言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト⑧】

 

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2.海に浮かぶトマト⑧

 

「それでは、ナツの初日お疲れさまと、これからもよろしくと言うことを祈念(きねん)しまして、乾杯!」

「乾杯」

 カウンターに座るハルの掛け声に、同じく隣の席に座るナツは瀬戸内レモンの炭酸ジュースが入ったグラスを掲げた。

「って、なんで、玲子さんもいるんですか」

 玲子はカウンター席の端っこで、同じくグラスを傾けていた。曲島(くましま)限定の地ビールとのことだ。ショウガの香りがした。

「取材よ、取材。そもそも今日の夜の予約は、この私よ」

 うん、ショウガの香りが効いてて美味しいわね、と玲子がグラスのビールを飲み干す。

 お酒を飲みながら仕事するのかと、ナツは嫌味が湧き出たが、心の中になんとか留めた。

「夏雄くん、横山さんの和三盆(わさんぼん)を見つけてくれたそうだね」

 ハルの父――真司(しんじ)がカウンターテーブルに皿を置く。鶏肉の料理だった。表面が程よい感じにパリパリで、様々なスパイスの香りに包まれていた。傍にサニーレタスや紫キャベツ、輪切りしたレモンが添えられていた。

「そうだよ。ナツは初めてのバイトで、大活躍だったんだから」

 ハルが自分のことのように話をしている。その顔は高揚していた。

「琴海ちゃんね、すっごい、いい子だったよ。また会いたいなぁ。今はやりの漫画のことをいっぱい教えてくれてね。その漫画の女の子の物まねをしてたんだよ」

 ハルの話は宝箱から宝石を取り出すように、次から次へと飛び出てきた。

 島猫亭の料理の味を堪能すると、ハルは何やら鼻歌でメロディーを口ずさみ始めた。

 寄せては返す潮騒のような、公園の木々が柔らかな風にざわめくような、そんな心地良いメロディーだった。

 癒やされる、とナツは思った。

「ハルの声、なんか、心地いいよな。歌もうまそうだし。歌手とか目指したら、デビューできるんじゃない?」

「わたしなんかが、デビューできるわけないじゃない。わたしなんかより歌がうまくて、可愛いくて綺麗な人なんて、世の中に星の数ほどいるよ」

 

 

 紅松の枝 そよ風よ吹け 島の乙女に木漏れ日を

 瀬戸の岬に 夕陽を想へば 夢実る君が居る

 島に猫よ こぼれ咲き乱れる 夢に花

 嗚呼 嗚呼 曲島よ 心置けば 君にまた帰らん

 

 

 突然、ハルと同じメロディーで、詞付きの歌が耳に流れ込んできた。玲子が横で頬杖をつきながら歌っている。まつ毛を伏せた瞼(まぶた)の下は、お酒で薄く赤みを帯びていた。

 ハルが目も口も大きく開いたまま、玲子の方を驚いた顔で見ていた。

「玲子さん、うまっ」

 玲子が歌い終わると、ハルが瞳を子供のように輝かせて、胸の前で拍手した。

 ナツもまた、瞼(まぶた)を見開いていた。玲子の唇から飛び出してきた歌声は、音程、声の張り、抑揚、呼吸など、そのどれもが流れるように繋げられ、魅了するものだった。先ほどのハルの歌声と質は異なるが、歌い方のレベルが全く違った。星の数ほどの人物が、すぐ隣にいた。世界はひどく狭かった。

「え、もしかして、玲子さん、プロですか? って言うか、なんでこの童謡、知ってるんですか?」

たまたまこの歌が、昔から好きだっただけよ」

 ハルと玲子で何やら女子会が始まった。ハルはいつの間に玲子とこんなに仲良くなったのだ。話し相手がいなくなり、ナツは夜の曲島の空気を吸いたくなったので、なんとなく外へ足を運んだ。

 夜になっても、いまだに息が詰まるほどの暑さだった。札幌でもナツが高校生になってからは、熱帯夜になる日が少しだけあったが、ここまで暑い夜は初めての経験だった。

 虫の鳴き声が微かにする暗がりの中に、エメラルド色の光がナツの方を向いていた。あの黒猫かと思っていたら、光が消えた。

 ナツは玄関前の小段に腰かけた。首を伸ばし、空を見上げる。満点の星空だった。

 零れ落ちそうなほど、空という空間に無数の星がぎっしりと詰まっていた。徹夜で数えても、数えきれないほどだ。流れ星が出てこようものなら、周りの星を巻き込んで、ナツが座る場所まで一気に落ちてきそうだった。

