言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト②】

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2.海に浮かぶトマト②

 

 

 猫の鳴き声がした。

 自転車を押しながら坂道に続く路地裏を歩いていると、昨日、見かけた猫たちがいた。今日は位置が逆だ。

 黒猫がドラム缶の上でナツをじっと見つめる。ナツが足を進めると、エメラルド色の瞳も追ってくる。白猫はドラム缶の中で眠っていた。

 ハルに聞くと、この二匹は野良猫らしい。ハルがこの島に来た時には、この場所にいたとのことだ。ハルが勝手につけた名前もあり、黒猫が『クロ』で、白猫が『シロ』。

「まんまじゃん!」とナツが笑うと、ハルは「だって、他にそう呼びようがなくて……」と照れた顔をしていた。

 路地を抜ける。視界が開け、海が眼前に広がる。ハルのカフェは少し小高い丘の上にあるので、玄関の前からでも海が見えるが、遮るものがないとやはり眺望がいい。

 朝霧は幾分、薄まっていた。この位置からでは、東西が山に囲まれているので、北側の海しか見えない。場所によって海の見える方角が全然違うことに、今更ながらナツは気が付いた。

 気を付けないと、迷いそうだった。あとで地図に海が見える方角をメモしておこうとナツは思った。

 ナツは自転車のサドルにまたがり、ペダルを踏む。足の指先に力を込めると、ゆっくりと車輪が回り始めた。自転車はカラカラと乾いた音を響かせながら、坂道を下っていく。突き抜けてくる風は生温いが、肌に心地良かった。

 

 

「ありがとうございましたぁ」

 大学生グループを玄関先で見送るおばさんの声に、ナツも一緒になって頭を下げた。

 ナツはユースホテルの玄関にある管理室で、ここ数週間の予約リストをめくっているところだった。

 渚の寝処・草苺。このユースホテルの名前だった。草苺は中国語らしく、読み方はツアオメイ。一期一会を大切にしようという意味が込められているらしい。

 海に、苺に、外国語に、日本の四字熟語。なんでもかんでも詰め込めばいいってもんじゃない、とナツは心の中で毒づいたが、芸術とはそういうものかと諦める。

「大学生、か」

 ナツは紙をめくる指を止めたまま、楽しそうにホテルを出ていく彼らの背中を眩しそうに見つめる。

 高校生と違い、自由が身体からにじみ出ている気がした。

 ああなりたいな、という願望があるのか、ナツは羨ましい気持ちになる。同時に脳みそのかけらが落ちてきて、喉の奥に詰まっていく。そんな考えは捨てろとナツの脳が抵抗しているようだ。胃の中にもやもやと息苦しい空気がたまっていく。

「夏雄君が来てくれて、助かるよぉ」

 管理室にいるおばさんが戻ってきて、豪快な声を出した。息苦しさが吹き飛んでいく。

「あたし、この後、他の仕事があってねぇ。掃除と準備してくれるだけでも、大助かりだよ」

 ホテルの客は十時にチェックアウトなので、ナツの仕事はそこから始まる。

 ハルの父から渡されたマニュアルには、簡単な作業項目が書かれていた。

 使用された部屋の清掃と、その日の宿泊客を迎える準備。この二つについて、作業内容が箇条書きにされていた。準備と言っても、予約リストを見ながら、シャンプーやコンディショナー、歯ブラシ、歯磨きなどの備品を用意する。部屋に忘れ物や落とし物がないかチェックする。あった場合は見つけた部屋の番号や忘れ物の概要をメモして、金庫に入れておく。宿泊する人数に合わせて、布団を用意する。使用済の布団は十一時にクリーニング屋が来るので渡す。その際、洗濯された布団を受け取る。

 今日はどうやら、さっきの大学生グループがそのまま連泊するようだ。

「じゃあ、あたしは帰るね。ハルちゃんによろしくねぇ」

 帰り支度をしたおばさんが、ショルダーバッグをぶらぶらさせて、管理室を出ていった。

 ナツは部屋の掃除を始める。大学生が使用している部屋は二段ベッドが三台置かれている部屋だった。六人で曲島に来ているらしく、部屋は二つ借りられていた。

 部屋にはキャリーケースやボストンバッグ、どこかで買ったらしいお土産袋があちこちに置かれていた。大学生たちは意外と綺麗に部屋を使っているらしく、ごみなどはきちんと一か所にまとめられていた。ベッドの布団も綺麗に折り畳まれているわけではないが、敷きっぱなしではなく、シーツや掛布団が折り重なり、整理されていた。

