言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【3.芸術は変わらない-The spring is far-④】

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3.芸術は変わらない-The spring is far-④

 

 

スマホの情報に踊らされていないで、少しは自分の頭で考えられないの?」

 動画と同じ声が、イヤホン越しに耳を刺激する。人が近づいてくるのが気づかなかった。動画で歌っている当の本人が目の前にいて、ナツは肩が飛び上がった。慌ててユーチューブを閉じた。

 額の真ん中で綺麗に分けた茶髪の間から、玲子がいつもの厳しい視線をナツに向けている。呆れた顔をしているようにも見えた。さっきまでスマホの画面から投げかけられた瞳と同じ色をしていた。

 イヤホンを耳から外しながら、ナツは背中を揺らして笑った。

「なにがおかしいのよ」

「いや、母さんが生きてたら、玲子さんみたいなこと、毎日言われるのかなって」

「あんた、母がいないの?」玲子の瞳が一瞬、曇った。「……それは悪かったわね」

 ナツは小さく首を降る。「いや、気にしてないです」

 レストランの向こうから、ハルがハンカチを片手にこちらに戻って来るのが見えた。

「行きましょう。昼食は終わりです」

 玲子は立ち上がるナツの声に頷き、レストランを出ていった。今日の服装も、Tシャツに、デニムのショートパンツ。この曲島で初めて出会った時と同じように、身体のラインを強調するような簡素なスタイルだ。

 シャツから飛び出した、しなやかな腕は同じだったが、ギターを抱えたあの可憐な姿とは、ほど遠い。その後ろ姿を見ながら、ナツは思う。

 あれほどの歌声を持ってして、なぜ玲子は歌うことを辞めたのだろうか。

「どうしたの? 狐につままれたような顔をして」

 戻って来たハルがまつ毛を瞬いて、首を傾げていた。本当に、狐に化かされたような気分だった。

 

 

 見上げた空が、真っ青な海色から、レモンを垂らした紅茶のような色に少しずつ変わり始めた頃、ツアーの集合時間となった。

 曲島キャンプ場は島の西に位置していたので、世界の果てへ傾き始めた太陽が、波のない海の上にぽっかりと浮かんでいた。レモンを輪切りしたようだった。

 バスへツアー客を全員乗せたところで、今日のナツとハルのボランティアの仕事は終わりのはずだった。しかし、

「一人、足りない」

 ナツはバスの前で戸惑いを隠せなかった。ツアー客の名簿と、バスに乗っている客の人数を交互に見る。

「もしかして、さっき、美術館で自由行動させてくれって言ってた人じゃない?」

 ハルがバスに乗った客の顔へ視線を迷わせていた。確かに、あの口の悪い男性はいなかったような気がした。ハルがやっぱりと呟き、バスの乗客を眺めていた。

 一人で直接、フェリー乗り場へ向かったのだろうか。ナツは首を伸ばしてキャンプ場の周りを見渡したが、それらしい姿は見えなかった。

 慌てふためく二人を見かねた玲子がバスから降りてきて、

「とりあえず、バスは先に言ってもらいましょう。他のお客さんを待たせるわけにはいかないわ」

 バスの運転手とガイドさんに出発するよう話をした。

 バスの扉が閉まり、小さなクラクションを一つ鳴らして、キャンプ場を後にする。

「あの男の連絡先は?」

「それが、名簿には書いてないんです」

「……美術館で、電話番号を聞いておくべきだったわね」

「すみません」

「過ぎたことよ。もしかしたら、近くにいるかもしれないわ。見つけたらタクシーを使ってもらいましょう。心晴はこの島のタクシー会社に連絡しておいて」

「は、はい」

 玲子の指示は、的確で、早かった.ナツは奥歯を噛み締めながら、夕日に染まりゆくキャンプ場を駆け回った。

 キャンプ場には色とりどりのテントが窮屈そうに並べられていた。小さな子供連れの家族や、真っ黒に日焼けした男女のカップル、バーベキューをしながら笑い合う若者のグループが溢れていた。しかし、ワイシャツを着込んだ男性はどこにも見当たらなかった。

