言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【3.芸術は変わらない-The spring is far-⑧】

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3.芸術は変わらない-The spring is far-⑧

 

「まず、あなたに見せたいものがあるの」

 島猫亭の最寄りのバス停から、ナツは玲子と一緒にバスに乗り込んだ。

「センシティブ・ミュージアム?」

 玲子が頷いた。「あなた、まだ行ってないでしょう?」

 センシティブ・ミュージアムは、曲島にある美術館だ。この前、ボランティアで行ったアーティストハウス・ミュージアムと肩を並べる、この島の大きな美術館だ。島の南端にある岬の東側に位置している。

 玲子は一番後ろの席に腰かける。そういえば、今日は珍しく、膝下まで伸びたデニムスカートを穿いている。濃い色だった。上も白いブラウスで、いつもと違って清楚な雰囲気に見えた。

 ナツは席を一つ飛ばして、玲子と少し距離を取って座る。バスの扉が閉まり、ゆっくりと動き出す。

「心晴(こはる)と、うまくいってなさそうね」

「……余計なお世話です」ナツはぶっきらぼうに答えた。

「私もそうだったのよ」

「え?」

「島猫亭の取材。本当は、もっと前から打診していたの。でも、なかなか店の許可が下りなくてね。一ノ瀬真司(いちのせしんじ)に理由を尋ねてみると、実は、あの子――心晴が最後まで、頑(かたく)なに拒否していたらしいのよ」

「そうなんですか?」

 その話は初耳で、意外だった。玲子が初めて島猫亭へやって来た時、ハルの警戒した瞳はそういう経緯(いきさつ)があったからだったのか。

「でも、突然、オーケーが出たの。どうしてだと思う?」

「……おれに聞かれましても……。ハルとは小学校で同級生でしたけど、連絡を取り始めたのも、再会したのも、ここ最近のことですし。島猫亭にもっと、人を呼び込むためじゃないんですか? もしくは、真司さんがハルを説得したとか」

「そんな単純な理由だったら、最初からオーケーが出てるわよ」

「じゃあ、ハルに直接、聞けばいいじゃないですか」

「それが出来れば、苦労しないわ」玲子がまつ毛を伏せ、ため息をつく。「あの子、肝心なところで、壁を作ってる。あなたもうすうす、感づいているでしょう」

 ナツは黙った。まさに自分が今、悩んでいるところと一致していた。

「人の本質を見抜くというか。あの子、絶妙なところで、他人と距離を取ることに、長けている感じがするわ。手強い相手よ」

 玲子の洞察力と分析力は、相変わらず流石(さすが)だと思った。人生の経験が違うと、こうも思考能力が違うのか。玲子の年齢をナツはまだ知らなかったが、社会人なのだから、二十歳は間違いなく超えているのだろう。かと言って、一回りも自分と歳が違うとも思えなかった。

 ユーチューブで見たあの清楚な姿を頭に思い浮かべながら、ナツは玲子のこれまでの人生を想像しようとした。が、社会に出るということが、自分にとって、そもそも経験したことのない未来の話なので、ナツの頭には何も浮かんでこなかった。

 思考をクモの糸のように張り巡らせていると、玲子がナツの瞳を覗き込んできた。白い歯を見せてニヤリと笑う。

「私はあなたが、あの子の心境の変化に、関係してると思ってるのよ。だから、あなたに声をかけたの」

「……おれが? どうしてですか?」

 ナツはなんだか耳が痛かった。自分が関係していると言うのであれば、この島に来ることで、ハルとの距離はもっと縮まると思っていた。でも、同じ店で仕事をして、一緒の時間を共有しても、それは開いていくばかりだった。

「一ノ瀬晴見(いちのせはるみ)という名前を知ってる?」

 初めて耳にする名前に、ナツは首を振った。

「あなた、本当に何も知らないのね。まぁ、いいわ。その話はあとでするわ。まずは美術館」玲子が腕を伸ばし、ナツの肩をぽんと叩く。「いい仕事しなさいよ」

「おれ、アートに全然、興味がないんですけど、大丈夫ですか?」

「興味がなくても、興味をもつ。それが仕事をする上の基本よ。少年」

 玲子が自嘲気味に声を上げた時、バスは目的の美術館へ到着した。

 

 

