言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

翡翠色(ひすいいろ)のビー玉

 

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 あなたは世の中の理不尽を許せますか?

 

 七、八年前に書いたであろう短編です。改めて読み返してみましたが、これ、そのままアップできるんじゃない? と思って、特に推敲せずアップしてみました。つながりが変なところは、ご容赦。

 これを読んで、やっぱり自分はひねくれてるんだなと、心の中で思いました。

 ひねくれ者の人間ならば、共感できるかもしれません。

 在宅勤務のお供に、是非。

 

 

******

 

 わたしはお姉ちゃんが嫌いだ。

 理由は至極、簡単だ。お姉ちゃんは要領が悪くて、わたしは割と、なんでもできるタイプの子だった。だから、お姉ちゃんを見ていると苛々するのだ。

 そもそも、わたし以外の世の中の人間は、みんな、馬鹿だと思う。口を揃えて似たようなことを言うくせに、教科書や参考書に書いてることができない。その通りにやればいいだけなのに、みんなはそれをやらない。国語なんて漢字を覚えるだけだ。数学は公式さえ覚えれば、他のことはみんなそれの応用だ。社会も理科も英語も、ただの暗記に過ぎない。

 世の中はそんなに甘くないと、周りの大人が口を揃えて同じことを言う。でも、それは自分が何かが出来ないということを棚に上げて、世の中のせいにして、不満を言っているような気がしてならない。まだ中学生二年生のわたしが、社会に対してああだこうだ言うのは、全くもって馬鹿げているのかもしれない。けど、教科書に書いてあることもできない大人に、そんなことは言われたくないのだ。

 要するに、わたしは、ただのひねくれ者だった。

 でも、わたしがただのひねくれ者だったならば、仮初にも思春期である中学生の戸惑いやら、傲慢さやら、虚栄心やら、とにかくいろんな気持ちから生まれてくる成長の証として、わたしのこの妙な考えは、大人たちもいつの間にか慣れてしまうのだろう。

 わたしの苛々は、ただのひねくれた考えが先行しているわけではない。別に世の中の不条理なんてどうでもいいし、わたしは教科書に書かれた問題さえ解ければ、今はそれでいいと思っていた。

 でも世の中には、何か、見えない境界線のようなものがあって、わたしとお姉ちゃんという人間を、決定的に別(わか)つのだ。そのことに、わたしは最近、気付き始めたのだ。

 

 

 今日から春の中間テストが始まる。内容のほとんどは一年生の時の復習みたいなものだ。でも、わたしはちょっと早起きをして、いつもより早く学校に来た。クラスメイトの崎原瞳(さきはらひとみ)に、今日のテストに出るであろう問題について教えるためだ。

「なんで、こんな問題もわかんないの?」

 わたしは欠伸(あくび)を噛みしめながら言った。朝の教室は、わたしと瞳以外、誰もいなかった。

「なんで、こんな問題がわかるの?」

 瞳は、わたしの質問に対して、同じような質問を返してきた。

「教科書の五十三ページに載ってるじゃん」

 わたしは少し強い口調で答えた。

「圧力の式しか書いてないよ」

 瞳はわたしに言われたとおり教科書の五十三ページを開いてたが、きょとんとした表情をしている。

「この式を使えば、この体重計にかかる力がわかっているんだから、このブロックの面積がわかるでしょ。ここに、この数字を代入するんだよ」

「あ、そっか。なるほど。美奈(みな)ちゃん、やっぱり頭いいねぇ。教え方もわかりやすいし」

 瞳はわたしの面倒くさそうな態度を気にすることなく、感心していた。わたしは教科書に書いてあることを言っただけだ。なんで書いてることの通りにできないんだろう。

「このさ、この前の小テストの問題、テストに出るかなぁ。これ出たら、わたし絶対解けないよ」

 瞳は鞄の中から、くしゃくしゃになったこの前の小テストの紙を取り出して、弱々しい口調で言った。小テストには赤い字でたくさんのチェックが付いていた。

「それはまずこの力の数字をさ」

 わたしは広げたノートに図解でわかりやすく瞳に説明した。

「うわー、いろんな式使うね。頭こんがらがる」

 どうして、こんな簡単な式で頭がこんがらがるんだろうと、わたしは不思議に思った。それに、さっきわたしの教え方はわかりやすいって言ってたのに。わたしは友人を見つめながら、教科書を閉じた。

