言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト⑦】

 

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2.海に浮かぶトマト⑦

 

 白砂青松(はくしゃせいしょう)という言葉を、古典か何かの授業で聞いたことがあった。

 曲島の真西に位置する海岸は、まさにそれだった。

 ナツは防波堤のそばに自転車を止めると、思わず見とれた。少しだけ黄色がかった美しい砂浜を隠すように、松の木が立ち並んでいる。ウニのような形をした針葉の隙間から、オレンジ色に染まりゆく広い渚が見えた。

「足、大丈夫? 痛めたの?」

 自転車から降りたハルが心配そうな表情をしている。この砂浜までは、それぞれ別の自転車で下ってきた。ナツは痛めた足に負担をかけないように、少しだけ足を引きずりながら歩いていた。

「歩くだけなら大丈夫。昔から、こうなんだ。明日になったら治ってるよ。今日はちょっと、無理しちゃったからな」

「そうなんだ。あまり、無理しないでね。辛いなら、バスで移動してもいいから。お父さんに相談する」

「あぁ。それは大丈夫。自分のペースでやるよ」

 夕陽が落ちる浪打ち際を、ナツとハルは肩を並べて歩く。砂浜には二人の影が流れ、足跡が点々と続いていた。打ち寄せる波は静かで、耳元を撫でる風は優しかった。

 島に一つしかないコンビニで買ったペットボトルのお茶を、ナツは指でぶらぶらさせていた。時折、太陽の光が反射し、砂浜にプリズムの模様が浮き出ていた。

 砂を巻き上げなら足を進めていると、海に真っ直ぐ突き出た波止場が見えてくた。コンクリートのブロックが崩れたところもあり、ボロボロだった。昔、島の西側にもフェリー乗り場があったらしく、これはその名残らしい。その上に、真っ赤な何かが佇んでいた。

 砂浜から波止場に上がり、二人は真っ赤な何かに近づく。

「これが、海の上のトマトだよ」

「ホントに、トマトなんだな……」

 ナツの背丈ほどの大きな、真っ赤なトマトが、波止場の先にちょこんと乗っかっていた。ちょっとした小屋のようだ。中をくり抜けば、大人が数人入れそうな大きさだった。でも、見た目はトマト以外の何物でもない。星みたいな形をした緑色のヘタや、ちょっと熟しきれていない緑色の果肉まで、事細かく再現されている。海に飛び出た細いまな板の上で、誰かに包丁で切られるのを待っているようだった。

「これが芸術って言うんなら、おれ、よくわかんないな」ナツは口角を無理やり上げて笑顔を作った。「アートって、いつの時代も変わんないんだな」

「うん。変わらないんだよ。変わらずに、ここにある」ハルが頷きながら、真っ赤なトマトに近づき、表面を優しく撫でる。「変わらないから、理解されるものもあるのかなって。わたし、思うんだよね。過去に作ったものが、未来の誰かの目に届いて、手に渡って、いろいろな記憶がよみがえって、ようやく理解される。その瞬間が、わたしは好きだなって思う」

「変わらないもの、か。まぁ確かにな」ナツが納得する。「友情とか、約束とか、思い出とか。そういうの、大事にしてたら、未来の自分に届いたとき、感動するもんな。さっきの横山さんみたいに」

