言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【3.芸術は変わらない-The spring is far-③】

 

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3.芸術は変わらない-The spring is far-③

 

 ナツがハルの元へ近づくと、ツアー客の一人が玄関の前で図太い声を上げていた。四十歳過ぎくらいの男性で、半袖のワイシャツにスラックス。その胸元はだらしなくはだけられ、お腹がぽっこり出ていた。手には扇子が握られている。

「どうしたの?」

「あ、ナツ。こちらのお客様が、美術館を長く回りたいから、昼食を食べないで、直接、自由時間にしたいって言ってるの」

「なんだ? 小僧。お前もバイトか?」

 口の悪いおっさんだな。ナツは顔をしかめつつ、ハルを守るように間に立つ。

「昼食は今更、キャンセルできませんよ」

「あ? 俺は金を払ってるんだから、食べようが、食べまいが、どっちでもいいだろう。昼食の金を返せって言ってるわけじゃないんだ。自由にさせてくれって言ってるんだ」

 男は更に声を張り上げた。美術館の中まで響き渡っていそうだ。だったら、ツアーになんか参加するなよとナツは思った。

「そこのバス停から出てる、通常のバスの時間、教えますよ。自由時間後の集合時間は厳守ですから、その時間までに、集合場所へ来てもらえれば」

「あぁ、あぁ。それでいい。全く。めんどくさいスタッフだなぁ。せっかく素晴らしい美術館に来たのに、気分が台無しだ」

 男性が苦虫を噛み締めたような顔で、手の平を邪険に振っている。ナツは唇を噛みながら、スマホを取り出し、美術館から出ているバスの時間を検索した。

「……この時間に、あそこのバス停にやってくるバスに乗ってください。そうすれば集合時間に間に合います。集合場所はこの美術館の南の方にある、曲島キャンプ場です」

 ナツはバスの時間と集合場所を殴り書きしたメモ帳を切り取り、男性に手渡した。

「はいはい」

 男性はそのメモをナツの指先から乱暴にひったくった。扇子をパタパタとしながら、革靴の大きな音を響かせ、美術館の中へ消えていった。

 ナツは大きくため息をつく。背中に変な汗をかいていた。

「大丈夫? ごめんね、ナツ。わたしがしっかりしていれば」

 ハルがうつむいている。その瞳は少し濡れていて、落ち込んだ表情だ。

「ハルは悪くないよ」

 美術館の入口に、いつの間にか玲子が立っていた。騒ぎを聞きつけて、戻って来たのだろうか。開いたガラス張りの扉に肩を預け、腕組みをしていた。

「雑な対応。冷たい男ね、少年」

「だって、あいつが悪いじゃないですか」

 ナツは不貞腐(ふてくさ)れた顔で玲子を睨(にら)んだ。

「社会に出たらあんなことばかりよ。頭を下げたくもない人間に、頭を下げるなんてね」玲子は頭を小さく振り、ナツの瞳をじっと見つめる。「あぁいう客は、特に気を遣わないといけないのよ。何をされるか、わかったもんじゃない。自分の感情的な意見なんて、押し殺す。そんなのは邪魔。真摯(しんし)さを持って対応する。それが、基本よ」

「そんなこと言ったって……」

「客はいつも見返りを求めてるのよ。女は特にね」玲子は腕を下ろし、入ったら? という感じで首を傾ける。

 ナツとハルは玲子の横を通り、美術館に足を踏み入れた。

「私だったら、あぁいう客こそ、上機嫌になってもらって、リピーターになってもらうわ。高そうな革靴履いて、お金もたんまり持ってそうだし。手駒に取ったら、簡単よ」

 玲子は入口のガラス扉を静かに閉めた。島を茹でるような熱気が遮断され、ひんやりとした空気が建物の奥から流れてきた。背中の汗が急激に冷えた気がした。

「あんな客がいたら、この島の質が落ちるじゃないですか」

「だったら、二度とこの島へ来ないように、きつくお灸(きゅう)をすえてあげればいいわ。ぐうの音すら出ないほどに、ネットで文句すら言われないように、心を折ればいい。でも」

 玲子はナツを一瞥(いちべつ)した。上目遣いだったが、空気を切り裂くような視線だった。

「あなたに、それができるの?」

 玲子の言葉が正論すぎて、ナツはぐうの音も出なかった。後ろでハルがはらはらとした顔で会話する二人を見守っていた。

「玲子さん、すみません。わたしが悪いんです」ハルが玲子に弾かれたおはじきのように頭を下げる。「わたし、やっぱり、人と会話することが、慣れていないんです。今日も断れば良かったんです。お父さんに無理言ったのは、わたしで……」

