そこの店主、熊島敬一郎(くましまけいいちろう)。彼の話を聞きたいの。あなた、顔見知りでしょう? 和三盆(わさんぼん)、そこでもらったと聞いたわよ」

「もしかして、そのためにおれを呼んだんですか?」

「円滑なコミュニケーションのためよ。知った人がいたら、警戒心を解く必要もなくなる。記者と言うだけで嫌悪感を示す人も、世の中には多いのよ」

 曲島カフェはコンビニから少し距離があったが、島を歩き慣れている玲子の足取りは軽やかだった。

「もう知っているかもしれないけど」玲子が歩きながら、話をする。「島猫亭のコンセプトは、創業以来、変わっていないのよ」

「ハルのお祖母ちゃんが守り続けていた、人とのつながりですか」

 真司が言っていた言葉を思い出しながら、ナツは答えた。

「そうよ」

「取材して、どうするつもりなんですか」

「もちろん、雑誌に載せるためよ」

「でも、玲子さん、音楽雑誌でしたよね。おれ、それに違和感があったんですけど」

「あなた、意外に記憶力がいいのね」

「まだ若いですから」

「失礼な。私だってまだ二十六よ」玲子が腰に手をあてて、眉を尖らせた。「前も言ったでしょう。カフェの雰囲気が音楽に合うかどうか。そういう視点も重要なのよ」

 前に聞いたセリフを玲子は繰り返した。ナツはやっぱり少し違和感を覚えたが、黙って玲子の横を歩く。

「玲子さん、曲島に来て、こうやって毎日こそこそと、この島のアラ探し、してたんですか? 過去を詮索するなって、言ってませんでした?」

「アラ探しとは随分な物言いね。会社の仕事だから、仕方がないのよ」

「他人事ですね」

「他人事だからよ。だから行動できるの」

 玲子は少しムキになったように、足を速めた。

「言ったでしょう? 夢は一人では食べていけない。記者なんて、まさにそう。他人の力を借りなければ、とことん淘汰される」

 一人でも生きていけないのに、誰かと生きていっても淘汰される世の中なのか。ナツは思った。

 夢を諦めた玲子の背中は、力強いように見えたが、何か見えないものに押しつぶされそうな気もしてならなかった。

「おれからしたら、記者とか、雑誌とか。自分の意見を自由に発言できること自体、既にすごいですよ。それを仕事にしてることが」

 ナツは玲子に聞こえないように、小さな声で呟いた。

 

 

「おぉ。夏雄(なつお)君。島猫亭のバイトは順調かい?」

 曲島カフェのお爺さんは相変わらず、年齢不詳で、エネルギーに満ちていた。カウンターに座っていたが、ナツの姿を見ると、柔らかな笑顔で出迎えてくれた。警戒心は全くなかった。

「和三盆は無事に届けられたらしいね。真司さんから電話で聞いたよ」

 お爺さんはナツの前にやってきて、ごつごつと骨ばった手の平を差し出し、握手を求めてきた。

「すみません。遅れましたが、おれからもお礼を言わせてください。その節は、どうもありがとうございました」

 ナツはお爺さんの手の平をしっかりと握り締める。前に会った時と同じく、力強くて、温かかった。

「ところで、隣にいる、べっぴんさんは……?」

 お爺さんはナツの隣に立つ玲子を見て、眉を上げた。

「初めまして。旺明書房(おうめいしょぼう)の冬田玲子と申します。東京の方で記者をやっている者です」

 すらりとした長身を腰の上で曲げながら、玲子は丁寧に名刺を差し出した。

「今後、弊社の雑誌で、島猫亭の特集をさせていただきたいと、考えております」

「……なるほど。ついに島猫亭も、時代の流れに身を任せるだけではなく、その上に乗っかるときが来たのか……」妙に納得するように、お爺さんは頷いている。「と、いうことは、島猫亭の皆さんからは全員、オーケーをもらっているわけだ」

「えぇ。苦労しましたが、なんとか」

 玲子が苦笑する。

「どうぞ、おかけになってください。コーヒーを用意します」

 薄暗いカフェの中に、コーヒーの香りが充満した。入口の暖簾(のれん)が、時折風に揺れ、風鈴の音が鳴り響く。このカフェの席に座っていると、時間がゆったりと流れ、ナツは世界から切り離されたような感覚になった。