 同時にがらりと教室の扉が開いて、三人目の登校者がやってきた。

 

 

 担任の山下先生が試験用紙を配っている。一時間目の試験は理科だった。理科の試験には、この前出た小テストの問題が、数字だけを変えてそのまま出題されていた。わたしは問題を見た瞬間、うんざりして溜め息を吐き出した。

 一日目のテストが終わり、さぁ帰るぞと思ったわたしのところに、瞳がやってきた。

「ねぇねぇ、美奈ちゃん。放課後みんなで、図書室で一緒に明日の試験の勉強しない?」

 美奈ちゃんがいてくれると助かるなぁと呟きながら、瞳はちらりと目線を泳がせた。視線の先を見ると、教室の出口で二人組の男子が鞄を持って瞳のことを待っていた。片方の男子は、瞳が前からちょっと気になっている武村君だった。

 ……そういうことか。

 わたしは瞳の意図していることがわかったが、そういうのはどうも好きになれない。と言うか、面倒くさい。

「ごめん。今日は用事があるんだ」

 わたしはぶっきらぼうな口調で言って、そそくさと逃げるように教室を出た。

 家に帰り、晩ご飯を済ませると、すぐに自分の部屋に戻り、机の引き出しから小さな箱を取り出した。蓋を開けると、色とりどりのビー玉が箱の中に敷き詰められていた。わたしはそれを一つ一つつまみ出し、目の前の机の上に丁寧に並べていく。

 数分後、さっきまで箱に入っていた色とりどりのビー玉が、整然と隙間なく並べられて、わたしはうっとりとした。これを見ると、わたしの心は何かが染み渡っていくように、じわじわと満たされていく。まるで、春の日溜まりの温かさに触れているように。

 青色、緑色、赤色、朱色、紫色、黄色、黄緑色、桃色、水色、墨色、などなど。

 端っこにある赤色のビー玉に触れると、敷き詰められているすべてのビー玉が、同時に少し動いた。ざり、と砂がこすれたような音がする。

 子供の頃から集めているわたしの宝物たちだ。中でも一番のお気に入りは、この翡翠(ひすい)色の、他のビー玉よりも少し大きなビー玉だ。カワセミの羽のような色をしている。どこで手に入れたのかは、知らない。わたしが物心ついた時から、それはわたしの手元にあった。わたしはそれをつまみ上げ、目の上の位置に掲げた。自然とため息が出る。

 いつ見ても綺麗だ。

 世の中の馬鹿げてる出来事も、これを見るだけで全て忘れられる。

 透き通ったビー玉の中に映る世界はちょっとゆがんでいて、でも、その中に映る世界も実際に存在している。できれば、わたしもこのゆがんだ世界の中に飛び込んでいきたかった。

 ビー玉を持ったまま、首を椅子の背もたれに置いてそのまま後ろを見上げると、さかさまの二段ベッドが映った。

「ねぇ。これから勉強始めるから、それ、片付けてくれない?」

 部屋に入ってきた姉が、数学やら国語やらの参考書を机の上に広げながら、ため息混じりの声でわたしに言った。手にはラムネの瓶が握られている。

 そこで、わたしの空想の時間は終わった。

「このラムネの瓶に入っているビー玉、いつも通り、美奈にあげるね」

 お姉ちゃんは感情を表に出さず、あまり怒ることのない人だが、わたしの持っているビー玉に対してだけは態度が露骨に現れる。お姉ちゃんはビー玉が大嫌いだった。

 お姉ちゃんはわたしを見つめたまま、額にかかった前髪を髪留めのピンで止め始めた。それがお姉ちゃんの勉強する体勢なのだ。前髪を上げると、額の右の方にある古い傷が見えた。それが傷であるということは、事情を知る家族くらいしか、ぱっと見てもわからない程に小さい。前髪をいつも下ろしているのは、きっと、学校ではそれをあまり見られたくないからだろう。

