言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト⑥】

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2.海に浮かぶトマト⑥

 

 午後四時半の便で帰ると、横山は言っていた。

 ナツはハルから受け取った地図を見る。元の坂道を戻るより、距離はあるが、海岸線を走ってフェリー乗り場へ向かった方が、時間的に早そうだった。

 潮波が舞う防波堤沿いを、ナツは立ち漕ぎでペダルを回す。右脚に痺れるような痛みが走った。もうそろそろ限界か、とナツは歯噛みした。でも、そんなことを言ってはいられない。無心でペダルを漕ぎ続けた。

 船の汽笛が遠くから聞こえる。視界の先に、海面へ突き出した波止場が見えてきた。海は夕陽を受けてきらめいている。岡山県行きのフェリーは既に到着しているようだ。

 渚の駅・曲島へ到着する。自転車を降り、右足を引きずるように走りながら、ナツは横山を探す。

 いた。まだフェリー乗り場のお土産屋に琴海と一緒にいた。ハルもいる。

「横山さん!」

 肩で息をしながら、ナツは横山の近くへ駆け寄った。

「夏雄君。まさか、見つけたのか?」

 横山は信じられないという顔でナツを見つめた。

「はい。……これですよね?」
 ナツは茶色の小さな紙袋を差し出す。横山はそれを受け取り、慎重に、ゆっくりと封を開ける。

「……これだ。これだよ。夏雄君」

 横山は自分の記憶を確かめるように、言葉を紡いだ。横山の目尻には、虹のような色をした何かが輝いていた。

 ナツは胸が熱くなり、横山から目を逸らした。ハルと目が合った。ハルは風がない日の海のような穏やかな微笑みを浮かべていた。その瞳は真っ直ぐに、ナツを映していた。

「ばいばーい! ハルお姉ちゃーん! また遊ぼうねー!」

 琴海がフェリーの船尾から身体を乗り出し、小さな腕を振り回していた。ハルも笑顔で応じ、腕を振る。すぐ隣で横山が片手を上げて立っていた。

 フェリーが西日を受けて、ゆっくりと進んで行く。その上を、海猫が振り子のように揺れながら、夕焼けに染まり始めた空を舞う。

「琴海ちゃんのお母さん。手術、成功するといいね」

「するさ。必ず」

 ナツは横山から譲り受けた思い出の和三盆を、手の平の上に載せた。

「私は一箱で十分だ。足りないかもしれないけど、これはお礼の形で、夏雄君が受け取ってくれ」

 どんな人間も、自分一人だけが特別だなんて思ってもいないはずだ。でもやっぱり、人はそれぞれ特別な悩みや不安を抱えていて、一人ひとりが特別なんだと信じている。だからこそ、希望にすがるのだ。ナツは思った。

 手の平に収まった和三盆は、背後から受ける夕陽を受けて、オレンジ色に染まっていた。曲島伝統の文楽を舞う女性がイメージされた砂糖菓子は、今にも箱から飛び出して、ナツの手の平の上で踊りだしそうな、そんな感じがした。

 

 

「また動画を見てるの? そんなに面白いの?」

 カフェに戻ると、ナツは窓際の席に座りながらアキの動画を眺めていた。戻ってきた玲子が、開口一番、呆れた様子でナツに冷たい言葉をぶつけた。動画を見ているのが、そんなに気になるのだろうか。

「良かったら、チャンネル名、教えますよ」

 ナツはアキの『異世界の青春チャンネル』の名称を玲子に告げた。玲子は眉間にしわを寄せ、うんざりしたような顔をしながらも、スマホで検索している。

「藤原秋(ふじわらあき)、か。ふーん。高校生のくせに、結構な再生回数じゃない」

 大人から見たら、アキの動画はどんなふうに見えるのだろうか。ナツは玲子にアキの動画を見てもらって、別の視点から評価してもらうのも手かと思った。評価はすごく辛口かもしれないけど。