「うん。だから、わたしは、変わらないものを大切にしたいんだ」

 猫のような鳴き声がして、二人は空を仰いだ。真っ白な海猫が、弧を描きながら少し高い空を滑るように飛んでいた。

「トマトってね、元々日本では、観賞用だったらしいよ。だから、その記憶を忘れないようにするために、誰かがこのトマトを島に作ったのかも、なんてたまに思う」

「忘れないようにするためか。そうだな。そう考えると、このアートの意味も、なんとなくわかるかも」

 足元で波がはねる音が聞こえた。ナツは防波堤の端から海を覗き込んだ。黒い大きな岩が転がっていた。ところどころ海藻がこびりついている。

 ナツは平たい岩の上に飛び乗ると、お、と声を上げた。

「お、ヤドカリがいる」

「ヤドカリ?」

 ナツは岩の上にしゃがみ込んで、海水の中に手を突っ込んだ。石ころサイズの黒い物をすくい上げる。

「貝? ヤドカリじゃないよ」

「ヤドカリ釣り。小学校の頃、学校帰りによくやってたんだ」

「あ、思い出した。ナツ、学校裏の海に、よく行ってたよね」

「こうやって、貝をつぶしてさ、海藻でもなんでもいいから結んで、っと」ナツは手際よくお手製の釣竿を作る。「こうやって水の中に垂らすと」

 ヤドカリが顔を出して、小さなハサミで貝の身をつかんでくる。タイミングを見極めて、海藻を引っ張り上げると、ヤドカリがくっついたまま、海の中から飛び出してきた。

「へぇ。すごい」

 ハルが胸の前で小さく拍手をして、素直に感激している。

「たまに、魚も釣れることもあるんだ。ハルも練習すれば、釣れるようになるよ」

 ナツは得意そうに笑った。ヤドカリを手の平に載せると、殻に閉じこもって動かなくなった。海の水が少し滲み出す。冷たかった。

「ナツはどうして、和三盆、一緒に探そうと思ったの? 足を痛めてまで」

 ヤドカリを岩の隙間に戻しているナツに、ハルが聞いてきた。その視線はナツの右足を心配そうに見つめていた。ナツは手のひらをズボンのお尻で拭きながら立ち上がる。

「いや、特に大きな理由はないんだけどさ」ナツは照れ臭くなって、鼻を掻いた。「強いて言うなら、思い出を守りたかった。それだけかな」

 ナツは波止場の上に戻ろうと、コンクリートに手をかけた。勢いをつけて、そのまま飛び乗る。

「おれ、母さん、いないんだ。中学生の時に死んだ」

「そう、なんだ」ハルが息を呑む。

「あ、ごめん。大丈夫。時間はかかったけど、もう立ち直ってるから」ナツは手の平を振りながら、ぎこちなく笑った。「横山さんの奥さん、助かる見込みは高いらしいけど、万が一ってのもある。だから、二人の思い出を届けてほしかった。届ける時間はあるからさ」

 ハルはうん、と頷く。

 あたりが少し陰り始めた。さっきまでオレンジ色に染め上がっていた海の向こうの空が、薄い紫色へ徐々に移り変わっていた。夜が近づく。

「思い出ってさ」ナツは影を濃くし始めたトマトを再び見つめる。「綺麗なままでいてほしいんだよ。だから、横山さんにも、この島の綺麗な出来事をきちんと持ち帰って欲しかった」

「あ、それ。わかる気がするな」

 ハルがうんうんと頷き、小さく呟く。波止場を二人並んで戻りながら、ハルは続ける。夕陽を受け、二人の影が海面に映りこむ。

「わたしもナツも、北海道で生まれたから、なんとなくわかるかもしれないけど。こっち――四国に来て違うなぁ、って思ったのは、過去を重視するんだよね。みんな」

「北海道は、開拓の歴史が浅いから?」

 歴史の授業で聞いた気がする。北海道はまだ開拓されて百年余りの時間しか流れていないことを。

「うん。お父さんは元々、こっちで生まれたから気にしてないけど、わたしにとっては驚きの連続」

 ハルは胸に手を当てて、小さく息を吸い込む。

「でも、それが楽しいんだ。いろいろな人の言葉とか、考えとか、島の歴史とか。そういう知識を得て、自分が成長してるんだって。中学校の時は勉強が嫌いだったけど、学びが楽しくなっちゃった」

「わかる。知りたいと思うことは、すぐさま検索しちゃうもんな。もうスマホは手放せない」

「ナツは、ユーチューブ見すぎ。もっと、本を読みなさい」

 ハルがからかうように笑い、説教じみたセリフを吐き出した。

「この島のみんなは、何も知らないわたしに、いろいろなことを教えてくれる。小さな島、っていうのもあるのかな。みんな、家族のよう。最初戸惑ったけど、わたしはこの島、好きだよ」

 最近じゃあ、観光客の方が多いけどねと、ハルは寂しそうに笑う。

 ナツは砂浜に再び足を踏み込んだ。砂粒が靴の裏に染み込むようだった。

「おれさ」

 ナツは振り返り、砂浜から水平線を見つめる。太陽の先っぽが、この島よりも遥かに遠い世界へ沈みかけていた。

「ハルと再会して、わかったことがあるんだ」ナツはハルを見つめた。「おれとハルの二人だけの思い出があったから、おれはハルにまた会いたいと思った。過去の自分がいたからだと思うんだ。だから、この出会いは大切にしたいんだ。おれはハルとの関係をこれからも続けていきたい」