 そう。わたしの姉の額には小さな傷がある。子供の頃にできたものだった。

 でも、わたしはそれがどうしてできたのかは覚えていない。お母さんの話によると、傷を負ったのはわたしの物心がまだついてない頃のことで、お姉ちゃんはわたしと一緒に、家の近くの神社でビー玉遊びをしていた。すると、わたしが突然、泣きわめきながら、「こんなのいらない」と言って、ラムネのビー玉を思い切り姉に投げつけたのだ。そのビー玉がお姉ちゃんの右の額に当たり、血が流れ始めた。お姉ちゃんは額から血を流しながらも、ただ黙ってわたしのことを、身じろぎもせず、じっと見つめていたらしい。

 それ以来、お姉ちゃんはビー玉に触ることはなくなったということだ。

 わたしは勉強に勤しむお姉ちゃんの背中をほんの少しの間だけ見つめていたが、小さく息を吐き、色とりどりのビー玉を静かに片付け始めた。丁寧にビー玉を箱の中へしまうと、わたしは少し冷えた体にカーディガンを羽織り、二段ベッドの下に潜り込んだ。携帯音楽プレイヤーのイヤホンを耳にねじ込む。

 明日も試験があるけど、わたしにはそんなことはどうでも良かった。わたしは生まれてこのかた、一度も予習、復習をしたことがないし、試験の勉強もしたこともない。中学校の試験なんて、わたしには簡単すぎる。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしく、気付いたら枕元の時計は午後十時を指していた。わたしはゆっくりと起き上がると、お姉ちゃんの机の明かりがまだついていた。

「まだ勉強してたの?」

 わたしは驚いてお姉ちゃんに言った。

「いや。ちょっと光のところを勉強していたら、逆さまに映る像の話があって。そういえば、鏡は左右逆に映るけど、なんで上下は逆に映らないのかなぁって思って」

「鏡って、ホントは左右逆になってないんだよ」

「え? なんで?」

「右のものは右、左のものは左に像を映してるの。左手を上げると、右手を上げてるように見えてるけど、実際に上がってるのは鏡に映った左手で、左右が逆になってるわけじゃあないんだよ。この前買った参考書に書いてあった」

「でも、鏡に見えるのはそうだけど、やっぱりわたしから見たら右手だよ。よくわかんない。なんで?」

 なんで? は、お姉ちゃんの口癖だ。なんでもかんでも、自分が納得するまで妥協しない。

 わたしに言わせれば、姉はかなり不器用な人だと思う。不器用なくせに、なんでもかんでも深く考え込んでしまうから、更に要領も悪くなる。おまけに中学校二年生になったばかりのわたしが、一つ年上の姉に対して、「教科書あれば全部やり方書いてあるじゃん」という嫌みたっぷりの言い方で勉強を教えるくらいだ。

「わたしはもう寝るよ。電気消してくんない?」

「うん。じゃあわたしはリビングで勉強するから」

 そう言うと、お姉ちゃんは勉強道具を持って部屋を出ていった。わたしはお姉ちゃんの机の明かりを自分で消すと、布団にもぐり込んだ。

 机の上には、ラムネに入っているビー玉が置かれていた。

 わたしはラムネの中に入っているビー玉が、実は大嫌いだった。妙に綺麗に磨かれたその球体が、ほかのビー玉と違って、なんだか欠陥品のように見えた。

 次の日の試験も、わたしにとっては余裕だった。

 

 

 だけど、試験が終わって数日後、わたしは突然、担任の山下先生に呼ばれた。

「美奈ちゃん。この前のテストの時、具合でも悪かったの?」

 山下先生が心配そうにわたしを見ながら言った。この先生はものすごく心配性なのだ。

「……はい?」

 わたしは先生がわざわざ職員室まで呼び出して、どうしてそんなことを聞くのか、まるで心当たりがなかった。この前の中間テストなら、別に大した難しい問題も出なかったし、数学と英語はほぼ満点だった。

「これ」

 先生はまだ返却されていない理科のテストの答案を取り出した。わたしの名前が書かれていた。点数は『六十四点』と赤い字で書かれている。

「この前のテストだけど、どうしたの? 今まではいつも九十点以上が続いていたのに、あの日の理科のテストだけ、そうじゃなかったから。最後の方の問題だけが見事に何も書かれてなくて。でも、この問題、この前の小テストに出した問題とほとんど同じで、美奈ちゃんはその時、きちんと答えを出してたから」

