言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト③】

 

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2.海に浮かぶトマト③

 

 ナツは自転車を押しながら、カフェへ向かう坂道を登っていた。後ろにフェリー乗り場で出会った冬田玲子(ふゆたれいこ)を連れている。玲子が持つキャリーケースのキャスターが、でこぼこしたアスファルトの上で大きな音を立てて回っている。坂道の先は、真夏の日差しを惜しみなく受け取り、蜃気楼のように揺らめいていた。

 亀がいる池を通り過ぎ、ようやく坂道を登り終わる。振り返ると、玲子は髪をかき上げながら、海を眺めていた。風が一筋、二人の間を通り抜けていく。玲子の顔は涼しげだ。暑さに強いのだろうか。

 ナツは額に浮き出た汗を拭い、玲子を引っ張るように路地裏へ入る。

 黒猫がドラム缶の上で前足を舐めていた。白猫の姿はなかった。

「あら。可愛い黒猫じゃない」

 玲子が長い指先を差し出し、黒猫の首に近づける。爪の先は濃い紅色のマニキュアが塗られていた。黒猫は一瞬、ぴくりと鼻を動かしたが、そのまま玲子に撫でられる。ナツの時は威嚇していたが、玲子にはされるがままになっていた。

 カフェの前では、ハルが朝と同じ格好のまま、庇(ひさし)の石柱をタオルで磨いていた。後ろで束ねた髪の毛が揺れている。もうすぐ開店時間だ。ハルはナツに気づき、微笑もうとしたが、すぐ隣にいる玲子を見て、その顔が硬直する。

「あなたが、一ノ瀬心晴(いちのせこはる)?」

 ナツは玲子を見た。どうしてハルのことを知っているんだと、ナツはますます不信感が募る。玲子は胸の前で腕組みをしながら、ハルのことを品定めするような目つきで、じっと見つめている。

「もしかして、冬田、玲子さんですか?」

 ハルがおそるおそる絞り出す声が耳に届く。ナツは再びハルを見た。ハルは玲子の視線に負けじと、長いまつ毛の下で瞳を光らせ、見つめ返していた。

「そうよ。あなたのお父さん――一ノ瀬真司(いちのせしんじ)は、ご在宅かしら?」

 二人は知り合いなのだろうか。ナツは視線を交わせるハルと玲子を、ただ黙って見守っていた。まるで縄張り争いをしている猫のようだった。

 先に視線を逸らしたのは、玲子だった。その顔には楽しげな色がにじんでいた。

「父は中にいます。どうぞ」

 ハルに中へと案内された玲子は、日当たりの良い窓際のテーブル席へ腰かける。内装は悪くないわね、と玲子は呟きながら、ハット帽をキャリーケースの取っ手にひっかける。窓から差し込む太陽の日差しは強く、玲子の帽子の跡が残った茶髪を更に明るく輝かせた。

 このカフェという異世界に、異世界の人間が飛び込むと、妙に映える。玲子は島猫亭の雰囲気に、すっぽりと収まっていた。絵になるとは、まさにこのことだ。

「ナツ。見とれてないで、お冷を」

 ハルに囁かれて、ナツはハッとした。冷水をコップに入れ、お盆に載せる。ハルの声が少し尖って聞こえたが、ナツは気のせいだと思いたかった。

 冷水を運ぶナツと一緒に、ハルの父もメニューを持って玲子のそばへ行く。

「去年、リノベーションしたと聞いたわ」

 テーブルの上で、玲子は雑誌を広げようとしていた。ナツも見たことがあった。今が旬の歌手を特集する有名雑誌だ。表紙には、最近流行りのボカロ系ミュージックのサムネイル画像が見えた。

「音楽雑誌……?」ナツはコップを置きながら、不思議に思った。

「カフェには、音楽。ゆったりとした音楽を聴きながら、居心地よく過ごせるかどうか。そういう視点の記事も必要なのよ」

 ナツの疑問を読み取ったかのように、玲子が勝ち誇ったような瞳でナツを見上げている。

「注文、いいかしら」

「何に、いたしましょうか?」

 ハルの父が玲子の前に手書きで書かれたメニュー表を置く。

「そうね」玲子はメニューに視線を迷わせる。「この、ガトーフロマージュと、本日のコーヒーを頂こうかしら?」

「承知しました」

 カウンターに戻ったハルの父が、慣れた手つきでコーヒーを準備する。銀色のポットにやかんのお湯を注ぐ。ポットは注ぎ口が長くカーブをしていて、細かった。お湯を注ぎ終えると、温度計を差し込む。

