3.芸術は変わらない-The spring is far-⑤
「うん。大丈夫。助けてくれて、ありがとう。うん。じゃあ、ここでナツと待ってるね」
ハルが背中を向けて、ハルの母――円華(まどか)と電話している。その声と背中は小さく、沈みかけた夕陽と一緒にとけてなくなってしまいそうに見えた。
「お母さんが無事、さっきの人をフェリー乗り場に送り届けたって」ハルが電話を切り、ナツに振り向いた。
ハルの父――真司が、カフェの仕事を一旦、中断して、車で迎えに来てくれるようだ。円華はナツとハルを曲島キャンプ場まで迎えに来たのだが、ちょうど到着したとき、トラブルになっているのを見つけた。更に、ナツと自分の娘が怒鳴られているのを見て、頭にきたとのことだ。
「お母さん、わたしたちに、すごい謝ってた。怖い思いさせて、ごめんねって」
「一番怖かったのは、ハルのお母さんだったけどな……」
玲子は「あなたの家族って、本当に面白いわね」とあどけない少女のような笑顔を残して去っていった。ホテルが近いので、歩いて帰るとのことだ。ナツはその時、玲子が心の底から笑っているように見えた。あの客に玲子がかなり不満を持っていたこともわかったが、それよりも、あんなふうに笑顔を見せることは、ナツにとって初めて目にした光景だった。
真司が来るまで少し時間がかかるようなので、二人はキャンプ場のひと気がない場所へ歩いた。ハルは足を並べて歩くが、何かを考えこむように黙っている。
八月になると、陽の落ちるのが早くなる気がする、とナツは歩きながら考えていた。それは曲島でも同じに見えた。
さっきまで海の上にぽっかりと浮かんでいたレモン色の太陽が、既に半分ほどが水平線の境目に沈み込んでいた。レモンの輪切りを更に半分にしたような太陽は、空を橙色へ染め上げながら、海の底へ吸い込まれるように消えていくのだ。
急に、夏が終わっていく、という言葉がナツの頭を駆け巡った。バイトに来て既に半分が経過した。曲島にいる時間は残り一週間だった。最初の一週間は文字通り、駆け抜けるように過ぎていった。残りの時間も、同じように過ぎていくのだろうか。それはつまり、ハルと一緒に過ごせる時間が、残り僅かであることと同じだった。
「ごめんね、ナツ」
突然、か細い声でハルが謝る。
「どうしてハルが謝るんだよ」
喧騒から遠ざかった二人は、ところどころセメントがこぼれ落ち、砂利が表面に浮き出た古い防波堤に腕を載せる。太陽の熱を吸ったそれは、腕を焦がすように熱かった。大小の砂利がごつごつして、居心地が悪かった。
夕焼けに染まった空と海と砂浜が一望できた。潮風が並んで立つ二人の間を通り抜けていく。
「おれって、もう少し図太い性格してると思ったんだけど、やっぱり玲子さんみたいには、出来ないや」
ハルを慰めるように、ナツは大きな声で話を始める。
「ハルのお母さんが来なきゃ、おれ、あいつのこと、ぶん殴ってたかもしれない」ナツは自分の拳を見下ろし、軽く握りしめる。爪が食い込んだ掌は、まだ少しだけ痛みがあった。「……でも、失敗って意外に重いんだな。失敗があるから、人は変わることができるって、本当なんだなって思う」
「……うん」
「おれ、ここに来て初めて、バイトしている自分が不甲斐ないと思ってさ。やっぱりちゃんと変わらなきゃと思ったよ。正しい情報を得ることとか、それを元にきちんと自分で考えて、接客することとか。そういうの。玲子さんの言う通りだったよ。全部」
ナツはゆっくりと身体を回し、背中を防波堤に傾けた。ハルの横顔が見えた。その瞳は夕焼け色に染まった海を映しながら、少し濡れているような気がした。
遠く離れた喧噪。押し寄せる波の音。ハルのゆっくりとした息遣い。自分の心臓の音。そこにあるすべての音が、ナツの身体を包み込む。
ナツの傍に、赤い古びたバイクが見えた。ミラーが橙色の空を映している。
自分の声は今、ハルに届いているのだろうか。違う、とナツは思った。全部、自分に言っているんだ。自分自身に言い聞かせているんだ。
「学校祭の時さ、アキのイノベーションを見た時。その時も、このままじゃだめだ。変わらなきゃって思ったんだ」
ハルの反応はなかった。黙って海を見つめている。
「ハルはどう思った? アキのイノベーション、見てさ。窮屈な世界から抜け出したいと思わなかった? 自分のこと、変えたいと思わなかった?」
ハルが一瞬、ナツに視線を向けた。「わたしは……」でもそのまま顔を俯かせ、小さな声を絞り出すように言葉を紡ぐ。「わたしは、変わりたくない。このままで、いい」
「ハルさ。声優とか、歌手とか、そういうの目指したら?」
ナツは明るいことを話そうと、話題を切り替えた。
「ハルの声、心地いいからさ。なんなら、玲子さんにでも、紹介してもらってさ。知ってる? あの人、元歌手なんだ。だからさ――」
「簡単じゃないの!」
