言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト④】

 

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2.海に浮かぶトマト④

 

「すみません。実は、食事をしに来たわけではないのです」

 横山茂(よこやましげる)と名乗った男性が、ハルに案内されてカウンター席へやってくる。後ろを追いかける幼い少女は琴海(ことみ)。今年七歳になると言っていた。琴海はカフェの中を興味津々な顔つきで眺め、その小さな目を楽しませている。

「と、言いますと?」

 ハルの父――真司がカウンターの奥で眉を上げて尋ねる。ナツはカウンターテーブルに冷水が入ったコップを二つ置く。

「このお店に、和三盆(わさんぼん)のお土産は置いていないでしょうか?」

「ワサンボン?」

 初めて聞くその単語に、ナツが口を開けてポカンとした顔をしていると、

「四国では有名な砂糖菓子よ」

 玲子がコーヒーカップを置いて、横から口を挟む。

「砂糖菓子、ですか?」

 ナツは玲子の方を見て、舌の上で言葉を転がした。ナツは砂糖菓子と言うと、白い氷砂糖しか頭に思い浮かばなかった。暑い時期にはよく口の中で頬張る。

「この島じゃなくても、四国本土に行けば、結構売ってる場所があるわ」

「実は、普通の和三盆ではなく、この曲島(くましま)で売られていた特別なものを探しているんです。デザインが通常のとは少し違っておりまして」

「あいにく、この店にはお土産などを一切置いていなくて……。申し訳ないです」

「そう、ですか」

 真司の言葉に、横山が大きく肩を落とす。その瞳に影が落ちる。

 ナツはその瞳の色に見覚えがあった。母を亡くした頃、父がよく宿していた瞳の色と似ていた。

「お母さんね。今、病院にいるの。手術するんだよ」

 真司と手をつないでいる琴海がはしゃいだ声を上げる。琴海、ちょっと外に出て遊んでてくれるか、と真司が囁く。

 お姉ちゃんと一緒にお外で遊ぼうか、とハルが優しい笑顔を見せながら、琴海に手を差し出した。琴海は最初、照れたような顔をしていたが、「猫ちゃん、お外にいるんだよ」とハルが耳元で囁くと、目を輝かせた。うんと大きく頷き、ハルと一緒に外へ出ていった。

 横山はすみませんと頭を下げる。「一人っ子なもので。騒がしくてすみません」

「いえ、うちの心晴(こはる)も一人っ子ですよ。幼い頃は、子供なんてあのような感じです」

 ナツは横山にカウンターの席を勧める。横山は頭を軽く下げ、椅子に腰かけた。

「何か、事情があるようですね」真司がコーヒーを用意しながら、尋ねる。

「……手術の成功確率が七十パーセントなんです。高い確率ではあるのですが、最悪の場合……。そんなことは考えたくないのですが、せめて、妻を元気付けるために、思い出のお菓子を」横山が顔を伏せながら、たどたどしく言葉を紡いでいる。「妻とは、この島で買った和三盆がきっかけで、付き合うことになりまして」

「それは、素敵な思い出ですね」真司が頷いている。

「綺麗な細工がされた、砂糖菓子でした」

「この島には、大きなお土産屋がいくつかありますので、あるとしたらそこでしょう。パンフレットがこの店にありますので、回ってみてはいかがでしょうか。必要でしたら、琴海ちゃんもお預かりしますよ。小さな島ですが、子供を連れてでは、何かとご不便でしょう」

「いえ、さすがにそこまでは……」

 横山は申し訳なさそうな顔をしながら、店の外に顔を向ける。

 店の外ではハルと琴海が声を上げ、走り回っていた。足元には、さっきドラム缶の上で毛繕いしていた黒猫が飛び跳ねていた。どうやらあの黒猫は女性が大好きらしい。

「心晴は、子供が大好きです。琴海ちゃんも懐いているようですし、問題ないですよ」

「……お気遣い、誠にありがとうございます」横山は深々と頭を下げた。

 ナツは黙って、真司と横山の会話を聞いていた。真司の寄り添うような言葉を聞いて、不思議な気分になる。人の不安な心をふんわりと包み込むような、落ち着かない身体に誰かが軽く手を添えるような、そんな対応だった。カフェの接客とは、こういうものなのかと感心した。