 そういうことか。わたしは先生の言いたいことを理解した。

 あの日の理科の問題には、最後に圧力を求める問題が出ていた。でもそれは、小テストに出ていた問題の数字が変わっていただけで、同じやり方をすれば確実に解ける問題だったのだ。

「……めんどくさかったからです」

 わたしは悪びれずに言った。

「え?」

「あの問題は小テストと同じ問題だったんですよね? じゃあ、いいじゃないですか。わたしは小テストで合ってたし、もう一度問題を解く意味なんて、全然ないと思ったんです。ひとつひとつ公式を引っ張り出して、面積を出して、そのあと力を出して。もう一回同じことを考えるのが、わたしにとって無駄な時間だったんです。それなら、今度の読書感想文の内容を考えてた方が、よっぽどわたしにとって意味のある時間でしたよ。宮沢賢治が書いたよだかの星、知ってます? あれは深い話でしたよ」

 山下先生は困ったような顔をしている。まるで、わたしの言葉が通じていないみたいだ。

「美奈ちゃん。テストとか本番では、きちんと答えを書かないと駄目なのよ。結果がすべてなの」

 山下先生はお茶を濁さないような柔らかい口調で言った。

「……うちのお母さんは、結果よりも努力とか過程の方が大事だって、お姉ちゃんにいつも言ってますけど」

「お姉ちゃんは結果を出すために、努力をしていることがお母さんに認められているからでしょう? でも、これからの人生では、美奈ちゃんの努力とか過程を見てきてない人が、たくさんテストをしてくるのよ。そのために試験があるの。来年には美奈ちゃんも受験でしょう? その本番を頑張るために努力して、本番できちんと結果を出さないと誰も評価してくれないのよ。だから、中間テストはその練習みないなものなの。わかる?」

「じゃあ、小テストなんかやらなきゃ良かったのに……」

 わたしは小さな声で呟く。

「え?」

 この人は、わたしという人間の価値をテストの点数でしか見てないんだ。テストが出来なかっただけで、わたしのすべてをわかった気でいる。

「先生はどうして、鏡が左右逆に映るのに、上下が逆に映らないか知っていますか?」

「今はそんな話をしているのではありません。この前の試験の話をしているのですよ」

「じゃあ、知ってるんですか?」

 わたしはもう一度尋ねたが、先生はそこで黙り込んだ。理科の先生をやっているくせに、わたしのお姉ちゃんが疑問に思う問題については答えること出来ないんだ。

 わたしは段々と腹が立ってきたので、さっさと話を終わらせたかった。先生の次の言葉を待たずにわたしは職員室の出口に向かった。わたしという人間の価値が試験くらいでわかるものか。教科書に載ってることはわからない大人のくせに、そんな一時の数字だけでその人の価値を測れるものか。

