言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【3.芸術は変わらない-The spring is far-⑥】

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3.芸術は変わらない-The spring is far-⑥

 

 ボランティアが終わったあとの帰り道、ハルの父――真司(しんじ)が迎えに来てくれた軽ワゴン車の中で、ハルは声を出すことはなかった。後ろの座席で窓から流れる島の景色を黙って眺めながら、その小さな頭を傾けていた。ナツは助手席に座っていたが、バックミラーに映るハルが、夕焼け空が墨色へ徐々に染まるように、黒い影の色を少しずつ濃くしていた。

 島猫亭(しまねこてい)に着くと、ハルは真っ先に車から降り、夕食を取ることもなく、自分の部屋へ閉じ籠(こも)った。

 店へ既に到着していたハルの母――円華(まどか)が、ナツに向かって「ほんっとうに、ごめんなさい!」と長身を折り曲げて謝っていた。ナツは戸惑いながらも、「カッコ良かったですよ」とぎこちない笑顔で答えた。

 夕食後、真司がハルの部屋へ話をしに行ったようだが、しばらく時間が経ったあと、小さく首を振りながら階段から降りてきた。

 ナツは夕食を取ったあと、熱いほどのシャワーを浴びていると、大きな欠伸(あくび)が出た。急激に眠気がやってきた。身体も心も、とことん擦り減っていた。

 髪を乾かし、部屋に戻ると、冷凍庫へ入れっぱなしにしていたアイスのような、何とも言えない匂いがした。エアコンの冷たい風が、部屋にあるベッドの上で渦を巻きながら、ナツの鼻の奥へ流れ込んできた。

 外との温度差が大きかった。ナツはリモコンを手に取り、冷房設定を弱にする。ピ、という電子音が聞こえ、エアコンの吐き出し口にあるウイングがゆっくりと上がっていった。

 少し、肌寒かった。風呂上がりの火照った身体が冷えすぎないように、ナツは窓を開け放った。その瞬間、曲島の湿った熱気が雪崩のように流れ込んでくる。喉が詰まり、咳払いをした。

 北海道で、真冬に暖房の温度設定を最高にして、籠った部屋の空気を入れ替えるために窓を開け放って、身を切り裂くような冷気を吸い込むのとは全然違った。沈んだ気持ちが全然、切り替わらなかった。

 やはり、自分はこの島に生きる人間ではないのだ。と、ナツはその時、強く思った。ハルと将来を語り合いたいとか、ずっと友達でいようとか、その場しのぎみたいな考えが頭へ浮かんだだけで、この島で培った想いが、簡単に変わるわけがない。

 窓の外は、闇に閉ざされていた。風は相変わらず、無かった。すぐ下で虫の鳴き声がする。

 窓枠に両肘を載せ、海があるであろう方向へ視線を向ける。この島で初めてバイトを終えた日、ハルと二人で見に行ったトマトのことを思い出す。

 ――わたしは、変わらないものを大切にしたいんだ。

 ハルは、そう言っていた。ハルの言う変わらないものとは、何か。ナツは考えた。

 それは間違いなく、祖母の想いだろう。真司が言っていた。この島猫亭のコンセプトである、人とのつながり。

 ナツだって、同じだ。この島猫亭の雰囲気は、心地良い。まだ一週間しかこの場所の空気を吸っていないけど、素晴らしい店だと強く感じている。自分もよそ者だけど、よそ者が簡単に踏みにじってはいけないのだ。

 この島に来て、島の人たち、ハルの両親、そしてハルと話をして、違和感は多い。いまだに、ハルの、高校生としての姿が見えないのだ。まるで高校生の一ノ瀬心晴(いちのせこはる)という存在が、ぽっかりとこの世界から消えてしまったように。

 スマホを取り出し、窓枠に載せる。右手の指先だけで画面を操作し、ラインを開き、これまでのハルのやりとりをスクロールする。

『仙田夏雄です。小学校の頃、同じクラスでした。高校三年生にしてようやくスマホにしました。一之瀬さんは、元気?』

 指が疲れるくらいに画面をスクロールすると、ナツが初めてハルへ送ったメッセージで止まった。このメッセージを送ったあと、ハルからは次の日の早朝に返信が来ていた。土曜日だったので、ナツが気づいたのは太陽が既に高く昇り始めた時間だった。午前九時を回っていた。

『仙田夏雄君。おはようございます。一ノ瀬心晴です。メッセージ、ありがとう。突然、見慣れない名前が画面に現れたから、びっくりしちゃって、返信が遅れました。朝早くに、ごめんなさい。』

『わたしは元気です。もしかして、あの約束、達成したって連絡ですか?』

 ハルからの初めてのメッセージは、二人だけの過去が、ラインを通じてつながった瞬間だった。お互いに過去を大切にしていたから、ナツはメッセージを送ったし、ハルも返信を送ったのだ。それだけは間違いないと、ナツは確信していた。