 窓際に座る玲子は、いつの間にか小さなメモ帳と万年筆を取り出して、文字を走らせている。

 ナツは店の外で猫のようにはしゃぐハルと琴海を眩しそうに見つめた。二人とも、飛び跳ねるたびに髪の先がふわりと揺れている。

 ハルとの会話に心地良さを覚えるのは、このカフェの空気を思い切り吸い込んで成長してきたからなのだろうか。ナツはハルとのラインのやりとりや、島に着いてからの会話を思い出す。

 この島猫亭で学ぶべきことは、多そうだ。ナツがそんなことを考えていると、路地の向こうから、若者が数人やってくるのが見えた。

 

 

 カフェの手伝いは、大変だった。

 席への案内、注文聞き取りなどの慣れない接客や、出来上がった飲み物や食べ物の提供、食器の洗い物や客が帰った後の清掃など。

 コーヒーや紅茶、ジュースなどの飲み物は真司、ケーキやオムライス、カレーライス等の軽食はハルの母が主に担当していた。レジの精算は琴海ちゃんの相手をしながら、ハルが行っていた。幼い子供の相手をしつつ、器用に接客するハルを見て、ナツは驚いた。

 ナツのバイト内容は、高校生であれば誰でもできるような雑用だった。それでも、初めての経験にナツは右往左往しながら、狭い店の中を駆け回っていた。

 店内は冷房が効いていたが、ランチタイムが終わる頃には、ナツの身体は汗だくだった。

 横山は若者グループと入れ替わりで店を出ていった。「コーヒー、ごちそうさまでした」と小さな笑顔を浮かべながら。

 玲子はランチタイムの間、ずっと同じ席でノートパソコンに向かっていた。早速何かしらの記事を書いていたのかもしれない。十四時少し前に席を立ち、「島を回ってくるわ」と言い残して、店を出ていった。

 店内の客がいなくなると、「お疲れのところ、悪いんだけど。食料品の調達に行ってほしいんだ」とハルに遠慮がちに頼まれた。琴海は細くて小さな脚をぶらぶらさせながら、カウンターの席で何やら絵を描いていた。

「大丈夫だよ。まだ余裕」

 ナツは軽く笑った。肉体的には本当に余裕だったが、喉が詰まり、声が上ずってしまった。接客がこんなにも精神的に大変だとは思っていなかった。

「坂道を下った先に、市場があるの。市場の人には、電話で欲しいものを伝えてあるから。島猫亭と言えば、対応してくれるよ」

 ハルは「あ、そうだ」と瞳をぐるりとさせた。

「ついでに、この曲島にどんなものがあるか、一度、自転車で回ってくるといいよ。今お願いした食料品は明日のものだから、そんなに急がないんだ。海岸線はずっとなだらかで、自転車でも楽に回れるんだよ。はい、島の地図」

 ハルはナツにポケットへ入るくらい折り畳まれた地図を渡した。パンフレットの地図とは違う、もっと詳しいもののようだ。

「自転車で飛ばす曲島は、すっごい、爽快なんだよ!」というハルの弾んだ声を背中に受けながら、ナツは店を出た。坂道はフェリー乗り場とは逆の方向を下るらしい。

 乗ることに慣れてきた自転車で、まだ通ったことのない坂道を勢いよく下る。シャツの袖から入り込む島の風が、汗ばんだ身体の湿気を飛ばしていく。

 耳には、風の音しか入ってこなかった。

 眼前に、真っ白に輝く浜辺と、幾重にも連なるさざ波、吸い込まれそうなほどに透き通った翡翠(ひすい)色の海が広がった。

 海の上には、霞んだ深緑の島々と、巨大な城が佇んでいるかのような入道雲が浮かんでいた。

 水平線の先には、どこかの県の山並みが青空の中へ突き出していて、ぼんやりとにじんでいた。水色のキャンパスの中に、緑色の絵の具を垂らしたように見えた。

 爽快だった。

 

 

 

 

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 和三盆は実在します。

ja.wikipedia.org

 

 とても美しい砂糖菓子です。

 四国に行った際は、お土産に是非。

 

 昼間、離島を自転車で下るって、本当に爽快なんですよ。ぜひ一度、経験していただきたいです。忘れられない記憶になると思います。

 

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