2.海に浮かぶトマト⑤
「へえぇ。わざわざ北海道から。物好きな高校生だこと」市場のお婆さんがしわくちゃの笑顔で豪快に笑う。「ハルちゃんの友達なのかい。そういえば、北海道から引っ越してきたって、昔、言ってた記憶もあったわ。いつだったか忘れたけどね。がははは」
齢(よわい)は既に八十を超えるようなお婆さんに見えるのに、しわがれた声が建物の外まで響く。頭は雪が纏(まと)わりついたように真っ白な白髪だった。この島の女性は見た目に反して、気風(きっぷ)の良い人が多い気がした。
「あの子は、滅多に友達と一緒にいることがないからねぇ。しかも、こんなにハンサムな男の子とは。ハルちゃんも隅に置けないねぇ」
「そうなんですか?」
野菜を取り分けるお婆さんの小さな背中に、ナツは問いかける。ナツの前では人懐っこく、容姿も悪くないのに、意外だった。そういえば、島に来る前にラインでやり取りしていても、ハルからは学校の話題とか、友達の話題をしてくることは、ほとんどなかった。
今更ながら、ナツは不思議に思った。
「お父さんのカフェの手伝いも、きちんとする子でね。島のみんなへの愛想もいいし。この島の人はみんな、ハルちゃんのことを自分の孫のようだと思ってるよ」
お婆さんはナツの質問に答えず、聞いてもいないことを嬉しそうに喋っていた。ハルのことを知るチャンスかも、とナツは思った。
「ハルはどこの高校に通っているんですか? 島の外?」
「曲島(くましま)には中学校まではあるけど、高校がないからねぇ。私がまだ若かったころは、分校って言って、この島にも小さな高校があったんだけど。今、ここに住む人は、大概、岡山県の高校へ、フェリーを使って通っているねぇ。ハルちゃんはどこだったかねぇ」
お婆さんが曲がった腰を伸ばしながら、腕組をして頭を捻る。
「今、この島にいる高校生は、ハルちゃんだけだった気がするんだけどねぇ。思い出せないねぇ」
「あ、すみません。いいですよ。本人に聞きますから」
「そうかい? はいよ。これ、ハルちゃん注文の野菜」
ナツは大きなビニール袋からはみ出さんばかりの野菜を受け取った。手に持つと、思ったよりも重く、ナツは慌てて両手で支えた。中には玉ねぎやニンジン、ゴボウ、トマトなど、新鮮なものばかりだった。
「ありがとうございます。では」
ナツはお礼を言って、お婆さんに背を向けた。
「あぁ、そうそう。あんたに重要なことを伝えるの忘れてた」
「なんですか?」
ナツは肩越しにお婆さんの方を振り返る。
「ハルちゃん泣かせたら、承知しないからね!」
お婆さんは小さな拳をぶんぶんと振り回していた。この重さの野菜を軽々と片手で持ち上げるお婆さんの腕力だ。きっと侮れないとナツは苦笑しながら、市場を出た。
自転車のカゴに野菜を載せると、すっぽりと収まった。重さで自転車の前輪が傾き、ナツの方へ倒れそうになったので、慌ててハンドルを支えた。
ちょうどその時、市場の近くにある建物から、さっきカフェで会った横山が出てきた。浮かない顔をしている。
自転車の重心を調整していると、ナツと目が合った。横山がぺこりと頭を下げる。「あぁ。先ほどはどうも」
ナツも頭だけお辞儀した。
「さっき話をした砂糖菓子。なかなか見つからなくてね。この島のお土産屋さんで買った記憶はあったので、一日で見つかると思っていたんだけど……」
「この島には、日帰りで来たんですか?」
「えぇ。広島の方から。妻の手術、明日でね」
随分と弾丸旅行だな。ナツは思ったが、横山の表情には焦りの色が滲んでいた。
「明日は、結婚記念日でもあるんだ。皮肉にも手術日と一緒なんて、ついてないと思ったけど、そのおかげで、結婚する前の記憶を思い出すことができてね。思い出した途端、居ても立ってもいられなくなって。娘と一緒に病院を飛び出してやって来たんだよ」
「おれ、探すの手伝いますよ」気が付いたらその言葉が喉から勝手に飛び出していた。ハルも琴海の面倒を見ている。自分も何か手伝わなければと思ったのかもしれない。ナツは自分の言葉に驚きつつも、ポケットからメモ帳を取り出した。カフェでの仕事をメモする時にも使っていた。
「どういうお菓子か、覚えていますか?」
横山が申し訳なさそうに手を振る。