 画面を再び、下へ、下へスクロールしていく。

『わたしはね、今、四国の曲島という離島に住んでいるよ』

『島の中には猫がいっぱいいてね、わたしの家の近くにもたくさん、住んでいるんだよ』

『アキ君の動画、いい! 高校の受験で、頭柔らかくなれ自分! っていう思い、わたしにもあったよ!』

『わたしのお父さん、コーヒーがとても上手に作れるの。ナツはコーヒー、好き?』

『北海道、懐かしいな。四国でも雪は降るけど、音もなくしんしんと降り積もるあの感覚。また味わいたいな』

 指を滑らせても、画面が動かなくなった。ラインのやりとりが再び、一番下へたどり着いた。ナツはラインを閉じる。

 やっぱりだ。ハルからのラインは、過去の話か、今の話だけだ。

 首筋に汗が流れるのを感じた。ナツは窓を閉め、ひんやりとしたベッドに身体を滑り込ませる。夜の空気で火照った身体が、少しずつ冷えていく。

 ハルは何かを隠している。

 廊下の向こうにハルの部屋があったが、ナツはいまだに足を踏み入れていなかった。壁で隔てられた距離は、あまりにも遠かった。頑なに自分の部屋を見せないのも、何か関係しているのだ。それはあまり想像したくないものだけど、ハルとの距離を近づけるためには、この壁を取り払うしかないのだ。

 でも、とナツは瞼(まぶた)を閉じた。瞼の裏に、初めてこの島で会った時の、ハルのぎこちない笑顔が浮かんだ。

 どうやって、ハルとの壁を壊したらいい?

 

 

 あの出来事以来、島猫亭の中でも、ハルの口数が少なくなった。

 挨拶をすれば、猫のようないつもの笑顔で返してくれるけど、他愛もない雑談が減った。

 午前中はいつも通り、ユースホテルの清掃に向かい、昼前にカフェへ戻り、ランチタイムの手伝いをこなす。

 ハルとの雑談が減った分、カフェの仕事のことを考える時間が増えた。店内を見渡してみると、こうした方がいいんじゃないかと思うことが結構見つかった。

 例えば、カフェのメニュー表。今は手書きで本日のおススメとか、コーヒーの名前が並んでいた。その横にどんな味がするのか、どんな材料を使っているのか、ちょっとした文章を加えたら、初めて訪れた客にもいい印象を与えるのではないかと思った。

 ナツが真司にそう提案すると、「なるほど。新しいリピーターを増やすってことか」と納得した顔で頷いていた。しかし、

「わたしは、このままでいいと思う」

 ハルは頑(かたく)なに拒否した。

「ここは、これでいいの。名前だけでも、どんな見た目で、どんな香りがして、どんな味がするのか。いろんな想像ができて、楽しめるでしょう? 島猫亭では、ずっと昔からこうしてるの」

 その時は、確かにとハルの言い分も正しいと思った。

 次にナツは店の外に置いてある、数多の雑貨をなんとなく眺めていた。古い自転車やランプなどが芸術品のように並んでいる。そこに、今流行りの新しい小物でも置いてみれば、新しいものと古いものがちょうどよく調和するのではないかと思った。

 玄関の扉を拭きに来たハルにそう告げると、

「わたしが時間をかけて作ってきたものを、どうして壊すの?」

 明らかに唇を尖らせ、不満そうな顔をした。

「え、いや、そういうつもりじゃ」

 ハルに、こうした方がいいという意見が、全く通らなかった。

 見かねた真司が「心晴、いい加減にしなさい」と少し厳しめの口調で言った。

「夏雄君は、この島猫亭がもっと良くなるように意見を言っているんだよ。それを決めるのは、私たちだ。でも、深く考えずに頭から否定するのは、やめなさい」

 ハルは唇を曲げて、円華のいる厨房に引っ込んだ。黙々と野菜を切り分けたり、円華が作った料理をお皿に盛り付けている。

 こんな状況が二日続いた。

 夕方、カフェの手伝いが終わったので、ナツは店の前に出た。うまくいかないもやもやを肺の中から吐き出しながら、空を仰ぐ。空は鱗雲で埋め尽くされていた。紫色の絵の具を混ぜた綿あめが、いくつも浮いているようだった。

 明日、ナツは休みをもらっていた。でも、ハルはカフェの手伝いがあるので、一緒にゆっくり話をすることはできなかった。

 時間だけが、ただ悪戯(いたずら)に過ぎていく。

 なんとなく海が見たくなったので、ナツはカフェの前の道を進んで行く。いつも通り、ドラム缶には白猫のシロと黒猫のクロがいたが、なんだか今日は険悪だった。お互い、毛を逆立てて、威嚇し合っている。ナツが近づいて、「おいおい、喧嘩するなよ」と笑うと、二匹の猫がまるで「うるさい、引っ込んでろ!」と言うかのように鋭い声を発したので、慌てて首をすくめて通り過ぎる。

 路地裏を出ると、眼前に海が広がった。ナツは少しだけ、胸の奥が穏やかになったと思ったが、ガードレールの前に先客がいた。少しだけ薄暗くなった坂の上に、赤い光がちらついていた。