 ハルの瞳はナツを映していた。でも、その言葉を聞くと、ハルは目を逸らして俯いた。「そうだね」

 一瞬、ハルの表情が曇ったような気がした。

「わたしも。これからも、変わらずに友達でいてね」

 ハルがぎこちなく笑う。泣き笑いのような、切ない表情だった。

 変わらずに友達、か。その言葉にナツはなんだか喉の奥がもやもやしたが、いつものえくぼを咲かせるハルを見て、無理やり胃の中へ押し込んだ。

 ハルはぎこちない笑顔のまま、海を眺めていた。栗色に染まった横髪を耳にかけるその仕草が、線香花火の残す火花みたいな夕陽に溶けている。真っ直ぐに整ったまつ毛は、ハルが瞬きをするたび、小さく揺れている。ハルは背丈が低いけど、Tシャツに短パンのラフなスタイルが、女子高生らしい身体のラインをくっきりと艶やかに浮かび上げていた。

 カフェで見た玲子が女神なら、ハルはなんと言えばいいのだろう。ナツは言葉が出てこなかった。心臓の鼓動が早くなる。

「なに? 口が開いてるよ」ナツの視線に気づいたハルが、不思議そうな顔をして微笑んでいる。

「いや……」

 ナツはポケットからスマホを取り出し、ハルに焦点を合わせた。背景に真っ赤なトマトが映るように調整し、画面をタップした。カメラのシャッター音が響く。

「え。なんで、写真撮ったの?」

 ハルの表情が固まり、真顔になった。

「……いや。アキに送ろうかと」

「ダメ。絶対にダメ!」

 ハルが小さな顔をトマトのように真っ赤にした。すかさず手を伸ばして、ナツのスマホを奪い取ろうとする。ナツはそれをひらりと避けるが、ハルはバランスを崩してよろける。ナツはハルの腕を掴んで支える。ハルの髪の毛が鼻先でふわりと舞う。レモンの香りが微かに漂う。

「わかった、わかったよ。送らないから!」

「送らないだけじゃ、ダメ。今撮った写真は、消去して!」

 腕の中でハルが、猫のように手足をじたばたしている。

「わかった! わかったから、離れてー」

 ハルの素肌はおろしたての絹のように柔らかく、春の木漏れ日のように温かかった。少しだけ、島猫亭の香りがした。

 もう少しナツはくっついていたいと思ったけど、ハルが離れる。ハルの顔は、切れ長の目じりが更に尖り、唇を真っ直ぐ結び、頬を膨らませている。ナツはスマホの画面をハルに見えるように差し出して、今撮った写真をタップし、消去した。

「……他にない?」

「ないよ」

 ハルは上目遣いで、じっとナツを見上げていた。

 高校で、ハルは恋愛とかしてないのかな。その姿を見て、ナツはそんなことを考えた。

 実は、さっき、こっそり撮っていた写真があった。カフェを出る前、建物の前で猫とじゃれていた時に映した横顔だった。それはハルに気づかれないまま、ナツのスマホの中に保存されていた。

 そういえば、とナツは頭の中に引っかかっていたことがあった。

 ハルが表情を曇らせたとき、誰にも聞こえないような小さい声で何かを呟いていた。ナツはその言葉を確かに聞いていたはずだった。でも、ハルのぎこちない笑顔と素肌の温もりに気を取られて、すっかり記憶の中に埋もれてしまっていた。

 

 ――思い出って、美化しちゃうものだから。

 

 この言葉をまたナツが思い出すのは、数日後の話だ。

 

 

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 白砂青松。

 白砂青松(はくしゃせいしょう)とは、白い砂と青々とした松(主にクロマツ)により形成される、日本の美しい海岸の風景のたとえ。「はくさせいしょう」とも読むことがある。

 

 海に浮かぶトマトは、直島のカボチャがモデルです。カボチャがホントに海の近くにあるんです。フェリーからも見えます。

 ちなみに、直島には二つのカボチャがあります。赤と黄色。

 この物語では、話の都合上、ひっそりと隠れるように設置していることにしてます。

  直島の夜のカボチャ、綺麗ですよ。一度、ご覧あれ。

setouchi-artfest.jp

 

 

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