「直接、フェリー乗り場に向かったのかな?」

「そうだったらいいけど。フェリー乗り場に電話して、それらしい人がいないか、聞いてみようよ」

 首を振りながら合流したハルの言葉に、ナツはスマホを取り出した。焦る指先で渚の駅・曲島の電話番号を検索していると、

「いた。いやがった。おい、そこのクソガキ!」

 悪意をはらんだ怒号がナツの背中を駆け上り、両耳を貫いた。振り返ると、例の男性だ。扇子を忌々しげにあおぎながら、太い脚で地面を踏みつけながらナツの元へやってくる。まるで怒り狂った猪のようだ。

 ハルが横で、その声と姿におびえた顔になった。

「一体、どうしたんですか?」ナツが怒りに触れないよう、恐るおそる尋ねる。

「あぁ? どうしたじゃねーよ。小僧、俺に間違ったバスの時間を教えただろう。あの紙に書いた時間のバスに乗ったら、キャンプ場じゃなくて、違う美術館に着いちまったぞ」

 そんなはずはない、とナツは一瞬思ったが、よく思い出してみると、あそこからは逆回りのバスもあったのだ。ナツはこのキャンプ場へ向かうバスの時間ではなく、反対回りの美術館行きのバスの時間を教えてしまったらしい。

 ナツは、頭から血の気の引く音が響いたような気がした。失敗を犯すと、本当にその音が聞こえるんだと思った。次に喉から突き上げるような焦燥感がやってきた。

 やってしまった。しかも、よりにもよって、こんな面倒そうな客に。最悪なパターンだった。

「……申し訳ございません」

 ナツは反射的に腰を折って、謝罪の言葉を転がした。

「謝ってすむんなら、社会人は苦労しねーんだよ。しかも、お前、美術館の前でも俺に失礼な態度取っただろ? マナーの一つも、わからねーのかよ。これだから最近のガキはダメなんだよ。ぬるま湯世代がよ」

 その怒号に、キャンプ場にいた人たちが、不安そうな視線をナツに向けていた。

 なに? どうしたの? 何かトラブル? 高校生っぽい少年が誰かに怒鳴られてるぞ。

 ざわざわと雑音のような声がナツの耳を撫でていく。ナツの思考が、止まる。どうしていいか、わからなくなった。この感覚に覚えがあった。これは自分が突然、悲劇のヒーローになった感覚だった。二年前、母を亡くした時に感じたものと同じだ。

「フェリーの時間、間に合わねぇじゃねーか。俺は今日中にこの島を出て、東京へ帰らなきゃいけないんだぞ! どうしてくれるんだよ」

 目の前の男は唾を吐き散らす勢いで、ナツを怒鳴り続けている。

「申し訳ございません。今、タクシーを呼びましたので、それでフェリー乗り場へ向かっていただければ。こちらのミスですので、タクシー費用は島猫亭(しまねこてい)で持たせていただきます」

 ハルがナツの横から割り込む。声を張り上げたつもりなのだろう。でも、その声は小さくて、繊細で、かすれていて、今にも男の怒りで吹き飛んでしまいそうだった。

 その小さな声に男が太い眉を上げた。

「島猫亭だと? 思い出した。お前の声、どこかで聞いたことがあると思ったら、昨日、俺の電話を断ったところじゃねーか! お前が最低な対応した店員か?」

 男の怒りの矛先が、今度はハルに向かった。

 ナツが顔を上げた。瞼(まぶた)を見開いて、ナツは男の顔を睨みつける。

 昨日の電話だって? ハルのお母さんにも怒号を浴びせた、自分のことしか考えない客。こいつか。こいつだったのか。

 頭の中で、カチンと、何かの外れるような音がこだまする。たぶん、怒りを制御する理性の歯車だ。頭を下げたくもない人間に、頭を下げなくてならない。さっきの玲子の言葉が頭の中にゆっくりと再生される。真摯(しんし)さを持って対応する。こんな最低な人間にも?

