言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【2.海に浮かぶトマト①】

 

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2.海に浮かぶトマト①

 

 離島の朝は早い。

 そういうイメージがなんとなくナツにはあったが、どうやら本当のようだ。

 ナツは汽笛の音で目を覚ました。

 すぐ目の前に木目が見える。手を伸ばせば届く距離だ。まだ思考が定まらない頭で、ナツは枕元のスマホを手に取る。

 五時五十分。

 こんな時間に目を覚ますのは、ずいぶんと久しぶりだった。最近のナツは、休みの日、九時前に布団から出ることはない。

 昨日の夜は、疲れていたようだ。ハルのカフェに着いたあと、ハルの両親に挨拶をすまし、簡単な夕食を食べ、シャワーを浴びた。この部屋に案内されてすぐ、倒れるように眠ったらしい。

 頭をぶつけないように身体を起こす。屋根裏部屋だったので、ベッドの置いてある場所は、天井が斜めになっていて、低かった。

 ナツにあてがわれた部屋は、六畳ほどの小さな洋室だった。簡素なベッドと、木製の机と椅子が置いてあるだけで、あとは何もない。部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から光が漏れていた。

 ベッドから降り、カーテンをめくると、薄紫の光が部屋を照らした。ナツは瞼を閉じた。光に慣れるまで薄目のまま、窓の鍵を回し、ガラス戸を開け放つ。風はないが、空気は重く、生温かった。

 ようやく光に目が慣れる。ナツは瞬きをして、大きく伸びをした。

 曲島(くましま)の朝は、霧が濃かった。朝靄に包まれたふ頭がうっすらと小さく見えた。島の全体に霧のカーテンがうっすらとかけられているようだった。静かだった。

 フェリーが引き波を残して、島を出るところだった。恐らく、始発だろう。船は濃い霧の中を進み、やがて見えなくなった。

 昨日、遠くに見えた岡山県の山並みや、瀬戸内の海に浮かぶ丘のような島が、今は全く見えなかった。

 まるで、曲島が世界から切り離されているようだった。窓から白く染まった海を眺めていると、時間が止まっているような感覚に陥った。ナツは頭を軽く振った。

 スマホの画面を見ると、デジタルで表示されたアナログ時計の針は、動いている。電波はちゃんと届いていた。

 大きな欠伸が出た。昨日の疲れは残っていなかったが、脳と体がまだ睡眠を欲しているようだ。アキと一緒に夜明け前、地元の漁港へ釣りに行ったことを思い出した。あの時も欠伸を噛み締めながら、ベッドから身体を叩き起こしながら飛び出た記憶がある。

 スマホを横にして、カメラを起動した。霧に包まれたふ頭に焦点を合わせる。カシャと音がして、窓の外と同じ風景が、スマホに記録された。

 ラインを開き、『曲島、初めての朝』とメッセージを添え、アキへ送る。既読にはならない。アキはまだ、夢の中だろう。

 着替えをすませ、歯ブラシとタオルを持って、ナツは部屋を出た。

 

 

「おはよう」

 階段を下りてくるナツに、ハルがにこりと微笑みながら声をかけてきた。

 六時四十分。ハルは既に着替えをすませ、朝食の準備をしていた。Tシャツと短パンという簡素な格好に黄色いエプロンをつけ、栗色の髪をうなじのところで束ねている。

 ベーコンを焼く音が聞こえる。燻製の香りが食堂全体に充満していた。

「よく眠れた?」とハルがフライ返しをひっくり返しながら聞いてきた。

「おはよう」とナツも返事をする。「みんな、朝早いな」

 ハルの父と母は、厨房の奥の方で野菜や果物などを切り分けていた。目が合い、ナツはぺこりと首を曲げる。

 食堂はカフェスペースと兼用だった。店内は白を基調としていて、簡素な作りである。

 厨房はカウンターで仕切られていて、一枚板の立派な天然木だ。その前に四人ほどが座れるように木製の椅子が置いてあった。窓際の席には四人掛けのテーブルが四セット。窓が東側を向いているので、日当たりが良さそうだ。

 店自体はそれほど広くはなかったが、置いているモノ自体が少ないので、窮屈ではなかった。何より、天井が高い。そう思えるのは、梁がむき出しだからだ。梁を支えるように、表面がごつごつした木材が交差していた。その天井から、LEDランプが釣り下がっていた。