 星の光が集まると、夜空は青白く輝いて見えるらしい。その真ん中に三日月が、星たちを支えるようにぽっかりと浮かんでいた。

 ナツは初めて見るその光景に、しばし呼吸を忘れて見入っていた。

「北海道でも、人がいない場所に行けば、この星空を見ることができるよ。むしろ、向こうの方が綺麗だ。特に気温の低い時はね」

 いつの間にか外にやってきた真司が、ナツの横に座る。手にはグラスが二つ握られていた。ナツの分も持ってきてくれたらしい。

「夏雄くんは、大学に行くのかい?」

「……いえ。実はまだ、決めてないんです」

 グラスを受け取りながら、ナツは答える。

「そうか。まぁ、まだ時間はある。あせる必要もない」

 真司がグラスを唇につけた。それにならい、ナツもグラスを傾ける。舌の上で甘酸っぱい香りが、炭酸とともにはじけた。暑い夜によく合う飲み物だった。

「ハルは、明るい子ですね」

「夏雄君から見て、そう見えるなら、良かった」

「どういうことですか?」

「……」

 真司が顔を曇らせる。しばらく無言だったが、やがてゆっくりと話を始める。

「……去年の春。まだ桜が咲く前かな。私の母を亡くしてね。心晴(こはる)の祖母にあたるんだが……。あの子は昔からずっと、おばあちゃんっ子だったから、ふさぎ込むことが多くてね」

 今度はナツが息を呑む番だった。「そう、なんですか」

「さっきの童謡も、祖母がよく歌っていたものだ」

 真司はグラスの飲み物を一気にあおった。

「この島猫亭は、特別なところなんですか? 市場とか、他のカフェとかに行って、島猫亭の名前を出しただけで、みんなとても良くしてくれました。和三盆を頂いた曲島カフェのお爺さんには、真司さんによろしく伝えてくれと言われました」

「島猫亭はね、この曲島で最初にできたカフェなんだ」真司が懐かしむように言葉を紡いでいく。「私の母とその母が――心晴の祖母と曾祖母だね、この場所に五十年以上も前に開いたものだ。今となっては、この島にカフェはいくつもあるけど、当時はカフェの概念がなかったからね。喫茶店と何が違うのかって声もあったけど、私の母には想いがあったんだ」

「……想い?」

「この島猫亭のコンセプトは、『お客様と一緒に食事をする。会話を通じて、お客様の人生と世界観を共有し、寄り添う』ことを理念としている。これが祖母の想いだ。だからこそ」

 真司は立ち上がり、店の中に目を向けた。ナツも座ったまま、肩越しに中を見る。カウンター席ではハルと玲子が何やら楽しそうに会話をしている。

「島猫亭の夜は、特別なんだ。完全予約制にしているのも、そのためだ。ディナーの人数を制限している。人と人が会話をし、想いをつなげる。それがこのカフェの根底にあるんだ」

 ナツはようやく合点がいった。今日の真司の接客、島の人たちの言葉、カフェのお爺さんの言葉、それらすべてはこの理念のもとに、想いがつながっていたのだ。

「夏雄君」

 真司に名前を呼ばれ、ナツは立ち上がる。真面目な難しい顔をしていた。

「心晴と、仲良くしてやってくれよ」

 それだけ言い残すと、真司は店の中へ戻っていった。ハルが気づき、何やら真司にお願いをしている。真司が頷く。

 ハルが過去にこだわるのも、大切にするのも、すべては祖母の想いか。ナツは再び、満点の星空を見上げた。

 日本のどこにいても、同じ星を見ているから、想いは一緒だよ。

 ドラマや漫画とかで、よく耳にする言葉だった。ナツにとっては、そんな言葉に意味も重みはないと考えていた。人は忘れる。記憶は薄れる。都会に戻れば、この星は見えなくなる。消えてしまう。

 その言葉に意味と重みを持たせ、この場所に残して、つなげていく役割を果たすのか、この島猫亭ってことか。

 

 ――ナツにも、わかるときが、いつかきっと来るよ。

 

 母の言葉が突然、聞こえた気がした。ナツはハッとして、周りを見渡した。ナツの瞳には夜の闇しか映らなかった。店の前には誰もいない。虫の声ももう、聞こえなかった。

 玄関には朝、ハルが水を上げていた観葉植物――名前は確か、コルジリネ――が、ひっそりと佇んでいた。

 ナツは目頭が熱くなったので、シャツの袖で拭った。じめじめした気持ちを振り払うように大きく息を吐き出し、ナツは島猫亭の中へ戻った。

 ハルと玲子は、どこから持ってきたのか、一緒にカラオケで盛り上がっていた。ちょうど玲子が歌を終えたところだった。ハルが拍手をしている。

「あ、ナツ。ナツも歌いなよー」

 ハルが笑いながら、マイクを差し出してきた。

「はぁ? 嫌だよ」

 ナツは露骨に嫌な顔をした。

 歌なんてとんでもない。他人に聞かせられるもんじゃない。この島に悪魔の怒号が響き渡るぞ。と言おうとしたら、

「歌いな、少年」

「はい」

 アルコールが回ってきて、目がすわった玲子に有無を言わさずマイクを突きつけられ、ナツは姿勢を正した。

 仕事はどうしたんだよ、と玲子に向かってマイクで叫びたかった。

 こうして、曲島の夜は更けていく。

 

 

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 第二話はここでおしまいです。

 起承転結の承が終わりました。

 次回は転です。

 

 物語が大きく動く話に変わります。

 

 もう少し地の文を肉付けしたいです。

 

 

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