言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【3.芸術は変わらない-The spring is far-⑦】

 

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3.芸術は変わらない-The spring is far-⑦

 

 世間の男子高校生がなりたい職業は、最近、ユーチューバーの割合が増えているらしい。起業家や会社経営者も上位にランキングしていると、どこかのサイトで見たことがあった。

 誰の命令を受けるわけでもなく、自分自身で考えて、自分自身で稼いで、ご飯を食べ続けられたら、どんなに素晴らしいことか。

 まさに、対価を払ってくれる人との、一対一の勝負だ。こんな世界で誰かの下について働くということが、ばからしい。

「これから社会に出て苦労しないために、忍耐力と根性を身に付けろ」

 まだ艶(つや)がある中学校の制服に初めて袖を通した時、父に言われた。それまであまり、ナツの学校生活に口出しをしなかった父が、突然そんなことを言い放った。ナツはその時、特に疑問も抱かなかった。小学校と中学校は違う。世の中はそんなに甘くなく、社会と言うものは厳しいと思っていたからだ。

 大人になる前の、ちょっとした自分への戒めだ。ナツはなんとなく、そう思っていた。だから、中学校では陸上部に入った。

 走り続けて、走り続けて、ナツは中学校の時間を駆け抜けた。我慢して、駆け続けていれば、報われると信じていた。

 しかし、現実は、違ったのだ。

 中学校の終わりに母が死んで、高校に入ってからは父も変わった。でも、一番変わったしまったのは、もしかするとナツ自身だったのかもしれない。

 陸上部に入ってわかったことと言えば、忍耐力と根性を身に付けても、それに比例して、苦労も増すということだ。世の中は一次関数のグラフのように平面的で、二次元なのだ。耐え忍んだ分、急激に世界のいろいろな直線のグラフが交わり、接点が増え、狭苦しくなる。

 世の中すべてが憎くて、馬鹿らしいと思った。ナツは自分がそれまでに描いた一次関数を投げ捨てた。こんなにも馬鹿らしいと思っているからこそ、おそらく自分は、何も行動したくないと考えているのだ。もう、新しい線は引っ張りたくないのだ。

 頭の中でたくさんの線がぐるぐると回転を始めた頃、ナツはそこで、目が覚めた。ぼんやりとした光がカーテンの隙間から漏れている。この世の中に生きる人間として、夢の世界から、意識がまた現実へ戻ったきたらしい。

 屋根裏部屋の低い天井に頭をぶつけないよう気を付けながら、上半身を起こす。過去を晒される人の気持ち。昨日の夕方、玲子に言われた言葉が山奥でひっそりと湧き出る水のように、頭の底から落ちてくる。

 その気持ちは、痛いほどわかっている。ナツはベッドに伸びた右脚を優しく撫でる。そうしているうちに、思った。

 違う。何も行動したくないのではない。真剣に行動することが、怖いのだ。夢を見据えて、結果を目指して、そこにもう一度、線を引っ張った時、他人の線とぶつかることを避けていたいのだ。

 だからこそ、今の現実とは違う、誰かの線の位置を確認したくて、ハルのところへやってきたつもりだった。でも、ハルの線は、文字通り平行線だった。交わるところがなかった。

 目指すところは、一体、どこなのだろう。ナツは額に手をあて、瞼を閉じた。薄暗い部屋の中では、何も見えなくなった。光は差してこなかった。

 スマホが枕元で音を立てて振動している。こんな朝早く誰だと思ったら、既に八時を過ぎていた。バイトが休みなのをいいことに、寝坊してしまったらしい。電話の相手は、アキだった。

「もしもし?」

『おう。ナツか? 起きてたか』

「ちょうど目が覚めてた。どうした?」

『……前さ。五組の女にコクられたって話、してたじゃん?』

「……ん、と」

 ナツは瞼を閉じ、頭にある記憶の引き出しをまさぐった。幸い、手がとどくところにその記憶があった。確か、自分がスマホを手にして、初めてアキとラインをしたときに、そんなことを言っていた気がする。

「あぁ。してた」

『今日、絶対に返事をしてくれって、昨日の夜に連絡があってよ。それで、今から会ってくるんだけど……』

 アキが口ごもる。次の言葉がなかなか出てこなかった。その様子に、らしくない、とナツは思った。

 既に八月も中旬へ差し掛かろうとしているのに、七月の中旬くらいからずっと迷っていたことになる。そういえば、この前、相談事があるって話をしていた。もしかして、この話のことだろうか。