 初めての作業は一時間と経たず、順調に終わった。

 手持ち無沙汰になったナツは、ホテルの外に出た。ポケットからスマホを取り出す。まだ十時四十分だった。クリーニング屋が来るまで、もう少し時間があった。

 ラインが二件と、新着動画のテロップが表示されていた。ラインはアキとハルからだった。テロップはアキの動画が更新されたというお知らせ。

「ふぅ」とナツは額ににじみ出た汗をシャツの袖で拭き、近くの木箱に腰かけた。

 アキからのメッセージを開く。送られてきたのは十時前だった。

『お前、俺たちが住む街からでも見れるような写真を送るんじゃねーよ! 俺が見たいのは、こう、胸がたぎるような、アート的なやつだ! あと、ハルちゃんの写真を送れ! そこが一番重要!』

 ナツはすぐさまキャンセルボタンを押し、ハルのメッセージを開いた。つい今しがた送られてきたものだ。

『初めての仕事は順調? 困ったことがあったら、電話してね』

 先ほどのもやもやとはまた違うもやもやが、胃の中にたまっていく。息苦しいような、心地良いような、そんな重さと熱が混ざった微妙な空気だ。軽く呼吸をする。肺に新鮮な空気を送り込み、代わりに息苦しい空気を吐き出す。

 汽笛の音が聞こえた。顔を上げると、フェリーが到着したようだった。波止場にまた、多くの旅行者がぞろぞろ列をなして歩いているのが見えた。

 霧はすっかりなくなっていた。水平線の彼方に、大小様々の島が見える。太陽は高い位置にあり、ナツの頭の先っぽを焦がす。気温がまた上がってきた。

 ナツはハルへ『ホテルの仕事、もうすぐ終わるから、大丈夫』と返信する。アキにはあとで、島猫亭の写真でも送ってやるかと考える。

 まだ時間があったので、アキの新着動画を開いてみた。今日の動画は夏休みの暇を嘆く内容だった。

 だらだらと夏の暑さを引きずるような愚痴が、蝉の鳴き声のように続いていた。それでいて、ところどころに的確なツッコミと世の中の新情報を取り入れているので、飽きはこない。相変わらず、絶妙な構成だった。ただ、退屈だということは動画越しでも伝わった。

 あいつ、本当に暇なんだな。ナツが内心、ほくそ笑んだ。その時、

「一人で何笑ってるの? 少年」

 耳の奥へ突然、鋭い声が突き刺さってきた。ナツは思わず肩が飛び上がった。

 顔を上げると、花柄のキャリーケースを手に引っ掛けた一人の女性が立っていた。今着いたフェリーに乗っていた旅行者の一人だろう。

 頭には麦わら帽子に似たハット帽。その隙間から、砂浜のように明るい茶髪が肩まで伸びている。目には薄い水色のサングラス。鼻梁が高い。唇はふっくらとみずみずしく、大人の女性がつけるような濃い朱色の口紅が塗られていた。

 背丈は高い。柳のように細いウエストと、日焼けをしていない白い腕と脚が、シャツ一枚の奥に隠れる少し豊満な胸を強調していた。まるで女優のようだった。

「あんた、この島の人?」

 妙に馴れ馴れしい口調でナツに問いかける。

「……違いますけど。今日からこの島でバイトしてます」

 馴れ馴れしい人には、ぶっきらぼうな対応で返す。ナツの悪い癖だった。

「あぁそう。カフェ島猫亭は、どこにあるか知ってる?」

 ナツは眉をひそめた。警戒心が強まり、思わず語気が荒くなった。

 「知ってますけど。おれ、そこでアルバイトしているんで。何の用ですか?」

「あぁ、そう。丁度よかったわ」女性はにこりともせず、サングラスを取った。なんでも見透かされてしまいそうな、深くて濃い黒の瞳が、ナツを見下ろしていた。

「私の名前は、冬田玲子(ふゆたれいこ)。記者よ。カフェ島猫亭の取材に来たの」

 冬田玲子と名乗る女性は、ポケットから小さな革製のカード入れを取り出した。そこから一枚の紙を抜き出し、ナツへ差し出す。

 ビルの隙間の雑踏を歩いた時のような、アスファルトと人混みの匂いが一瞬したような気がして、ナツは呼吸を止めた。

 名刺をもらうという経験は、ナツには初めてのことだった。

 

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 柳腰。やなぎごし。

《「柳腰(りゅうよう)」を訓読みにした語》細くしなやかな腰つき。また、細腰の美人。柳の枝のように細くしなやかな腰。美人の腰をたとえていう語。やなぎごし。

 

 美人って、書くの難しいです。