 センシティブ・ミュージアムは、ナツが生きてきた中で、これまでに培ってきた価値観を覆すような場所だった。

「人間の時間と空間と思考を考える場所」として、瀬戸内海の美しい景色を犯さないように、建物の大半が地下に建設されていた。

 刻々と位置が変わる太陽の自然光を建物の中へ取り入れることで、時間によって、作品の見え方が異なるらしい。

 絵画や彫刻が単純に展示されているのではない。空間そのものが、一つのアートとして成立していた。アーティストハウス・ミュージアムとは、コンセプトが全く異なっていた。あの場所が島との共生をコンセプトとするならば、この場所は「生きるとは何か」を直接、人間の五感に問いかけるような場所だった。

 中世ヨーロッパの宮殿を思わせるような、大理石造りの階段だけが設置されている空間。その中心に誰かが置き忘れたように、巨大な白色の球体が転がっていた。

 山を正方形にくり抜いて、隠れ家のような空間を作り、ゴツゴツとした岩肌の上にただ巨石をならべただけの中庭。天井は何もなく、太陽の光が真っ直ぐ降り注いでいた。

 六面が異なる色に発光しているだけの、小さな部屋。時間の経過によって、天井と壁と床の色が移り変わり、目の奥がぼんやりとしてくる場所だった。

 高校の学校祭のような、展示品や絵画、段ボールで作られた置物などが迷路のように積み重なった空間。アメリカの自由の女神やフランスの凱旋門など、外国の名所を模擬したミニチュアも展示してあった。

 ナツが特に感銘を受けたのは、目の前にかざした手の平すら見えない闇の中で、部屋の奥に浮かぶ光を、じっと見つめる空間だった。

 暗闇に、一つの青白い光の点があった。それをただひたすら凝視していると、一つ、また一つと点が増え、やがて一つの直線となる。その直線を中心として、他の点が一つひとつ光を放ち始め、接点を持ち、結ばれていく。

 次の瞬間、目の前の光景が切り替わった。部屋の照明が輝き、暗闇の世界から、突然、光のある世界へ五感が引っ張り出された。光が降り注いだだけなのに、耳の奥に光の音が弾けて、肌に光の線がちくりと差すような、そんな錯覚に陥った。

 目の前に映っていた直線たちは、消えなかった。闇の中で見た光は、部屋の光に負けて、輝きを失う。でも、それは、確かにナツの瞳の中にいつまでも焼き付いていた。目の錯覚を利用した、特別な芸術だった。

 今日は回る時間がたっぷりとあったので、ゆっくりと時間をかけて、ナツと玲子は美術館を見て回った。

 絵画も複数展示されていた。有名なフランスの画家が描いた大きな絵が幾つも飾られていた。ナツもなんとなく、名前だけは聞いたことがあった。

 平日だったが、夏休み期間中で他にも客が大勢いたので、作品を見るのに列に並ぶ必要もあった。

「芸術やアートの本質って、何だと思う?」

 混雑する前に美術館のレストランで少し早い昼食を取っていると、玲子が、突然尋ねてきた。

「人生経験が少ない高校生に、そんな人生を語るようなことを聞かないでくださいよ」

 ズズズ、と少し甘酸っぱいアイスレモンティーをストローで飲みながら、ナツは顔をしかめた。

「世間知らずな少年の、あるがままの感性でいいわ。言葉を並べてみなさい」

 玲子の瞳がじっとナツの方を見つめてくる。なんだか、高校で先生と進路相談をしているみたいだ。

「……。その作者の人生を表現している気がします。人生って言っても、そのときの年齢で感じたこと。思い出したこと。想像できることです。だから、その時間、その時代で、何かを残すことに意味があるんだと思います」

 ハルと見た海の上の真っ赤なトマトを思い出しながら、ナツは言葉を並べた。

 玲子はふぅんと頷いている。その顔は微笑みを浮かべていた。角砂糖を指でつまんで白いコーヒーカップに入れ、カチャカチャとティースプーンを回している。正解なのか、不正解なのか、全然わからなかった。

「私は」玲子がそのコーヒーを一口飲んだ後、言葉を並べる。「人を感動させることができるか。人に自分の価値観を伝えることができるか。いつの時代も、この考えは変わらないと思っているわ」

「おれの言ったことと、同じなのか、違うのか、よくわからないですね」

「それでいいんじゃないの? 正解が欲しくて、聞いたんじゃないわ。価値を付けるところは、人それぞれ違うものよ。同じだったら、この世に生まれるアートや芸術は、すべて同じになるんだから」

 そりゃあ、そうだよな。と思いながら、ナツは魚介トマトパスタをフォークに絡めて、口に運ぶ。魚介の旨味とトマトソースの酸味が舌の上に沈み込み、絡み合った。極端に言えば、人の味覚が全員一緒だったら、喉を潤すものも、食べるものも、一つだけでいいのだ。だからこそ、違うものに価値がつく。人にも個性がつく。