「中村。きちんと失礼しましたと言え」

 何も言わずに職員室を出ようとしたら、隣のクラスの先生がわたしを厳しい口調で呼び止めた。

「失礼しましたっ」

 わたしは同じような厳しい口調を吐き捨てて、職員室を後にした。

 放課後、図書館の前にある学年供用スペースにはたくさんの生徒が集まり、この前の中間テストの見せ合いや、わからない問題の答え合わせをしていた。

「わたし、数学平均点以下だったあ」

「おれ、国語、超やばかったさ」

 そんなやり取りを背中で受けながら、わたしはコートを身につけ、ポケットの中に手を突っ込んだ。触りなれたビー玉の感触を掌に感じて、わたしはなんだかほっとした。

「あ、美奈ちゃん。先生に呼ばれてたけど、どうしたの?」

 瞳がわたしに気付いて、供用スペースからわたしの名前を呼んだ。

「別に。理科の試験が悪かっただけだよ」

 わたしはポケットに手を突っ込んだまま答える。

「え? 具合でも悪かったの?」

 ざり、というビー玉の感触が指先に残った。さっきまでほっとしていたのに、なんだか嫌な感触だった。

「ねぇ。わたしが試験出来なかったら変なの?」

「うーん、そうだね。美奈ちゃんはなんでも出来ちゃうイメージがあるから」

「なんで? わたしはいつでも、なんでもかんでも出来ていないと、いつもと違うわたしってことなの? ねぇ、なんで?」

 お姉ちゃんがよく使う口癖をわたしは繰り返した。

「なんだよ。中村が理科の試験が悪かったからって、イライラしてるぞ」

 瞳の周りにいた男子が笑い声を上げている。

「そんなんじゃないよっ」

 わたしは思わず声を張り上げた。

 男子の笑い声が止まり、沈黙が流れた。

「下校の時間になりました。まだ校内に残っている生徒は、速やかに下校してください。繰り返します……」

 沈黙の隙間を縫うようにして、放送部のアナウンスが流れる。

 さっきまでだべっていた生徒たちが、急に忙しくなり、広げていた試験の答案や、教科書や参考書やらを片付け始めていた。

 わたしはカバンを乱暴に持ち上げると、瞳や男子がいる場からさっさと離れ、学校の外に飛び出した。

 雲で蓋をされたみたいにずっしりと重たそうな空を、わたしは一瞥して、まだ少し冷たい春の風が吹き込抜けてくる街路樹の間を急いだ。

「ただいま」

 家に入り、玄関の扉を閉めた。冷たい風は遮られたけど、わたしのイライラした心の中は冷え込んだままだ。

「あ、お帰り」

 学校から帰ると、お姉ちゃんは既に帰宅していた。なぜだか嬉しそうだった。

 

 

 どうやらこの世界は、不公平に出来ているらしい。

 夕食の時間に、乾いた声を弾ませて、お姉ちゃんは数学の答案を広げた。七十八点と赤い字で書かれていた。

「見て。初めて数学の試験で七十点を超えたよ」

 お母さんは嬉しそうにお姉ちゃんの答案を見ている。

「あら、すごいじゃない。努力が報われたんだね」

「昨日、夜中まで勉強していた甲斐があったな」

「さすがだわ」

「馬鹿みたい」

 わたしは夕食のコロッケを何度もソースにつけながら、お母さんとお姉ちゃんの会話を小さくも鋭い声で遮った。ソースにまみれたコロッケは、衣がぼろぼろに取れて、全然おいしそうに見えなかった。

「そんなの簡単じゃん。要は方程式の応用でしょ? わたしが三年生になったら、勉強しなくてもそんな点とれるよ」

 お姉ちゃんの笑顔がそこで消えた。

「美奈。みんながみんな、努力しなくても、勉強できるわけじゃないの。みんな必死にわかろうとしてるのよ。どうしてその努力をわかってあげないの?」

 お母さんは今まで何遍も言っているセリフをまた、大真面目な顔で言った。

「学校の先生は、結果がすべてって今日言ってたよ」

「それは先生が試験でしか生徒のことをわかってあげられないからよ」

「ねぇ、それって、なんかおかしくない?」わたしはソースにまみれた箸を置いた。「頑張ってる人が出来なくても努力していれば誉められるのに、普通に出来る人がちゃんと出来ても誉められないって。やってることは一緒でしょ? 同じことの繰り返し。教科書にも載ってる。わざわざ試験に出さなくても、言われなくても、わかってるよ。試験で人を測れるなら、出来て当たり前のことなんだよ。出来て当たり前のことを誉めるって、意味が全然わかんないんだけど」

「美奈がひねくれ者だからよ。そんなんじゃ、お母さんも誉めたくなくなるわよ」

「嘘。お母さんはわたしのことを一度も誉めたことないじゃない」

 お母さんの瞳が濁る。まるでビー玉で世界を見ているようだ。

 わたしはいつも高得点を取っているから、お母さんはわたしの点数なんてどうでもいい。きっと、今日先生から聞いた理科のテストが六十四点だったと言っても、お母さんは何があったの? なんて絶対に聞かない。お姉ちゃんのテストの方がよっぽど大事なんだ。

 勉強しなくても勉強のできるわたしと、勉強しないと勉強ができない姉。でも、愛情が注がれないわたしと、愛情を注がれる姉。ぐちゃぐちゃのコロッケみたいにちぐはぐだ。

「別にわかんなくてもいいよ、そんな面倒くさいこと。結果がすべてとか、努力した人が偉いとか。なんならわたしがお姉ちゃんの代わりにテスト受けてあげようか? それだったら、別にお姉ちゃんも努力する必要ないし、いい結果も取れるでしょ? 一石二鳥じゃん」