 四人掛けのテーブルに、三杯のコーヒーが運ばれてきた。島猫亭と同じ、ネルドリップで落とされたコーヒーだった。カップに入ったコーヒーに、ナツの顔が揺らめいていた。

「私が取材したいのは」

 コーヒーを一口含むと、玲子が切り出した。鞄の中から、一冊の古びた本を取り出した。文庫本くらいの大きさだったが、表紙はボロボロで、間に挟まれた紙も黒ずんでいた。玲子が本を慣れた手つきでめくり、あるページを開いた。

「この童謡。この作詞を行ったのは、熊島敬一郎さん。あなたと伺いました」

 玲子が開いたページは、擦り切れていて、ボロボロだった。書かれている文字がなんとか読めるくらいだ。ナツが覗き込むと、聞いたことのある歌詞が並べられていた。島猫亭で初めてバイトを終えた日、玲子が口ずさんあの童謡だ。

「……懐かしいな。この本、まだ現存していたのか」

「私の祖母の遺品から出てきたものです。私が小さい頃、亡くなりましたが、ずっと大切に保存していました」

「この童謡は、夢を捨てきれない女性をモチーフにして作ったものなんだ。曲島女文楽(くましまおんなぶんらく)を?」

 知っています、と言うように瞳を揺らしながら、玲子は頷く。

「今から五十年ほど前。日本がまだ、高度経済成長期だった頃だ。あの頃は、この島から東京へ夢を持って出ていく若者が、非常に多くてね」

 敬一郎がコーヒーカップを口に運びながら、ゆっくりと語り出す。

「でも、夢を叶えられず、泣く泣く島へ帰ってきた若者。夢を叶えながらも、厳しい現実に翻弄されながら東京に永住する若者。まさに二分化した時代だった」

 ナツはその話を聞いて、驚いた。昔はもっと華々しい時代だと勝手に思っていた。五十年ほど前と言えば、大人がよく話をしているバブルの時代より、もっと前だ。そんな時代から、実力が足りない人間は淘汰されていたのか。

「そんな中さ。夢を捨て、この島へ戻ってきたある女性を励ますために、この歌を作詞したんだ。夏雄君には少しだけ話をしたよね。その頃には曲島の女文楽が既に復活していたから、その想いも込めつつ、文字を連ねたんだ」

「もしかして、その女性って……」

 ナツはハッとした。和三盆を貰ったときに話していた敬一郎の言葉を思い出した。

 敬一郎は顔を赤らめながら、頭の白髪をぼりぼりと掻いている。

「……恥ずかしながら、私の妻だよ」

 ナツも貰ったあの和三盆に、再び想いが重なった。あの時は急いでいたので女文楽の詳しい話を聞けなかったけど、ナツの胸の中にじわじわと、半紙に墨をぽたりと落としたように、温かい気持ちが広がっていく。

「なかなか、ロマンティックな話ね」

 玲子が頷いている。

「でも、この歌、捉え方によっては、夢を実現させた人にも、曲島の想いをつなぎ続けて、前へ進めとも読めますよね。おれ、なんとなく、そう感じました」

 ナツは本に書かれた歌詞を頭の中で反芻(はんすう)しながら、言葉を発した。

「君は、相変わらず、鋭いな」

 敬一郎が目を丸くしている。玲子も「へぇ」と呟きながら、顎に手を添えている。

「そう。この歌は、違った立ち位置から見ると、視点が全く異なるように出来てるんだ。どちらの視点に立っても夢を後押しするように、言葉を選んだつもりだよ」

「なるほどね」玲子は瞼を伏せ、何かを思い出すように首を振り、再び瞼を開いた。

「冬田玲子さん。あなたは東京出身かな?」

「ええ。でも、祖母は四国の出身です」

「では、その方は、曲島に想いを寄せながら、東京で夢を叶え続けたんだね」

「そうですね。そう、信じています」

 玲子は強く言葉を発しながら、笑顔をこぼした。その目尻には、小さな雫が輝いていた。

 ナツは擦り切れたページの隅に、小さな文字が書いてあることに気が付いた。童謡の作成者だった。熊島敬一郎の名前が作詞者にあった。そして、すぐ下には作曲者の名前が添えられていた。

 一ノ瀬晴見。擦れた文字で、そこには書かれていた。

 

 

【曲島童謡】

 

 夢花よ咲け

 

 紅松の枝 そよ風よ吹け 島の乙女に木漏れ日を

 瀬戸の岬に 夕陽を想へば 夢実る君が居る

 島に猫よ こぼれ咲き乱れる 夢に花

 嗚呼 嗚呼 曲島よ 心置けば 君にまた帰らん

 

 

 

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