言葉の煙霞

言葉は、無限の可能性を秘めている。

猫は朝霧に燃ゆ【1.少女と猫④】

 

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1.少女と猫④

 

 湿気を含んだ風が首を撫でつけて、汗ばんだ背中へ流れていく。シャツの袖が旗のようになびいている。

 ナツはスマホで検索した島の地図を見つめていた。顔を上げると、島の輪郭がぼんやりと、霧色の空を映した海の上に浮かんでいるのが見えた。

 曲島(くましま)だ。

 磯の香りが強まり、ナツは軽く目を細めた。船が進むたびに横波を受け、視線が上下にゆったりと揺れる。

 ついに、瀬戸内海にやってきた。

 数時間前、広島空港の地面を初めて踏みしめた時には、息が詰まった。

 気温三十四度。湿度五十パーセント。猛暑日一歩手前だ。

 吸い込む空気が北海道と全然違った。呼吸をするたびに、肺が熱くなり、身体の中がサウナに入った時のように火照った。

 去年の修学旅行で京都に行ったけど、その時の季節は秋だった。真夏の本州は初めてだった。

「じゃあ、気をつけてな」ガラガラとキャリーケースを転がしながら、父が振り返った。「父さんは、空港からレンタカーで移動なんだ。広島駅とは別方向だから、夏雄とはここでお別れだ。くれぐれも、先方に迷惑をかけないようにな」

「わかってる」

 ナツはパンパンに膨らんだボストンバッグを肩に掲げ、空港から広島駅へ向かうバス乗り場に足を運んだ。

 ナツは今、岡山県の南端にある港から、曲島へ向かうフェリーに乗っているところだった。

 今日から二週間、ナツは北海道から離れ、この曲島で過ごす。

 スマホをタップし、一枚の写真を表示させる。手の平に、ぎこちない笑顔のハルが現れた。

 六年も経って、高校生にもなれば、雰囲気はだいぶ違うだろう。でも、面影くらいはあるはずだ。そう思って、家を出る前に、卒業アルバムの写真をスマホで撮影して保存していた。

 初恋の女の子に会いに行くみたいだな。

 ナツは苦笑する。

 瀬戸内海の中央に浮かぶ曲島は、空の低いところに薄い雲がかかり、霞がかっていた。深緑に覆われた小高い山々は、灰色の空に染められて、稜線がにじんでいた。フェリーに乗る前は、空が突き抜けるほどに高く、雲一つなく晴れていたのに、島の周りはまるで違った。

 赤茶けた崖の下には、砂浜が見えた。色とりどりのテントも小さく見えた。キャンプ場があるのだろう。

 波のはねる音が耳に届いた。フェリーが島の東側にある宮名木(みやなぎ)港へ横付けされた。桟橋の近くには、ガラス張りの建物があり、中の様子がよく見えた。

 港から自転車を借りられるよう、ハルが手配してくれたらしい。バイト中は主に、それを使って移動してほしいと言われていた。

 自転車か。ナツは一瞬、顔を曇らせた。右足を手の平でそっと触れる。今日は一日、移動ばかりだったが、飛行機や電車に乗っている時間が長かったので、痛みはない。ナツは胸をなでおろした。

 ナツはフェリーから降りる。北海道を朝七時の飛行機で出発して、約九時間。ついに曲島へとその足を踏み入れた。

 建物の名前は『渚の駅・曲島』と言うらしい。中に入ると、島の特産品が売っているお土産屋があった。海に囲まれているだけあり、海産物が多かった。

 冷凍庫のケースの中には、見たことがない貝や魚がぎっしりと並んでいる。曲島で取れる海産物を、ナツは全く知らなかった。

「あぁ、仙田夏雄(せんだなつお)君ね。ハルちゃんから聞いてるよ」

 事情を話すと、お土産屋のおばさんは破顔した。外の方を指差す。視線を向けると、くたびれてくすんだ朱塗りの自転車が、ビール瓶の入った箱と一緒に、隅っこの方にひっそりと置かれていた。

「あの自転車を使いな。ハルちゃんの家は知ってるの?」

「え? あ、いえ。知りません」

 そう言えば、家の場所を聞かされてなかった。ハルの父が経営している店の名前も。

 十六時に宮名木港に着く、という連絡しかしていなかった。ナツが送ったメッセージは既読になっていたが、フェリーに乗る前から、ハルからの返信は途絶えていた。

「直接、今から行ってみます。お店の場所、教えてもらえますか?」

「あら、そうかい。ハルちゃんのカフェは、そこの大通を真っ直ぐ西に出て、最初の十字路を右。坂道を上った先にあるよ。案内板が出てるから、たぶんわかるよ。でもたぶん、今は夜の仕込みの手伝いで忙しいはずだから、この辺りを少し散歩してたらどうだい? もう時間が経てば、ハルちゃんの仕事も落ち着くはずだよ」