「心晴(こはる)」玲子がハルの言葉を遮った。「人には、得手不得手があるわ。だからって、何もしないことが最善とは、限らない。しかも、接客なんて、経験が必須」

 玲子はハルに視線を向けた。ナツにぶつけた視線と比べて、今度は温かく、優しかった。

「……私は、島猫亭の取材を許可してもらって、あなたに感謝してるのよ。その借りを返そうかと思ったけど、そこの世間知らずな高校生に邪魔されたわ」

 玲子はナツにちらりと視線を向け、そのままハイヒールの音を廊下に響かせながら、美術館の奥へ消えていった。

「玲子さん、もしかして、ハルを助けに来てくれたの?」

 ナツは玲子が姿を消した廊下に目を向けた。美術館の入口から薄暗い廊下が真っ直ぐ伸びていて、奥は九十度に折れ曲がっていた。突き当りの壁に銀色のスタイリッシュな看板が貼りつけられていて、黒塗りの矢印が描かれていた。

 ハルは何かを考えこむような瞳で、しばらく廊下の先に視線を向けていた。やがて瞬きをして濡れた瞳を乾かし、「行こう。ナツ」と小さく呟いた。

 

 

 美術館を回る時間は意外に短かった。ボランティアで来ていたナツとハルは、常に時間を気にしていなければならなかったので、のんびりとアート作品を見る暇もなかった。それでも、この美術館に展示されている作品に、ナツはひどく感動した。

 建物の中は入口の廊下こそ薄暗かったものの、突き当りを通り過ぎた先は、巨大なホールだった。天井から壁まで一面ガラス張りで日当たりが良く、小さな山を切り崩した場所に美術館が建てられていたので、瀬戸内の海も一望できた。

 その自然の眺望と、ぴったり調和するように展示された芸術品の数々は、織り重なる太陽の日差しを頭の先から存分に浴びていた。陰影をはっきりさせながら、より立体的に浮き出る作品は、もはや、言葉では言い表せられないような感銘を受けるものばかりだった。

 大小様々な絵画。石堀りの彫像、細工品。完全な球体を一定間隔に並べたもの。全く同じ長さで切られた丸太をただ積み重ねたもの。手作りのミニチュアの家。LEDランプが蛍の光のように幾つも釣り下がった空間。形になったもの、形になっていないものが展示され、目を飽きさせなかった。中には子供の頃、テレビで見ていた特撮番組のフィギュアをいくつも並べているだけの作品もあった。

 数多の芸術作品は、その一つひとつが個別の作品として完成されたものであり、作者の想いをそれぞれ表現していた。美術館の中に雑然と並べられているようでも、美術館全体のコンセプトが捻じ曲げられず、寄り添うように調和していた。

 圧倒的な芸術作品を目の当たりにすると、思考が停止するらしい。ナツは頭の中に何も言葉が浮かんでこなかった。もしかすると、人間の思考そのものを具現化したものが、目の前にあるアートなのかもしれない。

「……アートって、よくわからないって、この前言ったけど」ナツが呟く。「やっぱりよくわからないのが、アートなんだな」

 ハルはその言葉を聞いて、小さく吹き出した。「なにそれ。意味わかんないよ」

 昼食の時間になったので、ナツとハルは手分けをして、ツアー客を呼びに回った。

 アーティストハウス・ミュージアムはレストランに隣接していたので、ツアー客はそこで昼食を取る。ナツとハルの分も、昼食が提供され、二人で並んで口に運んだ。

 この島で有名な曲島バーガーだった。パンの間にハンバーグではなく、この島で水揚げされたハマチをフライしたものが贅沢に挟まっていた。特製のタルタルソース、新鮮なトマト、アボカドが絶妙にマッチし、舌の上に甘酸っぱい酸味が溶けていった。

 食後のちょっとした休憩時間、ハルが手洗いに席を外した。手持無沙汰になったので、ナツはスマホを取り出した。アキからラインのメッセージが届いていた。ユーチューブのアドレスが表示された。

 ナツは持ってきた小さなショルダーバッグからイヤホンを取り出し、プラグをスマホに、イヤホンを耳に捻じ込んだ。ユーチューブのアドレスをタップする。

 プラスボイスと呼ばれるグループの動画チャンネルだった。更新日時は、三年前。結構古いものだ。タイトルは『さよなら、夢の陰(かげ)』。ナツは画面の再生ボタンを指で押した。

 黒髪の女性が小さな画面の中に現れる。その髪は淡い光を帯びて細く透き通っていて、ふくよかな胸のあたりまで伸びていた。服装は白い清楚なワンピース。袖から伸びるしなやかな腕には、黒光りするアコースティックギターが抱えられていた。

 まるで、夜空に浮かぶ月の女神のようだった。

 長いまつ毛を伏せ、曲の雰囲気に合うような悲しい表情をして、見事にバラードソングを歌い上げている。イヤホンから直接、耳に流れ込んでくるその声は、あの夜、聞いた声と全く同じだった。画面の中の女性と、ナツは目が合った。

 雰囲気が全然違って別人のようだったが、この女性が向ける瞳は紛れもなく、あの冬田玲子だった。

 

 

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アートとは何ぞや。

昔、小さなカフェで開かれている個展、地方の美術館などを巡っていた時期がありました。

今回の話の中でも書きましたが、誰かのアート作品を目の前にしたときって、言葉が出てこないです。いや、自分だけかもしれませんが。

この話は芸術の島を舞台にしていますが、私が考えるアートへの想いも散りばめながら物語を紡いでいます。

 

 

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