「夏雄(なつお)君、だったよね。これは私の問題だから。君に迷惑をかけるわけにはいかないよ」
「今日の仕事は、この野菜を届けて終わりなんで、どうせ暇なんです。この島の観光ついでに、お土産屋さんを回ってみますよ。自転車の方が、小回りが利くでしょうし」
「……すまない」
「形とか、大きさとか。覚えていますか?」
「確か。白い箱に六個くらい入っていた和三盆(わさんぼん)だったと思う。砂糖菓子の形はそれぞれ違っていてね。大きさはこれくらい――」
横山は手の指で大きさを示す。ナツのスマホくらいの大きさだった。
「この島で買ったのは、いつ頃のことですか?」
「もうかれこれ……」横山は頭のこめかみに指を当てながら考える。「十二年も前になるかな」
この曲島には、観光客用のお土産屋が四件あるらしい。横山の前でナツはスマホで検索して場所を調べた。一件目はたった今、横山が出てきた場所。二件目は渚の駅・曲島。ここは既に、横山がカフェに来る前に見てきたと言う。残り二つは、どちらも島の南側に位置していた。この市場を中心として、東西に別れる。
ナツは西側、横山は東側のお土産屋にそれぞれ向かうことにした。西側の方は少し距離があるからだ。
サドルにまたがり、ナツはスマホで検索した地図を見ながら、自転車をかっ飛ばした。野菜は一旦、市場のお婆さんに預けた。
左手に風光明媚(ふうこうめいび)な砂浜と海が広がる。景色がナツの瞳の中を流れるように通り過ぎていくが、ナツの頭には飛び込んでこなかった。
十分くらい自転車を飛ばすと、目的のお土産屋にたどり着いた。ガラス張りのアート的な建物だった。綺麗な大きなホテルと隣接していた。
ナツは自転車を降り、足早に店の中へ向かう。島の民芸品や本、菓子類、魚介類の干物などが整然と並んでいる。
和三盆と書かれた棚を見つけたので、ナツは駆け寄る。袋に入った普通の砂糖みたいなものや、色とりどりの花や葉っぱの形をしたものなど、いかにもお土産用の箱に詰まったものしか置いていなかった。横山の言っていたスマホくらいの大きさの箱は、見当たらなかった。
店の人に聞いても、「うちに置いてある和三盆はこれだけだよ」と返された。
肩を落としながら店を出ると、スマホが震えた。先ほど電話番号を聞いた横山だった。
「……見つかったかい?」
横山の声は誰かにすがるような思いが含まれていた。横山が向かったお土産屋にも、目当てのものが無かったのだろう。
「すみません。こちらには、無かったです」ナツは首を小さく振りながら答えた。
「そうか……」
「もう少し、探してみます。もしかしたら、スマホの検索に引っかからないような、小さな店にあるかもしれません」
十二年も前のものだ。もうどこにも売っていないのだろうか。ナツは自転車を走らせながら、道路沿いの建物に視線を迷わせる。
ふと目の隅に小さな看板が飛び込んできた。曲島カフェ。小さな平屋で木造造りの古い建物だ。かなり歴史のありそうな店だった。
ナツは自転車を店の前に止める。風に揺れる紺色の暖簾(のれん)をくぐり、足を踏み入れた。
薄暗い店だった。入ってすぐ脇のスペースに、コーヒー豆やコーヒー機材などが並べられていた。ハルのカフェで目にしたネルドリップの布も置いてあった。その横に、小さなお土産スペースがあった。ナツは目を留めた。
曲島限定と書かれた和三盆の白い箱が何個か重ねられていた。蓋が透明だったので、中の砂糖菓子の形が見えた。さっき見た花や葉っぱの形ではなく、何やら細かい加工がしてある砂糖菓子だった。六個入りだ。それぞれ形が全く異なり、女の人が流麗に躍っているような姿だった。
あった。これだ。これに違いない。
ナツは逸(はや)る気持ちを抑えながら、スマホを取り出す。箱の大きさと比べてみた。ほぼ同じ大きさだ。
「あの。これ」
「あぁ。その和三盆が欲しいのかい?」
ナツに気づいたカフェの主人が、読んでいた新聞を折り畳み、立ち上がる。白髪のお爺さんだった。と言っても、市場のお婆さんと違って腰は曲がっておらず、立ち上がると、すらりとした長身だった。ナツよりも背丈がある。髪の毛は豊かで、綺麗に切り揃えられている。まだまだ現役に見える。
ナツは頷く。「この和三盆、曲島でしか売られていないものですか?」