「タバコ、吸うんですね」

 坂の下から吹き付ける潮風に、長い茶髪をなびかせながら、玲子が海を眺めていた。綺麗な人差し指と中指には、煙が出ない電子タバコが挟まっていた。

 ナツも玲子の隣に並んで立ち、紫色の絵の具を混ぜ込んだような瀬戸内海を見つめる。潮風が頬を撫で、磯の香りが微かにした。

「よく会うわね、少年」

「おれの感性と似てるのかもしれませんね。感傷に浸りたいときまで、同じとは思いませんでしたけど」

「そういえば、見たわよ」

 ナツは何を? と思いながら、玲子に視線を向けた。

「高校生の割にはいいんじゃない? 小遣い稼ぎ程度の、お遊びをするならね」

 玲子がこぼしたその言葉に、ナツはあぁ、と頷いた。アキの動画のことを言っているのだ。

「……もしかして、それだけ言いに、わざわざ来たんですか」

「そんなわけないじゃない。私も暇じゃないのよ」

 玲子は携帯灰皿にタバコを入れ、小さく息を吐き出した。シトラス系の爽やかな香りが一瞬、玲子の身体を包んだが、すぐさま潮風にさらわれていく。

「まだ苦労を経験してない子供って感じね。彼、まだ大きな挫折をしてないんでしょう?」

「バカにしてます?」

「逆よ。この世界は、たった一人の人間の才能で生きていけるほど、甘くないってことよ」

 玲子がスマホを取り出し、画面をタップし、慣れた手つきで操作をしている。何か文字を打っているのか、その指先は早かった。

「まぁ、イノベーション? あの動画だけは良かったわよ」

 玲子はスマホを操作しながら、ぽつりと呟く。

「心に響いたってことですか」

 ナツは眉を上げた。あの動画はやはり、大人にも響く動画だったのかと一瞬期待したが、「彼の演説なんて、興味ないわ」と玲子が一蹴した。

「私の目を惹(ひ)いたのは、背景。あの構成力は、ただならぬ素質を感じたわ。でも、それだけね」

 動画を見たあとの浩介と同じ言葉だった。ナツは肩を落とした。

「あとは、女心をくすぐる話し方ではあったわね。でも、それがトラブルの火種にもなりそうとも思ったわ」

「おれは、感動しましたよ」

「それはあなたが今、やりたいことが、まだ何も無いからでしょう?」

「……」

 玲子の言葉がナツの身体を切り裂いた。砂浜に埋もれたガラスの破片を踏んづけてしまったような痛みが、足の裏から頭の先まで突き抜けた。

「図星のようね」

 玲子は鼻で笑った。

「夢を叶えるには、実力が必要。その実力を発揮するためには、それ相応の努力も必要。そして、結果を出す。出さなければならない。でも、その結果の評価は、自分が決めることじゃない。対価を払う誰かがいて、初めて出るのよ。高校生のあなたでも、それくらい、わかるでしょう?」

 自分の、いや、自分の周りにいる高校生の短い人生すべてを見透かすような物言いに、ナツは唇を噛み締めた。言葉が重い。自分の言葉とは意味が全然違った。玲子にはやはり、ナツは敵わないと思った。

「現実を知れば、無駄な努力をしなくてすむ。それなら、違うスキルを磨いて、世の中に貢献した方が身のためよ」

 玲子はそう言いながら、ナツに背を向け、坂道を下ろうと歩き始めた。

「プラスボイスの、ボーカルでしたよね?」

 その背中に、ナツは声をかける。玲子の足が止まり、肩越しにナツへ瞳を向けた。一瞬、瞳の色が燻(くゆ)ったように見えたが、すぐ元に戻った。「……昔の話よ」

「おれには、今の言葉、自分自身に言っているように聞こえました。どうして、歌うことを辞めたんですか?」

 玲子の肩が揺れ、大きく息を吐き出す音が聞こえた。突然、うるさいわね、と瞼を伏せながら小さく呟き、感情を露わにした。開かれた瞳は明らかに怒りの色を帯びていた。

「過去を詮索するな。前も言ったわよね?」

 そのまま前を向き、背中から声を出す。

「あなたも早くに母を亡くしているのなら、過去を晒される人の気持ちは、わかるでしょう?」

 玲子はそのまま、長い髪を揺らし、靴の足音をアスファルトに響かせながら、坂道を下っていった。ナツはそのまま黙って、玲子の後ろ姿を見つめていたが、やがてその背中は坂道の向こうに消えていった。

 人はいろんな過去を背負っている。ハルも、ハルの両親も、アキや玲子も。いや、人だけではない。この曲島も、島猫亭だってそうだ。物や建物にも、この島の芸術も同じだ。自分の周りにあるすべての存在は、過去があったからこそ、今、この場所に存在している。でも、その理由は、様々だ。物の歴史は、本を開いたり、人の話を聞いたりして知ることができる。でも、他人は違う。ナツに他人の人生のすべてを知る権利など、無いのだ。知ったところで、それに口出しする権利も、当然、ないのだ。

 胸の中には、綺麗なままの思い出もあるが、人間ならば誰しも触れられたくない過去を、いくつも宿している。

 玲子の言葉は、ナツのその胸を貫き、いつまでも心の中に留まっていた。

 

 

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