 カフェの開店時間は午前十一時半。ランチタイムは午後二時まで。夜の開店は午後六時からで、こちらは完全予約制らしい。オーダーストップは午後八時で、九時に閉店だ。

 カウンターテーブルに朝食が並べられる。ベーコンと新鮮なトマト、レタスを挟んだハンバーガーだった。トマトは香川県で取れたものを仕入れているらしく、甘みが最高とのこと。カップには搾りたての瀬戸内レモンを使ったジュースが注がれていた。

「ユースホテルの清掃と準備ですか? カフェの手伝いでは、ないんですか?」

 ナツは朝食のハンバーガーを頬張りながら、ハルの父に尋ねる。

「あぁ。午前中のメインは、ね。昼からは、カフェの手伝いもやってもらいたいんだ。今は夏休みだし、ランチタイムの時間、結構混むんだ。人手が足りてなくてな。夏雄君には苦労をかけるけど」

 ハルの父が肩をすくめて申し訳なさそうに笑う。肩幅が広いので、威圧感がある。頭髪には白髪が結構まじっているので、ナツの父と同世代に見えるが、体幹ががっしりしているので、若くも見える。

 ハルの父はカフェの他に、フェリー乗り場から近い場所にあるユースホテルの管理もしている。

 この島には、様々な人がやってくる。大きなホテルもあるが、やってくる人は若者や外国人が多い。そのため、値段の安いユースホテルの需要も高いらしい。

 それほどに、曲島の魅力はすごいのか。曲島の魅力は何なのかとハルに尋ねる。

「まぁ、大体がアート――美術館巡りだね」と教えてくれる。「この島にはね、大きな美術館が二つあるんだよ」

 このカフェにも曲島のパンフレットが置いてあった。ハルがそれをカウンターの横にある本棚から一枚抜き出す。朝食が終わったテーブルの上に広げた。

 パンフレットには、島の地図が載っていた。島は半月を一部、くりぬいたような形をしていた。メロンをスプーンですくったようにも見えた。その場所にフェリー乗り場がある。島のフェリー乗り場は東側に一か所だけで、西側にも一応、港はあるが、漁港だった。

 ハルのカフェは、島のちょうど中心くらいに位置していた。

「美術館があるのは、この南の岬あたり」とハルが指を差す。「ここからだと、昨日登ってきた坂道とは逆の坂道を下ったら、近いかな。ナツはアート、興味ある?」

「アキが興味あるらしい。気が向いたら、写真でも送ろうかなって思ってる」

「そっか。アキ君、芸術肌だもんね。写真、送ってあげるといいよ。時間があったら、わたし、案内するね」

 ハルがひらりと立ち上がって、玄関の扉を開け放つ。外に出て、古びたじょうろを手に持ち、庇の下の観葉植物に水をあげ始めた。紅色の尖った葉が空に向かって広がっていた。線香花火の炎が逆さまになったような形をしていた。

 ナツはその様子を、外に出て何気なく見守っていた。「コルジリネだよ」とハルの背中が呟く。観葉植物の名前だと気づくのに、数秒かかった。

 遠く霞んだ瀬戸内の海と、小さなハルの背中を交互に眺めながら、ナツはふと思い出す。母も毎朝、家の花壇に咲く花へ水をあげていたことを。どんなに仕事が忙しくても、母は花の手入れを怠らなかった。ナツは母さんに似てるよな、という父の言葉が記憶によみがえる。

 ハルは、父と母、どっちに似ているんだろう。ナツは思った。

 さっき話をしたハルの父とは全く似ていない。厨房の奥から出てこなかったハルの母は、昨日の夜に会った時、髪の質は同じに見えたけど、切れ長の目ではなかった。背丈もハルの母の方が大きい。両親のどちらとも似ていない気がした。

 思考を巡らせていると、「あ、そうだ」とじょうろを片手にハルが振り返る。丸い瞳がナツの視線を捉える。

「ナツ、曲島は当然、初めてだよね?」

「あ、うん。って言うか、瀬戸内海自体、初めて。京都より西は生まれてこの方、行ったことない」

「この島にね、海に浮かぶトマトがあるの」

「……トマト?」

 ナツはまつ毛を瞬(しばた)いた。さっき食べた甘いトマトを思い出す。あのトマトが海にぷかぷか浮いているのだろうか。

「そ。トマト」ハルは悪戯っぽい笑顔をえくぼと一緒に咲かせた。「今日、仕事が終わったら、一緒に見に行かない? わたしのお気に入りの場所なんだ。今日は予約が一人だけで、夜の仕込みがそんなに多くないから、わたしのお手伝いも早く終わると思う」

「いいよ。わかった」

「じゃあ、ホテルのお仕事、お願いね。終わったら、カフェに戻ってきていいから」

 

 

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