ハルが珍しく声を張り上げた。円華の威圧するような声とは違う、気持ちを吹き消すような声だった。ろうそくの炎が消えるように、ナツが黙る。
「自分を変えるって、そんな、簡単じゃ、ないんだよ……」
火が消えたあとの煙のような、そんな擦れた声がハルの口から吐き出された。ハルの視線が、ナツに向けられる。今にも泣きださんばかりに瞳が揺れていた。
「そんなに急ぐ必要、ある? 今日の対応だって、ナツ、頑張ってたじゃん。この島じゃあ、あんな客、しょっちゅうだよ。わたしだって、お母さんやお父さん、島のみんなに助けられてる。今日だって、玲子さんにもだいぶ、助けられた。自分一人じゃ、出来ることは限られている。ゆっくり、いろんなことを、少しずつ覚えていくしか、出来ないんだよ」
ナツは言葉が出てこなかった。その間にも、ハルの言葉が溢れてくる。
「世界、早すぎるんだよ。わたしにとっては。……ナツも、なんだか、焦ってるように見えるよ」
ハルが防波堤から腕を下ろし、顔を赤くして、俯いた。その肩は少し、震えていた。
「わたしは、時代に追い付きたくない」
ハルの声はもう、聞き取れないくらい、小さかった。もしかしたら、ナツが耳を塞ぎたかったのかもしれない。それは、ハルの心の叫びのように思えた。
「ナツも、結局、みんなと同じなんだね。変わることが全てだと思っている」
そう言い残すと、ハルは駆け出していた。猫のように、細い腕を振り上げながら、靴の裏に張り付いた砂粒を残して。
ナツは何も言えないまま、ハルの後姿を見送ることしかできなかった。目の奥がじんと痛んだので、ナツは空を仰いだ。薄紫色の空だった。雲はなかった。自分の涙を隠す場所なんて、そこにはどこにも無かった。
ハルも自分と同じく、将来をどうするのか、見つけられないと簡単に考えていた。いや、簡単に考えてる訳じゃないんだ。でも、自分の言葉には、重みがなかった。まだまだ、子供なんだ。世間知らずの少年なんだ。自分を深くするような知識も経験も無いのだ。
ハルは防波堤から少し遠い、道路の近くのベンチにうずくまっていた。ハルとの距離は、まだこんなにも遠いのだ。
ナツは背を向けて、また少し海へ隠れてしまった太陽をぼんやりと眺めた。
そういえば、アキは相談事があると言っていた。
ナツはスマホを取り出し、アキに電話をする。コール音が耳を塞ぐように鳴りひびく。五回ほど聞いたところで、ナツはスマホの画面をタップした。アキは電話に出なかった。
アキのユーチューブを開いてみる。新着動画があった。ついさっき、アップされたものだった。
タップし、動画を再生する。いつも通り、夏休みのうっぷんをつらつらと並べている動画だった。ナツの気持ちを切り替えるように、アキの明るい声がスマホから流れてくる。
ふとその声に、ナツは眉をひそめた。何か違和感を覚えたからだ。いつも通りのキレがない。
動画のコメント欄をタップし、画面をスクロールする。おもしろい。夏休みのうだうだがよくわかる。わたしも暇。特に変わった様子はなかった。
今、自分の気持ちがあの太陽みたいに沈んでいるから、そう感じただけか。ナツは目を細め、小さく息を吐き出した。
コメント欄に並ぶアイコンは様々だった。自分の名前だけのもの。何やら中二病的な名前のもの。漫画やアニメのキャラを模したもの。風景写真。みんなネットの中で、自分を着飾っている。誰がコメントしているのか、わからない。名前だって、本当の名前じゃないかもしれない。高校のクラスメートもいれば、他校の生徒もいる。名前も知らない社会人も、もしかしたら見ているかもしれない。
誰の意見でもないのかもしれない。ナツはそんなふうに思った。イチとゼロの世界では、誰かわからない。誰でもないんだ。誰が呟こうと。誰の耳にも届かない。これらはみんな、このアキの動画に対する共感だ。自分の意見ではないのだ。
ナツはタップする指を止めた。画面が止まる。妙なコメントがあったからだ。
『この秋って男は、数万だかの利益のために人の尊厳を捨てる。安いね。自分だったら、絶対嫌だけどね。
いっちゃ悪いがこういう手段を選択できる人は所詮そういうレベルの人生を送る人だよ。』
なんだ。このコメントは。冷たい男?
文字だけのアイコンをクリックすると、動画の再生リストが表示された。自分で作成している動画はない。見る専門なのかもしれない。アキのチャンネルだけが登録されていた。それだけだ。
なんだ、こいつ。
一陣の風が指の隙間を吹き抜けていく。砂と埃を巻き上げているようで、ざらざらとした。
ナツはなんだか胸騒ぎがした。ナツはその画面をスクショし、アキにラインで送ろうか、迷った。迷った末、やめた。
誰かなんて、わかるはずもなかった。
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