「ま、時間があったら見てみるわ。ところで、少年」

「おれの名前は、仙田夏雄ですよ」

 ナツはムッとしながら玲子に言葉をぶつける。

「少年は、少年よ。あんた、そんなコミュ力でこの先、生きていけるの?」

「……それを養うために、バイトに来たんです」

「ふーん。あぁ、そうそう。和三盆の件は、心晴ちゃんから聞いたわ。なんだか興奮気味に話をしていたけど。ま、少しは見直したわ。雑誌のコラム欄にでも、書けそうな内容。気が向いたら、そのうち書いてあげる」

 指先をひらひらとさせながら、玲子はスマホを片手にナツの横を通り過ぎようとした。ふわりと潮の香りがした。

「玲子さんは、本当に島猫亭の取材へ来たんですか?」

「そうよ」玲子は顔を上げず、スマホを触りながら答える。「どうして、そんなこと聞くの?」

「いえ。なんとなくです」

「あまり、人の行動や過去を詮索しない方が、身のためよ」

 玲子はナツの方を見ていなかった。ナツの席から離れた席に荷物を置き、ゆっくりと腰かける。

「どういうことですか?」玲子の無表情な顔を訝(いぶか)しげに眺めながら、ナツは問いかける。

「言葉以上の意味はないわ。世間知らずな高校生への、ちょっとしたアドバイス。しつこい男は、モテないのよ」

 玲子はなだらかな肩にかかった茶髪をかき上げながら、ナツの方を流し目に見た。その姿は艶麗(えんれい)さを纏(まと)っていたが、瞳の色は濃く、冷たかった。それきり、玲子の瞳はナツへ向けられることはなかった。

 

 

 くそ。無理しすぎたかな。

 ナツは奥歯を噛み締めた。部屋に戻ると、膝が痛みで震えていた。

 長距離を走る痛みと自転車のペダルを漕ぐ痛みは、似ているようで違う気がした。

 ナツは持ってきた荷物の中から冷却スプレーを取り出した。いつも常備しているものだ。ノズルを押すと白い蒸気がナツの足を包む。膝の周りの空気が急激に冷える。痛みが幾分と和らぐ。

 膝を優しくストレッチしていると、扉をノックする音が響いた。

「初日から、お疲れ様」

 ハルが部屋の外から、猫のような輪郭をぴょこんと突き出しながら笑いかけてきた。その笑顔で一日の疲れと痛みがすべて吹き飛ぶ気がした。

「朝言ってた、トマト。見に行く?」

 初日からいろいろありすぎて、すっかり忘れてた。

「そういえば、おれ、野菜も市場のお婆さんに預けっぱなしだった。トマトって、市場から近い?」

「あ、ちょうど良かった。市場から近いから、ついでに取りに行こう。着替えるから、ちょっと待ってて」

 ハルは自分の部屋に戻っていた。ハルの部屋をちょっとだけ見てみたいと思った。ナツはゆっくりと立ち上がり、少しだけジャンプしてみる。膝は少しだけ違和感があったが、歩けないほどではなかった。

 部屋を出て、廊下を静かに進む。ハルの部屋は突き当りだった。

「ハルー」

 扉には『心晴の部屋』と彫られた薄い木の板が掛けられていた。その扉をノックする。「はーい」と中から声がする。ナツはその声を聞いて、ドアを開けようとしたが、ノブが回らなかった。

 ……鍵がかかっている?

「ごめん、今開けるね」

 ガチャリと音がして、扉がゆっくりと開いた。「おまたせ」

 ハルはにこりと笑う。朝のTシャツとは違う色のものに着替えていた。

 扉の隙間から、ハルの部屋がちらりと見えた。壁には一面の本棚。それに取り囲まれるように、腰の高さほどの机が見えた。

 扉が閉まる。見えたのは、ほんの一瞬だった。

 ナツはハルの部屋が気になったが、ハルは外からも部屋の鍵を閉めた。そんなに見られたくないものでもあるのだろうか。

「さ、行こう」

 ナツは不思議に思ったが、ハルと同じ一人っ子で姉も妹もいなかったので、思春期の女の子はきっとこんなものだろうと、自分を納得させた。

 

 

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