「この前、言ってた、相談事ってこれか?」

『あ、そうそう。そうなんだよ。五組の冴子(さえこ)っていう、結構、ナイスバディな女子でよ。成績もいいし、他の男子からも人気があるらしくて、性格もいいんだわ。だからさ、ずっとどうしようか迷ってて。夏休みの間、もやもやもやもやしててよー』

 いつも通りのアキの声に、ナツは思考が冴えてきた。と同時に、急に、アキの悩みがちっぽけに思えてきた。女の子が可愛いとか、誰かと付き合いたいとか、高校生なら誰もが抱える、ちっぽけな妄想だ。今のナツにとっては、どうでもよかった。

「お前、なんでもすぐ行動してきたくせに、なに言ってんだよ。それに前、高校では彼女作らないって、宣言してたじゃねーか。迷う必要、ないだろ?」

 ナツは少し強めの口調で受話器に言葉をぶつけた。アキの息遣いが、電波に乗って、遠く離れた北海道から、ナツの耳に届く。

「……だな」ははは、とアキが乾いた声で笑う。「わりぃ。お前もバイトで大変なのにな。余計な時間、取らしちまったわ。自分でなんとかするわ。ハルちゃんによろしくな」

 電話が切れた。ナツはしばらく画面を見つめていたが、そのままスマホと一緒に腕をベッドの上へ落とした。人の気も知らないで、とナツは心の中で毒づいた。

 ハルはもう起きてるよな、と頭の片隅で考えながら扉に目を向けると、タイミングよく、ノックする音が聞こえた。

「……ナツ。起きてる?」

 扉の向こうから、ハルの声がした。

「起きてるよ」とナツが返事をする。さすがに朝寝坊しすぎたか、と急いで着替えをするために立ち上がろうとしたら、

「玲子さんが、ナツに用があるって。今、店に来ているの。すぐに出かける準備をして、下に来てって言ってる」

 ハルの言葉に、ナツは動きが止まった。昨日のやり取りがぼんやりと頭の中に浮かんだが、ナツには玲子の意図が全く予想できなかった。

「私の助手をしなさい」

 着替えをすまして、カウンターでコーヒーを飲みながら待っていた玲子が、ナツにそう告げた。

「助手?」

「そう。そのいつも使っている綺麗なスマホを片手にね。報酬なら払うわよ。出来高で」

 ナツはますます玲子の意図が理解できなくなった。何を求めているのだろうか。カウンターでは、ハルも同じように戸惑いを隠せない顔で、ナツと玲子を交互に見ている。

「心晴(こはる)。この世間知らずな少年、一日借りるわよ」

 ナツの意見など、何も求めていない。有無を言わさず、首根っこを掴まれる猫のように、玲子はナツを引っ張り出した。

 島猫亭を慌ただしく出て、前を歩く玲子をナツは追う。

「あのー。おれは一体、何をすれば……」

「あんた、昨日の私だけじゃなくて、心晴にもデリカシーのないこと、言ったんでしょう?」

「え?」

「まったく、女心のわからないやつね」玲子が肩越しに蔑(さげす)みの目を投げかける。「あんた、彼女、いないでしょう」

「余計なお世話ですよ!」

 ナツは思わずカチンときた。ハルとうまくいっていないことを言い当てられた上に、自分の高校に対する価値観まで否定された気がした。

「冗談よ。今日は本当にあなたへ用があるのよ」玲子が立ち止まり、振り返った。「取材に付き合いなさい」

「取材?」

「そう」玲子の視線がナツの頭を飛び越して、後ろの方へ向けられた。「どうして、私がこの曲島(くましま)に来たのか。知りたいでしょう?」

 路地裏の向こうから、島猫亭に向かって一陣の風が吹き抜けた。玲子の茶髪がふわりと舞い上がり、ナツの首筋をくすぐり、背中を撫でていった。

 すぐ横のドラム缶の中では、黒猫が目を閉じて眠っていた。白猫はいなかった。

 玲子の瞳は透明で深く、戸惑うナツを鮮明に映していた。口元は柔らかで、狙った男を誘うような微笑みを宿していた。

 長い一日が始まる。ナツはなんとなくそんな予感がした。

 

 

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2019年・男子高校生がなりたい職業。

第一位。ITエンジニア・プログラマー

第二位。社長などの会社経営者・起業家。

第三位。ユーチューバー。 

 

みんな、自由に生きたいんですね。私も自由に生きたいです。

 

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