「あぁ、そうだよ。曲島女文楽(おんなぶんらく)って知ってるかい?」
「いえ。聞いたことがないです」首を小さく振り、ナツは答えた。
「この曲島に江戸時代から伝わる、伝統の人形浄瑠璃(じょうるり)さ。曲島の文楽は特別でね。女たちだけで人形劇と舞が行われるんだよ。その和三盆は、その舞のイメージをモチーフにしたデザイン。だから、この曲島、いや、この店でしか取り扱っていない。私の妻の母が昔、実際にやってたことがあってね。その想いを、この和三盆に込めているのだよ」
女文楽。ナツはもう少し話を聞いてみたい気もしたが、時間が無かったので、ポケットから財布を取り出す。
「すみません。話の途中で申し訳ないのですが、ある人からこの和三盆を探してほしいと頼まれていて。もうすぐ帰りのフェリーの時間が近いみたいで。これ、いくらですか?」
「ほお。そいつは嬉しい限りだね。最近の観光客はみんな、すぐそこの大きなお土産屋で買い物するからね。この和三盆は、全く売れないんだよ」
「おれは素敵なデザインだと思います。なんというか、人の記憶や想いをつなぐような、そんなふうに見えます」
「君、若いのに、いい目をしてるね。どこから来たの? 名前は?」
「北海道です。仙田夏雄と言います。友人の紹介でバイトに来ています。島猫亭って言って……」
「なるほど。一ノ瀬さんとこで働いているのか。なら、納得だ」
お爺さんは微笑みをたたえた顔で、ナツの元へやってきた。ナツの肩にそっと手を置く。骨ばって木の枝のようにゴツゴツとしていたが、優しく、温かかった。
「と、言うことは、心晴ちゃんの同級生かな? あの子にはいつも、本当にお世話になっている。これは、私からの選別だ」
お爺さんはそう言って和三盆が入った箱を二つ、ナツの手にしっかりと握らせた。和三盆の箱は綿毛のように軽かったが、お爺さんの手の平はずっしりと重みがあった。
「夏雄君。働いているとわかるかもしれないが、島猫亭は、この島の誇りだ。真司さんに、よろしく伝えてくれ。これからも想いをつなげてほしいと。……心晴ちゃんにもな」
お爺さんの瞳は、晴れた日に降り注ぐ陽射しのような澄んだ目をしていた。その瞳にナツの瞳が宿る。ナツにはまだ、その言葉の真意がわからなかった。でも、島猫亭がこの曲島でとても重要な存在であることは、ナツにも十分わかった。
人の記憶は、曖昧だ。横山は十二年前、このカフェで大切な人とコーヒーでも飲んでいたのだろう。その時に、このお店で、この和三盆を、このお爺さんから買ったのだ。今、ナツが聞いたような女文楽のちょっとした小話を聞きながら。そうして、横山さんは大切な人と結ばれた。でも、いつの間にか忘れていた。ふとした拍子に、その記憶が頭のどこかにしまい込まれるのだ。
だけど、その時に感じた想いだけは、いつまでも胸の中に残っていた。人の想いというものは、必ずどこかでつながっているような気がした。そうやって、人とのつながりは広がり、巡っていき、誰かの元にまた届く。
いろいろな人の過去や曲島の伝統が詰まった和三盆と、お爺さんの温かな眼差しを受け取り、ナツは胸がいっぱいになった。
*****
女文楽は、この曲島のモデルとしている直島伝統のものです。
それをモチーフにした和三盆はこの物語の創作です。もしかすると、実在するかもしれませんが、作者の想像で作ったものです。あしからず。
この横山さんの和三盆の話も、もちろん創作なのですが、この物語をつなげる話として、重要な位置づけになります。
この物語のテーマの一つとして、『過去の記憶』があります。
物語はまだ序盤ですが、それぞれのキャラの過去を丁寧に描いていけたらと考えています。
それは主人公ナツの過去であったり、ハルの過去であったり。いろいろな『過去』が交錯するこの曲島の物語を、最後まで気長にお付き合いいただけたら幸いです。
しかし、毎日頑張って三千文字ペースで更新していますが、このペースで更新しても、物語を書き終えるのが六月中旬になりそうです。
今現在、読んでいただいている方は、長い話ですみません。多分、十万文字を軽く超えます。
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