 三角フラスコのようなガラス容器に、三角の形をした布をセットし、その中に挽きたてのコーヒー豆を入れていく。コーヒーの香りが店の中に広がった。

ネルドリップね。悪くないわ」

 頬杖を突きながら、玲子はその様子を見つめている。可愛いものに胸を躍らせる少女のような、柔らかな微笑みだった。

ネルドリップって、なに?」

 カウンターに戻ったナツが、ハルの耳元で囁く。

「コーヒーを落とすとき、紙のフィルターじゃなくて、布製のものを使うの」 ガトーフロマージュ用の小皿とフォークを用意しながら、ハルが答える。「紙で落とすコーヒーと違ってね、味がまろやかになるんだって。わたしはコーヒー、飲めないから、わからないんだけど」

「そうなんだ」

 ハルの父がポットからお湯を少しずつ、丁寧に落としている。最初はゆっくり。布の先から黒い液体がガラス容器の中へぽたぽた落ち始めると、お湯を注ぐスピードが速くなる。職人の技のようだった。

 布の中でコーヒー豆がまるで生きているように、盛り上がっている。お湯が注がれると、あんな感じになるのかと、ナツは驚いた。コーヒーの香ばしい匂いが更に強まった。

 ナツもコーヒーは苦くてあまり好きではない。父が休日、たまにコーヒーを淹れているが、昔からずっと家に置いてある古めかしいコーヒーメーカーを使っている。豆だって、そこらへんのスーパーで買ってくる、安物だ。

 だからなのか、このコーヒーが放つ香りは、家のものと全然違った。鼻の奥をいつまでも刺激し、心が穏やかになった。容器の中にたまる液体も、色は黒いが、透き通るような輝きを放ち、滑らかに揺れていた。

 厨房から、切り分けられたガトーフロマージュが差し出される。ハルの母が用意してくれたようだ。ハルはそれを丁寧に小皿に盛り付ける。

 ケーキとコーヒーをお盆に載せ、今度はハルが玲子の元へ運んだ。ハルが丁寧にそれらを玲子の前に置く。

 玲子がまつ毛を伏せながらコーヒーカップを唇へ運ぶ。その横顔に、太陽の日差しが織り重なるように降り注いでいる。玲子の身体のシルエットが、光を受けて真っ白な曲線美を描いていた。改めて見ると、本当にスタイルの良い人だった。

 なんだか女神のように思えて、ナツの胸が高鳴った。ハルの写真より、この人の写真を送った方が、アキは歓喜するのではないだろうか。

「……また見とれてる」

 カウンターに戻ってきたハルの声が、今度は明らかに尖っていた。慌ててナツは手を振る。

「いや、違うんだ。あの人の仕草って、一つ一つが絵になるなって。性格はまぁ、ちょっと厳しそうだけど」

「聞こえてるわよ、少年」

 玲子の声に、ナツは頬をぴしゃりと叩かれたような気がして、黙り込む。

 ハルに睨まれて、ナツはそそくさとカウンターの隅っこに移動する。ポケットに手を突っ込み、さっきもらった玲子の名刺を取り出す。

 冬田玲子。旺明書房(おうめいしょぼう)。セクションチーフエディターと書いてある。

 ナツはスマホを取り出し、旺明書房と検索する。若者向けの雑誌を数多く出版する大きめの会社だった。どうやら本物の記者らしい。

 島猫亭のことを取材すると言っていた。ハルのことも、ハルの父のことも知っているふうだった。

 一体どういう関係だろうとハルに尋ねようとした時、店の扉が開かれた。新たな客が来たようだ。

「いらっしゃいませ」

 ハルが鈴の弾むような声を上げ、その小さな身体を丁寧に折り曲げる。

 ナツは玄関へ視線を向けた。やって来た客は頭に白髪が混じった壮年の男性が一人だった。と思っていたら、

「わぁー、素敵なお家! いい匂い!」

 男性の後ろから、頭のてっぺんにお団子を結った、小さな女の子が飛び出した。頬が桃色に染まり、満面の笑顔が咲いていた。

 

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