「元をたどれば、仕事も一緒だと考えているわ」

 玲子の昼食は、オムライスだった。ふんわりとした卵をスプーンですくい、真っ赤に染まったケチャップライスと一緒に口へ運んでいる。

「仕事も芸術であり、創作。つまり、最終的には、お客様にどうやって感動してもらうか。だから、その自分が作った芸術を伝えるためには、言葉っていうのも重要なのよ。前にも言った、コミュニケーション能力ね」

「玲子さんも、何か伝えたいことがあるんですか? だから、記者になったんですか?」

「それがわからないから、人生は八十年以上もあるのよ」

 玲子は肩をすくめる。一瞬、昔を思い出すような、遠い目をした。

「人間は誰しも、変えることのできない『芯』を持っている。その芯がぶれると、とてつもなく不安になる。膝を抱えて泣き出したくなるのよ。夜中に一人ぼっちでね。誰かが勝手に、その人の芯を変えてはいけないの。隣に寄り添うのよ。……男女の付き合いも同じよ」

「そういうアドバイスはいいです……」

「そうかしら?」

 玲子は眉を吊り上げ、首を傾げる。長く伸ばした砂浜色の髪がナツを誘うように舞い上がる。

「あなただって、あの子に、寄り添いたいと思ってるんでしょう? 同じ女同士だからわかる。あの子は悩みを抱えている。それを理解することが、あなたが今、すべきことなんじゃないの?」

「そりゃあ、おれだって、ハルに近づきたいですよ。でも、どうしていいかわからないんです」

「ふぅん」

 玲子は唇の端を上げ、悪戯っぽく、からかうように笑っている。指先でコーヒーカップの取っ手をつまみ、口に運ぶ。

「高校生って、不器用ね。昔を思い出すわ」

「やっぱり、玲子さん、おれのこと、馬鹿にしてません?」

 氷だけになったアイスティーをストローで転がす。口にくわえると、レモンの香りだけが舌に運ばれてきた。

「してないわよ。私は世間知らずな子供を見るのが、楽しいのよ」

「……そういうのを、馬鹿にしてるって言うんじゃないんですか?」

 正午が近くなり、レストランが騒がしくなってきた。ナツと玲子は席を立ち、会計をする。昼食は「報酬は昼食代を含めてあげるわ」と言いながら、玲子がおごってくれた。

 レストランから出て、二人は美術館の雑貨コーナーに足を踏み入れた。

 美術館が出来た経緯や歴史が書かれた本、曲島の地図をプリントしたコップや雑貨、島や猫の形をしたキーホルダー。曲島名物と書かれたクッキーや、和三盆も少し置いてあった。

「おれ、こういうの、あんまり欲しいと思わないんですけど。買う人、いるんですかね? この美術館に来ること自体に価値があると思うんですけど」

 ナツは曲島の形をしたキーホルダーを手に取りながら、眉間にシワを寄せた。

「あなたもたまには、鋭いこと言うじゃない」

 玲子は『曲島の歴史』という本を手に取り、ぱらぱらとページをめくっていた。

「今の時代は、モノからコトなのよ。モノをただ買うんじゃない。人々は体験したい空間を買うのよ。今まさにこの美術館で体験したような、その時に見たもの、聞こえたもの、食べたもの、触れたもの、頭で感じたもの。その全てを体験して、持ち帰るのよ」

「体験、ですか」

「そう。あなたもユーチューブ見るでしょう? あれこそ指先一つで楽に、視覚と聴覚だけではあるけれど、誰かが作った世界へ簡単にアクセスできる」

 玲子は持っていた本を閉じ、元の位置に置いた。

「みんな、モノの価値の考え方が変わっているの。モノの価値は飽和した。これからはいろんな価値が混ざり合わないと、生き残れない時代なのよ」

「それには、新しいものだけじゃなくて、古いものも必要ですか?」

「当然じゃない。でないと、島猫亭のコンセプトが揺らぐでしょう?」

 玲子は雑貨コーナーを出て、美術館の出口へ向かっていく。ナツも後を追った。追いかけながら、ナツは考える。

 変わらないものと、変わっていくものとの、境界線は一体、なんだろう。それを表現しているのが、芸術やアートという存在なのか。

 忘れたくないものをいつまでも残していく。それに、移りゆく時代に応じて、その時代に生きる人間たちの思考が加わる。二つが混ざり合って、新たなものを作り出す。

 未来で誰かの残したものが輝くためには、当然、過去が輝いていなければ、見つけることはできない。だから、過去を忘れてはならないのだ。たとえ、誰にも触れられたくない過去があったとしても。ナツはそう思った。