「美奈っ」

 お母さんがテーブルを叩いて立ち上がる。拍子にコロッケの入ったお皿とか、麦茶の入ったコップが音を立てる。

「だから、試験は結果がすべてなんだよ」

「お母さんはお姉ちゃんが努力してるの知ってるから、もし何かに失敗しても怒らないわよ。お姉ちゃんに謝りなさい」

 そして、お母さんはいつでもお姉ちゃんの味方だ。

「そんなの言い訳じゃん」

 努力してれば怒られない。結果を出せば怒られない。でも、やりたくもないことを無理してまでやって、意味のないことを無理してまでやって、みんなが目指すものって、一体なんなの。わたしには全然わからない。

 目の前に幸せそうな人と、悲しそうな人がいたら、「どうしたんですか?」という言葉を、みんなは悲しそうな人にかけるだろう。でも、幸せそうな人も、心の中では悲しんでいるのかもしれない。誰もが悲しそうにしている人に対して、優しい言葉をかけるから、結局は一番可哀想なのは、幸せそうな人になる。

 わたしはコロッケを残して、席を立った。そのまま自分の部屋のベッドに潜り込み、世の中の全てを振り払うように目を閉じた。

 次の日の朝、わたしが起きると、「美奈。お姉ちゃんに謝りなさい」と開口一番、声を上げた。まだ言ってる。

「……うるさいなぁ」

 わたしはイライラしながら、食パンを口に詰め込みながらカバンを持ち、玄関に走った。

「どこに行くの」

「学校。もう行く」

「まだ7時過ぎたばっかりよ」

 わたしはお母さんの声を置き去りにして、扉を乱暴に閉めた。

 

 

 事件が起きたらしい。いや、他のみんなにとっては大したことがないけど、わたしにとっては大事件だ。翡翠色のビー玉がないのだ。

 家に帰ってお母さんに尋ねても、「また同じのを買えばいいじゃない」の一点張り。

「嫌」

 新しいものを買っても、それは同じものにはならない。あれはあれだから、特別なんだ。

「まったく。珍しく真剣になってるかと思えば」

 自分が好きなものに対して夢中になっちゃいけないのか。お姉ちゃんは嫌いなものに夢中になっているのに、それがどうして正しいと言えるのか。

「お姉ちゃんが帰ってきたら、お姉ちゃんに聞いてみたら? ついでにお姉ちゃんに、謝りなさい」

 ビー玉が大嫌いなお姉ちゃんに聞いても意味がない。

 わたしはコートを来て、気に入りのビー玉をいくつかポケットに詰め込んで、家を飛び出した。学校へ行く途中で、どこかに落としたのかもしれない。

 外に出ると、風が冷たくて、重たかった。

 トマトを煮込んでつぶしたような濃い色の夕焼け空が、冷え切った心と身体に突き刺さる。

 わたしの心は痛みっぱなしだ。天気は気持ちと一緒だ。わたしの思うようには全然いかない。

 学校へ向かう道を駆け抜けている途中、ふと、わたしは足を止めた。

 家の近くにある小さな神社。お姉ちゃんと一緒にビー玉遊びをしていた場所。昔、わたしが大泣きして、お姉ちゃんの額に傷を作った場所だった。

 わたしは何も考えず、誰かに呼ばれるように、神社の鳥居をくぐった。

 ポケットに手を突っ込んだまま、砂利道に靴の音を響かせながら歩き、神社のお祈りをする場所にわたしは立った。私の頭くらいの大きさの鈴から、私の首くらいの太さの紐がぶら下がっている。

 きっと、わたしは大人になったら、こんなとこに神様なんていない。って言うんだろうな。いや、大人にならなくてもわかる。神様なんて信じない。もし、この世に神様がいたら、みんな平等にしてくれるはずなのに。

「馬鹿だよ。みんな、大馬鹿だよ」

 わたしはポケットから手を取り出し、今にも千切れそうな鈴の緒を乱暴につかみ、ガラガラと勢いよく鳴らした。その時、ポケットに無理やり突っ込んだビー玉がいくつか落ちて、コロコロと音を立てて神社の階段を転がり、砂利の上に落ちていった。わたしは気にしなかった。