 ハルはどうやら、この島で有名人らしい。離島に住むというのはこういう感じなのか。

 移動中、曲島についてはいろいろ調べてきた。

 曲島は一周、十六キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ小さな島だ。人口は三千人ほど。

 観光に力を入れていて、ここ数年では、年間五十万人もの旅行者が訪れる。

 島の中には美術館がたくさんあって、現代美術の島として世界的に有名らしい。このガラス張りの建物も、柱や壁は白を基調としていて、確かに近未来的な構造だ。

 アート、か。

 ナツはちゃんとした芸術というものには興味が無かった。絵とか、作品とかが並ぶ美術館なんて、おそらく退屈だ。これまで行ってみたいと思わなかった。

 北海道から旅立つ日の直前、アキに聞いてみたら、『曲島に行くのかよ! 超羨ましいんだけど!』とラインで叫ばれた。『無駄に画素数が多くて綺麗な写真が撮れるスマホで、風景を送ってくれよ!』と念押しされた。

 そんなに有名ならば、時間を見つけて行ってみるか。今はなんとなく思っていた。

 肩に鈍い痛みが走り、ナツは顔をしかめた。バッグを支える肩は既に痺れていた。今日はここに来るまでの間、何度も肩に掛けたり、下ろしたりを繰り返していたので、流石に限界だった。

 大通には、ナツと同じフェリーに乗っていた旅行者が散らばっていた。さっきのお土産屋が入っている建物には、島の観光パンフレットが置いてあった。それを片手に旅行鞄を転がす男性や、おしゃべりをしながら悠然と歩く数人の若者グループ、一眼レフを小さな首にぶら下げた若い女性もいた。観光客は確かに多かった。外国人客も多い。

 フェリー乗り場の近くに、小さなバス停があった。すぐ傍にベンチを見つけたので、ナツはそこに腰を下ろした。

 島の中の潮風は、船の上よりも更に湿気を帯びていた。空気が重い。息が詰まるような暑さも相まって、ナツは汗だくだった。こんなに汗をかくのは、中学生の部活以来か。

 ベンチに座り、バッグからスポーツ飲料水とタオルを取り出す。まるでお湯のような液体を、喉にくぐらせる。タオルで額の汗を拭きながら前を向くと、道路を挟んで、白い石垣が並んでいた。島の空は相変わらず、灰色だ。

 ナツがぼんやりと石垣を眺めていると、その上に突如、こげ茶色、栗色、淡いクリーム色の毛を織り交ぜた一匹の三毛猫がひらりと飛び出してきた。石垣の上を悠々と歩き始める。驚いて見つめていると、猫は切れ長の目をナツの方に向けた。そのまま流し目に見たあと、つんとすました横顔で、塀の上を横切っていく。

 悪戯好きな少女のような猫だった。やがて猫は、ナツの身長ほどもある塀から地面に飛び下り、くるりと身を翻し、石垣の向こうの小さな路地に姿を消した。

 ナツはその猫がなんとなく気になって、追いかけてみようと腰を浮かしかけた。その瞬間、

「……仙田、夏雄君?」

 背後から誰かの小さな声が耳に滑り込んできた。ナツは振り返る。

 猫の化身だ。

 そう思ったのは、たった今姿を消した三毛猫と、全身が同じような色合いを装っていたからだ。

 秋栗のように色づいた髪は、肩につくか、つかないかのところで切り揃えられていたが、毛先が外側にくるりと跳ねていた。くせ毛なのだろう。まるで、猫の毛のようだった。少し切れ長の吊り上がった目尻も、猫の目の形にそっくりだった。夏の海のように透き通る青眼は、ナツの方をじっと、心のすべてを見透かすように見つめている。固く結んだ唇は、春に咲く梅の色を宿していた。

 淡い鳥の子色のワンピースが潮風に揺れている。その裾から、少し日焼けをした細い脚が真っ直ぐ伸び、素足にひっかけたサンダルには小さなひまわりが咲いていた。

 背丈はナツよりもかなり低い。たぶん頭一つ分くらいは違うだろう。

 その切れ長の目に、見覚えがあった。

 猫は、いや、少女はぴょこんと猫のように身体を丸め、鈴を鳴らすような声を喉から出した。

「久しぶりです。一之瀬(いちのせ)、心晴(こはる)です」

 鼻筋にかかったくせ毛を尖った耳へ払いのけながら、少女はゆっくりと顔を上げた。

 薄雲の隙間から西日が差し、少女とナツの間に片陰が零れる。瀬戸内海の波が陽の光を反射させて輝き始める。

 小さな頬を夕焼け色に染めた実物のハルは、卒業アルバムと同じぎこちない微笑みを浮かべていた。覚えたての笑顔を初めて見せるように。

 ちりん、とどこからともなく風鈴が鳴り、微かなレモンの香りがナツの鼻孔をくすぐる。ナツは心臓の動き出す音が聞こえたような気がした。

 

 

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 ついにボーイ・ミーツ・ガールしました。

 このお話はフィクションですが、一ノ瀬心晴が実は猫でした、という設定は一切ありません(笑)。

 

 島の風景や設定は、十年ほど前に旅行した時の記憶と記録を引っ張り出して、描いています。すごく暑かった、という記憶だけは鮮明に残っています。

 足りない部分は、グーグルアース様。現代の叡智、最高。

 

 なお、曲島は架空の島です。

 直島(なおしま)という島をモデルにしています。興味のある方は、検索!

 

www.naoshima.net

 

 ことりっぷ片手に、グーグルアースでテレビ旅行しましょう。

 電子版モアルヨ。