 ナツの視界の隅に、こちらへ駆け寄ってくる玲子が見えた。こういうとき、あの人なら、あの動画と同じような悲しそうな瞳をしながら、この男の言い分を、ただ黙って聞いて、ひたすら謝るのだろうか。あの女神のような清楚な女性が謝れば、この男の怒りも、少しは収まるのかもしれない。

 でも、とナツは思った。拳を握り締める。爪が掌に深く食い込んだ。脚は震え、背中の汗は吹き出さんばかりだった。限界だった。

 ……おれには、無理だ。

「おい、てめぇ」

 この世のものとは思えぬほど、低く、ドスの聞いた声が、その場に響き渡った。一瞬、ナツは無意識に自分がその声を発したのかと思った。男が太い首を回し、何やら怯えたような、わけのわからないような顔で視線を迷わせている。ナツの声ではなかった。

「あたしの家族に、なに、ごちゃごちゃと偉そうなクチ、聞いてんだ? あ?」

 男がさっき放った怒号よりも小さい声だったが、それは腹の芯まで響くような、胃の中をかき乱すような、そんな恐ろしさを持ったものだった。まるで、怒り狂う鬼が、音に具現化したようなもの。言ってしまえば、恐怖そのものだった。背筋が凍った。

 隣にいたハルが顔面蒼白で、「お母さん……」と呆然と呟いている。

「えっ? お母さん?」

 ナツはハルが向ける視線の先を見た。同時に、バイクのエンジン音が炸裂した。

 黒光りした大きなバイクに跨(また)がっているのは、バイクの色と同じ黒いライダースーツに身を包んだ、ハルの母――円華(まどか)だった。ヘルメットを二つ脇に抱え、肩まで伸びた黒髪を後ろで束ねている。眉間にしわを寄せ、ハルとはちょっと違う横長な目で、男を睨みつけていた。まさしく、鬼の形相だ。玲子が夜空に浮かぶ月の女神ならば、こちらは夜にやってくる闇の悪魔のようだった。

「乗りな。フェリー乗り場まで、送ってやるよ」

 円華は顎(あご)でバイクの後ろを指した。男が今にも泣きそうな顔で、肩をびくりと上げ、「は、はひ」と情けない声を出している。円華が投げて渡したヘルメットを滑らせて落としそうになっている。

「てめぇ、昨日、島猫亭に電話した男だろ? 島猫亭はてめぇみたいな下品な客は扱ってねーんだよ。いいか、今度、あたしの家族とそのスタッフに舐めた真似してみろ。家の周りに百人の仲間を呼んで、ボコボコにしてやるからな」

「は、はい。す、すみませんっ」

 男が叱られて縮こまった猫のように、バイクの後ろに跨がる。男の太い腕がどこを掴んでいいのやら、宙を彷徨っている。円華がヘルメットを被り、バイクのグリップを握り締める。

「飛ばすからな。しっかり捕まってろ。変なとこ触ったら、蹴り落とすからな」

 バイクのマフラーから吐き出される白煙と、けたたましいエンジン音を残して、円華は男を乗せて、瞬く間に道路の向こうへ消えて行った。

 ナツは呆然と立ち尽くしたまま、髪の先をじりじりと焦がすような夕陽に照らされていた。暑いのか、背筋が凍って寒いのか、肌の感覚が、なんだかよくわからなくなっていた。

 ハルが顔を真っ赤にさせてうつむきながら、ナツの横で言い訳するように呟く。

「……わたしのお母さん、頭に血が上っているときにバイク乗ると、性格が変わるの……」

 ナツは言葉が何も出てこなかった。いつも無口なハルの母が、あんなにも恐ろしい存在だったとは。人は見かけによらない。ハルももしかしたら、怒り狂うと背筋が凍るほどの声を発するのだろうか。

「……あれは、心が折れたわね」

 後ろでは玲子がほっとした声で、ぽつりと呟いていた。砂浜の色に似た髪をかき上げた額には、夕陽がこぼしたレモン色の輝きを帯びていた。今日の青空のように晴れやかで、すっきりとした表情だった。

 

 

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 ようやく物語の半分、でしょうか?

 話の流れ的にも、ここがターニングポイントになります。

 まだまだ物語は続きますが、山場はきちんと用意してあって、結末に向けて丁寧に話を進めているつもりですので、最後までお付き合いください。

 

 

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