 吹きつける強い風を引き裂くように、甲高い鐘の音が大きく乾いた空に鳴り響いた。わたしはいつまでも、いつまでも鳴らし続けた。

「なにしてるの?」

 突然、後ろから声をかけられたので、わたしは飛び退くように振り向いた。

「……お姉ちゃん?」

 そこにいたのは、わたしのお姉ちゃんだった。マフラーに顔の半分を埋めて、ぽかんとした目でわたしを見ている。

 鈴の音が何かに吸い込まれるように小さくなり、やがて風にさらわれ、消えていった。

「別に。なんでもないよ」

「そうなの?」

「もう行く」

「一緒に帰ろうよ」

「いい。わたし、これから用があるから」

 もうすぐ日が沈みそうなのに? と言わんばかりに、お姉ちゃんは瞳だけを空に向けた。トマト色の空はいつの間にか薄紫色のカビが生えたような感じになっていた。お姉ちゃんはわたしの足元に視線を移すと、ビー玉、と、か細い声で言った。

「は?」

「ビー玉。落としてるよ」

「こんなの、もういらないよ」

 わたしはうんざりする気持ちを言葉と一緒に吐き捨てながら、お姉ちゃんを一人残し、神社から飛び出した。

 

 

「お姉ちゃん、遅いわね」

「居残りでもさせられてるんじゃない?」

 さっき会ったのに、わたしは適当に答えたが、時計を見ると十八時になろうとしていた。確かに、遅すぎる。

 そのとき、ただいまという声が玄関から聞こえた。

「遅かったのね。どうしたの?」

 お母さんの心配する声が家中に響き渡った。

 お姉ちゃんはご飯はいらないと言って、すぐに部屋へ戻っていった。お母さんは心配そうな顔をしている。

 わたしはお姉ちゃんの後を追うように部屋へ戻ると、足元に何かがぶつかった。

「あれ?」

 わたしの探していた翡翠色のビー玉が足元に転がっていた。

 どうしてここに?

「ねぇ。それ、片付けて」

 お姉ちゃんが髪を上げて、いつもの勉強の体勢になっている。

 わたしがお姉ちゃんの方に目をやると、すぐに慌てて机の方に振り返った。お姉ちゃんの額の傷のところに、小さな葉っぱがついていた気がした。時折、風邪をひいたのか、お姉ちゃんの鼻をすする音がする。

 ……神社で、探してくれたの?

 わたしは黙々と勉強をしているお姉ちゃんの背中を見て、足元の、翡翠色のビー玉を見た。

 ビー玉はコートの中に入りっぱなしだったんだ。神社で落としたいくつかのビー玉の中に、翡翠色のビー玉もあったんだ。昨日からお母さんにイライラしていたから、ちゃんと探さずにいただけだったんだ。

 いや、問題はそこじゃなかった。

 どうしてお姉ちゃんは、わたしがこのビー玉を探していることに気付いたんだろう。

 でも、教科書に書いてることしかわからないわたしが、お姉ちゃんの考えてることまで理解するのは、今は出来ないんだろうなと思った。

「……なんで、泣いてるの?」

 お姉ちゃんが振り向いて、瞳を鼻に寄せて、口をぽかんとさせて、わたしを見ている。頬に何やら温かいものが伝うのが、わたしにもわかった。

 急にお姉ちゃんに謝りたくなって、わたしは声を上げて泣きだした。

 お礼を言わなきゃいけないのに、謝らなきゃいけないのに、声を出して泣くことしか出来ない自分が情けなかった。

 きっとわたしは、このまま翡翠色のビー玉を無くしていたとしても、それほど、気にはしなかったのだろう。この世には神様はいない。何気ない毎日の中で、なんでもかんでもすぐに出来てしまうわたしは、何が起きても淡々と事実を受け入れるだけだから。教科書の問題をすらすらと解くように。

 そんなことを考えながら、いつかどうでもよくなるであろう翡翠色のビー玉を足元に転がせたまま、わたしはいつまでも声を上げて泣いていた。きっと、わたしはとっくの昔に、大事な宝物をどこかに無くしてしまっていたんだ。