 自分は、自分の未来を描くことが怖くなった。

 ハルはどうなんだろう。やりたいことはあるのだろうか。童謡を歌うことは好きだと言っていた。玲子と比べてしまうと劣ってしまうが、あの心地よい声は誰かに必要とされる気もする。でも、それを武器にすることは考えていないのだろう。歌うことができるのに、それを磨こうとしない。

 アキは動画作成と巧みな話術という武器を持っている。そして今も、それを磨き続けている。

 みんな、自分とは対極なのだ。ナツはもう走ることはできない。自分が磨き上げた武器を、もう一度手に持つことはできない。

 では、玲子は?

 白いブラウスと、濃い色のデニムスカートという後ろ姿が、ユーチューブで見たあの、月の女神のようなイメージと重なる。

 あの素晴らしい歌声。どうして、捨ててしまったんだろう。

 人は一度捨ててしまった過去を、今から再び輝かせることが、できるのだろうか。誰かに見つけてもらうことが、できるのだろうか。

 美術館を出ると、玲子が首をすくめて、唐突に立ち止まった。その背中と腕と脚が完全に動きを止めている。

「どうしたんですか?」

 玲子は青ざめた顔で、自分の足元に視線を落としている。ナツがその視線を追うと、玲子の足元に、何かがいた。

 小さなトカゲだ。でも、不思議な色をしていた。しっぽだけが透き通るようなコバルトブルーに輝いている。初めて見るトカゲに、ナツは思わず目を輝かせた。

「すっげ。四国の島って、こんなトカゲがいるんだ」

 ナツが身体を曲げ、トカゲに触れようとすると、それは四本の脚を交互に動かしながら移動し、素早く美術館の壁へ吸い込まれるように張り付いた。

「きゃあ」

 ……きゃあ?

 気の弱い女の子が上げるようなか細い悲鳴に、ナツは口をぽかんと開けて、玲子の顔を見上げた。その唇は震え、瞳はトカゲの方を向いていながらも、大きく揺れている。腰が引けて、完全に逃げる体勢だ。

 玲子はどうやら、爬虫類(はちゅうるい)が苦手らしい。ナツは玲子と出会って初めて、彼女の弱いところを目のあたりにした気がした。

 なんだか、ほっとした。人は誰でも弱みを持っている。人生経験が豊富な玲子だって、完璧な人間ではないのだ。

「そ、そのトカゲ、早くなんとかしてよ」

 ナツが手を伸ばすと、トカゲが壁へ落書きをするようにちょこまかと動き回った。その姿に玲子は、口を固く閉じ、嫌々と首を振りながら、じりじりと後退(あとずさ)っている。

 ハルだったら、どんな反応しただろうな。なんてことをナツは考え、胸の鼓動が早まる。玲子と同じ反応だろうか、それとも、ナツと一緒になって、子供のようにはしゃいだだろうか。

 玲子もすごく美人であることは間違いない。でも、玲子の横にいるべき人間は、自分ではないとナツは思った。

 本当は、ハルとこの島の夏を、一緒に肩を並べて、笑い声を響かせながら、もっと歩きかった。アキの作ったイノベーションの感想を述べるとか、そんなのは、キッカケなのだ。どうでもいいのだ。

 普通の高校生と同じように、木漏れ日の下、コンビニで買ったアイスを舌の上で転がしたり、潮騒と潮風が漂う砂浜に木の枝で文字を書いたり、自転車の後ろにハルを乗せて急な坂道を一気に下ったり、夜になったら満点の星空の下、線香花火を黙って見つめたり。子供じみた些細なことでいいのだ。同じ太陽の光、同じアイスの味、同じ潮の香り、同じ風、同じ感動、同じ記憶をもっと共有したかった。島猫亭でバイトをすることよりも、ボランティアをすることよりも、美術館を回ることよりも、この島で出来る大切なことは、たくさんある。

 将来の悩みや不満、不安を何もかも、吸い込まれるような青空や深くて透き通った海の底、突き抜ける風の真ん中へ、投げ捨てながら。

 

 

 

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この話で出てくる美術館は、直島の地中美術館をモデルとしています。

benesse-artsite.jp

 

ただ、物語に出てくるアート作品は、ほぼ創作です。地中美術館に行っても、闇の中に輝く光の作品は見れません。似たような作品は、直島にあるのですが、確か、小さな美術館? だったと思います。この辺りの記憶は曖昧です。

しっぽがコバルトブルーに輝くトカゲは、本当にいました。こんなのです。

 

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